蒸気開発研究室の隣には、双樹会会員専用の温水プールがある。極寒のアルメイスの冬でさえ、泳ぐことができるのが自慢だ。蒸気研の強火力実験用ボイラーの余熱を流用して、蒸気研と双樹会の共同で運営されている。 ある夜更けのことだった。宵闇に沈む温水プールの窓から、灯りが漏れていた。 蒸気研の帰りの遅くなった職員が、帰り際にそれを見つけ…… 「なんだ、消し忘れか? しょうがないなあ……」 そう思って灯りを消しに行った。ガス灯だけが残っていると思ったのだ。 「あれ? 暖房もつけっぱなしか?」 彼が鍵を取りに行って、温水プールの建物の中に入ると、中は酷く暑かった。 「それにしても暑いな……設定温度、間違えてるんじゃないのか?」 奇妙な暑さにぶつくさぼやきながら、更衣室、シャワー室を通り抜けて進んでいき…… プールがあるはずの空間に出ると、そこには…… 「な、なんだってー!?」 緑が繁っていた。 そして、もうもうと湯煙に煙っている。実際のプールの水面は、職員の立つ場所からでは繁る緑に阻まれて見えない。 天井を見ると……変わらずに天井はある。 「これは、いったいぜんたい……プールの水はどうなってるんだ? この分だと、ほとんど風呂だな」 理解不能の状態に、彼は一歩踏み出そうとした。 ぐるるるる…… そのとき、そんな唸り声が聞こえた。 「……な、なんだってー!!」 そして緑と湯煙の中から、大きな黄色と黒の縞模様の獣が現れた。 「うわーっ!」 そこで彼は、慌てふためいて温水プールを逃げ出したのだった……
「そんなことがあったわけなんですが……しかし、この彼が翌朝、カマー教授と一緒に温水プールを確認に行ったところ、そんなものは跡形もありませんでした」 逃げ帰った彼は一晩布団をかぶって怯えていたのだが、翌朝になって他の人が獣に襲われては大変だと思いなおした。それで、早朝に研究所へ行き、そこで休日に出勤していたカマー教授を捕まえて確認に付き合ってもらったのだと言う。だが、カマー教授と一緒に見に行ったそこには、いつもと変わらぬ温水プールが広がっていた…… それから数日。マイヤは「ちょっと頼みたいことがあるのですが」と言って、人を集めていた。 そして集めた生徒を前にして、この話を始めたわけである。 「翌朝には、いつも通りだったそうです。開け放して逃げ帰ったはずの鍵も閉まっていたそうで」 夢でも見たのでは……とカマー教授には言われたのだが。 「でも、確かに見たのだと彼は言っています。そして、気になったので、自分で調べてみたのだそうです。そうしたら……」 これを見てください、とマイヤは油紙の包みを差し出した。 中には少量の泥と、葉っぱが数枚。 「これは、アルメイスの付近にはない植物の葉です。もっと南の方ですね……とは言え、常夏というほどひたすら暑い地方のものでもないようですが。温暖で湿潤な地方の植物のようです。これが、排水溝に引っかかっていたのを見つけたのだそうです」 証拠というわけだ。 「自然現象ということは考えにくいわけでして、なんらかの原因があることは間違いありません。実際に温水プールに植物を持ち込んだ者がいるという可能性もあるわけですが、そうすると、翌朝までに撤去した手際の良さが気になります。しかも、当日の昼間……いや、夜に最後の利用者が帰るまでは、確かにプールは普通の状態だったのです」 つまり、夜半までに持ち込んで、朝までに撤去したというわけだ。 「大型獣がいたということも少し気になります。そこで、皆さんに調査していただきたいのです。悪意ある行為かどうかは今の時点では判断できませんが、何かある前に未然に防ぐということも必要でしょう。ここは一つ、誰が何のためにそんなことをしたのかを突き止めていただけませんか」 今は掃除も入ってしまったので、探しても他にはこういった証拠らしいものは残ってはいないだろう。 被害者は出ていないが、手がかりも少ない。また、現時点では再度起こるという見込みはない。今のところは後にも先にも、蒸気研の職員が遭遇した、そのときだけなのだ。 「中で見張りたいという人がいるのでしたら、僕のほうに言いにきてください。でも、それで授業が免除になったりはしませんからね。昼間はちゃんと授業に出てくださいね。授業に出ない人には、夜の見張りは許可しませんから」 しかし昼間授業に出ながら毎日見張るのは、多分無理だ。そんなことをすればじきに寝不足で倒れてしまうだろう。見張る者は、いつ見張るのかを考えなくてはならない。 「まあ、大掛かりなものですから、もしも誰かが見張っていたら、その日には犯人は現れないでしょうけどね。そうそう、場所が場所ですから、過去見や遠隔視聴には細心の注意を払わなくてはなりません。やたらな場所ではできませんから、必ず僕が立会います。こっそりやってる人がいたら、止めてくださいね……さすがに、覗きと区別できませんから」 そのように、話が終わろうとしたときのことだった。 「ちょっと、会長ぉー? これってばなんの騒ぎ?」 カマー教授がその場に乗り込んできたのだ。 「やあね、こんなおおげさにするようなことかしら?」 何か被害が出たわけでもないのに、と、カマー教授はマイヤの調査の方針にご立腹だ。 「言っておくけど夜中に蒸気研の敷地内でうろうろしてる子や、昼間でも騒ぎを起こしてる子がいたら、つまみ出すわよ? こっちだって管理責任ってもんがあるんだから!」 と、カマー教授は鼻息も荒い。そしてプールも蒸気研の敷地内……と言えば、敷地内である。 「そうですか……教授の言い分も理解はできますけれど」 と、マイヤは腕組みした。
一方その頃、研究所の近くの路上をてけてけ歩くラジェッタがいた。少し後ろからそれを追うように、エイムが歩いてはいるが…… ラジェッタは歩いているだけではなくて、建物の間の路地を覗いたり、ゴミ箱の中を覗いたり、ベンチの下を覗いたりしている。 「なーにしてるの!?」 「きゃ!!」 そのラジェッタに、クレアがたたっと近づいて横から抱きついた。 「あ、おねえちゃん……あのね、ラジェッタ、ねこちゃん、さがしてるの」 「猫?」 「うん、にげちゃったの」 「そっか……じゃあ、私たちも探してあげる!」 そう、クレアは後ろにいたルーを振り返った。ルーがうなずくのを見て、ラジェッタに向き直る。 「どういう猫なの?」 「きいろいしましまのねこちゃんなの」 |
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