失われた聖域 第2話

- 誰がために鐘は鳴る -

「お先にどうぞ」
「いえいえ、そちらこそ」
 レコナと桜塚燐は激しく譲り合っていた。
 それは何をかと言えば、先に扉に入ることをだ。もう、回りには二人しか残っていなかった。二人とも目的があって狭間に入りたくないのだが……お互い、目撃されると何となく気まずかったりなんかして。
「どうぞってば!」
 ぐい。
「いや、そちらがお先に!」
 どんっ。
「「あっ」」
 ごろごろごろっ。
 どうにか相手を先にと押し合っているうちに、二人ともよろめいて、扉の中に転がりこんでしまう。
 しまったっ! と二人が顔を上げたときには、なにやらどっかで聞いたような鐘の音が……
 そしてもう、見回しても濃密な霧の中で入口はどこだかわからなくなっていた。
「あ……」
 しばしそこで呆然とする二人。
「あ……大丈夫ですか……? 迷子なら一緒に行きましょうです」
 いくら時間が経ったかわからなくなりそうな狭間の中で、いつのまにか人影が二つ、二人に近づいていた。
 一人は迷子を回収しようと狭間を歩き回っていたミント・プレサージュ。もう一人は外に出るつもりで歩いていて迷子になり、更にミントに遭遇してすっかり外に出そびれた楓だ。
「「いや、私は……」」
 レコナも燐も、奥に入るつもりはなかったが……
「うゅ、もう三つ目の鐘が鳴り始めてしまったです……。急がないと……早く図書館の皆のところに……」
 ミントいわく、ということだ。
 誰のためにあの鐘が鳴ったかは誰もしらないが、少なくともレコナと燐と楓のためではないことは確かだろう。
 再び、彼らは夢の中に閉じ込められるのだ。これが……三つ目の鐘が、道を閉ざすということ。では次の鐘が鳴れば、夢は終わる。それは何を意味しているのか……
「……どうしてこんなことに」
 ミントに回収された三人は、それぞれ別の方向を向きつつ首を傾げた。
 もしもこの三人に彼方からの電波でも受信する力があったなら、すぺしゃるぱわーがあればどうにかなったかもしれないとか、いややっぱりダメだったかもしれないとか聞こえたかもしれないが……まあ、聞こえたとしても理解できないか。
「さあ、他の迷子さんも探して、いきましょう……」
 ミントは三人を促す。置いていかれても困るので、三人はそれについていくしかなかった。
 それからミントは狭間の中の迷子を回収しつつ、白い闇に満たされた狭間を抜けた。おかげで単独で抜けようとして迷子になって、心挫けかけていた者たちも、全員が無事に夢と現実の狭間を抜けて図書館に出ることができたのである。


 ……鐘が鳴っている。
 そう思って、助手席にいたクーザは白い闇に包まれた外を見回した。ここはシューティングスターのリエラ、流星号の助手席だ。シューティングスターは隣にいて、ハンドルを握っている。屋根の上にはアルツハイムがいて、荷台にはエス、スルト、パッセイジ、パラリエッタ、リン、ポロリエッタ、レライエ、秋華、レティエが乗り込んでいる。マイヤは誘ったけれど、乗らなかった。
 調子よく流星号は爆走しており、もうじきこの狭間を抜けるだろうと思われた。そこまでは以前狭間を抜け切ったクーザの感覚に頼れば、問題なくいけるはずで。
「抜けた……!」
 そして、流星号は夢の図書館に突入した。
 ……問題は多分、この後なのだが。
 シューティングスター操る流星号は、図書館の中に入っても爆走を続ける。乗っかっている者たちは、そのままクレアとルーのところまで行けるつもりだった。パラリエッタだけは人の隠れられそうなところに気を配っていたが、流星号は速くて上手くいかない。
 なんだか気持ち良く、シューティングスターは運転を続けることができた。そう……どこまでもどこまでも。


 同じく、狭間にも鐘の鳴り響く頃……
「リディ!」
 ウィリアは自分と同じ氏を持つ少女の名を呼んだ。それはまだ狭間の中で、そのときそこでリディと出会えたのはウィリアたちの幸運以外のなにものでもなかった。
 誰の幸運だったのかと言えば、実はウィリアに同行していたセリアの運であったのだが、そんなことは些細なことだろう。幸運には違いない。迷子になりながらもどうにか、『赤毛のクレアのストール』を持つ金髪のクレアやティリス、ウィリアが巡り会うことができたのもそのセリアの運頼りだったのだ。
 だが、運もここまで……という部分があって、いかな幸運も狭間の出口を示してはくれなかったのである。だがそれでも出口に繋がる細い糸を、セリアの幸運はぎりぎり垂らしてくれたらしい。
「いいところで会えたな……一緒に行こうぜ」
「一緒に? クレアとルーを探すんじゃなかったのか」
 リディを探して合流していたアルカードが、訝しげに言った。
 学園生徒の部隊は突入前、三隊に別れている。夢の王を封印するための部隊が、フランの率いる隊。レアン・クルセアードを撃退する目的で組まれたのが、エリスの率いる隊。アルカードやリディたちが組み込まれているのは、ここだ。そして最後の一つは、人質となっているはずであるルーとクレアを救出することが目的の双樹会会長マイヤの率いる隊だ。ウィリアたちはここに入っていたはずだ……と、アルカードたちと共にいた八重花も問いかける。
 幻覚に惑わされているかもしれないと、警戒しているのだ。
「まあ、ちょっとした考えがあるだけさ……警戒しないでくれ。とりあえず、当面はくっついて行かせてくれるだけでいいから」
 ウィリアに言われて、アルカードとリディは視線を交わした。本物に見えるけれど、夢の王の幻は判別つけられぬ程に精巧かもしれぬ。
 少し迷った後、アルカードは同行を認めた。まだここは狭間、夢の王の力は中よりは及びにくいかもしれない。出会ったのがここであったのも、幸運であっただろうか。
「助かるよ」
 ウィリアは言いながら金髪のクレアを振り返った。これは実は、クレアの希望なのだ。
レアンに会いたい、という。いや、会って何かをしようというのではない。だが、彼らの求めるルーとクレアの姿は、結局レアンの居場所にも深く関わっているはずなのだ……人質、なのだから。レアンのいる場所から二人の居場所を求められるかもしれない、そう考えたのだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたしますわ」
 クレアは、丁寧に道案内をしてくれるはずのアルカードたちに礼を言った。
 もう、図書館はすぐそこだった。


 鐘の鳴る中、エリスはこの狭間を迷わず抜ける術は持っていないはずなのに、迷いなく進んでいた。この世界で信じる物は己のみ……あるいは、普段からもエリスはそうであるのかもしれなかった。
 その前にエリス非公式ファンクラブ会長、ゼロが立つ。
「あなたは」
 エリスは名前を呼んではくれなかったが、絶望するほどのことでもない。少なくともエリスの記憶力は健全であるらしく、エリスはゼロのことを覚えているようではあった。
「……一緒に行けるかどうかはわからないわよ」
 たとえ手を繋いでいてさえも、いつのまにかその手を見失う程の白い闇の中だ。共にいられるとは限らないと。
 ゼロが何か言う前に、エリスは言った。まるでゼロの考えを読んだかのようだが、それは冷静で客観的な判断の結果だろう。エリスは悲観過ぎることも楽観過ぎることもない。それゆえに面白味を感じられないと思われることもあるようだが……
「ついていける」
 ゼロはどこから来るのかわからない確信のような自信を持って、そう答えた。そのとき一瞬だけ、エリスは口の端にほんのわずかな笑みを浮かべる。そして何か言うために口を開こうとしたと……思われたのだが。
「なら……」
「ちょぉっと待った!」
 だがもう一つ、別の声がエリスの声がゼロに届くのを遮った。
「ゼロォ? 抜け駆け禁止、でしょ?」
 ゼロが振り返れば、いつのまにかそこには同じグループのエルザが立っていた。この狭間の中では、はぐれるのも遭遇するのも突然のことだ。
 エルザは『エリスファンクラブ会員証』を軽く掲げて、それを殊更にちらつかせながら二人に近づいてきた。
「会員鉄則、1条。忘れたとは言わせないわよ?」
 意地悪なエルザの囁きに、ゼロはちっと微かな舌打ちをする。
 エリスはいつものように淡々とした表情で、しばらくそれを見ていたけれど……
「……行くわ」
 時間はあまり取れないとでも言いたげに、エリスはまた歩き出した。それはすぐに駆け足に変わる。
「エリス!」
「せっかちね」
 二人も睨み合いをやめて、それを追いかける。
 ゼロはその自信の通りに、エリスの姿を見失うことなく追いかけていった。その隣に、エルザもぴったりとくっついて。
 エリスは一度も、二人を振り返ろうとはしなかった。振り返らずとも、二人はついてくるだろうと思っているかのように。



- 封印の書 -

 狭間を抜け、誰もがそれぞれの目的を果たすべく動き始めた。
 フランはふと怯えたように、高い天井を見上げる。何か音がしなかったか、と。
「気を取られてはいけない」
 レアルはフランを叱咤するように、強い口調で言った。
 はっとした顔を見せ、フランは頷く。その手には、シュナイダーの渡した禁忌の書の包みをしっかと抱いている。
 ここは思いが具現化する場所、動揺はすぐさま自らの身に跳ね返ってくる。
「自分を強く持ち、自分のやらなくてはならないことを思い出すんです」
「はい」
 ぎゅっと体に力を籠めて再び頷くフランに、緊張を解くようにと湊海璃が優しく声をかける。
「大丈夫ですよ、フランさん」
「ええ……」
 フランは、フランと禁忌の書を警護する者に囲まれていた。無論、封印とその手伝いを目指している者たちもいる。結果的には、このフランの周囲に集まった者たちが、もっとも数が多かったようだ。それは、シュナイダーの意見によって、最初から誰もが前の人の背中を追うようにして、ひとかたまりになって狭間を移動していたせいで、あまりはぐれた者を出さないですんでいたからだった。先頭は惑わされることなく白い闇を抜けることのできる者、神楽坂葵が勤めた。
 そして、この図書館の中に出たのだ。
 大人数での移動であったために、まだ狭間を抜けたばかりというところではあったが。
「もう、ここでいいでしょう」
 そして、シュナイダーは言った。
「夢の王の封印をするのです」
「ええ!? どういうことです?」
 ミハイルがシュナイダーの言葉に驚きの声を上げた。
「封印の仕方を、わかっているというのですか? いや、それよりも、ここには夢の王がいない」
 そのために、ミハイルは禁忌の書をこれから調べさせてもらおうと思っていたのだ。だがシュナイダーは既にそれを終えているのか、それとも自らの考えであるのかわからないが、自信を持って封印に臨もうとしている。
 そして更にシュナイダーは続けた。
「いや、夢の王はここにいる」
 夢の王はここにいる。
 そのシュナイダーの言葉に、周囲のすべてがざわめいた。
「ここにいる……? この中の誰かが、ということですかぁ?」
 神楽坂葵が首を傾げると、シュナイダーは黙って首を横に振り、それから一呼吸おいて説明し始めた。
「違う。夢の王は、この図書館全体だ」
「……そうなの?」
 ロザリアが不思議そうに辺りを見回す。
「フラン嬢が最初に見た姿、『夢の王』の名、そして禁忌の書の『王の間』の語より、夢の世界のどこかに『王の間』があって『夢の王』が潜んでいると考えるのが素直な解釈だ。だがこれは禁忌の書における『夢の王』を『誰もがその姿を知覚し、認識することができる』という記述に反する」
 シュナイダーは淡々と説明を続けていった。
「ならば、我々全員がどこにいても共通に認識した唯一の存在……図書館全体こそが夢の王の実体ではないか」
 先程まで周囲にあったざわめきが消え、そして誰もが息を飲んでいた。今、自分たちはまさに夢の王の中にいる、という言葉を噛み締めているのだ。
 ここが既に夢の王の支配下であることは、多くの者が予想していた。だが、この図書館全体が本体であるとまで思う者はいかほどにいたか。少なくとも、この場にはいなかった。
「確かに、場所などは関係ないのかもしれない」
 その沈黙を破ったのは、カルラだった。そこに至る考え方は違えど、夢の王の居場所はどこでもなくどこにでも現れるという結論は、カルラも同じだったからだ。
「でも……」
 と、カルラはミハイルを見る。
「そうです。でも、他の者たちがいる。クレアとルーを救出する前に、封印を施しても良いものでしょうか」
 ミハイルはカルラに頷き返し、続きを引き取った。シュナイダーもそれを認め、次の提案を行なう。
「その通りだと思う。それで、隊を分けようと思うんだが」
「隊を? 分断は危険じゃ……」
 葵が考え込むようにシュナイダーに答えた。
「しかし、夢の王を封印すれば、その時点でこの図書館は形を保っていられなくなるだろう。すぐさま結界を破壊して、外に脱出しなくてはならない。帰り道を探している余裕はない……そもそもそのときには、帰り道はない」
 シュナイダーの考えが正しいのなら、その通りだ。帰り道などというものは、夢の王を封印した瞬間から、ある意味存在していないことになる。
 夢の王の中にいる彼らもまた、封印の中にいることになるのかもしれないのだから……封印と共に、もう二度と出られない可能性すらある。
 アバは、息を飲んだ。だが、すぐさまに首を振る。その恐ろしい想像を振り払うかのように。
「そんなことを言って、恐怖を煽ってはいけませんよ。恐怖こそは、夢の王の糧。希望をもって臨まなくては。どうでしょう……私たちが恐怖の感情を持たなければ、自然と夢の王は消滅するのではないでしょうか?」
 アバはそう訴える。だが、シュナイダーも自分の考えを譲りはしなかった。
「そんなことはないだろう。仮にそれで夢の王の力が弱まることがあったとしても、封印には至らないと思う」
 ここに存在する図書館が、消え失せぬ限り。
 そう言って、シュナイダーは辺りを見回す。
 いや……誰かに意志の力、霊珠アンリアルを具現化させる程の力があったなら、それによってこの図書館を消し去ることさえできたかもしれぬ。それは夢を操る、意志の力。
 彼らが夢の王の支配下にある世界においても禁忌の書を解読できたことも、またその意志の力によるものだった。だが、禁忌の書を解読するなどは些細な抵抗にすぎないのだ。
 もっと大きな影響を……この図書館を破壊する程の影響を及ぼす強い意志。そこまでが彼らに可能かどうか……
 できると信じられぬ者にはできぬ、ここは意志の世界。
「だが、強い意志をもって臨むことは必要だ。強い意志さえ持てば、この夢の世界に干渉することは容易い」
「待ちたまえ……夢の王を封印する者はここから出られぬ……と言うのかね?」
 ホーリーの問いかけに、シュナイダーは目を細めた。それが答えであるかのように。
「……少なくとも、封印する前に他の部隊の撤退を確認するべきだろう」
 シュナイダーの静かな言葉に、ホーリーは顔を顰めた。封印作業は見たかったが、命を引き換えにする気はなかったので。
 ホーリーは仲間のエーベルとマリィに何ごとか囁いている。
「他の部隊との連絡なら、どうにかできると思います」
 ミハイルが自分のリエラ、じょにーの力でどうにかできると言った。元々連絡を密にとる、そのつもりでいたのだと。そして封印が危険な行為であるのならば、なお、それは役に立つだろう。
「それならば、後は結界を破る者だ」
 確実に連絡ができ、状況を掴めるのならと、シュナイダーは他の隊の様子を探る役目はミハイルに任せようと他の者にも告げる。
 どうやらフランが黙っている以上、このチームを引っ張っていく者はシュナイダーとなったようだ。この中で最も的確に十分に状況を理解しているのは、シュナイダーであると言って間違いはなさそうだった。
「結界……現実とこの空間を区切る壁よね。前回はロキ様が破りました。空間を引き裂く力を持つリエラを扱う者でないと、結界は破れないんじゃないのかしら?」
 そして、その能力の高さも問われるだろう。さて、この場にそれが可能な者はいるだろうか?
 ロザリアが、前にここを脱出したときのことを思い返しつつ、そう周囲に確認する。前回の功労者である彼女の主は、今ここにはいない。その代わりを勤められる者はいるのかどうか。
 いない。
 実際には狭間に入ったときにはバ・ルクがいた。そのリエラ、Åは空間を裂くことができたのだが、狭間の中ではぐれたようだった。
「もう、三つ目の鐘は鳴ってしまったもの。……普通の方法では出られないのかもしれないわ」
「以前の時よりは楽なはずだ。禁忌の書に記された通り、我々は生身でここに入り、そして夢の王を知覚し、捕えている。書の通りであるならば、夢の王の力に拠らずして帰ることができるはずだ」
「それは……誰にでも?」
 ロザリアの問いに、シュナイダーは目を伏せた。理屈の上ではそのはずなのだが、その方法はわからなかった。
 それも意志の力によるのならば、仮に意志の力が弱ければ……弱い者には帰れないということになる。
 それでは、困る。そうでない方法があって欲しいと願わざるをえない。結界を破る、という言葉になったのは、その現れでもあった。
「先に他の部隊が逃げるにしても、誰かが空間を引き裂かないといけないのでしょう? ミハイルさんに頑張ってもらって、それができる人に連絡がつくのを待ちましょ」
 それは能力の高さも鑑みて、エリスかロキかバ・ルクか、ということになるだろうか。彼らなら、誰であれ送り帰すことができる。そう誰もが信じることができる……あるいは、そう信じることができるということが、重要なのかもしれなかった。
 無論危険の伴う行為だが、誰も否とは言うまい……と言うロザリアに、シュナイダーは頷いた。
「では、ここにいる者は、このままひとかたまりでいることにしよう」
「じゃあ、他の部隊が目的を果たすまで、僕たちには少し時間があるということになるわけだな?」
 ルーブルが、そう確認してくる。思うところはあったようだが、今までは黙っていたようだ。
「それなら、少し話し合いたい。図書館にあった、この夢の世界に続く扉のことについてなんだが」
 そう、ルーブルが持ちかける。
 だが、そこにエーベルが割って入った。
「いいえ、先に話し合うべきことがあるのではないでしょうか」
 そのままフランの前まで進み出る。
「肝心の封印はどのようにするのです?」
 今まだ、シュナイダーの話でも、その封印の方法には触れられていない。
「封印には、その禁忌の書が必要なのでしょうか?」
 それが重要なことであると、エーベルは周囲を見回す。
「必要だと思う」
 迷いなくシュナイダーは答えた。
「夢の王は禁忌の書に再封印できるはずだ」
 そのやり方にも考えがあると、シュナイダーはエーベルに答える。
「どうしても、禁忌の書が必要なのでしょうか?」
「俺の考える方法が正しいのなら、他の本では代替ができない……他の方法もあるのかもしれないが、俺にはそれしか思いつかなかった」
 鋭い視線を時折垣間見せながら食い下がるエーベルに、シュナイダーは淡々と答え続けた。エーベルの後ろにはホーリーがいて、やはり窺うような目でシュナイダーと、その後ろのフランを見ている。
「ふむ、そうであるな。仮に方法が違っていようと、あの書は少なくとも元々夢の王を封印していたもので、それについての記述を持ったものである。他の物を使うよりも安全であろう」
 その間に、イルが舞い降りた。
「封印の器には、禁忌の書を使うべきであろうと思われる」
 それよりも強くは、エーベルは言わなかった。
「……封印が終わったら……その本を私にくれないかしら……」
 そのとき、そんなことを言い出したのはフィルシィだった。ゆらりと幽鬼のように、その手をフランの方へとさし伸ばす。
「禁忌の書を?」
 フランを庇い隠すように、シャザインがその間に立った。
「……夢の王なんてどうでもいいの……私に興味があるのは……その本……」
「……それも駄目だ」
 喋り詰めで少々疲れてきたのか、軽い溜め息をつきながらシュナイダーは答える。
「この本を封印に使う以上、封印が終わった後は、二度と開かぬように厳重に包んで保管しなくてはならないだろう。今度こそ誰かに持ち出され、封印の解けることのないように」
「……中を見たら……封印が解ける……?」
「おそらく」
 おそらく、と言いながらもシュナイダーの口調は断定的だった。その考えの中では、確信に至っているのだろう。
「実際に封を切り、本を開いただけで、はじめの時には封印が破られている。そうですね、レディー・フラウニー・エルメィス?」
 突然正式に呼びかけられて、フランは俯きがちだった顔をはっと上げた。シュナイダーは嫌みではなく、ただ敬意を以て礼を取ったに過ぎない。それはわかっていたので、フランもできる限り背筋を伸ばした。
「そうです……あの時は、本を開けただけで」
 そして、蒼白な顔で頷く。自らの責任を思い出したのだろう。
「我々に、この禁忌の書を綴ったいにしえの賢者よりも完璧な封印が施せると思うのは奢りだろう。我々の封印は最初の物よりも脆弱であると考えておいてもいいはずだ。ならば、禁忌の書が再び誰かの手に落ちるようなことは、全力で避けなくてはならない」
 それは再度の封印の解除を示していると思うべきだと言う……そのシュナイダーの弁舌に反論することは、誰にもできなかった。フィルシィも禁忌の書を諦めなくてはならないことを悟ったのか、それ以上の言葉はなく。
 そして密かに禁忌の書を狙っていたホーリーたちも、自分の願いが叶わないことを悟らざるを得なかった。禁忌の書は欲しかったが、封印の邪魔をするつもりはなかったので。
 ホーリーたちは機会を見て封印の書をすり替えるつもりだったのだが、封印をするために禁忌の書が必要であるならば、それまでは待とうと思っていた。だが今の話であれば、うまうまと禁忌の書を手に入れたとしても、開けば封印が解けてしまう。禁忌の書を調べるためには、封印を解くしかないのだ。
 もしも外でそんなことをして、再び被害を出すことになったなら……今度はフランの時のように、知らなかったではすまされない。彼らは意図的にアルメイスに仇なした者として、学園を追われることになるだろう。いや、学園を追われるだけで済めばいいが……将来の禍根となるかもしれぬ者を、帝国が生かしておくと思うべきではない……
 そう、それは、狭間の中でいくらかの生徒がエリスから聞いたレアンの身の上のように。レアンにはそれすら切り抜ける力と幸運があったかもしれないが、多くの者にとって、それが自分にもあると考えるのは、やはり奢りだ。
 力ある罪人には強い罰があると考えるべきであったが、このアルメイスに住まうまだ心の幼い生徒たちには理解及ばぬところもあるのだろうか。時折、その拙い野心に任せて、取り返しのつかぬ悲劇を自らに招くような悪ふざけを考える者もいる。
 失敗する幸運も、いつまでもは続かないのに……
「封印の仕方は、じゃあ後で説明してもらうとして……今度こそいいかな」
 ルーブルが先ほど言いかけたことを、と奇妙な緊張に満ちた空気を破った。
「僕は、この夢の世界に続く扉そのものをどうにかできないかと思うんだが」
 それは、彼らが先ほどくぐってきた扉のことだ。
「二度と開かないように、できないだろうか」
 シュナイダーは眉間に皺を寄せて考え込む。だが、じきにその顔を上げた。
「封印が終われば、この夢の世界は崩れるだろう。そうすれば、この世界そのものが消えるのだから、扉を開けても入れなくなるはずだ」
 シュナイダーの理屈を詰めれば、そうなるだろう。だが、ルーブルは首を傾げる。
「そうなのか? なら夢が崩れれば、扉は消えてしまうのか?」
「いや、それは違います」
 アバが扉を調べた時のことを思い返し、そうルーブルの誤りを正した。扉のネジは古いものだった……図書館が建てられた時と同じくらいに。
「扉は元々あったのです。図書館と同時に作られたのでしょう。見えなくなっていたことは考えられますが……私は、図書館そのものが夢の王を閉じ込めるために造られたもの……封印そのものなのではないかと思います」
 敵は、夢の王の舞台としてここを選んだのではない。ここでしか、夢の王は活動できないのではなかろうか。
 アバの言葉に、また誰もが考えこむ。
「封印は二重であるのかもしれぬ」
 イルが、現状をまとめた。
「内なる封印は、この禁忌の書。そしてその外側に現実の図書館という、大きな封印が存在していた。いまだその封印は健在であり、夢の王がこの空間から出ていくことを阻害しているのである。そのように考えれば、辻褄が合うのではなかろうか?」
 いくつかの謎をまとめ、イルは続ける。
「だが、安心してはならない。四つ目の鐘が鳴れば、夢は終わるのである。夢の世界で夢が終わるということは、世界の消失を意味しているであろう。夢の王の封印が成ったときと同じように、いや封印が成されないままに鐘が鳴るのであればそれ以上に、我々にとって危険な事態と思われる」
 そのときに、この世界に取り込まれたままでいたなら……自らの存在を支える世界が消失する事態に、耐えなくてはならなくなる。そして、生身の体でそれに耐えうるか否かは……とても考えたくないことだった。
「夢が終わったら……どうなるんでしょうか」
 アバは、考える。恐ろしいことは考えてはならない。そう自分に言い聞かせながらも、それを考えることをやめられない。
 それは、おそらく事実であるからだ。
「夢の王に取り込まれるであろう。夢の王はフューリアの気力を糧とし、実体をあらわす。今のこの状態を実体とは呼べぬであろうから、夢が終わると異なる実体を持つのであろう。……あるいはその時には、外側の封印である図書館を砕いて外に出るやも……」
 シュナイダーの言葉さえ、すべては予測でしかない。ましてイルのは思いつきだ。
 だが、とても信憑性のある予測と思いつきではあった……
 そのとき。
「……きゃ!?」
 図書館が激震に揺れた。
「……フラン!」
 よろめいたフランをシャザインが支える。
「何が……!?」
 天井が崩れ、次々と瓦礫が降ってくる。更には床にも亀裂が走り……
「逃げろ!」
 また、床も階下へと崩れていく。
 何が起こったのか、その場の誰にもわからなかった。以前のときにはレアンが床を崩して生徒たちを分断したけれど、今回のこれは何故なのか。原因となるものは、彼らの目に映ってはいなかった。



- 願いを述べよ -

 汝の願いは何か。
 願いを述べよ、さすれば叶わん。
 ここは、汝が夢の世界なり……

 そして願いの叶う夢の世界は、甘い誘惑に満ちているのだ。
 誰よりも先に。誰よりも速く。
 レアン・クルセアードと戦いたい。
 その一心で魔竜は狭間を抜け、その姿を求めて図書館を駆け巡った。
 そして、その目でその姿を捉えたと……思ったときには、魔竜は既に呼び出していたD・ドラゴンを今叶う最大のサイズへと引き上げる。
 それは16アース……高さにおいても図書館の外観よりも遙かに大きい。
 当然ながらD・ドラゴンは天井を突き抜け、そしてその自重で床を踏み抜く。
 ……それは、容易に図書館の半壊をもたらした。

「何が……!」
 半ば崩れ落ちかける図書館。そんな中で、どうにか図書館にたどり着き、一団になりかけていた者たちさえも、再びお互いを見失っていた。
 フラン隊も分断されていたが、マイヤ隊、エリス隊もその被害を被っている。
 ある者は奈落のような床下に落ち、ある者は辛うじて残った床に踏み止まる。
「どこ……」
 レンは崩れ落ちた床の瓦礫に巻き込まれなかったことを感謝しつつ、落ちて打った場所を押さえながら、エリスの姿を探した。だが薄暗い視界に届く中にはいない。
 レンはこうして、生徒たちが分断されることを予測していた。そして、レアンはそのうえで彼らを各個撃破していくだろうと。そう思っていたことが、あるいはあだになったのかもしれない……ここは思いの具象化する世界。
 それでも、後悔は先には立たない。
 もっともレンの予想は、その原因の部分についてだけは間違っていたが……これは、直接的にはレアンのもたらしたものではなかったからだ。間接的にと言うならば、確かにそうかもしれなかったが。
 レンはエリスの姿を見つけだすのは諦めて、他の生徒の様子を窺った。
「そ、そこにいるのは誰ですか……」
 おどおどした声が聞こえる。
 サァドだった。
「ここにいるのは、三人だけか」
 もう一つ、声が聞こえた。大きな瓦礫の向こうから現れたのは、ナターシャだった。
「他の者は、踏み止まったということか……」
 そう言って、ふとナターシャは上を見上げる。そして目を見開いた。
 その驚きの表情を見て、サァドもつられて上を見た。
「……ああっ……」
 サァドもまた呆然とした表情を造り、そしてキョロキョロと辺りを見回した。
 そして、レンもその視線を追いかける。
 瓦礫がない。
 崩れたはずの天井の穴が塞がっている。
「完全に分断されたようだ……」
 それは誰の願いか。
 絶望感という、苦い思いが去来する。これこそまた、夢の王の妨害であるのだろう。
 彼らは、シュナイダーの予測をまだ聞いていなかった。
 この図書館こそが夢の王の本体であること。
 そう、この図書館は彼らのもたらす意志の力以上に、夢の王の望む通りに変容するおそれを持っているということをだ。

「残ったのは俺たちだけか」
 床上……エリスの元に踏み止まったのは、最初にエリスと合流したゼロとエルザだけであった。
 幻は幻でも、彼らがそれに拠って立っている以上、なんらかの影響は被る。その影響から完全に自由になるためには、その心に確固たる灯火を持たなくてはならない。
 それでもゼロは根性で、そしてエルザは以前に無理矢理戦線離脱されたときの怒りを胸に、そこに踏み止まっていた。
 そして気がつけば崩れてきた天井も、崩れていった床も、元の通りだ。
「馬鹿にした話ね」
 エルザはそれを見回して、呟く。
 そんな中でも、エリスは常の無表情を崩さなかった。
「……行くわ」
 と、またエリスが歩みを進めようとしたとき。
「何を、お探しかな?」
 芝居がかった仕種で、廊下の角で礼をとる者がいる。
 それは求める者の姿。
「レアン……」
「お久しぶりだ、下町の姫君」
 エルザとゼロは、いつでも戦闘に入れるように身構える。だが、すぐに仕掛けることはなかった。
 エリスが動かなかったからだ。
「さて、聞かせてくれるだろうか? 君はいつまでここにいるつもりなのか?」
「……約束を果たすまで」
 エリスに問答無用で仕掛ける気のないことは、すぐにわかったので。
 そして、エリスの答えが気になったからだ。
 叶うならば、それは誰と何の約束なのかとゼロとエルザは訊ねたかった。
「……負けた以上、約束は果たす」
「そうか」
 では、仕方がない。そう言って、レアンはひらりと廊下の角を戻るように姿を消す。
 追いかけようと走りかけたエルザを、しかしエリスは引き留めた。
「追っても無駄よ……もういない」
「どういうこと?」
 振り返ったエルザは、謎の言葉ばかりを紡ぐエリスを今度こそ問い質した。
「あの人ぐらいになると、こんな精神に依存した世界なら自由に渡り歩くことができるから。その角を曲がったように見えたときには、多分もう別の場所にいる」
「……なんですって? それじゃあ、追うこともできないって言うの?」
 エリスは頷いた。
「私も、まだそこまではできない」
「それじゃあ……!」
「だから、逃げない場所まで行く」
 わずかに声が大きくなりかけたエルザのことはあまり気にしていないかのように、エリスは淡々と続けた。
「逃げない場所……?」
 元々、あまりエルザも感情的な質ではない。すぐに落ち着きを取り戻し、エリスに問い返す。
「どこ? それは」
「あの人に今必要な者のいる場所」
「それって……」
「……クレアのところ」

「どうしよう……」
 アーリアは呟いた。
 先程の混乱で、一人になってしまったからだ。アーリアが最も恐れていたことになってしまった。
「探さなくちゃ」
 じわりと焦燥感が込み上げてくる。
 そのじりじりとした焦りに長くさらされていては、どんどん消耗していくような気がした。最後には、力尽きてしまうかもしれない。
「早く……」
 仲間の姿を。アーリアは床と共に落ちてきた薄暗い廊下を、辺りも見ずに駆け出した。
 走っていくと、人影がある。誰かが話しているが……
「私は……」
 アーリアには、そこにいるのが二人のような気がするのに、どうしてももう一人の顔が見えない気がした。
「なぜ返事をしないの」
 一人はいらついているようだった。声を荒げかけている。
「誰……?」
 呼びかけると、その女生徒、カズホが振り返る。そして、その瞬間に、その向こう側の影が消えた。
「あっ」
「何……あ!?」
 カズホもそれに気がついて、愕然としている。
「せっかく会えたのに……」
 それがアーリアが来たせいだと思ったのか、顰めた顔をカズホはアーリアに向けた。
「今のは……?」
「……」
 だが、訊ねるアーリアにカズホは口を噤む。
 ……カズホは、今話していた相手こそがレアンだと思っていたからだ。だが、実はそれはカズホの強い願いに反応した、レアンの幻だったのだが……真実に気づく前に、幻は消えてしまった。
 カズホに残ったのは、怒りと苛立ちだけ。
「まったく……」
 アーリアにしてみれば、ようやく会えた仲間が妙によそよそしくて、それだけで泣きたくなる。
 そのとき。
「……アーリア!?」
 アーリアの進んで来た廊下の反対側から、聞き覚えのある声がした。
「あ……」
 ウィルがそこに走り寄ってきて、今度こそアーリアはほっとした。
 他に、クレアたちとレアンを探している小夜と竜華も一緒にいる。分けられた隊は違うが、一緒にいる人が増えて本当にアーリアは嬉しかった。
「さっきの崩れに巻き込まれたのか?」
「うん……」
 竜華がきょろきょろと辺りを見回し、やはり少しいらいらしたように言った。
「ここどこ? クレアちゃんは……」
 小夜、竜華、ウィルも最初から一緒にいたわけではなく、分断された折に出会ったのだ。何故彼らが出会い、ここに現れたのかも理由があったが……まだ、それは誰も知らぬことでもあった。
「……この上ぐらいに、マイヤ会長がいるはずなんだけど。どこかから上がれないかな」
 アーリアは落ち着きを取り戻し、暗い中を見回す。
「あ……あれ」
 小夜が指差したところに、階段が見える。
「とりあえず、上がろう」
 ウィルに向かって、アーリアは頷いた。

「皆さん、無事ですか」
 マイヤは周囲に残った者たちに呼びかけた。
「はい、なんとか」
 と、ハーレーが答えた。
 いや、なんとかじゃない。今、ハーレーとマイヤはハーレーの願いによって、ロープで繋がっているのだ。この二人がはぐれる前には、他のほとんどとはぐれていることだろう。
「他の方は?」
 そう言って、マイヤは辺りを見回す。多少人数が減って、すっきりした感がある……と言うと怒られるかもしれなかったが、マイヤの周囲もようやく、容易に近くにいる者を把握できる数になっていた。
「大丈夫です。マイヤ会長こそ、ご無事ですか?」
 ファルクスが問い返す。
 今、マイヤの回りに残っているのは、マイヤを護衛しなくてはという意志を持っていた者が半数と、他の理由でマイヤのそばにと考えていた者たちが半数だ。やはり、意志の力は影響を及ぼしたのか……
「私も大丈夫です。ホーキンスさんも」
 ランディスが同じグループの仲間を見て、そうマイヤに報告する。名前を呼ばれて、へい、とホーキンスも無事を示すかのように手を挙げた。
「こちらも、怪我はないよ」
 最後にとうべいが答える。もう一人女生徒がいたが、その娘は黙っていた。
 マイヤの元で踏み止まった者は、これだけのようだった。
 そうしている間に、やはり破壊されたはずの床が元に戻っていった。
 そもそも派手に壊れた割には、マイヤの周囲に残れた者は多かったと言えるだろう。本当ならば、もう少し落下していってもいいはずだった。
「これだけのようですね。はぐれてしまったものは仕方がありません。はぐれた方たちが人質を救出できるのならば、それでいいでしょう」
 マイヤ隊においては、別行動は悪いことではない。人海戦術によってでもなんでも、クレアとルーを助け出せればいいのだから。
「では、私たちも移動しましょう」
 と、クレアとルーを探すために移動を始めようとマイヤが促す。
「移動しながらでいいんだがな」
 と、歩き出したマイヤを追うように、とうべいが話しかける。
「マイヤ、君は今回の事件の裏側も、なんとなく知ってはいるんだろ?」
「……裏側?」
 ふと足を止め、マイヤはとうべいを振り返った。
「何のことですか?」
 いつもの冷静で平静で何を考えているのかわからないような薄い笑みを浮かべた表情は変わることなく、そう聞き返してくる。
 とぼけるのが上手い、と、とうべいは笑みを返した。
「奴の今回の目的は何なのか? 学園全体に対する攻撃としては規模が小さい。クレア個人の誘拐が目的であるなら、夢の王などと罠をはる必要はないだろう」
「……なるほど、それで?」
 とうべいの語りに、初めて聞いたことかのようにマイヤは相槌を打つ。
「……もし誘拐が目当てだとしたら、もう目的は達成されている。この図書館で籠城する必要などないはずだ」
 とうべいはマイヤの返答を待った。
 マイヤはここで、しばらく黙り込み……そしてそれから、まっすぐにとうべいを見返した。
「本当に今回のレアンの真の目的は、私にはわかりません。ただ、何かを仕掛けていることは間違いないのでしょう。仮にどんな目的を持っていても、捕われの身の彼女たちを犠牲にしていいということはないはずです」
 何を知っているのか、それを語ることはなかったが……マイヤの言葉は、正論だった。そして本心からであろうと思えるほどには、言葉に真摯な力があった。
「……そうか、そうだな」
 とうべいも、それでは引き下がらざるをえなかった。捜索の邪魔をするつもりは毛頭なかったからだ。
「さあ、もたもたしてはいられません。行きましょう」
 そして、また歩きだす……だが、今度はランディスがそれを引き留めた。
「待ってください。おかしな匂いがする」
 ランディスは鼻と口を押さえ、辺りを見回す。同じようにホーキンスもして、憮然と言った。
「酒だ」
 酒の匂いがする。……いや、正確には、もっと純粋なアルコールの匂いだ。
 マイヤも口もとをレースのハンカチで押さえている。
 ……犯人にしてみれば気づかぬようにまき散らすつもりであったようだが、アルコールは刺激の強い異物だ。無味無臭のものではない。まったく気づかぬようにというのには、無理がありすぎる。始めれば、すぐに気づかれるのはやむをえない。
 始めたばかりだったので、相手をちゃんと酔っ払わせることもできていない……密かに犯人は焦っていた。
 ホーキンスは腕の中にいた、めんちを放した。匂いを追わせるために連れてきたものなのだが……くんくんと辺りの匂いを嗅いでいためんちはキューッと目を回しかけながらも、ずっと黙っていた一人の女生徒に飛びかかっていった。
「君か……!?」
 ホーキンスがその手を掴もうとすると、その女生徒は身をかわし、そしてマイヤのところに飛び込んでこようとした。
「避けろっ!」
「マイヤ会長っ!」
 何をするかはともかく、危険だということは判断できただろう。ホーキンスは身を伏せ、ランディスはマイヤを守ろうと追いかける。
 そして……
「ハジケ万歳!」
 ちゅどーん!
 恒例の自爆だった。
 割と深刻な邪魔をするときにも犯行声明を残していくのはどうかと思うのだが。
 さて、爆風と煙幕を受けて一瞬視界を奪われたランディスが、煙が晴れた後に見たものは……
「マイヤ会長、ご無事で……」
 ロープで繋がっていたハーレーが無惨に身代わりとなって、ぷすぷすいっている姿だった。
「会長……確かに僕できるだけ手伝いますって言いましたけど……盾にされてもかまいませんけど……この距離で会長が無傷なことだけは納得できません……」
 ハーレーは煤で真っ黒だが、それを盾にしたマイヤはその手の白いハンカチに至るまで染み一つない。
「ここは意志の力の支配する世界ですからね……」
 ふっ。
 そんな笑みを浮かべて言われると、なんだかヤな感じだ。
「逃がしませんよっ!」
「観念しろ!」
 さて、ランディスがそこでコメントに窮している間に。
「くぅぅっ! 離してよぉっ、えっちー!!」
「えっち……」
「えっちじゃないっ!」
 ファルクスとホーキンスが自爆の隙に隠れようとした……女装したロバートを取り押さえている。もう女装も乱れて、正体は露見していた。
 まあ、お約束だからと言って毎回逃げられるとは限らない、というところだ。
「さて……このロープ、使わせて貰いますよ」
 とマイヤはハーレーと繋がっていたロープでロバートを縛り上げ、そのまま連れていくことをファルクスに告げた。外に出るまで逃がさないように、ファルクスに言いつける。
「悪ふざけが過ぎたようだ……今、私の邪魔をするというのは」
 酷く冷ややかな表情で、マイヤはロバートを見遣る。空気がひんやりとするほどに、その視線は冷酷だった。
 今、マイヤは本当に怒っているのだと、周囲にいた者はぐっと息を飲んだ……

 単独行動をしていたアスタルの願いは、夢の王リジャーゼ・ストラウブとの遭遇だった。
 そして、ある角の端に駆け込む黒い影を見たとき、それを夢の王と信じて追いかけ……そこで、図書館の激震に遭遇したというわけである。
 だが、落ち着きを取り戻すと、再び黒い影はアスタルの目の端を掠めた。
 そう、それは誘うように……消耗を待つかのように。だが諦めることなく、アスタルは追いかける。どこまでも、追いかけ続ける……

「うーん、夢の王と戦うって言っても、そこに辿り着けないことにはどうしょもないわよねぇ」
 フラン隊からはどこに行ってしまったかと思われているバ・ルクたちも、もちろん図書館の中を彷徨っていた。
 図書館の中など無限に広いわけではないのだから、歩いていれば遭遇できそうなものだったが……ここで人に会わないのは、まとまってかかって来られることを望まない夢の王の小細工か。
 図書館の中の造りはそのままのようでいて、微妙に迷宮のようだった。
 マヤとウェインも、辺りを見回しながら慎重に先へと進んでいく。
「金髪〜、他の連中探したほうがいいんじゃないの?」
 ちょこちょこ歩きながら、ウェインのリエラ、けしごむが歩くのに飽きたとでも言いたげに言った。
「……やるか」
「って、力で無理矢理突破しようってかい。そりゃやめときなよ、金髪。またぼけるよ?」
 ウェインの決心を煽っておきながら、いざやろうと言うと反対する。この優柔不断はけしごむの特徴だからか、ウェインの決心は揺るがないようだった。
「うるせぇな、いいからやるぞ!」
 けしごむはやれやれと言いたげに、尻尾を上げた。
「……我が指は真実の鍵……行くべき道を照らせ!」
 そして、道は示された。薄暗い中に、けしごむから一筋、金光の糸が走っていく。
「……は、俺ぁいったい……」
「ボケてる場合じゃないわよ」
 さて力を使った代償を速効払わせられて直前部分の記憶障害に陥ったウェインに、びしっとマヤの延髄チョップが決まる。
「さ、行くわよ。何をしてたかは道々説明したげるから、まだ頑張ってね」
 とりあえずはいつものことだ。説明し直せば、この程度のボケならまだもつだろう。そして道を進みながらでもそれは可能であると、マヤとバ・ルクはウェインの両脇を取って、ずるずると歩き出した。

「いくつに分断されたんだろうな……」
 これでは以前のときと大して変わらない、とシャザインは呟いた。
 前と違うのは、少し一緒にいる人数が多いというくらいだ。今、シャザインと共にいるのは、床が崩れ、そこに落ちる前の三分の一程の数だった。
 フランはここにいて禁忌の書はあるけれど、シュナイダーとはぐれた。よって、封印の方法がわからない……という羽目になっている。
 落ちて怪我をした者は全員、ルーブルがリエラのアルフィレンの力で癒していっている。じきに、問題なく移動はできるだろうが……が、さてこの後どうするのかということで困っているのだ。
 抜かりなく辺りを窺っていたその時、薄暗い廊下の向こうから人影が二つ近づいてきた。
「ロキ様!」
 シャザインが誰だと問う前に、ロザリアがその人影を呼ぶ。
「さっきの崩壊で落ちたのか……大丈夫か?」
 近づいてきたのは、ロキとレジーラだ。
「大丈夫です、でも、これからどうしようかと」
「……本物か?」
 シャザインの問いに、ロキは顎を撫でた。
「何か本物しか知らないことでも言ってみるか? 俺たちはかまわないが」
 いや、いい、とシャザインは首を振る。
「夢の王のところへは行かないのか?」
「ええと、『王の間』へは行かなくてもいいってことになったみたいなんですけど……」
 ロキの問いにロザリアが答えるが、それもシュナイダーがいてこその話だった。この分断こそが、夢の王の真なる望みであったのかもしれない。図書館が本体であるならば、自分の中で危険な相談をしている者を見過ごせるはずもないからだ。
「……『王の間』はある」
 その近くで立って、ぼんやりと虚空を見つめていたシャーリーが突然言った。
 シャザインとフランはいつもと違う言葉遣いのシャーリーに怪訝そうな顔を向けたが、同じグループのロキとロザリアはさほどの驚きは見せなかった。こういうこともある、という顔でいる。
「どういうことだ? 夢の王の本体は、この図書館……そうじゃなかったのか?」
 シャザインの問いかけに、シャーリーは……いや、シャーリーに見えているが実はシャーリーのリエラ、ファームは答える。
「確かにそうだ。だがなんでも核ってのはあるもんだぜ」
「核……そこが『王の間』なのですか」
「さっきから、微妙に動いてるからな。人だ……ちゃんと人の姿をしてるぜ。そうだ、さっき急に強くなって……段々強くなって……はっきりしていってる」
 ファームは中空に手を伸ばし、遙か彼方を見やり、そこまで呟いたのちに、悪戯っ子のような笑みを周囲に向けた。
「あんたたち、行ってみるか? あたしなら多分、迷わず連れてってやれるぜ?」
 その場の誰もが、顔を見合わせた。
 手がかりが他にあるわけではない。
 選択肢は……多分一つしかなかった。

「かなり分断されてしまったようですね……」
 ミハイルは叶う限り状況を確認したが、激震の際から姿を見失ってしまった者は多かった。どうにかじょにーを使ってマイヤとエリスの居場所は捉えたが、その近くの生徒の姿は格段に減っている。
「フラン嬢と合流しなくてはいけないが」
 シュナイダーは、苦々しげに呟いた。禁忌の書はフランが持ったままだ。せめて封印の方法を伝えなくてはならない。
 ……そこで、ぱたりと本を閉じる音がした。
 それはトリプルJがリエラ『秩序法典』を閉じた音。
「『王の間』へ行こう」
 そして、迷いなくそう言った。
「……何?」
 エリがトリプルJの後ろで、隠れるようにしながらその手元を覗き込むようにしている。
「すべての力は、脈打ち、一つ所に注ぎ込まれている……そこが『王の間』だ」
「……やはり『王の間』はあるということですか」
 シュナイダーとミハイルは顔を見合わせる。
 仮にこの先フランに出会えなかったなら、もしかしたら最初にシュナイダーが思っていたのとは他の方法で、夢の王を封印することも考えなくてはならないかもしれない。その時には、やはり『王の間』に赴く必要はあるかもしれなかった。
「……行ってみよう。あるいは、運が良ければフランたちとも再び会えるかもしれない」
 今は、やはり、それ以外には選べる手段はないのだから……

 激震の中も、気持ち良くシューティングスターの流星号は走り続けていた。
 幸い何故か、流星号の走る道は崩れることはなく、多少埃が降ってきた程度だった。
 そして、どんどんと流星号は走っていく……終わりなき道を。
 その道こそは何者か……まだ、Sの力もそれを知るには及んでいなかった。

「く……っ!」
 レアンに見えた物……それが幻であったと、魔竜にも判断せざるを得なかった。
 レアンと思っていた物は瓦礫の中に押しつぶされたように見え、だがあまりのあっけなさに愕然として、どうにかそこへ駆け寄るとそこには足跡一つ残っていない。
 もしもエリスの言葉を魔竜が聞いたなら、そこから何処かへ消え失せたかと思ったかもしれないが……
 確かに、あのときに魔竜の攻撃を誘うようにそこにいたレアンは、幻だったのだ。それは、魔竜が強くレアンを求めた結果。その気持ちを、夢の王につけ入られた。
 D・ドラゴンを縮めてサイズを小さくすると、崩れたはずの床も天井もいつのまにか元通りになっていた……精神の高揚と失速が急激に訪れたが故に、魔竜は消耗し、その場へと膝を突く。
 魔竜が再び歩き出せるまでには、今しばらくかかりそうだった。



- 夢の王の間 -

 ルーは走っていた。
 前を行くのは、見慣れた赤い髪。
 自分がどこにいるのか、ふとすると、それすら分からなくなりかける。
 学園生徒が彼女たちを助けるために再び図書館へと突入してきたことを、ルーはまだ知らなかった。
 この追いかけっこは、それと時を同じくして始まっていた……そう三つ目の鐘が鳴ったときから。
 扉が見える。それがどこの扉であるのか、ルーにもすぐには思いつかなかった。
 だが、その前に人がいる。彼女たちを陥れようとしている、レアンではない人影だ。女生徒だった。
 前の時に、二人以外には誰か残ったわけではない……だとすれば、新しく入ってきた者。
 助けが来たのかもしれない……ルーも、そう思いはした。だが。
 今、この危機を知らせなくてはならないと頭のどこかで警告音が鳴っていた。
 先を行っていた赤い髪が、女生徒……御子柴夢幻の前で、足を止める。
「クレアさん……良かった」
 夢幻は最高の微笑みで、それを迎え。
 そして……クレアも微笑んで、その手を伸ばす。背中を見ているだけでも、ルーにはそれがわかった。
「……逃げてーっ……!!」
 間に合わないかもしれない、とは思っていた。

「もう間に合わない……完成は間近だ」
 レアンは、そう告げた。
「戦っているぞ、あの二人が」
 レアンは突然にマイヤたちの前に現れたのだ。
「馬鹿な……」
 マイヤは蒼白な顔で、そう呟く。
 レアンと遭遇したとしても、手を出してはならない。それを至上命令とされていたマイヤ隊には、警戒こそすれど、手を出す者はいなかった。
 それを知っているかのように悠々と、レアンは挑発的な言葉を残して去る。
「嘘だと思うのならば、見に行くがいい……『王の間』へ。運がよければ、一人は返してやれるかもしれないぞ」
 王の間へ……
「向こうで待っていよう」
「会長っ」
 その時、一度はぐれたアーリアが、ウィルたちと共にそこに追いついてくる。
「今のは……」
 だが、その声に気を取られた隙にレアンは廊下の奥の闇へと姿を消してしまっていた。
「……『王の間』に向かいましょう」
 酷く蒼白な顔で、マイヤはそう告げた。

「ここが……?」
「この奥だ」
 エリの問いに、トリプルJは頷く。その壁を見回したが、中に入る扉はなかった。そこは奥の奥、古い書架の並ぶ書庫のあったはずの場所。
 彼らが王の間に向かうという情報は、届けられる範囲に届いたはずだった。
 ここまでの間に、クレアとルーを救いだしたという報告はどこからもない。
「あ……! 皆さん」
 そして、そこにシュナイダーたちが辿り着いた時。また別の導きによって、分断されたフラン隊のほとんどはそこで出会うことになった。
 フランの声がして、トリプルJは振り返った。向こうの先頭にいるのはシャーリー……の体を借りたファームだ。
「ああ、合流できてよかった」
 シュナイダーがフランと禁忌の書との再会に、胸を撫で下ろす。
「ここが王の間ですか?」
「ああ、だが……中に入れない」
 トリプルJは、そう答える。
 そして、ミハイルの連絡網を伝って、また別の理由で、次々とその場所を目指して人が集ってきていた。
「王の間? じゃあ違うのかしら」
 中には偶然に通りかかったと言って、そこに辿り着いたセリアたちのような者もいた。ウェインや金髪のクレアたちは、本当はクレアとルーを探していたのだ……いや、レアンが先か。同行するアルカードたちは、レアンの姿を求めていたからだ。
「いや、ここです」
 背後からしたのは、マイヤの声。
「今はレアンもここにいる……!」
「着くのが遅かったかしら」
 そして、次にはエリスたちが。
「これは……どういうことなんだ……?」
 改めて、とうべいがマイヤに疑問を提示する。結局誰もが、一つ所に集まってきてしまった。
「……今は、説明している余裕はありません。早く、中へ……!」
「だが、入り口がない」
 幻だ。どこかに入り口はあるはずだった。元の図書館で、ここのどこに扉はあったのか……長い廊下を焦りが駆け抜ける。
「どけ……」
 シャザインが、そこで進み出た。
 そして一度目を伏せ、それを再び見開いた時には迷わず……何もない壁に触れる。
「ここだ……!!」
 シャザインがその『心の灯火』によって、扉を見破ったのだ。
 ……『王の間』への扉は開かれた。
 そして……
「……ああ……っ!!」
 中へと、雪崩れ込んだ生徒たちの見たものは……
 倒れているルーと夢幻、そしてその向こうに赤い髪のクレアが立っている。
 そして更にその向こう側に、レアンがいた。
「でん……!!」
 倒れているルーに走り寄った者は多かったが、その先頭にいたのはマイヤだ。
 そして、マイヤが抱き起こしたルーを金髪のクレアは覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……クレアを……助けて……」
 力尽きた様子のルーが、どうにか搾り出した言葉はそれ一つ。
「クレアを……?」
 顔を上げ、赤毛のクレアの顔を見る。
 ふと、ぞくりとした。
 『それ』はクレアではないような気がして。
 そして、赤い髪の娘は口を開ける。
『ようこそ……我が間へ。我のある場所が夢の中心にして、王の居所』
 ざわりと空気がざわめく。
「……少し遅かったみたいね」
 エリスの呟きは、隣にいたゼロだけが聞いたが……そこにいるのがもうあの明るく笑う娘ではないことは……そのとき、その場の誰もが悟っていた。
 遠くのレアンの声が、奇妙に響く。
「いや……四つ目の鐘の鳴る前なら、まだ戻せるかもしれないがね……試してみるといい」

 それを見届けたなら、もう彼の目的は達成されたのかもしれなかった。
 だが、去ることは許さない。
 そういう者たちがまず、レアンの元に飛び込んでいく。
「待って……!!」
 リディの叫びも空しく、シーネとリーネの兄妹がレアンの元に駆けていった。
 だが、振り返りざまにレアンはこともなげにサーベルを抜き放つ。
 その切先がシーネに向いたのと、スカーレット・フィーの炎が弾けるのとは同時だった。
 その炎がどこに向いていたのか……それは確かにレアンに向いていたはずだったのに。スカーレット・フィーは、その主より早くそれを悟った。自分の力の行く先がねじ曲げられたことを。
「きゃー……!!」
 その悲鳴は断末魔にも近かった。普通の炎ならば、なにするものでもない。だが、自らの全力の、そしてアークシェイルという水鏡で歪められた炎は、スカーレット・フィーを焼いた。……主の身代わりを、炎の妖精が望んだからだ。
「フィー!」
 ぽとりと落ちたフィーを、シーネは拾い上げる……
「気にいらんー!!」
 それを飛び越すように、レアンに飛びかかったのは空牙だった。
「我が名は空牙!! 貴様の記憶に刻み込んでおけ!!」
 そのリエラBIG BOSSを身に纏い、やはり迷わず殴りかかろうとする。
「……憶えていられたらな」
 レアンはすっとサーベルを振るう。そして、今度はキラキラと輝く水滴がその軌道に飛び散った……それは、空牙を待ち構えている。
 そんな戦いを、リディは悲しく見つめるしかなかった。
「やめて……やめて……どうしてこんなことをしなくちゃならないんですか……!」
 その声は、戦いの中に届かないかもしれない。だがその戦いへの空しさの気持ちだけは、リディのニャーを通して、伝わっているはずなのに。
 男たちは、やはり戦っている。
「下がっているんだ」
 そこで、アルカードがリディを後ろに下げた。
 アルカードも他の者も話をする時間があればと思っていたし、すぐさまに攻撃に入らなければそれは叶ったかもしれなかったが……仲間たちがそれを許さなかったのならば仕方がない。今更ここで話もないだろう。
 隣の八重花もデスサイズを呼び出している。
 アルカードは、叶うか否か……自分のリエラ、戦鬼ラゴージュを強く念じて呼び出した。それは、いつにない大きさで……本来戦鬼ラゴージュは室内で呼び出せる大きさではない。だが、意志の力の支配する、この世界でならば……
 交信段階が上がるとき、いつにない輝きがアルカードの目に映る。白く凍る珠が、アルカードの前に浮かび上がり……そして落ちた。
 弾けた珠のその場所に、人よりも一回り程大きなだけの戦鬼ラゴージュは現われる。
 視界の隅で、それを認めたのか。レアンは、わずかに目を細めた。
 自ら望んだことながら、アルカードも驚きに目を奪われていた。
 そして一方、空牙の前にはカズホが立ちはだかっていた。
「どけー!」
 空牙は苛ついたように、雄叫びをあげる。
 カズホはレアンに味方しようというのだ。ただ生身の攻撃なので、リエラを纏う空牙にはまったくと言っていいほど何も効果はない。空牙にしてみれば、ただ前にいて、邪魔なだけだった。
「なにをしてるんだ……!」
 そこに、ウィルも参戦する。自分がレアンにかなうとは思っていなかったが、戦わなくてはならないと思っていた。
「私はできる限り、私の知り合いが傷つくのを避けたいの!」
 カズホは叫ぶ。だが、ウィルには馬鹿なことを言っているとしか思えなかった。



「何を見てそんなことを言ってるんだ!? ルーを見たか……? クレアを見たか!? 誰があんなことにした!?」
 そして、小夜もカズホの間違いを悲しむように訴える。
「そうです! 仮に皆を傷つけたくないのだとしても……あなたのやり方は間違ってるっ」
 同じ時、アルカードの後ろにすっと近づく者がいた。覆面をしている。無関係の者がいるわけはないから、おそらくは生徒であろうが……
 覆面の男……アーレスは爆竹を鳴らした。さすがに音には驚いたが、アルカードとて手練の者、アーレスの振り下ろした木刀は刀で弾き飛ばす。
「運命を変えるって何なんだ? 何を変えるか知らないが……俺の友達を二人犠牲にして変えるものなんか認めないっ!!」
 ウィルも生身のまま、カズホに突っ込んでいく。そしてカズホもウィルを迎え撃とうとしていた。
 ……レアンに味方しようという生徒の存在が、現状を乱し、レアンに余裕を与えた。
 そうだ。ほんのわずかの余裕でいい。
 ……レアンのサーベルが形を変えた。
 白い珠に。
 そして……

「クレアちゃん……! 正気に返って!!」
 竜華が泣き叫ぶように訴える。
 虚ろな目をしたクレア……否、リジャーゼ・ストラウブは、それを冷ややかに見つめていた。
 マイヤは既に看護できる者と共にルーをこの部屋から運び出し、脱出の方法を求めている。
「クレアさん……」
 同じ名を持つ赤毛の少女に、クレアはゆっくりと近づいていった。その手にはかつて離れた時に残された彼女のストール。
「これを返しに来たの。あなたのストール」
 ウィリアのリエラ、フィアの歌が哀切な響きで耳をくすぐる。
「思い出して……」
 その時、わずかに少女の顔は歪んだ。
 まだ完全に取り込まれてはいないのかもしれない……
 そう、思った時。

 レアンの手から、白い珠は落ちた。
 その場に飛び込んだエリスとゼロにも、それは止めることができなかった。

 地響きが生徒たちの動きを奪う。
 今度はその書庫をずたずたに引き裂いて、またしても奈落へと生徒たちを振り落としていく。
「きゃーっ!!」
 金髪のクレアも、その手にストールを持ったまま、奈落へと落ちていくのかと思われたが……
「クレア……さん……」
 何もない中空に浮かぶように立っているリジャーゼ・ストラウブ……否、今はきっとクレアが、金髪のクレアの手を握って支えている。何もない中空に立つ赤毛のクレアに、手品のように金髪のクレアはぶら下がっていた。
「……呼びかけるんだ!!」
 もっと強く! 壁に貼り付くようにして、ぎりぎりで難を逃れたウィリアが促す。
「クレアさん! せめて、このストールを受け取って……!!」
 金髪のクレアは、もう片方の手を伸ばした。
「だ……め……」
 その手に、頬に、雫が落ちてくる……



- 変わりゆく運命 -

 破壊と混乱の中に、レアンは姿を消した……と思われた。
 追いかけてくる者は誰一人いまいと、レアン自身も思っていただろう。
 そう、だが、この幻には本来の姿があるのだ。『図書館』という。惑わされることがなければ、それを正しく辿ることは不可能ではない。
「こっちよ……!」
 混乱に入った瞬間に、ロキは手を引かれた。そのままほんの数歩歩いただけで、一瞬前の混乱した光景が消え失せる。『王の間』の幻の中から抜け出したのだ……
 それは、次元さえわずかに違っているのだろうか、いたはずの生徒たちの姿すら近くにはない。
 ロキの手を引いたのは、幻に惑わされることのなかった年上の幼馴染み。
 そしてレジーラは書庫を出ていこうとしていた人影を示した。
「待て……!」
「ディー!」
 元々頼んでいた通りに、レアンの元へ。レジーラのリエラ、ディーは二人を持ち上げ、レアンを飛び越えるようにその前へと下ろす。
 レアンも、わずかに驚いたようだ。
「これは……驚いた。あの中から抜け出して来られるとは」
 今ここに自分を追ってこられるのならば、油断するべき相手ではない……そう思ったのか、レアンは腰のサーベルに手をかける。
「お前が皇室を恨もうがどうしようが、俺の知ったことじゃない」
 だが、その出鼻はロキの言葉に挫かれたようだった。敵か味方かを窺うように、レアンは目を細める。
「何故こんなことをしたのか……このアルメイスの意味に抗おうというのか?」
 ロキの問いかけに、ふっとレアンは笑みを漏らした。
「戦いにあって、己の身を研鑽してこそ、我らは真のフューリアに近づく。フューリアは、実践なしに完成されない」
「……」
「フューリアは人の手で造られるものでなく、そして造るべきものでないということだ。アルメイスは……否、帝国はそれをわかっていない。いや……」
 わかっていてなお、禁忌さえも犯そうというのかもしれないが……そう呟く。かすかな怒りと共に。
「それと今回のことと、どんな関係がある?」
「フューリアのあるべき姿を見せてもらおうというだけだ。リジャーゼ・ストラウブは元々魔術によって人と融合したリエラ。しかも、元に融合したのはフューリアではなかった……と聞く。あの娘には相応しいだろう」
「どういうことだ……?」
 問い返すロキに、ただ、ふっとレアンは笑みで答えた。
「あの娘にリジャーゼ・ストラウブを受け入れることが叶うなら、帝国に膝を折ってもかまわんよ」
 ただそんなことはありえないという響きが、言外に感じられる。
「そんな……目的のために誰かを犠牲にしてもいいって言うのなら……あなたはあなたを苦しめたものと同じ、運命の加害者でしかないわ!!」
 込み上げる怒りを抑えきれないかとでも言うように、レジーラは突然レアンに詰め寄った。さすがにむっとした顔を閃かせ、レアンはその突きつけられた手を取る。
「帝国と同じものだと……?」
「……手を離せ!!」
 その逆鱗に触れたのかもしれないと思わせるような眼で見据えるレアンから、引き裂くように力任せでロキは幼馴染みを引き離した。
 元々静かながら一触即発だった空間は、一気に緊張が高まった。レアンはサーベルを抜き放ち、ロキはハティを呼び出す。
 戦いには、きっかけだけが必要だった。
 その間合いを保ちながら、扉を吹きとばさん勢いで雪崩るように二人は廊下へと出ていく。
「ロキ……!」
 レジーラもそれを追うが、既に迂闊に近づける空間ではない。
 崩壊と静寂の幻の境目も、もうじき戻ろうとしていた……

 涙が、落ちる。
 そのクレアの後ろに影が見えた。
 そうフランが告げる。そう言われると、他の生徒たちにも次々とその影は見え始めた。
「今だ……!」
 幻とはイメージの産物。
 そして夢の王の封印とは、その『夢の王』というイメージへ異なるイメージを上書きするに過ぎないのだとシュナイダーはこの部屋に入る前、封印に携わろうと言う者たちに告げていた。
「でも……駄目です、この崩壊の中では……」
 だが、この崩壊の中で集中することは叶うまいと誰にも思われた。封印担当のフラン隊は出口の扉の外にいて多くは災禍を免れていたのだが、中に入れなければ封印を行なうことはどうにも不安がある。この図書館だけではなく、クレアに融合した部分も合わせて封じなければならないからだ。
「……私……やってみます……!」
「え、何!?」
「この幻を殴りますっ」
 ルーネが叫んだ。
「フリッケライーっ!!」
 どんっ……
 誰もが何か地響きのような物を感じて……気がつくと、もといた場所に立っている。
 姿を消していたのは、レアンと……わずかの生徒だけだ。
「クレアさん……!」
「封印を……レディ・フラン! 皆さん!」
 意志の力を禁忌の書に集めるのだと、シュナイダーは呼びかける。
「あ……ぐ……」
 赤毛のクレアの顔が歪み、そして再び夢の王はその支配を取り戻そうとしているように思われた。
「早く……!」
 そこに、ひらりと紙が舞う。
『縛!』
 その一字が、ふっとクレアの背後の影へと縫いとめられる。
 それはウェインのリエラ、けしごむの力だ。
 バ・ルクとマヤがウェインに事情を理解させ、そして何をしようとしていたかを納得させるのに間に合ったのである。保護者が共にいないと能力を使うのは微妙に不安なウェインであるが、いさえすれば……
 クレア共々に、影は動きを止める。だが……
「クレアさん……!」
 金髪のクレアがその手を引くと、赤毛のクレアだけは一歩前へと出た。
 背中にいた、影だけを残して……
「レディ・フラン、禁忌の書を!」
 フランは禁忌の書を開く。
 『夢の王』とはその中の一ページ……少し開けた余白の部分の挿絵であると、その場の誰もが念じるようシュナイダーは告げる。
 意志の力が、夢の王を支えている。
 ならば、もっと強く、もっと多くの意志の力を……

 四つ目の鐘が鳴る。
 夢の終わりが訪れようとしていた。

「ここから先は通せねぇな」
「まだいたか……」
「借りを返しに来たんだ」
 ゆういちは、レアンの前に立ち塞がった。
 正面から見たレアンには、疲れの色がにじんでいる。
「……悪いが、鐘が鳴っているのでね。遊んでやっている暇はない」
「そんなこたぁ、俺は知らないね」
「聞き分けが悪いと、寿命を縮めるぞ。今は手加減してやれる程、余裕がない」
 それぞれに籠手と、サーベルを掲げる。
 鐘はまだ鳴っている……

 影が禁忌の書に吸い込まれていく……
 そして、挿絵は描かれていった。
 それが、この世界の崩壊の合図。
「……力を貸して」
 バ・ルクを呼んだのは、エリスだった。
「何よ?」
「……壊すの」
 この空間そのものを破壊して、脱出路を造ろうと言うのだ。やることは前に出る時にしたことと、大きくは変わらないが……
「ここ、中心でしょ……?」
 前は壁の薄いところだった。今は中心にいる。
「大丈夫よ……支える力がもうないから、脆い。これはもう、残像でしかないから……でも取り残される人が出るとまずいから、分かり易く大きく引き裂くの。手伝って」
「……大丈夫なの? 空間に挟まれてぺしゃんこ……とかいうことは……?」
「……」
 エリスは黙っている。
 バ・ルクとしては、どう答えていいものかと頭を悩ませることになった。
「いや、あの」
「大丈夫だと思うわ」
 あとは、まだ図書館に散らばる者たちに外へ向かうようにと叶う限り連絡を……と。
 それは、ミハイルの仕事であるようだった。

「ざまぁねぇな……」
 鐘の鳴る音が遠くなりつつあった。
 ゆういちが戦っている間に、天井が吹っ飛んだ。それは空間が裂けるというには、あまりにも派手な形だ。もう、この空間そのものが、自らの力では維持できなくなりつつあるのだろう。
 だが、ゆういちにも、もう立ち上がって、あの裂けた空間から逃走する力がない。このまま崩れゆく空間と共に、朽ちるのかもしれない気がする。
「諦めるのは、まだ早いだろ」
 それを十夜が覗き込んだ。
 落ちてきた影に驚き、そして投げられた煙草とライターを見た。
「約束だったからな……やるよ。逃げられたか」
「……ああ。向こうも手負いだったってのにな」
 十夜はゆういちの半身を起こさせる。
 もたもたしている暇はないというのに、奇妙にのんびりと二人は煙草に火をつけた。
「……何してるんだ。逃げないのか」
 レアンが来た方向から、声がした。
 最初には一人かと思ったが、もう一人抱きかかえている。
 そこまで歩いてきたロキは苦笑いして、その場でハティを呼び出した。ロキ自身もどこか、ぎこちない動きで……無傷ではないようだった。
「さすがに、あそこまで行くのはちょっとな……支えれば、歩けるか?」
 そう言って、現実が垣間見える空間の裂け目を見上げる。向こうまで行けないからと、ここに近道を造ろうというらしい。
 どうにか、とゆういちは手を上げた。



- 夢の終わりに -

「焦り過ぎよ」
「は……しかし」
 マイヤが学園長に一言であれ口答えするのは、珍しいことだろう。
 だが、きっとした眼に咎められ、マイヤはすぐさまそれを後悔した。
「申し訳ございません」
「気をつけなさい。誰が見ているか、わからないわ」
「心しておきます……殿下」
「あれは、大丈夫……」

「もう大丈夫?」
 心配そうに訊ねる竜華にクレアはいつもの満面の笑みで、にっこりと笑い返した。
「ありがと、心配してくれてー!」
 こんないつもと同じ様子で、クレアは相変わらず色々な人に抱きついていた。
 その隣には、ルーがいる。
 何も、何一つ、以前と変わらぬかのように見えていた……