我らが子と、時の迷い子

 虹色に輝く不思議な猫。最初にそれが目撃されたのは、時計塔前広場だった。噂が噂を呼び、貴族連合が高い懸賞金をかけて猫を捕獲しようと動き出すと、学園の話題は「虹色の猫」一色になった。
 そんな中、沈んだ顔をしたレダが訴えかける。「猫を探さないで!」と。

 虹色の猫発見から13日目……


- レダの秘密の隠れ家 -

「…で、人数配分はどうするの? 作戦は?」
 レダの秘密の隠れ家。剥げた絨毯の上に腰を下ろした一同は、頭を付き合わせるようにして作戦会議を始めていた。
「猫を探すのだろ? 猫を呼んだフューリアを見つけるのだろ? 『高天の儀』の準備だろ? ま、三つってとこだな」
 キックスが指折り数えて、面倒臭そうに後ろ手で頭を抱える。
「俺は顔も分からない誰かを探すとか、儀式とか、そーいうのは遠慮したいところだな」
「相変わらずの不精者ね〜」
 ネイが1つ溜め息をつき、やれやれと首を横に振る。
「取り合えず、このバカはほっといて…皆さん、どうします?」
「その虹色の猫、…リエラは、自分を呼んだフューリアと引き合わせてやらないと、素直に帰ってくれないんだろ? なら、まずそのフューリアを探すのが第一だと思うな」
 最初に口火を切ったのはシュナイダーだった。幾人かの生徒がそれに頷く。
「だけど、探すにしても何か手かかりがないと…。役所に行って、戸籍謄本を借りられれば少しは手かかりになると思うんですけど…」
 眼鏡の少女、エルフィーネが思慮深げに提案し、先を続けた。
「戸籍謄本を借り出すのって、使用目的とか、使用方法を明確にして申請しても、審査にすごい時間がかかるって話ですし…」
「そうだな…、戸籍謄本は任せてくれ。一応、心当たりがある」
「えっ、本当ですか?」
 シュナイダーの言葉にエルフィーネが驚きの声を上げる。シュナイダーはエルフィーネに向かって、重々しく頷いてみせた。
「戸籍謄本が何とかなるのなら、後は学園関係者の卒業後の行方だよね。僕が学生課に行って、ちょっと調べてこようか?」
 年の割に小柄な少年、イルファラが気軽な声を上げる。
「でも、そんなに簡単に見せてくれないような気がするな〜。マイヤ会長だったら、歴代の双樹会名簿とか持ってそうだし、事情を話して協力してもらった方がいいんじゃないかな〜?」
「ちょっと待ってくれよ、先輩。これ以上関係者増やすのかよ?」
 さっちゃんの言葉に、キックスが渋面を作って口を挟む。
「私は賛成。『高天の儀』とかやる訳だし、結構大事になりそうだから、会長には予め事情を話しておいた方がいいんじゃないの? 後から呼び出されて問い詰められるより気が楽だし」
「いや、でもよー…」
 なおも食い下がるキックスに、ネイが呆れたように付け加える。
「会長いい服着てるし、見るからにお金持ちそうだもんね。……アンタの金持ち嫌いも、ホント病気よね」
「チッ、うるせーな。そんなんじゃねーよ」
「ハイハイ。…で、他に反論ある人は?」
 短く吐き捨ててソッポを向いてしまったキックスを尻目に、ネイはぐるっと周囲を見渡す。キックス以外に誰も反論する者はいない。
「じゃ、決まりね。先輩、面倒な仕事だけど、お任せできますか?」
 ネイの言葉にさっちゃんは元気よく頷いた。
「了解〜〜!」
「じゃあ、次は猫か」
 フューリア捜索の話が一通り落ち着いたのを確認すると、集まった学生たちの中でも最年長組のレオンが重々しく続けた。
「アドリアン・ランカークのこともある。いま最も妨害される可能性があるのが、猫の捕獲に関してだ。…故に俺達も、猫の捕獲に全力を尽くす。…それが妥当な判断だと俺は思うが」
 レオンの言葉に集まった全員が頷き返す。
 何せ100,000(S)の報酬だ。普通に仕送りだけで生活している学生なら1年半の生活費になる。
 単にその金で贅沢したい者もいれば、学費の、あるいは生活費の足しにして、親元の生活を少しでも楽にしようと考えている苦労人、……数え上げればきりのない人々が猫を狙っていることだろう。
 だが、理由がどうあれ、それを阻止しつつ猫を捕獲しなければならない。
「直接追うのもいいですが、猫の通り道に罠を仕かけておくのもいいかも知れませんね。 幸いにも私はこういった罠を作るのが得意ですから」
「そうですね。罠を作っておけば、待つのも追い込むのも、都合がいいと思うのです」
 エファードの言葉にハーレーが賛同する。
 が、幾人の学生からリエラに対して普通の猫と同じような罠で有効性があるのか、というもっともな意見や、そもそも罠で捕獲しようとして怪我させたら可哀相だ、という非常に感情的な意見まで飛び出し、部屋に雑然とした空気が流れつつあった。
 一旦本義から外れかけた会議を本来の流れに引き戻したのは、窓際に立って情勢を見守っていたレアルである。
「罠を仕かける、仕かけない。どちらにしろ、明日以降になると思いますよ。……外を見て下さい。雨です」
 そういってレアルが窓の外に注意を促すと、……確かに、窓の外は小雨が降っていた。
「猫は雨を嫌います。多分、あのリエラも実体化しているのだから、体毛が濡れるのを好まないのではないでしょうか?」
「どちらにしろ、猫に関する情報が少なすぎると思います。雨が止むまでは情報収集を行って行動範囲を特定し、晴れたら追いかける方が効率的だと思います」
 レアルの意見は確かにもっともだった。この広い学園都市の中、一匹の猫を探し出す難しさは想像を絶するものがある。
 やみくもに探すよりは、まず行動範囲を絞ることの方が先決なのは間違いなかった。
「と、なると、残ったのは『高天の儀』か……」
 キックスが呟き、そして、なぜか重い沈黙が瞬間的に部屋を支配した。誰も何も言おうとしない。
「あ、あの…」
 雰囲気に気圧されながらも、小柄で儚げな印象を与える線の細い少年、マドカがおずおずと小さな声を上げた。
「ボク、『高天の儀』は学科で教わっただけで、実際にやったことはないんですが……。実際にはどうなんでしょうか…?」
 マドカの問いに答える者はいない。それもそのはず、誰もマドカと同じく『高天の儀』を行ったことがないからだった。
 そもそも『高天の儀』は、フューリアの力を介さずこの世界に実体化し、制御の効かないリエラを本来の居場所に強制的に送還する為の儀式、という性質上、滅多なことで行われるものではない。
 最後に『高天の儀』が行われたのはいつなのか知らないが、少なくとも今在籍している生徒で実際に『高天の儀』を行った者はいないはずである。
 あるのは、マドカと同じく学科で教えられた知識だけだった。
「あの…、ひょっとして皆さん…」
「同じみたい」
 不安げなマドカの声に、ネイが首をすくめる。
「還すべきものを六芒星に修め、各々宿星を踏み、六つの灯火を掲げ天界への門を開くべし」
「つまり、この場合リエラの周囲を六人で六芒星を描くように囲んで、全員でリエラを実体化させるのと、全く逆のことをすればいいんでしょ? やり方は分かってるんだけどね〜」
「あの、だったらちゃんと調べておいた方がいいですよね? ボク、図書館で正しい手順を調べてきます」
「じゃ、『高天の儀』に関しては、それを待ってからだな……」
 キックスら集まった生徒たちは、それぞれフューリアを捜索する班、猫を捕獲する班、そしてマドカが『高天の儀』に関する資料を調べ終えたら、儀式の準備と決行を行う、あるいはサポートする班の三班に分かれ、大体話が纏まりつつあった。
「あの〜。ところでぇ〜」
 作戦会議も終わりかけた頃、今までずっと黙って話を聞いていたパルミィが、その独特の舌足らずな口調で1つの提案をしてきた。
「パルミィ、思うんですけどぉ。みんなバラバラに動くんでしたらぁ、ちゃんと連絡網を組んでおいた方がいいと思うんですの。だって〜、猫ちゃんを捕まえた時とかぁ、猫ちゃんを呼んだ子を見つけた時とかぁ、やっぱりすぐにみんなに伝わった方が、ずっと、ず〜っと効率的だと思うんですの☆」
 にっこりと笑みを浮かべるパルミィに、キックスが難しい顔をしながら首を横に振った。
「…ワリィけど、俺はあんまり乗り気がしないな」
 キックスの言葉に、誰も反対もしないし、賛成もしない。
 確かに、パルミィの提案通り情報伝達部隊を作れば、無駄な時間や手間が減って各班の動きは良くなるかもしれない。が、連絡網を作って変に組織化するのはどうかな?と考えている人間が多いこともまた事実だった。
 別にアドリアン・ランカークが提示した様な、何か報酬があって集まった訳でもないし、強要されて集まった訳でもない。加えて、集まった人間全部と顔見知りな訳でもない。
 別に作ること自体に反対はしないが、できるなら気の合う連中と自由に動きたい、という思いが各人にあったのかも知れない。
「みんなが気乗りしないならぁ〜、必要だと思った時に作ればいいんですの」
 パルミィは素早くその「何となく」の空気を読むと、驚くほどあっさりと自分の提案を引っ込めた。
 ここで無理をする必要はない。種を蒔いておいたのだから、後は時がくれば誰かが水をやり、芽吹かしてくれるだろう。自分から世話係を買って出るつもりなど、パルミィにはさらさらなかったのだから、今はこれで充分なのだ。
「じゃ、他に何もないなら解散……ってことでいいよな、レダ?」
 キックスは半目を開けて睡魔と戦っているレダの肩を掴み、ゆさゆさと軽く揺すった。
「あ、…う、う〜ん」
 キックスに揺さぶられて、辛うじて意識を取り戻したレダは、何が何だか分からない様子で目をパチクリさせた後、集まった生徒に深々と頭を下げた。
「みんなありがとう。なんか、はなしがむずかしくなっちゃって、途中でねむたくなっちゃって、…と、ゴメンね……」
 まだ眠気が抜けきらないのか、多少呂律の回らない感じでレダがしどろもどろする。
 レダの様子を見かねたシャーリーがそっとレダの傍に近寄ると、話の経緯を掻い摘んでレダにも分かるように優しく噛み砕いて説明したのだった。

 それから暫くして作戦会議は終わり、猫捕獲は奇しくもランカーク側捕獲部隊と同じく、次に晴れた日に決行されることが決定された。
 そして小雨が降りしきる中、ある者は図書館へ。ある者は学園へ。そしてある者は自治区へと、各人思い思いのまま解散していったのである……。



- 学園都市アルメイス 学園校舎施設 -

 当たり前の話であるが、「虹色の猫」の騒動とは何の関係もなく授業というものは行われる。
 アドリアン・ランカークの話に乗った生徒も、あるいはレダの隠れ家を訪れた生徒も、いつものように授業を受け、いつものように午後の模擬戦をこなしていった。
 そのいつもと何も変わらない学生生活の中で、日常とは決定的に違う何かが確実に動いていた。
 それは、「情報」という名の無形のエネルギーである。
 情報は水が高きから低きへ流れるように、まるでそれ自体が意思を持っているかのように、ランカーク側からレダに協力を申し出た側へ一方的に流れ続けていた。
 ランカーク側の計画、人員、配置……、全てがまるでザルのように、レダ側に筒抜けだったのである。
 主な情報提供者は、フィルシィ、サァド、ハロルドらで、彼らは自分が所属するグループのメンバーや、レダ側の主だった面々に逐一情報を知らせ、ランカーク側の猫捕獲計画を阻止すべく暗躍していたのだ。
 これによって、レダ側の主だった面々はマリーの具体的作戦の指示を知ることとなり、レアルが危惧した猫に関する情報の不足は、少なくとも捕獲するだけなら充分となったのである。

…………
……

 しかし、なぜそういう事態が起こったのか。

 やはり、アドリアン・ランカークが巨額の報酬を提示したことで、学内の猫愛好家や好事家は勿論、一般生徒の反感を買ったことが考えられる。
 他にもその強引なやり口や、集まった学生たちをまるで自分の部下であるかのように命令口調で扱ったことなど、どこを切り取っても好意的に解釈することはできず、進んでアドリアン・ランカークに協力しようとする生徒はほとんどいないばかりか、その目論見を積極的に妨害しようとする対抗勢力を生み出してしまったのだろう。
 しかも、午後を過ぎる頃に「アドリアン・ランカークは提示した金額を払うつもりがなく、何かと難癖を付けて誤魔化してしまう腹だ」、という趣旨の噂が学園に流布すると、周囲の生徒の非協力的な態度はいよいよ決定的なものとなり、報酬目当てで猫を捕獲しようと考えていた者さえもこの件から降りることとなってしまった。
 その結果、興味半分で個人的に猫を捕まえてみたい者がわずかに残っただけで、誰1人アドリアン・ランカークに組する者はいなくなってしまったのである。

 作戦の立案からわずか2刻。
 作戦決行日どころか1日を待たず、事実上、ランカーク側の猫捕獲作戦はこれ以上ないくらい惨めな失敗を被ったのだった。
 もっとも、アドリアン・ランカーク自身がその事実を認めるには、後数刻の猶予が必要だったのだが。



- 学園都市アルメイス 学生食堂 -

「虹色の猫……珍しい食材ですね」
 学生食堂の一角。窓側に近い席で遅い昼食をとっていたアルカードは、八重花の何気ない一言に思わず手にした食器を取り落としそうになった。
 前々から八重花が虹色の猫に対して並々ならぬ興味を抱いていたのを知っていたが、その目的を聞かされたのは今が初めてだった。
 猫を料理? まさか、いくらなんでもそれは……
「冗談だよな?」
「……伝え聞くところによれば…」
 笑顔で訪ねるアルカードとは対照的に、至って真面目な顔で八重花が答えを返す。
「昔は猫を主食にしていた人たちもいた……そうです……。それが虹色の猫であれば……」
 猫を主食にしていた、というのはどう考えても嘘だと直感したが、残念ながら今論ずべき内容はそこではない。
 アルカードは義妹のマーカラから聞かされていた虹色の猫の秘密、……端的にいってはぐれリエラであることを、慌てて八重花に説明した。
「…………」
「……リエラでも、実体化しているのなら……」
 なら、なんだというのだろう? 八重花の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
「おい、まさかリエラを……」
「……はぐれ、リエラ……。いなくなっても、誰も文句をいわないリエラ……」
 八重花はそれだけ呟くように言い残すと、まるで夢見るような足取りで学食から姿を消してしまった。

リエラを料理する。

 その余りに突飛な発想に、暫し呆然としていたアルカードだったが、八重花が学食から姿を消すと残った昼食を猛然と掻き込みだした。
 八重花と出会って2年ぐらい経つが、八重花がああなった時は道理が通用しないし、必ずそれを実行することを、これまでの経験でアルカードは学んでいた。
 アルカード自身、虹色の猫に対してさほど興味はなかったが、何とかして八重花の暴挙を食い止めなければならない。
 それが、その恐るべき企みを知ってしまった者の務めだった……



- 学園都市アルメイス 双樹会会長室 -

 午前の学科が終わり、午後の模擬戦まで時間が開いたさっちゃんは、打ち合わせ通り双樹会会長室、マイヤの元を訪れることにした。
「どうぞ、入って腰を下ろして下さい」
 双樹会といっても、そんなに格式ばったところではなく、会長の時間に都合がつけば誰でも気軽に会長室に足を運び、会長と面談することができる。
 たまたま今日は忙しくなかったのか、さっちゃんは待ち時間なしで会長室に通され、すんなりとマイヤに会うことができたのだった。
「お茶はどうですか? メオティーでも?」
 マイヤは手際よくティーセットを2つ用意すると、それにメオティーを注いでさっちゃんに勧めた。
「ありがとうございま〜す」
 さっちゃんがいつもの間延びした口調で礼をいい、メオティーに口をつける。ほんのりと上品な甘さを感じる、非常に口当たりがよいメオティーだった。
「それで、僕に用事とは……?」
 同じくメオティーに口を付けながら、マイヤがいつもと変わらぬ穏やかな表情で尋ねる。
 そして、さっちゃんはマイヤに促されるまま、今回の「虹色の猫」に関する一連の騒動を細かく、なるべく分かりやすく説明した。
 虹色の猫がリエラであること。
 虹色の猫を還すために『高天の儀』を行うこと。
 それに伴って、虹色の猫を呼び寄せたフューリアを探さなければならないこと。
 そのフューリアは学園の卒業生の子供である可能性が強いこと。
 そして、その為に双樹会名簿を借り出したいこと。
 じっとさっちゃんの説明に耳を傾けていたマイヤは、全てを聞き終えるとさっちゃんに再びメオティーを勧め席を外した。
 不安な時が流れる。1エスト…、2エスト……。
 暫くして、マイヤは分厚い本を片手に会長室に戻ってきた。
「お待たせしてすみません。これが、ここ10年分の学生名簿です」
 そういってマイヤは、さっちゃんにその分厚い本を差し出した。
「虹色の猫の件に関してですが、今から僕が何かするよりも、最初からこの件に関わっている方々に継続して動いてもらった方が効率的であるような気がします。無責任な話で申し訳ないのですが、双樹会としても可能な限りバックアップしますので、虹色の猫の件に関しては全てお任せしても宜しいでしょうか?」
「もっちろ〜ん」
 さっちゃんは胸をドンと1つ叩いて、マイヤから学生名簿を受け取った。
 これで、後はシュナイダーが戸籍謄本を調達してくれれば、本格的にフューリア捜索を開始することができし、『高天の儀』を行う際にも双樹会のバックアップが受けられる訳である。


 さっちゃんが退室した後、マイヤはある報告書を作成しようとして、作成途中でその手を止めた。
 暫しの逡巡。そして、その報告書を破り捨てる。
「どうしたの、マイヤ」
 部屋の隅から声がする。“千里眼”ジェルミーだ。
「君の見立てではどうです?」
「さぁ……。私は事実を事実として見ることしかできないから、言えることはただ1つ。あの猫がリエラでない、ということだけです。リエラには、多かれ少なかれ特徴があります。この世の存在ではない、という特徴が」
「それが、虹色の猫にはない、と」
 マイヤの言葉にジェルミーが頷く。
「まだ、生まれてないリエラ。言葉通りの意味なのか、それとも含むところがあるのか……」
「それで報告を先延ばしにするの…? マイヤらしい、勝手な判断よね」
 ジェルミーの皮肉にマイヤは苦笑した。
「僕は前から言っているように、生徒の自主性を大切にしているだけですよ」



- 研究施設 蒸気機関研究室 -

 たまたまランカーク側の猫捕獲作戦の説明に居合わせたランディスから、今回ランカーク側の猫捕獲作戦の陣頭指揮をマリーがとっていることを知ったロキは、親友のゼロを「ちょっと頼みがある……」といって連れ出すと、一緒にマリーが住み込んでいる蒸気機関研究室を訪れることにした。
 ただでさえ雑然とした雰囲気が漂う蒸気機関研究室だが、数ヵ月後に控えた“鉄の都”ハイヤードで開催される技術大祭に向けての追い込みからか、研究室内は人跡未踏の魔境と化していた。
 研究室の床一面に、踏んでもいいのかどうか判断に悩む配管の束や、ボルトにナット。レンチやクランクといった作業用器具が散乱し、周囲には嗅ぎ慣れない機械油の臭いが充満していた。
「なぁ、ロキ。思うんだが……全くの素人が、この研究室を歩くのは無理がないか?」
 ゼロがその散乱ぶりに辟易としながら溜め息をついた。
「まぁ、そう悲観するものでもないだろう。研究員が通れて、俺たちが通れないということもないだろう」
「いや、だから慣れってもんが……」
 この惨状を全く気に解さないロキの態度に呆れつつ、ゼロが歩を進めたその時、ロキの傍の壁に立てかけてある未使用の鉄材の束がぐらりと揺れた。
「お、おい。危ないぞ、ロキ!」
 慌てて警告を発するゼロ。しかし鉄材の束は、なぜかロキではなくゼロの方に倒れかかってきた。
 床に転がっているレンチやナットが倒れる角度を微妙に変えてしまったのだろう。
 咄嗟にゼロは息を止め筋肉を硬直させると、倒れてくる鉄材の束を両手でガッチリと受け止めた。
 が、重い…!
 鉄材の束は想像を絶する重量でゼロに圧しかかり、その身を押しつぶさんともの凄い圧力をかける。
「う、ぐ、…くっ……!」
 重みに負けて片膝を付いたゼロは、鉄材を横に押し流して身を投げ出した。
 鉄材が床を打ちつける、もの凄い音が研究室に響き渡る。
 すんでのところで配管の下敷きになりかけたゼロは、痛む腕を押さえながらヨロヨロと立ち上がった。
「災難だったな、ゼロ」
 その一部始終を見守っていたロキが、事も無げにさらりと流す。
「だが幸いにも、この音で誰か駆けつけて来るかも知れない」
「これだけ派手な音を立てて誰もこなかったら問題だな、確かに」
 ゼロは不運を愚痴りながら、足元の倒れた鉄材を軽く蹴り飛ばした。と、その鉄材が倒れかかっていた床の配管がミシリと嫌な音を立てて潰れ、熱い蒸気が猛然と吹き上がり、ゼロは呻き声を上げながらその蒸気に晒された足を引き抜いた。
 軽い火傷ぐらい負ったかも知れない。正しく踏んだり蹴ったりだ。
「……何をしているんだ、ゼロ?」
 ロキが怪訝な顔をしてゼロを見る。
「いや、いい。ほっといてくれ」
 ゼロが疲れたように手を上げてロキを制す。すると、その背後から少女の声が聞こえてきた。
「……そこで、何してるの?」
 物音を聞きつけてやってきたのは、白衣の少女、マリーだった。

「………なるほどね。話は大体分かったわ」
 研究所の片隅。研究員用に割り当てられた小部屋の一室、マリーの部屋へ招待されたロキとゼロは、レダから聞いた情報を細大漏らさずマリーに話し、その上でランカーク側へ協力することを止めるよう持ちかけたのである。
 ロキの考えによれば、マリーは研究費より何より、この馬鹿騒ぎの収拾をつける為に猫探しの陣頭指揮に上がった公算が強く、まして虹色の猫の正体がリエラと知れれば、それをアドリアン・ランカークに渡すとも思えない。
 今回の猫の件に関するアドリアン・ランカークの悪評は誰の耳にも届くところとなり、マリーが統制を取らなくても、そもそもアドリアン・ランカークに味方する生徒はほとんどいなくなったと推測される。つまり、マリーがランカーク側に肩入れする理由は非常に希薄になった、ということだった。
 ロキは言外にそのことをさり気なく匂わせつつ、充分な勝算をもってマリーの説得にあたったのである。
 そして、最後に一言だけ付け加えた。
「俺はスポンサーにはなれないが、事件が無事に解決したら君の実験の助手でも何でもやってやるさ。一応それなりには役に立つと思うが…嫌か?」
「嫌か、って言われても、そりゃ悪い気はしないけど……」
 ロキの意外な申し出に、マリーがちょっと困った顔をしながら続けた。
「猫一匹捕まえるのに、リエラを出して暴れるような無茶な連中を減らしたかったのも事実。……でも、それ以上に、ハイヤードの技術大祭に向けて資金が欲しかったのも事実だし、前金でもらっているのも事実」
「どう? 期待外れでガッカリした?」
 予想を上回るマリーのさばさばした物言いに、今度はロキが言葉を詰まらせる番だった。
「それに契約は、猫を捕獲する人員を効率良く動かす指示をする、ことだけだから、協力を止めるも何も実はもうほとんど終わってたりするんだけど……」
「…………」
 マリーが人差し指を顎にあて、ちょっと目を閉じて考え込む。と、幾程もなくマリーは目を開けて、ポンと1つ手を叩いた。
「そうね。代わりに君が猫を探すのに付き合ってあげる、ってのはどう? わざわざ、こんなトコまで足を運んでくれた訳だし、私としてもレダの話に興味がわいてきたから……」



- 学園都市アルメイス 象牙の塔 -

「カレン! カレンはどこにいる?!!」
 自治区最大規模を誇る、豪奢な作りの貴族連合本部、象牙の塔。
 その一角にある私室から、カイルを退室させたアドリアン・ランカークは、大声でその従者の名前を呼んでいた。
 その呼び声に応じて、小柄な人影が暗がりの中から進み出る。
 それは黒髪、赤い瞳の少女。ランカーク家を守護する影の騎士、アークライト家の末裔の姿だった。
「そこに居たか、カレン!」
 アドリアン・ランカークが、語気も荒く少女に詰め寄る。
「何だ、あのカイルとかいうヤツは?! 何故あんなヤツを通した?」
「そのカイルという方、何かお気に触ることでも…?」
 アドリアン・ランカークは落ち着きなく床を歩きながら、苛立たしげな口調で先程の会見内容を再現した。
「ヤツはまず、開口一番こう切り出した。……ランカークさんがわざわざ下賎な奴等の相手をする事なんて無いですよ。雑用は僕が全部引き受けます。……まぁ、それはいい。それからヤツは、賞金目当てで持ってこられた猫を自分が処理しよう、と、こうだ」
 アドリアン・ランカークは、机の上に置かれた杯を手に取り唇を湿らせた。
「そして、その為にヤツは部屋を1つ用意しろ、と持ちかけてきた訳だ。たかが贋物の為に、何故私がそこまで手を回さねばならんのだ? ん? 贋物など、そうと知れた時に処分してしまえばよい。手早く、後腐れなく、痴れ者が二度と同じ真似ができないように、だ。その役を買って出ようというのであれば話は分かる。だが、ヤツは一体何を勘違いしているのだ? このような些事に巻き込まれるなど不愉快だ、不愉快極まりない!」
 激昂するアドリアン・ランカークとは対照的に、努めて平静な声でカレンが尋ねた。
「それで、…ランカーク様はどうお答えされたのでしょうか?」
「いかに下らぬ申し立てとはいえ、無下に扱えば不満が広がる。その場でサイクスを呼んで手配してやり、丁重に追い返してやったわ!」
「それは賢明なご判断かと思います。が……」
 カレンが続きを言い淀む。
「何だ? 問題があるのか?」
 アドリアン・ランカークのこめかみがピクリと痙攣する。
 カレンは、それが怒りの前触れであることは重々承知していたが、例え怒りを買うことが分かっていたとしても、先を促されて続けない訳にはいかない。
「あるいは遅きに失したかも知れません。現在、学内ではランカーク様に対する中傷、あらぬ噂が流布されており、多くの生徒が猫捕獲に対して批判的な態度を取っております」
「なん……だと……?」
 アドリアン・ランカークの表情が苛立ちから怒りに、一瞬にして変化する。
「中傷だの、流布だの、原因は何だ? カレニア・アークライト」
「原因は……、我が方の動きが性急すぎたかも知れない点、かと思われます」
「多額の賞金も、大々的な告知も、連中には突然すぎて正しく意図が理解できなかった、ということか。それとも、賞金の額が一般人の生活水準より高額すぎて、いらぬやっかみを買ったとでも?」
「あるいは……その両方が直接的でないにしろ、間接的に関与していたのかも知れません」
「蒙昧な輩とは、全くもって度し難いものだ」
 アドリアン・ランカークが苛立たしげに床を蹴る。
「……それで?」
 主格も目的格もハッキリしないアドリアン・ランカークの物言いに、カレンがどう答えてよいものか言葉を詰まらせた。
「それで、お前は何をしていたのだ? どうするつもりなのか?! と聞いている!」
 アドリアン・ランカークは、苛立ち紛れに手にした杯をカレンに投げつけた。
 杯はカレンの肩口に当たり、杯に満たされていた液体が、カレンの上着を真紅に染め上げる。
 どんなに屈辱的な扱いを受けようと、カレンはランカーク家に使える騎士。主君に逆らうことは絶対に許されない。
 主君の理不尽な怒りを前に、カレンは跪いてただ、ただ頭を垂れた。
「残余の時を待たず私の方で隊を組織し、いかなる手段をもってしても件の猫を奪取すべく、速やかに行動を開始いたします」
「当然のことだな。……では、行け!」
 アドリアン・ランカークの号令一下、カレニア・アークライトは音もなく再び闇の中に溶け込んだのだった。



- 学園都市アルメイス -

 時計塔がニ点鐘を告げる。
 それは通常学科の終了であり、同時に学生たちが自由に行動を開始できる時間が始まったことを表していた。

 そして、学生寮で、学園校舎施設で、図書館で、中央繁華街で。
 虹色の猫とは関係もなく、至るところで猫を巡る密かな戦いが展開されようとしていた。

 対抗する勢力は、いかなる目的からか構成員を総動員して猫を集める秘密結社ハジケの面々と、「虹色の猫」騒ぎで普通の猫が被害を受けるであろうことを良しとしない、要は猫好きの猫愛好家たちである。
 先にアドリアン・ランカークと交渉を済まし、猫管理用に自治区の一室を借り受けたカイルは、同時にネット発射型捕獲銃を借り、小金を使用して猫捕獲人を雇うと小雨の降りしきる学園都市に繰り出したのだ。
 その際、同じく猫の被害を憂い、猫好きの一般生徒を集めて猫捕獲を試みていたランディスと意気投合し、一緒に猫を集め始めたのである。
 一方、秘密結社ハジケの構成員は広報担当のエスの指揮の下、統制の取れた動きで猫捕獲作戦に携わっていた。
 ハジケ構成員が使用したのはマタタビに捕虫網。
 問答無用で捕獲できるネット発射型捕獲銃を装備したカイルらに比べて、幾分効率が悪いのは事実だったが、ハジケ側にはその不利を補って余りある兵力があった。
 雨の日の猫は、ほぼ間違いなく屋内か、雨の当たらない木の下、屋根の下、……そういう場所で暇を託っている。
 これに対してハジケがとったのは人海戦術、条件に合う場所をしらみ潰しに探していくローラー作戦であり、カイルとランディスがとったのは猫が集まりそうなポイントを重点的に捜索するピンポイント作戦だった。
 逆に言えば、ハジケに比べて人員的に劣るカイル、ランディスらにとって、とれる作戦はこれしかなかったという話もある。
 が、最大の誤算は、指揮をとるカイル、ランディスの両人に、余り猫が居そうな場所に心当たりがなかったことだろう。
 対して、ハジケ側の指揮をとるエスは屋外事情をよく熟知しており、単にローラーをかけるだけでなく、ちゃんと猫が集まりそうな場所を優先的に処理していたのが、最終的に集まった猫の数に差を見せるに至った。

 結局、捕獲した猫の中に虹色の猫は含まれなかったが、日が沈み門限である三点鐘を告げるまでに集めた猫の数は、カイル・ランディス側が24匹。エスらハジケ側が138匹となり、ハジケ側の圧勝に終わったのである……



- 学園都市アルメイス 象牙の塔 -

 カレンを猫捜索の任務に派遣した後、カレンに代わって受付を任されたサイクスから新たな来訪者が来たことを告げられたアドリアン・ランカークは、また、どうせ下らぬことを陳情しにきた輩であろう、と来訪者を即座に追い返そうとしたが、来訪者が秘密結社ハジケであることを知らされると、急に気を変えて奥の私室に通すように命じた。
 秘密結社ハジケといえば、先の料理大会の件で面識を持ち、一定の戦果を上げた協力者である。
 ちなみに、その後、象牙の塔を強襲して『レイアル・カッシュ』を台無しにした直接の原因でもあったが、レジーラの睡眠薬無差別散布によって意識を失っていたアドリアン・ランカークらにとって、それは記憶の範疇外のことであった。
 それはともかく、このタイミングでやってくるからには、下らぬ世辞を述べにきた訳でもあるまい。カレンを派遣したとはいえ、協力者は多い方が良いし、それが組織化された人間であれば尚好都合。
 秘密結社ハジケが協力を申し出てくるのであれば、ある程度の要求は甘受しよう。
 アドリアン・ランカークがそう腹積もりを決めた時、私室のドアが軽くノックされた。
「入りたまえ」
 その声に応じて姿を現したのは、幼さの中に厳しさを同居させる、年齢不相応に落ち着いた感じのする少年……スルトと、アドリアン・ランカークの趣味には全くそぐわない、大きく肩口の開いた制服を着た少女だった。
「ランカーク様には、ますますご健勝のこと。何よりと存じます」
「確か……スルト君だったな」
 そういってアドリアン・ランカークが手を差し出す。
 スルトは軽く手を交わしながら、静かな声で自分が秘密結社ハジケの代表として訪問したことを告げた。
「私とて、物を知らぬ訳ではない」
 アドリアン・ランカークはスルトと、そのお付きの少女に席を勧めると、机に置かれた呼び鈴を鳴らした。
 待つほどもなく姿を現した少女に、何か飲み物を人数分運ぶように命令する。少女が深々とお辞儀して部屋から姿を消すと、アドリアン・ランカークはスルトに向き直った。
「まるで計ったかのように、この時期、このタイミングで訪問するからには、ただの表敬訪問などではあるまい? 用件があるのならば早くした方がいい。何分、私は気が変わりやすい」
「さすがはランカーク様。全てお見通しでしたか」
 さして驚いた様子もなく、スルトが冷静な声で先を続ける。
「それでは率直に。……私どもは、学園の実質的な支配者であられるランカーク様のお手伝いをさせていただきたく参上しました」

…………
……

 着実に準備を進めるレダ側。
 密かに暗躍を始める秘密結社ハジケ。そして、それと結ぶアドリアン・ランカーク。
 思い思いに猫を追う生徒たち。

 かくして事態は大きな広がりを見せつつ、虹色の猫発見から14日目の朝を迎える……


 昨日から降り続く雨は、まだ止まなかった。



- 学園校舎施設 玄関口 -

「おっはよ〜、みんな〜!」
 一夜明けて、フューリア捜索班は前日に決めていた通り、早朝に学園校舎施設の玄関口に集合した。
 少し遅れてやってきたさっちゃんは、鞄からマイヤから借り受けた学生名簿を取り出すとそれを皆に見えるように掲げた。
「どう? ちゃんと、話をつけてきたよ〜」
「こっちも大丈夫だ」
 さっちゃんに続いて現れたシュナイダーは、同じく懐から戸籍名簿の写しを取り出してそれをエルフィーネに渡した。
「……本当に1日で…。でも、どうやって…?」
 エルフィーネが怪訝な顔でシュナイダーに尋ねる。
「いや、資料は友人の友人から拝借したんだ」
 本当は前日の内に役所の住民課に忍び込み、無断拝借した戸籍謄本を写したのだが、それはいわない方が花というものだろう。
「でも、ちょっと顔色が悪いですよ……?」
 シュナイダーの顔色をうかがいながら、ハイドラが心配気な顔でそう尋ねる。
 実際、夜中に役所に忍び込んで戸籍謄本を持ち出し、写しを取ってから、再び忍び込んで戸籍謄本を返却して、その足でここへ来たのだから疲れていない訳がない。
 が、シュナイダーは何でもない、と言葉少なげに答えるとハイドラから一歩身を引いた。
 エルフィーネがさっちゃんに戸籍謄本の写しを手渡し、さっちゃんは予め昨日リストアップしておいたメモの中から、今でもその住所に住んでいる人の名前と住所が一致するものに丸をつけ、フューリアの絞り込みを始めた。
 程無くしてその作業は完了し、さっちゃんはそのメモを写したものを各人に手渡す。
「じゃ、このメモにあるフューリアを片っ端から調べるってことで〜」
 そう、話を締め括ろうとしたさっちゃんを、シュナイダーが軽く制止する。
「まぁ、待ってくれ。子供を調べるのはいいが、いきなり、お子さんがフューリアかどうか調べさせて下さい、といっても不審がられるだろうし、ネコの話を持ち出しても信用してもらえるかどうか分からないんじゃないか? それに、一々全部説明していたらもの凄い手間になる」
「それは、……確かにそうだけど。でも、それじゃどうするの?」
 エルフィーネの問いに、シュナイダーは昨日から用意して置いた答えをさり気なく提示する。
「表向きの理由を作る、というのはどうだろう? 学究目的を掲げれば、学園の卒業生である子供の親の協力を得やすいはずだし、妨害するものもいないだろう」
「そうだな、学究目的は……『自然科学および統計学の自主研究課題』でどうだろう?」



- 学生寮 フィブリーフの部屋 -

 フィブリーフはベッドに腰かけながら、年季が入った愛用のヴァイオリンを取り出すとお気に入りの曲を弾き始めた。
 雨の日は気分が沈む。そんな時は、ヴァイオリンを弾いて気を紛らわせるに限る。
 静かに、そして優しい音色がその年経た楽器から生み出され、少しだけ開かれた窓、そして小雨の降る朝の中庭へと吸い込まれていった。
 ひとしきり曲を弾き終えたフィブリーフは、ほぅっと1つ溜め息をついた。
「アドリアン・ランカーク。強いけど、濁った音ですわね」
 正直、彼女は迷っている。虹色の猫を捕まえてアドリアン・ランカークに差し出す、そのことに加担するか、否か。
 アドリアン・ランカークが提示した報酬は確かに魅力的だったが、一方でその報酬が支払われるかどうか分からない側面があることも事実だった。
 フィブリーフは再びヴァイオリンを手に取ると、迷いを紛らわせるように演奏を再開した。
 高く、繊細な音色がヴァイオリンから溢れ、静かなぬくもりが部屋を満たす。フィブリーフは無心にヴァイオリンを弾き続けた。
 それから、どのくらい時間が経っただろう。
 微かな物音に気付いたフィブリーフは、演奏を中断して物音が聞こえた方へ目を向けた。
 換気の為に、少しだけ開けておいた窓。その窓の傍にちょこんと腰を下ろす猫の姿……
 それは、虹色の猫だった。
 虹色の猫は、まるでフィブリーフに演奏の続きを催促するように小さく顎をしゃくる。
「お前、わたくしの曲が分かるのね?」
 フィブリーフは虹色の猫に求められるまま、再びヴァイオリンの演奏を再開した。
 静かに響く、心地よい音色。音に合わせて、虹色の猫が軽やかに身体を揺らす。
 それは、まるでおとぎ話のように幻想的な光景だった。
 が、その静かな時間は長くは続かなかった。
 フィブリーフの部屋を強くノックする音が、この部屋に満ちる空気を台無しにしてしまった。
 多分、フィブリーフの演奏を耳障りに感じた隣人が苦情を言いに来たのだろう。
 その乱暴なノックの音に驚いた虹色の猫は、サッと姿を消してしまった。

 あれが、虹色の猫。100,000(S)の猫。
 だが、フィブリーフはそれを少しも惜しいとは思わなかった。

 いつの間にか、彼女の迷いは消えていた。



- 図書館 談話室 -

 その日、図書館に調べ物をしに出向いたのは、どうやらマドカ1人ではなかったようである。
 マドカが談話室を訪れた時、そこには既に先客がいた。
 図書館では顔馴染みのフランと、そのリエラ、イルズマリ。
 フランを囲むように腰を下ろしているミント・プレサージュ、そしてセリアとジェイドだった。
「あ、あの……、おはようございます。皆さん、どうされたんですか…?」
「やぁ、おはよう」
 ジェイドが気だるそうに挨拶を交わす。相変わらず、いつ見ても疲れているか、あるいは眠そうな声だ。
「何か調べ物ですか…?」
「……まぁな。『高天の儀』はマドカに任せてあるけど、俺はそもそも今回の事件そのものに興味があってな」
 ジェイドは軽くノビをすると、セリアとミントを顎でしゃくった。
「それを、イルに聞いてるトコ。ちなみに、セリアは俺と一緒にきたけど、ミントはイルの先客。もっとも、目的は同じみたいだけどな」
 そういって、ジェイドはマドカに席を勧める。マドカはジェイドの勧めに従って、ソファーに腰を下ろした。
 新たに加わったマドカを含め、5人が囲むテーブルの上には関係書物と思わしき、夥しい数の書物が積み上げられていた。
「あぁ、コレか?」
 マドカの物問いた気な視線に気付き、ジェイドが積み上げられた書物について注釈を入れる。
「リエラに関する文献と一緒に、『高天の儀』に関する本も探しといてやろうと思ったんだが、どれを持ってこればいいか分からなかったから、とりあえず片っ端から持ってきたんだ」
「それにしても凄い量ね〜。もう少し取捨選択ができなかったのかしら…」
 その関連書物の多さに、セリアが半ば呆れたような声を上げる。
「しょうがないだろ、俺は司書じゃないし。どれが必要で、どれが必要でないか、なんてちっとも分からなかったんだよ」
「この場合、司書というよりも伝承や伝奇、超自然に対する素養が、秘匿文献を選ぶ鍵となるのであるが…」
 セリアとジェイドの不毛なやり取りに釘を差すようにイルが口を挟む。
「それらの素養があれば、この中から本当に必要な文献を選ぶのは然程難しい作業足りえない」
「うゅ……、でもミントそんなの分からないですぅ…」
「私も、あんまり〜…」
「俺もパスだな」
「あ、あの…僕もちょっと……」
 イルの言葉に、一斉に4人が目を逸らす。その様子に、イルは重い溜め息をついた。
「いかに吾輩といえど、この世に遍く森羅万象、その全てに精通している訳ではない。幾つかの事例を結び合わせ、推論を立てることができるだけである」
「その為に……」
「必要な文献と、それを選り抜く作業でしょ?」
 イルの言葉を遮り、フランが山と積まれた書物の1冊を手に取り、中を改めはじめる。
「私も手伝いますから、早く選り抜きを終わらせましょう」
「うゅ〜…。これ全部〜〜……」
 ミントが露骨にウンザリしたような声を上げる。他の者も声に出さないだけで、本音はミントと同じだっただろう。
 全員が、心なしかノロノロと書物の山に手を伸ばした時、談話室に新たに入ってきた人影があった。
 シャザインである。
「おっ? 丁度いいところに……」
 シャザインの姿を認めたジェイドは、手招きしてシャザインを呼び寄せた。
「よぉ、シャザイン。どうしたんだい、こんなところへ」
「取り立てて用があった訳じゃないが……」
 シャザインはフランに向き直ると軽く会釈した。
「明日あたりに目的のためには手段を選ばない連中がこの近くで大騒ぎをする可能性が高いから、明日はここへは来ないでおとなしくしていた方がいいぞ。……と、彼女に忠告しに立ち寄っただけだ」
「それはご丁寧に。ありがとうございます」
 フランが深々と頭を下げた。
「もし暇だったら、忠告ついでにコレを手伝って行かない?」
 セリアが手に取った本をシャザインに渡す。
「過去、今回と似た事件がなかったか。それと、『高天の儀』に関して書かれた文献を選り出す作業。イルによれば、伝承や伝奇、超自然に対する素養があればそんなに難しい作業じゃない、…って」
「まぁ、苦手ではないけれど……」
 そういって、セリアから本を受け取ったシャザインの腕をジェイドがガッチリと掴む。
「決まりだな、シャザイン」
「決まり、って、何が……」

 何とか拒否しようとしたシャザインだったが、結局、抵抗空しく選り分けを手伝わされることになる。
 図書館の閉館時間である三点鐘、そのギリギリまで。



- 学園校舎施設 中庭 -

 降りしきる小雨の中、屋根付きの渡り廊下に座り込み、リズは愛用のスケッチブックと色鉛筆を片手に、じっと中庭の様子を窺っていた。
 彼女は、ただ1つの存在が姿を現わすのを、ただひたすらに待ち続けていた。
 それは虹色の猫。
 リズは他の人のように、どこかへ探しに行くのではなく、噂で聞いた遭遇ポイントを1つ選ぶと、その場所でじっと虹色の猫が姿を現わすのを待っていたのだ。
 しかも、仮に虹色の猫がこの場に現れたとして、リズの望みは虹色の猫を捕まえることではない。
 リズの望みは、その虹色に輝く美しい猫を、彼女の持つスケッチブックに収めること。
 ただ、それだけだった。
 昨日は何も起こらなかった。今日も、まだ何も起こらない。
 それでもリズは辛抱強く待ち続けた。虹色の猫が姿を現わすその時を。

 そして、街に一点鐘の鐘の音が鳴り響く頃、リズの努力は報われた。

 リズがスケッチブックに走らせていた色鉛筆を置き、満足げに一息つく。
 そのスケッチブックに描かれているのは虹色の猫の姿。
 大体の色が置かれ、後は仕上げを待つばかり、といった感じだ。
 リズの前に姿を現わした虹色の猫は、何する訳でもなく大人しく座っていた。まるでリズに描かれるのを自ら望んでいるかのように。
 リズにもそれが何となく感じられたので、敢えて急ごうとはせず自分のペースで虹色の猫を描き続けていた。

 しかし、一息ついたリズが、仕上げに入ろうと色鉛筆を取り上げた瞬間、事態が一変した。
 リズと虹色の猫の間に割り込むようにして乱入してきた黒い影。
 それはまるで自らの姿を持たぬ不定形の塊のように身を震わせると、突如虹色の猫に襲いかかったのだ。
 虹色の猫は、その謎の黒い影の攻撃をひらリとかわすと、そのまま姿をくらませてしまった。
 正体不明の黒い影も、虹色の猫を追って姿を消す。
 その余りに一瞬の出来事に暫し呆然としたリズであったが、やがて彼女は理解した。

 何者かの邪魔が入ったこと。
 そして、今描きかけのこの絵が完成することは、この先ないであろうことを、リズは半ば直感したのだった。

…………
……

 学園校舎施設。
 渡り廊下が見下ろせる学科棟の廊下の端で、交信レベルを落としてリエラの実体化を解いたキシェロが、己の幸運、その運のよさに密かにほくそえむ。
 探していた虹色の猫を偶然発見し、しかも自分のリエラ、フェアヴィレンを実体化させる余裕もあったのだ。
 あの虹色の猫が何に気を取られていたのかは知らないが、フェアヴィレンを虹色の猫と戦闘させることには成功したのだから、この時点でキシェロの目論見は最も困難な山を乗り越えたことになる。
 なぜならフェアヴィレンは、最後に戦闘したリエラの姿、形をコピーする能力を持つリエラであり、今、虹色の猫の姿、形をコピーできたのだから。
 キシェロは微かに笑みを浮かべながら廊下を歩き出した。
 これで、100,000(S)は自分の物だ、という確信を抱きながら……



- 学園都市アルメイス -

 その頃……
 学内では虹色の猫に関する、新たな噂が流布していた。

 虹色の猫ははぐれリエラである。
 虹色の猫を強制送還する為に『高天の儀』が行われる。
 そして、アドリアン・ランカークが『高天の儀』を邪魔しようとしている。
 今、虹色の猫を探さなくても、儀式を襲撃して横取りしてしまえば……

と。

 誰が噂の発生源なのかは分からない。
 アルカードは前日、八重花に虹色の猫がリエラであることを話していたし、図書館に向かったセリア、そしてジェイド、マドカらも特別周囲に気を使って調べ物をしていた訳でもない。
 あるいは、それとは全く関係なく、誰かのふとした日常の一言から漏れ出したのかも知れない。
 最初から虹色の猫がリエラでないか、と疑っていた者が、その噂を聞きつけると得意になって言いふらし、噂は瞬く間に学内に広がっていったのだ。


「まずいわね……」
 噂を耳にしたマリーは、隣にいるロキ、そしてゼロにそう漏らす。
「なぜだ、マリー?」
「帝国機関が介入してくる可能性があるからよ。フューリアの力に依らず、しかも主がないリエラなんて制御の効かない戦車と同じ。そのことが学長とか、そのもっと上の帝国機関関係者の耳に入れば、すぐにエージェントが飛んできて『高天の儀』を行うわ。普段ならそれでもいいんだけど、そのリエラ、自分を呼んだフューリアを捜している訳ありのリエラなんでしょ? そんなこと、帝国機関はお構いなしよ」
「しかし、レダの言によれば……まぁ、詳しくは分からないが、赤子のようなものだろ。それに、これまでも危険な兆候は見られなかったと思うが……?」
「帝国機関が危険なし、と判断したら、もっと可哀相な運命が待ってるわよ」
「……まさか……」
「そう、研究対象にされるのよ」


 虹色の猫はリエラである。
 その話は、同時にアドリアン・ランカークの元にも伝わっていた。
 噂話ではない。
 御子柴 光と御子柴 夢幻が、『高天の儀』を成功させる為に直接尋ねてきて、アドリアン・ランカークに事情を事細かに説明したのだ。
 あの虹色の猫はリエラであり、同時にはぐれリエラである。
 主のないリエラは危険な存在。それを『高天の儀』によって送還し、かかる災厄を未然に防ぐ為に協力して欲しい。
 そういった趣旨の申し出だった。
 アドリアン・ランカークは、2人の申し出に賛同する態度を示して2人を追い返すと、早速カレンを呼び出した。
「話は聞いていただろうな、カレン? わざわざ捜す手間が省けて、お前も嬉しかろう」
「まさか……『高天の儀』に介入し、虹色の猫を奪うお考え、……ですか」
「まさか、とは何だ。あれがただの猫でなく、さらに価値あるものであることが分かったのだ。手を引く理由などどこにもない」
 アドリアン・ランカークは、熱に浮かされたような口調で先を続ける。
「我々フューリアの力に感応しない変種のリエラ。しかも、まだそのリエラと交渉を持つフューリアもいない。上手く手なずけて帝国機関に献上すれば、当家の名声も一段と高まるに違いない」
 アドリアン・ランカークはカレンにつかつかと歩み寄ると、その肩を指が白くなるほど強く掴み、その燃えるような瞳でカレンを睨み付けた。
「炎が危険だからといって遠ざけたり、消してしまうような連中は、その炎のもたらす恩恵を享受することなどできないのだ。ハジケ……あの連中を使うもよし。リエラを奪う手段など貴様に一任する。貴様もその炎を御する一族の端た女であるのならば、見事その炎を運んでみせよ。いいな!」

 御子柴 光は1つ大きな誤算をしていた。
 そう、自分の信念よりもアドリアン・ランカークの欲望の方が圧倒的に強かったのである。


 回る、回る。
 偶然と必然の歯車は回り続ける。

 昨日から降り出した小雨は午後になっても降り止まず、勢いこそ変わらぬものの長く降り続けた。
 しとしと… しとしと… と。



- 学生寮 アルツハイムの私室 -

「なぁ、シュー。例の猫の話知ってるか?」
 ベッドの上に胡坐をかくアルツハイムは、愛用のトランペットの手入れをしながらシューティングスターにそう持ちかけた。
「猫? 知ってるよ。『高天の儀』で送還するって話だろ」
 椅子にもたれかかりながら、雑誌に目を通していたシューティングスターが素っ気無く答える。
「何だ、どうでもいいって感じだな」
「そりゃ、そうだよ。関係ないもの」
「ところが関係なくもないんだな、コレが」
 アルがニヤニヤと笑いながら机の上に無造作に置かれた紙の束を指差す。
「お前、アレ見たか?」
「見たか、ってチラシだろ? 僕たちのコンサートの」
「よく見たか?」
 シューティングスターは雑誌を置き、机の上のチラシを1枚取って目を通す。
「……アル。何、この『高天の儀 特別記念コンサート』ってのは? しかも、後から書き足したみたいな……って、2000枚全部書き足したの?!」
「気合と根性は、時として不可能を可能にする」
 呆れ顔のシューティングスターに、アルツハイムが得意気な顔で答えた。
「とにかく、『高天の儀』なんて珍しいイベントがあるんだから、そいつに便乗しない手はないだろ? 俺たちアルツィングスター(Alzing Star)の名前を売るチャンスだ」
「チャンスだって、『高天の儀』を行う人たちに許可をとったの?」
「いや、ぜんぜん」
 アルツハイムが首をすくめる。
「とにかく、先にチラシをばら撒いちまって、既成事実にしちまうのが簡単でいいな。そうなったら、昨日秋華から聞いた『高天の儀』の主催者……レダ? ネイ? 誰だか忘れちまったが、力技で押し切れるし」
 そのアルツハイムのムチャクチャな論理に呆れながら、シューティングスターが溜め息をつく。
「まぁ、それはいいけど、『高天の儀』なんて怪しげなイベントに便乗して、コンサートがムチャクチャにならないか、どうかだけが心配だよ」



- 時計塔前広場 天文部部室 -

 時計塔の最上階にある天文部部室。
 そこに、キックスをはじめとして虹色の猫捕獲班を主とする、レダ側の生徒が集まっていた。
 ランカーク側の情報が様々な人間からリークされ、捕獲計画の具体的な見直しが可能になった為、キックスが昼間使用していない天文部部室を開放して召集をかけたのである。
 ほぼ徹夜で、フィルシィ、サァド、ハロルドから流れてきた情報をまとめ、次善策を練っていたネイが集まった生徒たちに現状を説明する。
「とりあえず、虹色の猫の行動範囲とか出現ポイントは、マリーが立てた案に基本的に従うとして……、最初危惧していた妨害は……ないみたいね。少なくともアドリアン・ランカークの現状では」
「なぜ、そう言い切れる?」
 ランカーク側の猫捕獲部隊に関して一番警戒していたレオンがネイにきつい口調で尋ねる。
「凄まないで下さいよ、先輩〜〜。とにかく、学内ではアドリアン・ランカークに対する反発が高まっているし、さらに提示された金額が高額すぎて信憑性がない、っていうのも理由の1つだと思います。今警戒するとしたら……」
「アドリアン・ランカークとは何も関係なく、個人の理由で虹色の猫を捕獲しようとしている人たちかな。例えば、猫愛好家とか」
 ネイの言葉に、アルカードは八重花の姿を思い浮かべた。
 ……つまり、そういう輩のことだ。
「え〜、でも……」
 ネイの意見に意義を申し立てたのは、仮面で素顔を隠した女生徒、秋華だった。
「『高天の儀』が狙われてるって、聞いたことあるですか? アドリアン・ランカークがネコを強奪するために『高天の儀』を行うタイミングで襲撃を企てているらしいって噂を聞きましたよ」
「えっ?」
 秋華の言葉に、ネイが驚きの声を上げる。
「それに、コンサートも行われるらしいですよ? ここに来る途中、秋華、こんなチラシを貰ったです」
 そういって、秋華は懐から1枚のチラシを取り出した。
 チラシには大きく『高天の儀 特別記念コンサート』と明記してあった。さすがに日付や場所までは指定してなかったが。
 今朝は忙しくて自室から出ていなかったが、……それにしても、いつの間にかそんな噂が流れていて、しかもコンサートが開かれるなど全く初耳だった。
「そうそう! ボクもそれが気になってたんだけど、こんだけ大々的に宣伝してるんだし、『高天の儀』って襲撃される危険性が高いんじゃないかな〜。前の料理大会の時でも、ハジケが定期物資を買い占めて、アドリアン・ランカークの手伝いをしてたみたいだし」
 秋華の言葉にパラリエッタが相槌を打つ。
「コンサートはともかく、人数的に余裕がなくなったランカーク側が、どっかと手を組んで『高天の儀』を襲撃する。まぁ、有り得ない話じゃないなぁ」
「猫を自力で探すより、その方がずっと楽だもんね」
 続いてウェインとエレンも、『高天の儀』が襲撃される危険性に賛同する。
 集まった学生たちは互いに顔を見合わせると、ざわざわとざわめき始めた。
「でも、手を組むってドコとだ?」
 誰かが上げた声に、全員の視線が扉付近に立っていたリンに集まる。
 右目を眼帯で覆った、特徴的な容姿を持つ“昏き扉の向こう”リン。彼が秘密結社ハジケの一員であることは周知の事実だ。
 料理大会に蒸気自動車を乗り入れ、会場を混乱に落とし入れた秘密結社ハジケ。
 ただの愉快犯という話もあるが、犯行声明文が表明された訳でもなし。結局、秘密結社ハジケが何をしたかったのか分からなかっただけに、アドリアン・ランカークと手を組み、その傀儡となって動いていた印象が強かったのだ。
「別にハジケはアドリアン・ランカークと手を組んでいる訳じゃないよ。何といっても、彼には借りがあるからねー」
 周囲の疑惑の目に対して、リンはいつものように澄ました顔で飄々と答えた。
「あの料理大会の時、確かに僕らは『レイアル・カッシュ』目当てで彼に近づき、信用を得るために働いたことはあったけど、結局代価をいただけなかった訳だしー」
「あの馬鹿貴族に、一泡吹かせたい……ってことかい、先輩?」
キックスが腕組みしながら横目で尋ねる。
「一番の理由は、単に僕が動物好きだから…だけどー、まぁ、それだって理由の1つではあるよ」
「だけど、信用はできないな」
 リンのやり取りを静かに見守っていたアルカードが冷たく言い放つ。リンの釈明は、一見筋が通っているようで、その言葉を裏打ちするようなものは何もない。
 アルカードの直感は、その不透明なダークゾーンに漂う嘘の臭いを嗅ぎ取っていたのだ。
「全部が眉唾だとは思っていないが、『高天の儀』を襲撃する、という噂が流れている以上、怪しきは極力取り払うべきだと、私は思うが」
「極論だねー。アドリアン・ランカークに協力者がいない、っていうのも推測に過ぎないのに。そういう話をするんだったら、誰だって怪しいことになるじゃないかなー」
 アルカードの辛辣な言葉に対して、残った左目をわずかに細めながらリンがやり返す。
 そのリンの一言で、天文部室内に険悪な雰囲気が漂い始めた。
「……でも、残念だけど。先輩の言うことにも一理あるわね」
 険悪な雰囲気の中、最初に口火を切ったのはネイだった。
「気になってたんだけど、どうしてアドリアン・ランカークが、それに私たち以外の人が『高天の儀』を行うってことを知ってるの? ちょっと変じゃない?」
 ネイが不審がるのも無理はない。直前まで秘密にしておけば、コンサートだの、襲撃だの、そういう妨害行為の心配をする必要がなかったはずである。
 第一、虹色の猫がリエラであることは、嫌がるレダを追い詰めて聞き出さなければ分からない情報だ。
 レダも虹色の猫の正体を必死になって隠していたようだし、普通に考えれば、誰かが故意にでも漏らさない限り、この話が周知の事実になるなど有り得なさそうではあった。
「まぁ、誰かがつい口を滑らした、っていう可能性が一番高いけど、これからはちょっと秘密保守に気をつけないとね」
「連絡役を作るっていうのはどうかしら? 昨日、パルミィさんが言っていたみたいな……」
 ネイの言葉を受けて、“銀の鍵”リディが連絡網作成の案を再立案する。
 リディの考えた連絡網とは、レダの秘密の隠れ家に作戦本部を置き、高速移動能力を備えたリエラで各班、フューリア捜索班、『高天の儀』準備班、猫捕獲班と定期的に連絡を取り合いながら、効率のよい作戦展開を行う、という実にスタンダートな案であった。
 その気になれば、フューリアはリエラを介して他のリエラ、そしてフューリアと連絡を取り合うことも不可能ではないが、それは言ってみれば手紙のようなものであり、リエラと一々交信しなければならない上、途中で他のリエラに傍受されたり、リエラの性質によっては正しく意図が伝わらなかったりもする、絶対的な信頼性には欠ける代物だった。
 そう考えると、リディの提案したような、直接フューリアが情報のやり取りを行う形態の方が遥かにスムーズなのは間違いない。
「どうでしょう、皆さん?」
 リディがゆっくりと周囲を見回すが、反対意見を述べる者はいない。
 虹色の猫がリエラである、という重要性の高い情報が、よりによってアドリアン・ランカークに漏れたことに対して、その場に集まっていた全員が情報統制の必要性を感じていたからだった。
 そう、ただ1人を除いて。
「俺は抜けさせてもらうぜ。……ネイ。終わったら鍵かけて、返しといてくれ」
 やおらキックスが立ち上がり、天文部部室から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと! キックス!」
「組織だの、連絡網だの……俺はそういうのはゴメンだね。わりぃけど、後は勝手にやってくれ。俺は俺のやり方でレダに協力する」
 そう言い残すと、キックスは振り返りもせずに天文部部室から姿を消した。
「あうー。ちょっと待ってよ〜」
 昨日からキックスにベッタリひっついて、その周囲をうろちょろしていたユカが、小走りにキックスの後を追う。
「勝手な人だねー」
 キックスに押し退けられたリンは、口元に微かな笑みを浮かべながら呟いた。
「でも、自分から進んでスケープゴートになるなんて、いい人だよ。ホント」


「チッ、面倒なのがついてきたな……」
 天文部部室を抜け出して時計塔前広場に降り立ったキックスは、自分を追いかけてくる少女の姿を認め、軽く舌打ちした。
 彼女の名はユカ。年齢は1つしか違わないのに、自分のことを「キックスお兄ちゃん」と呼んで付きまとう変な女だ。
 正直言って、キックスはベタベタ懐いて来る女が苦手だった。嫌いとまでは言わないが、とにかく鬱陶しい。
 キックスはユカを振り切るべく全力で走り出したのだった……。



- レダの秘密の隠れ家 -

 ユカを撒いたキックスは、そのままレダの秘密の隠れ家へ足を向けた。
 そこにレダがいるかどうかは分からなかったが、他にあてがある訳でもなし、こんな雨の日は隠れ家で大人しくしていてくれるのを願うばかりだった。
「よっと……」
 壊れかけた鉄柵を乗り越えて、キックスは無人の邸宅に侵入する。
 見れば邸宅の一室、レダの秘密の隠れ家から、微かな明かりがこぼれていた。
 キックスはホッと一息つくと、部屋の戸をゆっくりと開けて中へ身を滑り込ませた。
「よぉ」
「あっ?! キックス!!」
 部屋の中には、レダとアルファントゥ。そしてシャーリー、東条院 絢音、オードルの3人がレダを取り囲むように座っていた。
「……何だ、女ばっかりだな」
 キックスは聞こえないように小さく呟きながら、その輪に入って腰を下ろす。
「キックス、今日はどうしたの?」
「アルファントゥと話しをしに来たんだ」
「アルと?」
 キックスは軽く頷くと、レダの顔をジッと見つめた。
「そう、アルファントゥと。わりぃけど、レダの言葉の意味がイマイチよく分からないから、アルファントゥに直接聞きたいんだ。猫のこととか」
「猫?!」
 キックスの言葉にオードルが敏感に反応する。
「それは、是非ともワタクシもお聞きしたいところですわ。勿論、差し障りなければ、ですけれど」
「でも、そんなこと本当にできるの?」
 東条院 絢音が不安げな声を上げる。
「ん……、じゃ、ちょっとまっててね。アルに聞いてみる」
 レダがアルの首に抱きつき、その首に顔を埋める。暫くしてレダは顔を上げた。
「……うん。できるって。でも、交信に慣れてないと、ちゃんと声が届かないかもしれない、って」
「交信? まぁ、いいや。分かったからやり方を教えてくれ」
「うん。じゃ、みんな手をつないで……」
 レダがアルファントゥの首筋に体を埋めながら両手を差し出す。4人はレダの指示に従いながら、全員の手を繋いで1つの輪を作り出した。
「いくよ……」
 レダの声と共に、繋いだ手から何かが体を駆け抜ける。それは、無形のエネルギー。
 意思?
 アルファントゥの?
 閉じた目の奥、その暗闇の先に漆黒の巨躯が浮かび上がる。……アルファントゥ。
「ようこそ。私の名はアルファントゥ」
その狼の口から、明瞭な人間の言葉が漏れ出して来た。深く、静かな、落ち着いた声。
「……アルファントゥ。俺たちは、…いや、俺はアンタに聞きたいことがある」
「質問は1人1つだけ」
 キックスの声にアルファントゥは静かに答える。
「それ以上は、レティーに負担がかかる」
「……分かったよ。じゃ、まず俺から質問させてもらう。虹色の猫ってのは、結局何なんだ?」
「まだ生まれていないリエラ。これから生まれてくるリエラ」
「実体があるのに? まだ生まれていない?」
「我々は人の子と違う。我々はいつの時間にも存在しているが、人は我々に形を与えなければ我々を認識することはできない。それを、我々の生という」
「……よく分かんねぇけど、まだ生まれてない、ってことは形がないんだろ? でも、虹色の猫には形があるぜ」
「人が我々に与える形は、最初から決まっている。ただ、それをまだ知らない、というだけだ」
「……やっぱり、よく分かんねぇ。まぁ、いいよ、ありがとう」
「じゃあ、次はボクね」
「誰かが形を与えなければ認識できない、ってことは、誰かが形を与えたってことだよね。それも、普通に交信するんじゃなくて、突発的にとか、無意識の内にとか」
「断定はできないが、その可能性もある」
「じゃあ、フューリアじゃなくても、形を与えることができるの?」
「それは難しい質問だが……厳密に言えば、不可能ではない。フューリアを、我々を形として認識できる感応力を持った人間、と定義するのであれば、普通の人間でも感応力を高めればフューリアとなることができるかも知れない」
「ふ〜ん、…ん。大体分かったよ」
「では、わたしの質問です」
「『高天の儀』で送り返すとき、その猫を呼んだフューリアと会わせないと帰り道が分からなくなる、とはどういう意味なんですか?」
「我らが帰るべき世界は、人の記憶の中にある。迷い出た我らが子は、いつか呼ぶべき者、いつか帰るべき場所を探している」
「では、そのリエラを呼んだフューリアに会わせるだけで、虹色の猫は帰る場所を見つけることができるのですか?」
「正確には会わせるのではない。その名を、我らが子の名を呼ばせなければならない。その声が、我らが子の指標となる」
 順に3人が質問を終えると、アルファントゥは高く一声鳴き、その身を震わせた。
「人の子らよ、間もなく輪が閉じる」
「私の言葉は胸の内に留め置き、そしてこれだけは覚えておいてほしい。我々は解き放たれた個々の存在でありながら、人に帰属している、ということを………」
 その最後の言葉と共にアルファントゥの姿は薄れ、暗闇の中に溶け込んでいった。
 交信の時間が終わったのだ。

 ゆっくりと目を開けるキックス、シャーリー、そして東条院 絢音。さっきと何も変わらない部屋。そこには、アルファントゥに体を埋め、深い寝息を立てているレダと、キョトンとして周囲を見回しているオードルがいた。
「な、何がありましたの?」
 オードルが目を開けた3人に激しく詰め寄る。
「アルファントゥと会話できたのですの? わ、ワタクシには何も聞こえなかったのですが?!」
「さっきレダが言ってたろ? 交信に慣れてないと声が届かない、って。……先輩、まだ訓練を始めて日が浅いんじゃないのか?」
 そう言ってキックスは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。その様子を見て、慌ててオードルが食いついた。
「ちょっと待って下さい! それでは、何を話したのか教えていただけませんか?!」
「……先輩。わりぃけど、アルファントゥとの約束で、そいつはできないんだ。……じゃ、レダを見てやってて下さい」
 キックスはそれだけ言い残すと、さっさと部屋から出て行ってしまった。
「ボクも、思うところがあるから出かけるよ。シャーリーさん、レダをお願いします」
 続いて東条院 絢音も姿を消し、その場には眠りこけるレダ。そしてそれを見守るシャーリー。そして、オードルが残されたのだった……。



- 研究施設周辺 -

 ハイドラとレナは、根気のいる作業を黙々と続けていた。
 この研究施設周辺の、リストアップされた家を一軒一軒回り、『自然科学および統計学の自主研究課題』と称して子供、あるいは妊婦を訪ね歩くのである。
 探し始めて4半刻。リストの9割を消化しつつあったが、不幸にも、というか幸いにも、まだ妊婦や子供に遭遇することもなく、ただ「ここら辺には該当者がいない」という事実のみを積み上げつつあった。
 仮に子供や妊婦に遭遇したとして、特に妊婦がそうであるが、どうやったらあの虹色の猫を呼んだフューリアであるのか、その具体的な確認方法は全く分からなかったのだから、やはり幸いにも、というべきであろう。
「もうそろそろ、ここも終わりよねぇ。ハイドラちゃん」
「そうですね、レナさん」
 ハイドラはレナに隠れて溜め息を吐き出しながら、憂鬱な顔でリストに付いた×印の数を数える。
 25軒。
 後、2軒回ったら、この研究施設周辺の調査は完了する。
「もう、誰か見つけることができたのかしら……」
 そういってハイドラは空を見上げる。
 雨はまだしとしとと降っていた。



- 中央繁華街 中央病院 -

 この学園都市、アルメイスにある最大の看護施設。それが中央病院だった。
 虹色の猫を呼び出したフューリアはこの病院の中にいる。
 そう推測を立てたとうべいは、単独で中央病院を訪れたのだが……、その病院の入り口で、バッタリとクラルと顔を合わせたのだった。
「やぁ、クラル君。どうしたんだい?」
「とうべいさんこそ」
「ふむ。まぁ、ちょっと虹色の猫を呼んだフューリアを捜しにね」
「奇遇ですね、私もですよ」
 そういってクラルは首をすくめる。
 本当は彼のリエラ、カルマに頼もうとしたのだが「私は人の、憎悪、狂気、死、破壊などの悪夢を糧とする。故に、如何に我らが同胞のこととはいえ、不和と死を生み出さぬ物事に関わる気は毛頭ない」と素気無く断られ、仕方なく自分でやってきたのだ。
 リエラにはリエラの意思があり、フューリアの下僕ではない。特に、実体化するのにフューリアの力を必要としないリエラであれば、尚のこと無理強いはできない。
 まだこの学園に来て日が浅く、経験の少ないクラルには分からなかったかも知れないが、フューリアの力に依らず行動するリエラは非常に珍しく、どこに行っても目立つし、警戒されるし、特にフューリアと離れて単独行動しようものなら大問題になる。
 力の大小はあれど、リエラは人の生命を一瞬にして塵芥に帰す力を持ち合わせた存在であるが故に、その力から身を守る術を持たない一般の人間、エリアにとっては、その外見、性格いかんに関わらず恐るべき猛獣と何ら変わりがなかったのだ。
 勿論、相手がフューリアだったとしても、単独で行動するリエラにいい顔はしないだろう。
「まぁ、ともかく、立ち話もなんだし、せっかく会ったんだから一緒にフューリアを探そうか」
「ええ、構いませんよ」
 とうべいの申し出にクラルは快く返事をしたのだった。

 2人は中央病院の受付に赴くと、早速聞き込みを開始した。
 とうべいは、ここ10数日の間で昏睡状態に陥っている患者を。クラルは臨月の近い妊婦を、受付の若い看護婦に尋ねたのである。
 若い看護婦がどう答えてよいか分からずオロオロしていると、奥から中年の女性、婦長が現れ、若い看護婦に代わって答えを返した。
「申し訳ありませんが、患者さんに関するお問い合わせは、お身内の方か、ごくごく近しい方のみとさせていただいております」
「いや、しかし! これには重大な意味があるんです!」
 婦長の拒絶の言葉に、とうべいが情熱の限りこの質問の意義、そして重要性を説明したが、婦長の鉄のような信念を打ち砕くことはできなかった。
「申し訳ありませんが、お引取り下さい。例えどんな理由があろうと、患者さんのプライベートにお答えすることはできません。規則は規則です」
 粘りに粘ったとうべいとクラルであったが、結局婦長を説得することはできなかったのである。



- 学生寮 玄関口 -

 天文部部室の鍵を返し、自室に戻ろうとしていたネイを呼ぶ声があった。
「ネイさん、ネイさん!」
 それは……仮面を付けた少女、秋華である。
「どうかしたの?」
「『高天の儀』について、お話があるですよ」
「『高天の儀』に……?」
 ネイが怪訝な顔をする。
 最前までの話し合いでは、どうせランカーク側に嗅ぎ付けられる怖れがあるなら、コンサートに便乗して多くの人を集め、ランカーク側が無茶できないようにするのがマシだろう。という線で決着がついている。
「そうです。表向きはコンサートと同時に『高天の儀』を行うことにしておいて、それを囮に使うですよ」
「囮って……まさか、…」
 秋華が仮面の奥で小さく笑みを浮かべる。
「ふふふ。秋華とウェイン、エレン、エリ。それにネイさんを含めて5人。後1人、レダさんを誘って、丁度6人になるですよ。これなら、誰が妨害しに来ても、安全に儀式を進められるです」
「敵を欺くには味方から。詳しくは、秋華の部屋でお話するですよ……」



- 学生寮 ナイチチ・パラリエッタの自室 -

 秋華の部屋で、ネイを含めた5人が秘密の作戦を進めているのと時を同じくして、やはり怪しげな動きを見せるものがいた。
 ナイチチ・パラリエッタである。
 パラリエッタの自室には、秘密結社ハジケを代表する工作員、パッセイジがいた。
「じゃあ、『高天の儀』は時計塔前広場で行うんだな」
「そうだよ♪ で、これが警備担当区域の大体の見取り図」
 パラリエッタは懐から、簡単な覚書と見取り図を取り出すと、それをパッセイジに渡した。
「それの、北東、Cブロックってのがボクの警備担当地区だよ」
 パッセイジは、渡された見取り図のCブロックを確認する。
「ふむ。……まぁ、大体分かった。それで、当日の手引きは大丈夫なんだろうな?」
「まっかせといてよ!」
 パラリエッタはドンと胸を叩いて、そしてパッセイジにさり気なく擦り寄る。
「それより〜〜……ボクも一応、ナ・カ・マ! なんだし、もうちょっと計画を詳しく教えてよ〜♪」
「教えても何も、これで全部だ」
 パッセイジはパラリエッタの色仕掛けに動じた様子もなく冷静に答える。彼の鍛えられたスパイとしてのプロ意識は、パラリエッタごときの色仕掛けでは揺るぎもしない。
 パッセイジはパラリエッタの頤を持ち上げると、その耳元にそっと囁いた。
「心配するな。作戦が成功した暁には、我らが首領より褒美が下る。身も心も蕩かすような……な」
 そういってパッセイジは立ち上がると、手渡された見取り図を懐に収め、まるで霞の様にパラリエッタの部屋から姿を消した。
「チェ、け〜ち」
 パッセイジが去った後、パラリエッタはべーっと舌を出してベッドの上にボスンと身を投げ出した。
 と、その時、パラリエッタのドアをノックする音がした。素早くパラリエッタがベッドから身を起こす。
「どーぞ♪」
「失礼する」
 パラリエッタの部屋に入ってきたのは、同じグループ錬心館の仲間、アルカードだった。
「いらっしゃ〜い。待ってたよ♪」


 それから暫く。
 アルカードがパラリエッタの部屋から退出するのと時を同じくして、パラリエッタの部屋の窓近く、学生寮の外壁、1アーにも満たないわずかな縁を、絶妙のバランスコントロールで危なげなく移動する人影があった。
 カレニア・アークライト。カレンである。
 カレンはハジケの動向を探るべくパッセイジの後を付けて、パラリエッタがハジケの内通 者として動いていることを知ったのだが、その直後に現れたアルカードの存在によって、パラリエッタが内通どころか二重スパイを働いていることを突き止めたのである。
「ハジケの襲撃は失敗するわね……」
 カレンが確信めいた呟きを漏らす。
 彼女のように影に生きる人間にとって、内通者は敵以上に心を許せない存在。味方を売る人間が信用に値するとは露ほども思わないし、そういう人間には必ず監視をつけるのを鉄則としているのだが……ハジケはその基本を怠っていた。
 ハジケの襲撃が失敗するとなれば、当初の計画を多少修正する必要がある。
 カレンは空中にヒラリと身を躍らせると音もなく太い木の枝に飛び移り、彼女の領分である闇の中へと姿を消した。



- 図書館 談話室 -

「……ふむ、この数ある文献の事例を総括的に考慮するだに、『高天の儀』で一番重要なのは時節であるようだな」
 積み上げられた膨大な書物。そして、机に突っ伏して眠る学生たち。
 結局、本の仕分けが終わり、イルがその内容から結論を出したのは日が沈んでからのことだった。
 マドカは、疲れた目を擦りながらイルの見ていた本に目を落とす。
「時、……ですか?」
「そう、時である。リエラを実体化できるフューリアが6人いれば、多少力の多寡により影響も出るが、学科で教えられた通りの手順を踏めば誰でも行うことができる。しかし、過去の偉大なフューリアたちに比べ、現代の学生たちは根本的な部分で力が足りない部分がある。特に、学生であるなら尚更だ。それを補うのが、時なのである」
 そういって、イルは開かれた本の一節を示し、それを読み上げた。
「『高天の儀』は、近き時を選ぶべし。近き時とは、日に影落ちる導きの輪である」
「日に影落ちる導きの輪……って、まさか皆既日蝕のこと?」
「その通りである。卿はなかなか勘が鋭いようだ」
「で、でも、皆既日蝕って……、あ、明日でしょ??」
 マドカが悲鳴に似た声を上げる。
 最近、「虹色の猫」騒動で余り取り沙汰されなくなっていたが、皆既日食の話は、以前から学内、主に天文部間で噂になっており、それが明日起こることは、大抵の人間であれば誰でも知っていることだった。
「そ、そんな……全然、時間がないよ! で、でも、次の皆既日蝕まで待つっていうのは……」
「難しい問題ではあるな。10年、20年、それとも30年…次がいつになるか分からぬ皆既日蝕を待つよりも、卿らが力をつけ、時に頼らず『高天の儀』を行えるようになる方がさすがに早そうではあるが……どちらにしろ、明日という時を逃せば、いつ『高天の儀』を行えるか分からぬことに変わりはない」
 イルの厳しい言葉にマドカがうなだれる。
 そんなマドカの様子に、さすがに可哀相になったのかイルが励ましの言葉をかけた。
「今は時間がないことを嘆くよりも、『高天の儀』を成功させる機会が早く巡ってくることを感謝し、残された時間を有効に使うべきではないか?」
「…………」
「う、うん…。そうだね。早くみんなに知らせなくっちゃ。僕はその為にここへ来たんだから」


 それから暫くして、この事件に関わる全ての人間が知ることとなる。
 決行日は明日。
『高天の儀』は皆既日蝕と同時に行うことを。

 同時に、アルツハイムとシューティングスターのコンサートも決行される。

 全ては明日に。


 昨日から続いていた雨は明け方には降り止み、
 事態は収拾されぬまま、虹色の猫発見から15日目を迎えた……



- 学園都市アルメイス -

 マリーが計画した、次に晴れた日。
 そして、マドカが突き止めた『高天の儀』を成功させる日。

 2つの命題が、偶然にも折り重なった運命の日であったが、当初予想されていた混乱はどこにも発生せず、ただ静かに時間が流れていこうとしていた。

 アドリアン・ランカークに協力する生徒はいない。
 賞金に目が眩んだ生徒もいない。

 その平穏さは、衝突を警戒していたレダ側の猫捕獲班を拍子抜けさせるのに充分だった。
 大方の生徒の注目は、皆既日蝕、そして『高天の儀』と同時に行われる予定のコンサートに集中していたのである。



- 学生寮 キシェロの自室 -

 朝の五点鐘が響く頃、キシェロはその行動を開始した。
 交信状態に入ってフェアヴィレンを実体化させると、前日コピーした虹色の猫にその姿を変えさせたのである。
「さーて、上手く逃げ回れよ〜。フェアヴィレン」
 キシェロの指示を受けて、窓から虹色の猫…に化けたフェアヴィレンが飛び出して行く。
 フェアヴィレンを適当に逃げ回らせて、誰かに捕まえられたら、その時こそ行動を開始するのである。
 フェアヴィレンを捕まえた者に接触し、フェアヴィレンをアドリアン・ランカークに差し出して100,000(S)を山分けするよう持ちかけるのだ。
 こんな回りくどいことをせず、自分がフェアヴィレンを持ってアドリアン・ランカークの元へ出向いてもよかったのだが、それだと万が一見破られた時に保険がかからない。
 他に明確な「猫を捕まえた代理人」を立てておけば、見破られてもその代理人に全て罪を押し付けて、自分は知らぬ存ぜぬで通すことができる。
 それに、多少は逃げ回って衆人の目に触れさせた方が、持って行った時の信憑性も増すというものだ。
 唯一の心配は、流れていた噂通りアドリアン・ランカークに提示した金額を払う意思がなかった場合であるが、さすがに100,000(S)という馬鹿げた額の金額は無理でも、お偉い貴族の名誉にかけて、そこそこのまとまった金額が払われるだろう、とキシェロは踏んでいた。
 どちらにしろ、こちらが損をすることは何もない。


 キシェロはベッドの中で忍び笑いを漏らした。
 愉快だ。
 笑いが堪えられない。

 ただ、こうしてベッドに寝転がっているだけで、大金が向こうから近づいて来るのだから。



- 学園都市アルメイス -

 最初にキシェロの偽猫を発見したのは、学生寮付近で張っていたリィンだった。
「えっ? うそっ!?」
 突然現れた虹色の猫に、リィンは驚きの声を隠せなかった。
「すっご〜い、ホントに虹色なんだ〜」
 リィンははじめて見るその虹色の毛並みに感嘆の声を上げると、ポケットからゴム球を取り出してそれを転がしてみた。
 しかし、虹色の猫はゴム球に何の興味も示さなかった。ただ、ジッとリィンの姿を見つめている。
「変ね〜。気に入らなかったのかしら……」
 リィンはその肩に乗るリエラ、Mr.サイレントと顔を見合わせると、今度はプチ羽根飾りを取り出して、それを猫に付けてやろうと近付いた。
 まるでその動きに合わせるかのように、それまで何の動きも見せなかった虹色の猫が、サッと近くに茂みに飛び込んで姿をくらましてしまった。
「え〜〜っ。ど、どうして〜〜」
 訳が分からずに呆然とするリィンを、Mr.サイレントが物言いたげな視線で見つめる。
「なによミスター、私だってちょっと感傷的になることだってあるわよ。あんた私をなんだと思ってるわけ? 大体いつもあんたは…」
 リィンの愚痴が長くなりそうだと感じたMr.サイレントは、リィンに断りなく消音結界を発生させ、リィンの愚痴を文字通り完全に遮断したのだった……


 次に虹色の猫を発見したのはセイだった。
 レダから虹色の猫を最初に見かけた場所、即ち図書館付近に目星をつけ、日夜を問わず張り込んでいたセイは、学生寮の方から走ってくる虹色の猫の姿を見逃さなかった。
「……いた……、アリア……」
 セイは隣に寄り添うリエラ、アリアに注意を促すと、隠れていた茂みを飛び出し、虹色の猫の進路に身を躍らせた。
 そのまま素早い動きで、走る猫を捕まえようと手を伸ばす。しかし、いかに素早いとはいえ、走る猫を素手で捕まえようとするには無理があった。
 虹色の猫はヒラリと身を交わしてセイの手を潜り抜けると、進路を変えてそのまま今度は研究施設の方へ走り抜ける。
「…追う…よ、アリア……!」
 先行する虹色の猫を追ってセイが走り出した。しかし、猫との距離は見る間に開いていく。
 体力には自信があった。そして、気力を維持する根性にも自信がある。
 しかし、セイはラフな道を走ることに余りに慣れていなかった。
 虹色の猫は舗装された道を、ただ真っ直ぐに走るのではない。茂みの中、細い路地、塀の上、どんな道でもお構いなしに走り抜け、まごつくセイをあっという間に姿を隠してしまったのである。


 セイを撒いた後、再び姿を現した虹色の猫と遭遇したのはエストだった。
「いたッ!」
 エストは走る虹色の猫の姿を視界に捉えると、降って沸いた千遇一在のチャンスに臆することなく、猫捕獲用に携帯していた手製のグローブを構えて発射金具を引き絞った。
 ボシュッ!という音と共に、エストのグローブから発射されたネットが虹色の猫を包み込む。
「やった!!」
 慌ててエストはグローブを外すと、絡まったネットから逃れようともがく虹色の猫に走り寄った。
「直ぐに、お前を呼んだヤツに会わせてやるからな。俺はお前の味方、友達だ。俺たちフューリアとリエラは、友達になるべく生まれてきたんだから……」
 と、その時、虹色の猫をネットから解放しようと身を屈めたエストを突然何かが襲った。その何かに引き倒されるエスト。
 よく見ると、それはネットだった。自分が撃ったのと、同じようなネット……。
「あっ! 当たった! 当たった〜!」
 突然の事態に混乱するエストの耳に、誰かの嬉しそうな声が聞こえてきた。
 声の聞こえてきた方角に顔を向けると、バ・ルクとマヤの二人連れが近づいて来るのが見えた。
「ちょっと、バ・ルク。あれ人よ?!」
「別に犬でも、人でも、何でもい〜の。わたしは、マリーから借りたこの捕獲銃が撃てれば満足なんだから」
 しかも2人は、というか主にバ・ルクは、そんな聞き捨てならない台詞を口走っている。
「おい! 何てこと言ってるんだ!」
 いくら女の子には甘い、と言われるエストであっても、この状況でこの台詞は我慢がならなかった。ついつい口調がきつくなる。
「あら、あら、ゴメンネ〜。直ぐに解いてあげるわよ……」
 全く悪びれた様子もなくバ・ルクが謝り、エストを助け起こそうと身を屈める。…と、その視線が虹色の猫を捕らえた。
「あっ、猫はっけ〜ん!」
 バ・ルクはエストを放り出すと、虹色の猫が包まったネットを取り上げた。
「どう? マヤ。探す気はなかったけど、見つかっちゃったわよ? すっごい幸運よね〜」
「でも、見つけたのはいいけど、どうするつもりなの?」
「そうねぇ〜。アドリアン・ランカークに渡すのも勿体無いし、……オークションにかけて値を吊り上げてみる? ここじゃなくても、帝都とかで」
「なっ?!!」
 またしても飛び出したバ・ルクの不穏当な発言に、エストは軽いめまいを起こしそうになりながら呻き声を上げた。
「何てことを言うんだ、君は!!」
 突然わめき出したエストをまるで気にする様子もなく、バ・ルクはするすると虹色の猫に絡みついたネットを解いていく。
 と、ネットから解放された猫が予想を上回る素早さでバ・ルクの手を逃れると、そのまま明後日の方向へ走り去ってしまった。
「何やってるのよ」
 マヤが呆れてバ・ルクを見る。
「あっ……。ごめんね、猫逃がしちゃった。でも、ま、いっか。捕獲銃は撃てたし、効果も確認できたし」
 そういってバ・ルクは立ち上がると、まるで何事もなかったかのようにマヤと歩き出した。
 ネットに捉えられ、身動きの出来ないエストを残したまま………
 さすがのエストも、この事態の展開には言葉も出ず、ただただ茫然とするばかりだった。
 傍若無人な2人組みの介入により、一度は手中に収めかけた虹色の猫を取り逃がし、しかも自分はネットに体を拘束されて動けない。
 そんなエストを救ったのは、消えた虹色の猫を探してうろうろしていたセイだった。

 エストは自由になると、作戦本部から支給された発炎筒を取り出し火をつける。
 それは虹色の猫、発見の合図だった。



- 学園校舎施設 託児所 -

 その発炎筒の合図は、虹色の猫捕獲班だけでなく、フューリア捜索班の目にも止まった。
 虹色の猫が発見された。
 その事実はフューリア捜索班の焦りを誘発する。
 なぜなら、『高天の儀』に必要なのは虹色の猫だけではない。その虹色の猫を呼んだフューリアも必要なのだ。
(……早く、見つけないと……)
 その合図に気づいた1人、ティクは、フューリアとしての力が発現した子供が集められた特殊な託児所で虹色の猫を呼んだフューリアを探している真っ最中であった。
真剣な顔でフューリアを探すティク。
 しかし、何を手かかりに探せばいいのか……ティクには見当もつかなかった。
 頼りにしていたM5号は、子供の相手をしようとして、その醜い容姿のせいか、逆に子供を怖がらせて泣かせてしまい、保母から離れたところで自粛しているよう言い渡される始末である。
 ティクは子供たちの間を行ったり来たりしながら、何か手かかりはないか、と目を皿のようにして必死に手かかりを求め続けた。
 そのティクの努力が実ったのは、およそ半刻も経った頃だろうか。
 ティクは何やら猫の絵が描かれた、スケッチブックの切れ端を持っている子供を発見したのだ。
 子供に警戒心を与えないように覗き込んでみると、それは……まだ描きかけではあったが、紛れもなく虹色の猫の絵だった。

 今、この時、この場所、この瞬間で、描きかけの虹色の猫の絵を持っているフューリアの子供が見つかる。
 ティクだけでなく、昨日から血眼になってフューリアを捜している捜索班に、これを全くの偶然だと考えられる人間はいなかったに違いない。
 ティクは確信していた。
 この子供こそ、虹色の猫を呼んだフューリアであると。
 その姿をおぼろげに知覚しており、その表れがこの描きかけの絵であるのだと。

 しかし、事実は違っていた。
 虹色の猫の絵を描いたのはリズであり、この子供はリズから貰ったその絵を持っていただけに過ぎない。
 だが、それが分かるはずがなかった。



- 学園都市アルメイス -

「猫まんま〜、猫まんま〜♪」
 奇妙な鼻歌を歌いながら、自作の猫用料理を用意しているのは静音だった。
 虹色の猫発見の合図を確認した彼女は、さっそく前日から準備しておいた猫用料理を持って、猫が通りそうな路地にやって来たのだ。
「猫さん食べてくれるかな……」
 静音は不安と期待の入り混じった思いで虹色の猫の出現を待ち構えていた。
 ただ待っているだけでは、そうそう上手くいくはずがない。それが通説であるが、この時ばかりは幸運が彼女に味方していた。
 彼女が腰を下ろして待っている路地に、虹色の猫が姿を現したのである。
「あっ、猫さん!」
 静音が驚きにも似た喜びの声を小さく上げる。そして、手で「コイコイ」と猫を手招きする。
 虹色の猫は静音の招きに応じてエサ皿に近づくが、……急に何かの気配、それとも音を聞きつけたのか、急に耳をピンと立てると、脱兎のごとくその場を逃げ出してしまった。
 静音が慌てて立ち上がり猫を小走りに追いかけるが、静音が路地を出た頃には完全に姿を見失ってしまっていた。
「え〜、どうして〜〜……」
 その、ガックリと肩を落とす静音の背後から、カチャカチャと音がする。
「………塩味が……足りませんね」
 驚いて静音が後を振り返ると、静音が用意した猫用料理の味見をしている八重花の姿があった。
「……はい」
 八重花は静音に猫用料理を渡すと、何事もなかったかのように通りを駆け出し始めた。

 八重花の被害を受けたのは静音だけではない。
 虹色の猫もショートケーキを食べるのではないか?と考えて、街中にショートケーキと罠を設置した梓だったが、梓が虹色の猫の姿を期待して罠の確認に行くと、そこには「……ブランデーをもう少し入れましょう。ケーキを買うなら……微風通りの裏手にあるミ・ラルシェがお勧め。 八重花」と書かれた謎の紙があるばかりで、猫どころかケーキもなくなっている始末だった。

 人類未踏の味、「リエラを調理する」という大胆不敵な命題を完遂すべく、遂に八重花が動き出したのである。



- 研究施設 ランデール橋付近 -

 研究施設から中央繁華街、そして時計塔前広場へ続くランデール橋。
 そこで八重花と猫捕獲班が激突した。
 発炎筒の合図で集合し、静音から八重花の話を聞いたレオン、ファニス、カズホの3人が、トリモチを投じて虹色の猫の動きを封じ、悠々と猫を捕獲しようとしていた八重花の前に立ちはだかる。
「誰かを捕らえたり、傷つけたりする……そんなこと、私の存在にかけて許さない!」
 カズホが斬像矛と呼ばれる武器を振り上げ、ファニス、そしてファニスの飼い犬(にしか見えないリエラ)、ヌンティと共に八重花に躍りかかった。
「……邪魔……!」
 八重花はカズホの斬撃をいとも簡単に交わすと、カズホの足を払いながら返す手でヌンティごとファニスを突き飛ばす。
 2人の体が宙を舞い、橋の手すりを越えて川へ吹き飛ばされ、派手な水音を立てた。
 いかにリエラを使用しようと、その力を上手く引き出せなければ余り意味はない。
 2人の仲間が一瞬にして倒されるのを見て、レオンの額を冷汗が流れる。
 こんな年下の、どう見ても強さとは無縁の女の子が、なぜそんな力を持っているのか……
「悪いがここは通さん。…たとえ情勢が不利でも、…誇りというものが、俺にはあるからな」
 レオンは己を鼓舞するかのように唸り声を上げると、貧民街のストリートファイトで鍛え、君臨してきた自慢の鉄拳を八重花に繰り出す。
 が、それも、過去何度も大会での優勝経験を持つ古強者、八重花に一矢報いるには、まだまだ研鑽の足りない一撃だった。当てるどころか、突き出された腕を逆関節に極められ、そのまま腰を軸に投げ飛ばされてしまう。
「…未熟……」
 再び起こる水音を背に、八重花はトリモチで身動きが取れない虹色の猫を拾い上げた。

さぁ、いよいよ料理の時間だ。

 ほくそ笑む八重花の背後から体当たりを仕かけてきた人物がいた。赤毛の少年、アドルである。
 アドルの体当たりによって、手にした虹色の猫を取り落としてしまった八重花は、アドルを振り払って距離を離し正面から相対した。
 この赤毛の少年は、先程の3人とは比べ物にならない強敵だが……、正面から戦って勝てない相手ではない。
 身動きのできない虹色の猫は一先ず置いておき、先に邪魔者を排除すべく八重花が身構えた。
 と、そのアドル、そして八重花の横を、人影がまるで風のようにすり抜ける。
 アーリアだ。
 アーリアはトリモチに捕らわれた虹色の猫を拾い上げると、全速力で時計塔前広場に向けて走り出した。
 すぐさまその後を追おうとした八重花だったが、その前にアドルが立ちはだかる。
「……邪魔するなら……、容赦、しません」
 脇を駆け抜けようとする八重花の動きに合わせて、アドルが腰を落として掴みかかる。
 が、これは八重花の作戦だった。
 ヒラリとジャンプしてタックルを交わすと、アドルの肩を踏み台にして一気にアーリア目がけて跳躍したのだ。
 踏み台にされたアドルがバランスを崩して倒れこむ。そして、アドルが起き上がった頃には、もうアーリアも、そして八重花の姿もなかった。


 アーリアは背後でアドルが倒されたのが分かったが、今はそれを気にしている時ではない。
 アドルを倒した八重花がもの凄いスピードで自分を追っているのが分かったからだ。
「ちゃんと、帰してあげるからね……。あなたは、まだここに居るべきじゃない。きっと、時が来たら…また…」
 アーリアは胸に抱いた虹色の猫に話しかけながら舗装された道を疾走する。
 だが、八重花の方がスピードが速い。見る間に距離がせまばっていく。このままでは、追いつかれるのは時間の問題だ。
「しっかりつかまっててね!」
 アーリアは意を決すると、舗装された道を外れ茂みの中へ飛び込んだ。
 荒れた道は走りにくいことこの上なかったが、それは八重花とて同じはずだ。幸いにもその作戦は図に当たり、屋外での行動に慣れているアーリアは八重花を引き離すことに成功した。
 しかし、喜ぶのも束の間。
 八重花に追われてメチャメチャに走る内に、時計塔のほぼ真裏、切り立った崖に進路を阻まれてしまったのだ。
「どうしよう……」
 八重花はまだ諦めずに根気よく追って来ている。戦おうにも、八重花は、正面からぶつかって易々と勝てる相手ではない。
 追い詰められたアーリアは、周囲を見回して丈夫な木の枝を発見すると、腰に吊るしていたフック付きロープを投げて上手く枝に固定させた。
 そして、虹色の猫を抱いたまま、ロープを片手でよじ登る。
 非常に困難な作業であったが、この場を脱出するにはもはや上へ逃れるしかない。
 アーリアは懸命に登り続けたのだった……



- 時計塔前広場 コンサート会場 -

 アーリアの活躍によって、虹色の猫が連れて来られたのは、丁度コンサートの半刻前だった。
 そこには、ティクの報告によって連れてこられた、その猫を呼んだと思われるフューリアの子供が連れてこられ、後は虹色の猫の到着を待つばかりになっていたのである。
「……ほら」
 虹色の猫をトリモチから解放し、連れてこられたフューリアの子供の手に虹色の猫を渡すアーリア。
 子供は手渡された虹色の猫を、何ともいえない微妙な顔で眺めながら、困惑した表情をアーリアに向ける。
 虹色の猫にも何も変化が見られない。

 まだ生まれれていないリエラと、それを呼んだフューリアの子供。

 確証などなかったが、引き合わせれば何か起こると思うのが人情というものだろう。
 一向に何も変化が見られない1人と1体に、何か失望に似た疲れを感じたとしても、それは責めるに値しないことだろう。
 発見から今まで、一言も喋ろうとしないフューリアの子供。
 そしてその子供に何も反応を見せない虹色の猫。
 レダに聞こうにも、レダは昨日から眠りっぱなしで、一向に目を覚まそうとはしない。
 何か噛み合わない印象は拭い切れなかったが、とにかくこれで準備は整った。後はコンサートの開始と、『高天の儀』を待つばかりだった。



- 学生寮 フィブリーフの部屋 -

「さて、そろそろ時間だわ」
 フィブリーフはヴァイオリンの演奏を止めると、椅子から立ち上がって虹色の猫を手招いた。
 虹色の猫は素直にフィブリーフの手招きに従い、大人しく携帯用ネコハウスの中に入った。
「ごめんね。あなたは目立つから」
 そういってフィブリーフはネコハウスのケージを閉じると、それを手に自室を出た。
 今日も、昨日と同じようにヴァイオリンを演奏し、そして虹色の猫はずっと窓際でそれを聞いていたのだ。
 虹色の猫を送り返すという『高天の儀』。
 それが今日、時計塔前広場で行われることを耳にしたフィブリーフは、虹色の猫を連れてコンサート会場へ出発したのだった。



- 時計塔前広場 コンサート会場 -

「それじゃあ、コンサートを開始するぜ!」
 アルツハイムがそう宣言し、威勢のよい声を上げる。
 だが、その声に応える声はない。
 時計塔前広場、特別コンサート会場。
 そこには急ごしらえの仮設ステージがあり、アルツハイムとシューティングスターが楽器を片手にスタンバイしていた。
 そしてその周辺には、儀式警護に集まったレダ側の生徒が集まっているだけで、一般生徒の姿は全く見かけられない。
 それもそのはず。
 『高天の儀』のそもそも本来の意義は、フューリアの制御が効かないはぐれリエラを、強制的に元の世界に送り返す為の儀式であり、その性質上、危険な儀式であるのは間違いなかった。
 虹色の猫がどんな力を持つリエラか分からないが、『高天の儀』に抵抗して暴れだしたら巻き添えを食うかも知れない。それに、アドリアン・ランカークが『高天の儀』を襲撃するという噂もある。
 よって、一般生徒たちは離れた位置にある建物の屋上などに陣取って、望遠鏡などでこの『高天の儀 特別記念コンサート』を見物していたのだ。
「……僕の予想通りだよ、アル。大失敗だったね」
「みたいだな、シュー」
 さすがにこの状況を目の当たりにしては、アルツハイムもシューティングスターの言葉を認めない訳にはいかなかった。
 と、そのアルツハイムの言葉を待っていたかのように日が翳りだし皆既日蝕が始まった。
「スゲェ、これが日蝕ってやつか……」
 生まれて始めて見る皆既日蝕に、アルツハイムが感嘆の声を上げる。
 他の生徒たちもそうだったが、皆既日蝕に見入ってばかりもいられない。この間に『高天の儀』を行わなければならないのだ。
 猫の入れられた箱を中心に、6人の生徒が進み出て六芒星の頂点に立つ。
 そして、『高天の儀』を開始しようとした、その時!

「秘密結社、ハジケ参上!!」

 時計塔広場前、北東の方角から叫び声が上がる。
 しかしそのハジケの出現は、二重スパイであるパラリエッタによって、この会場を警備している全ての者が予期していたものだった。
「なに、なにが起こったの?!」
 パラリエッタの手引きによってコンサート会場にすんなり入り込み、計画の成功を確信していたエスらハジケ襲撃隊は、余りに組織立った頑健な抵抗に阻まれ、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれていた。
 密かに潜入したつもりが、厳重な警戒網の中へ誘き出され、そして完全に包囲されているのである。
 計画の失敗、そして状況の不利を素早く判断したエスは、懐から発光弾を取り出してそれを上空に撃ち、待機しているレコナに退却の合図を送った。
「了解!」
 その合図を見たレコナが、彼女のリエラ、ぼむ子の能力を発動する。
 途端にもの凄い轟音と光がコンサート会場に渦巻き、溢れ出した閃光が空へ駆け上った。
 ぼむ子の能力、大爆発は、殺傷能力こそないものの、その音と光で周囲の生物を一時的に麻痺させる効果がある。
 しかし、これも無駄に終わった。
 パラリエッタによって、ハジケが逃走の際に音と光で追っ手の追撃を阻む気であることが漏らされ、警備に加わった錬心館メンバーの手によって、全員に耳栓と作戦が伝達されていたのだ。
 当初の計画通り、音と光に紛れて逃げることもできないハジケメンバーを、時計塔に登って待機していたクーザ、そしてゆういちがそれぞれ狙い撃つ。そして、進めず、退けず、文字通り進退窮まったハジケ襲撃隊を、しんぺー、ミスト、マーカラ、ハルトらが散々に追い立てた。
 何とかして退路を!
 ハジケの未来の為、撤退の決断を下したエスは、退路を確保するために孤軍奮闘していた。しかし、さすがの彼女も名だたるフューリア、アルカードとファルクスの2人を同時に相手にしていては、身を守るのに精一杯で攻勢に転じられない。
「学園の平和を乱す者を、見過ごすわけにはいきません!」
 裂帛の気合と共に繰り出されたファルクスの攻撃を交わし、体勢の崩れたファルクスに攻撃しようにも、そこへアルカードの攻撃が繰り出され、それを防御せざるを得ない。その繰り返しだ。
 そのエスのピンチを救ったのは、他でもない“ハジケ首領”空牙だった。
「ハジケ参上!」
 突如乱戦の場に現れた空牙は、その良く通る威風堂々とした声でハジケ襲撃隊を鼓舞する。
「諦めるな、我が社員たちよ!!」
 空牙は滑るような動きでファルクスに近づくと、防御の暇を与えずファルクスの体を弾き飛ばした。そして、今度はエスと肩を並べ、2対1でアルカードに迫る。
 先程のエスと完全に立場が逆転してしまったアルカードは、エスと空牙の攻撃を支えきれずに包囲に穴を開けてしまった。
 その瞬間を見逃すエスではない。
 エスの号令一下、ハジケ襲撃隊はその突破口目がけて押し寄せ撤退を開始した。
 なおも追いすがるアルカードら警備隊。
 が、その前にしんがりを務めるロバートが立ちはだかり、「ハジケ万歳!!」の叫び声と共に自爆して、後続を完全に断ち切ったのだった……

 一方、ハジケの襲撃と同時に、虹色の猫周辺でも戦闘が起こっていた。
 会場警護にあたっていたはずのリンが、そのリエラ、ルトを影に忍ばせ接近し、虹色の猫が入った箱ごと、六芒星の中央から奪取したのである。
 が、リンの目的はすんでのところで達成を阻まれた。ずっと虹色の猫に注意を払っていた竜華が、リンの行動を逸早く察知し、その行く手に立ちふさがったのだ。
「酷いです……! やっぱり、最初からこうするつもりで、私たちに近づいたんですね?!」
 竜華は手にした片刃剣を構えながら、じりじりと間合いを詰める。
「お嬢さんには、分からない世界があるものさ」
「分からない……いいえ! 分かりたくもありません!」
 竜華は一気に間合いを詰め、中庸の構えから片刃剣を素早く前に突き出す。しかし、リンには掠りもしない。
 竜華は素早く片刃剣を引くと、今度は横薙ぎに払い、交わした相手を袈裟懸けに斬り付ける。
「おっとー!」
 が、その動きは完全に読まれていた。リンは危なげなく斬撃を交わし身を離す。
「お嬢さん。学科で教えているような真っ当な動きでは、僕を倒すことはできないよ」
 そういってうすら笑いを浮かべながらリンが大股に歩を詰める。
「その慢心が命取りです!」
 無防備に近づくリンに対して、竜華が必殺の突きを繰り出した。が、当たらない。リンは寝転ぶように地面に身を投げ出し、その突きを避けたのである。
 戦いの場で倒れて隙を見せることは、絶対的不利に繋がる。だが、リンはそれを自ら行ったのだ。
「まず、間を外す、ってことを覚えないとね」
 そういってリンは倒れたまま転がって竜華に近づき、その足を掴んで引きずり倒した。それと同時に、素早く身を起こして片刃剣を踏みつける。
「さぁ、授業料を払ってもらいましょう……」



 と、その時風を切る音がして、リンの頬を何かが掠めて地面に突き刺さった。
 バラの花だ。
 リンが素早く後ろを振り返ると、何者かが木の枝に立ってこちらを見下ろしている。
「誰だ?!」
「お前が誰かと問われれば、答えてあげるが世の情け」
「天に狼星、輝く時! 地に仮面の美女が現れる! 愛する者の願いを守るため! マスク・ザ・クイーンここに参上!!」
 そして、威勢のよいかけ声と共に、目の部分を隠す蝶々型の仮面を付けた女生徒が枝から飛び降りる。
 と、それに続いてもう1人、ハイドラがおっかなビックリ枝から幹を伝って這い下りた。
「さぁ、悪党! おいたの時間は終わりだよ!」
「……レナ。あなた、何やってるんですか?」
 リンは一発でレナの変装を見破ると、呆れたような声を上げた。いくら薄暗いとはいえ、いつも顔を合わせているのに、マスクだけで人相が分からなくなると本気で思っているのだろうか。
「マスク・ザ・クイーンと名乗ったろ」
「レナ」
「マスク・ザ・クイーン」
「レナ」
「マスク・ザ・クイーン」
「…………」
「マスク・ザ・クイーン」
 不毛な言い争いに疲れたリンは、ルトを近くに呼び寄せた。
「……で、マスク・ザ・クイーン。あなたは何をしたいんですかね」
「ようやく観念したわね、悪党! その虹色の猫を置いておきなさい」
「そうよ、勝手な真似はさせないわ!」
 レナの後ろに隠れるようにして、ハイドラも非難の声を上げる。
「嫌だといったら?」
「勿論! 鉄拳制裁!」
 さすがのリンも、レナとハイドラ、そして今動きを抑えているが、竜華の3人を相手に回して勝つのは難しい。
 リンはルトから虹色の猫が入った箱を受け取りながら、レナとハイドラを警戒する。
 と、リンはルトから受け取った箱の違和感に気づいた。
「ちょっと、待ってくれ」
 リンが2人を手で制しながら箱を開けた。
 箱は空っぽだった………



- レダの秘密の隠れ家 -

 パルミィは、自分の手際の良さ、効率の良さ、そして得られた成果に満足していた。
 コンサート会場を囮にして、別の場所で『高天の儀』を行う。
 その秘密の作戦は、ネイ、秋華、ウェイン、エレン、エリ、そしてトウヤの6人で行われ、誰にも明かされていなかったのが、この場合結果的に幸いした。
 彼女ら6人は、儀式直前になって連絡をよこし、小夜、十夜、ライル、ミリィの4人に頼んで、虹色の猫を別の場所、即ち、この隠れ家から程近い空き地に運ぶように指示してきたのだ。

 しかし、世の中何が起こるか分からない。

 誰かの人為的な妨害か、それとも皆既日蝕という自然現象が引き起こしたのは分からないが、リエラ同士の交信が完全に遮断されてしまったのである。
 そこで、予め用意してあった連絡網を使用しようとしたのだが、……不幸にも彼女らはパルミィという存在を知らなかった。
 それは彼女の特技。
 さり気なく、さり気なく準備を進め、絶対に自分が表舞台には登場しない。だから、誰もパルミィの存在に気がつかなくても仕方がなかったといえる。
 しかも、今度は虹色の猫を運ぶ場所を書き記した紙に、ほんの1本、強い折り目を加えただけ。
 この薄暗さでは、折り目は濃い影となって1本の縦線に見える。
 これで小夜たちは、ネイたちが待っている場所とは違う方角に歩き出し、………そして、皆既日蝕は終わり『高天の儀』は失敗するだろう。

 パルミィの望みは、まさにそこだった。
 帰るべきはずのリエラが帰れなくなった時、一体何が起こるのか?
 それが知りたかったのだ。
 その知的好奇心の前には、可哀相だの、友達だの、そんな些細な感情は存在する余地がなかったのである。



- 時計塔前広場 コンサート会場 -

 月が太陽を完全に覆い隠す頃、ハジケの襲撃は完全に失敗し、ハジケは散り散りに撤退した。
 自爆したロバートはそのまま担架で病院に運ばれ、軽い火傷と全治3日の診断を受けた。派手な演出の割には、その効果は見かけ倒しだったのかも知れない。
 そして、竜華、レナ、ハイドラの3人から意外な事実がもたらされた。
 虹色の猫が入っている、と思われた箱が、実はもぬけの空であったことが。
 まさかあの混乱の中、逃げ出したのだろうか。
 集まった生徒たちは互いに顔を見合わせる。
 だとしたら最悪だ。
 もう時間は半分しか残されていない。
 集まった生徒たちが不安に顔を見合わせた時、新たにコンサート会場に入ってくる人物の姿があった。
 フィブリーフである。
「あら、皆さん。『高天の儀』はどうなさったんですか?」
と、穏やかな顔で尋ねるフィブリーフ。
「どうしたも何も、虹色の猫が逃げ出したんだ」
「逃げ出した……って、今、わたくしが連れてきましたのに?」
 突然飛び出したフィブリーフの意外な言葉に、集まった生徒の中から大きなざわめきが生まれる。
 フィブリーフは集まった生徒たちに、一部始終を手短に説明した。
「……その話だと、どちらかが本物で、どちらかが贋物、ってことね」
マーカラが思案深げに言葉を漏らす。
「どっちが本物で、どっちが贋物か見分ける方法はないし、逃げた方を探しつつ『高天の儀』を行うしかないな」
 マーカラの言葉を受けて、アルカードがそう提案する。
「いいや。見分ける方法はあるぜ、先輩」
 と、そのアルカードの背後から誰かの声が聞こえてきた。振り返ったアルカードの目に、黒髪、黒い肌の少年の姿が目に入る。
 キックスだった。
「レダの言葉を思い出しなよ、先輩。まだ生まれていないリエラに、リエラに対する呼びかけは意味がない。その猫に交信してみて、できたら贋物。できなかったら本物だ」
 キックスの言葉に慌てて数人が交信を試みる。しかし、声は届かなかった。フューリアが発した思念は、何の抵抗もなく完全に虹色の猫を素通りして拡散していく。
「……だとすれば、この虹色の猫は本物だ。すると、後はさっきの子供に会わせれば……」
「それもダメだ。さっきあの子に問い詰めたんだが、あの絵は誰か他の人にもらったものらしい。それを喋ったら、取り上げられると思っていたそうだ」
「何だ、妙に手回しがいいな……。しかし、そうなるとそっちも振り出しに戻ってしまった訳か」
 新たな問題の発生に、再び全員が沈黙する。
「ううん、手かかりはあるよ!」
 その沈黙を打ち破って声を上げたのは、東条院 絢音だった。
「フィブリーフさんの話を聞いててピンときたんだけど、心当たりがあるよ!」
 東条院 絢音の言葉に、生徒たちが顔を見合わせてざわめき立つ。
「リディさん、ボクを運んで下さい! お願いします!」
「え、ええ……。分かったわ」
 突然話を振られたリディは、慌ててリエラを実体化させる。
「待って、私も行くわ!」
 実体化したリディのリエラ、ニャーの背に飛び乗ったリディ、東条院 絢音にシャーリーが続く。そして、3人を乗せたニャーは大空高く舞い上がったのだった。



- 学園都市アルメイス -

「……で、どこへ向かえばいいの?」
「聖アルテア孤児院へお願い!」
 東条院 絢音が時計塔前広場の南を指差しながら叫んだ。
「聖アルテア孤児院? どうしてそんなところに?!」
 リディは訝しげな声を上げながらも、進路を南へ向ける。リディが不思議に思うのも無理はない。聖アルテア孤児院は一般人、エリアのための施設であり、ここにフューリアの子供がいるとは思えなかったからだ。

 だが、東条院 絢音にはある1つの確信があった。

 確かにフューリアでなければリエラと交信することができない。
 しかし、あの虹色の猫はフューリアの声は届かないが、フィブリーフのヴァイオリンの音は届く。
 そしてアルファントゥの言葉、
「普通の人間でも感応力を高めればフューリアとなることができるかも知れない」

 昨日、アルファントゥと話を終えた後、東条院 絢音は中央繁華街のアルメイス・タイムズ社に向かい、ここ暫くで起きた大きな事件を片っ端から調べたのだった。
 東条院 絢音は、フューリアの素質を持った人間が、生命の危機に際してリエラを呼んだのかも知れない。そう考えたからである。
 そして、それらしい事件は見つかった。
 20日前に起こった火災事件。家屋は全焼し、末の娘を残して全員焼死という痛ましい事件だった。
 そして、身寄りがなくなった末の娘は、聖アルテナ孤児院へ送られたという。
 時期的にも、そして東条院 絢音が想像したシチェーションとも一致する事件。
 東条院 絢音は昨日、今朝と聖アルテナ孤児院へ赴き、その火災の唯一の生き残り、まだ8歳になったばかりの少女をそれとなく観察したり、シスターに尋ねたりして調査してみたが、手かかりらしい手かかりを得ることはできなかった。
 分かったことといえば、毎朝必ず庭に出て歌を口ずさんでいることぐらいで、これだけでは決定的な確信には至らない。

 しかし、フィブリーフから虹色の猫に関する一部始終を聞き、東条院 絢音は自分の中で最後のピースがピッタリと噛み合ったのを感じた。
 少女が口ずさんでいた歌。
 そしてフィブリーフが弾いた曲。
 それは、同じメロディーだったのだ。



- 時計塔前広場 コンサート会場 -

 リディ、東条院 絢音、シャーリーの3人がニャーに乗って大空へ舞い上がった後、コンサート会場に残った生徒たちは再び『高天の儀』の準備を開始した。
 虹色の猫が入ったネコハウスを六芒星の中心に置き、キックス、アルカード、マーカラ、ミスト、ハルト、しんぺーの6人が六芒星の頂点に立つ。
 そうして全ての準備が完了すると、キックスは空を見上げた。
 さっきよりも目に見えて月が移動している。皆既日蝕が終わるまで後四半刻、あるいは、それよりももっと早くか……。
 いずれにしろ時間がない。
「…もう時間がない。儀式を始めよう、先輩!」
 キックスが他の5人に向かって叫ぶ。
「しかし、まだリディたちが戻ってきていない」
「アルファントゥが言ってたんだ。猫とフューリアは会わせる必要はない……フューリアが名前を呼んでやるだけでいい、ってな」
「アルファントゥがそう言ったのか?!」
 アルカードの声にキックスが大きく頷く。
「分かった!」
 確かめようにも、レダとアルファントゥは昨日からずっと眠りっ放しだ。ここはキックスを信じる他ない。
 アルカードの合図で6人は同時に交信状態に入った。
 6人の体から淡い光が立ち上り、光の束が天へ向かって伸び上がる……

 が、その時異変が起こった。

 どこからか1つの影がキックスの背後に忍び寄り、その後頭部を手にした小剣の柄で強打したのだ。
 不意を突かれたキックスが脆くも崩れ落ちる。
 キックスが倒れたことにより六芒星の光は消え、立ち上る光は掻き消された。

 キックスを襲ったのは……黒装束に身を包んだ黒髪の少女、カレンである。
 カレンは気を失ったキックスの体を肩に担ぐと、六芒星の中央、虹色の猫目がけて走り出した。
 他の5人はまだ交信中で反応ができない。
 『高天の儀』を外から見物していたアルツハイムが、咄嗟に腰の剣を引き抜きカレンに向けて放とうとする。が、その手がすんでのところで止まった。
 アルツハイムの行動に気づいたカレンが、担いでいたキックスを盾にしたのだ。
「くそっ!」
 剣を投げるのを断念したアルツハイムは、剣を利き手に持ち替えて走り出した。
しかし、いくらなんでも距離が遠すぎる。
 アルツハイムがカレンに攻撃をしかけるよりも前に、カレンは虹色の猫に到達してしまうだろう。
 ここまではカレンの計算通りだった。が、まだ他にも伏兵がいた。
 ハジケ襲撃後も、用心深く時計塔の上で待機していたゆういちである。
「この距離なら……まぁはずすことは無いだろ」
 ゆういちがリエラの能力で作り出した光弓を引き絞り、カレン目がけて光の矢を雨霰と射掛けた。
 ゆういちのリエラ、ジェイクが作り出した光の矢は、アルツハイムの剣と違い物理的なダメージはない。当たれば気絶する程度のショックを与える代物だから、キックスを盾にされても大丈夫という訳である。
「くっ……!!」
 天性の素質と、そして鍛え抜かれた感覚を頼りに、カレンが遥か頭上から降り注ぐ光の矢を右へ左へかわす。が、ゆういちの正確な射撃の前に、虹色の猫に近づけないでいた。
 そのカレンの回避力の高さに、ゆういちが口笛を吹く。
 ただでさえ避けにくい上空からの攻撃に、よくあれだけ反応できるものだ。しかし、目的はある程度達成できた。アルツハイムが、カレンに肉薄する時間を稼げたのだから。
「覚悟しな!!」
 アルツハイムの攻撃を、カレンは大きくステップを踏んで攻撃を交した。
 と、そこにアルツハイムの追撃が繰り出される。
 この人一人を背負った状態では、さすがにこの二連撃攻撃は避け切れず、カレンの利き手が切り裂かれた。右手を赤い血が滴り落ちる。
「その手じゃもう剣は振るえないだろ。諦めて降参しな」
 だが、カレンにアルツハイムの勧告は届かなかった。……否、届いていたとしても、彼女が任務を放棄することは有り得ない。
 カレンは手にした小剣をアルツハイムに向かって投げつける。
「無駄だって!」
 アルツハイムが飛来する剣を叩き落した。と、今度はその顔面に人の体が迫る。キックスだ。
 さすがにこれを剣で叩き落す訳にはいかない。
 アルツハイムは飛来するキックスの体を両手で抱き止めた。
 そこに続けて与えられる衝撃。
 カレンが両手の塞がったアルツハイムに飛び蹴りを叩き込んだのだ。
 しかし、カレンがいくら鍛えているといっても、筋肉に覆われたアルツハイムを倒すには体重が足りなさ過ぎた。
 アルツハイムの体がぐらりと揺れたが、だが倒れない。
 カレン自身も、その飛び蹴りでアルツハイムがどうにかなるとは考えていなかったのだろう。
 素早く着地すると、体勢の崩れたアルツハイムの脇を駆け抜ける。虹色の猫目がけて。
 だが、その行く手には更なる新手が待ち構えていた。
 虹色の猫とカレンの間にある地面が盛り上がり、1人の少年が姿を現した。ホーキンスである。
「おっと、そこまでだ。この先は通せないな」
「そうだな。これ以上の狼藉は君のためにならん」
「やっぱり、こういうことになるのか……」
 ホーキンスに続いて、カレンの左右から別の声がする。ロキとゼロだ。
 と、それに合わせるようにして、再び六芒星が光を上げ、天空へその光を立ち上らせる。
 キックスの抜けた位置にマリーが入り、儀式を再開したのだ。
 ロキ、ゼロ、ホーキンス、そしてアルツハイムに四方を囲まれ、カレンの進退がいよいよ窮まる。
「さて。君はハジケの一員か、それともアドリアン・ランカークの手の者か……、後でじっくり聞かせてもらおうか」
 そういってロキが間合いを詰める。

 その時、天へ立ち上る光の柱は太陽に届き、空にゲートが開かれたのだった……



- 聖アルテナ孤児院 -

「はじまったわ……」
 時計塔前広場から空へ向かって光の柱が立ち上るのを確認したシャーリーは、足元の少女の手をギュッと握り締める。
「さぁ。今お話ししていた、猫の名前を呼んであげて」
 シャーリーの言葉に、少女はコクンと頷くとその名を呼んだ。



- 時計塔前広場 コンサート会場 -

 収束する力の前に、虹色の猫が入ったケージが弾け飛ぶ。
 そしてより強い光の柱は虹色の猫を包み込み、一瞬にしてその姿を遥かな空へ運び去った。

 眩い光がコンサート会場を包み込み、そして光の渦が爆発する。
 一瞬の静寂。
 全員が目を開けた時、そこには虹色の猫の姿はなかった。
 そして、黒装束に身を包んだ少女の姿も………



 学生寮の自室から光を眺めていたキシェロは、『高天の儀』の成功を確信してリエラの実体化を解除した。
 『高天の儀』が成功してしまっては、もう賞金を得ることはできない。

 「……今回は、運が無かったようですね」
 未知の食材。虹色の猫を追い求めた八重花も、その光の前に計画の保留を選択せざるを得なかった。

 その後、虹色の猫はどうなったのか。
 聖アルテナ孤児院の少女は、そう遠くない未来にフューリアとして覚醒するのだろうか。
 パラリエッタの二重スパイによって惨敗を期した秘密結社ハジケ。
 『高天の儀』を襲撃し、その姿を人前に現した影の騎士、カレン。

 そして、リエラの秘密を知るアルファントゥ。

 全ては、未来へと続く物語の布石であった。