宵闇と暁のジャングル風呂
 蒸気開発研究室の隣には、双樹会会員専用の温水プールがある。極寒のアルメイスの冬でさえ、泳ぐことができるのが自慢だ。蒸気研の強火力実験用ボイラーの余熱を流用して、蒸気研と双樹会の共同で運営されている。
 ある夜更けのことだった。宵闇に沈む温水プールの窓から、灯りが漏れていた。
 蒸気研の帰りの遅くなった職員が、帰り際にそれを見つけ……
「なんだ、消し忘れか? しょうがないなあ……」
 そう思って灯りを消しに行った。ガス灯だけが残っていると思ったのだ。
「あれ? 暖房もつけっぱなしか?」
 彼が鍵を取りに行って、温水プールの建物の中に入ると、中は酷く暑かった。
「それにしても暑いな……設定温度、間違えてるんじゃないのか?」
 奇妙な暑さにぶつくさぼやきながら、更衣室、シャワー室を通り抜けて進んでいき……
 プールがあるはずの空間に出ると、そこには……
「な、なんだってー!?」
 緑が繁っていた。
 そして、もうもうと湯煙に煙っている。実際のプールの水面は、職員の立つ場所からでは繁る緑に阻まれて見えない。
 天井を見ると……変わらずに天井はある。
「これは、いったいぜんたい……プールの水はどうなってるんだ? この分だと、ほとんど風呂だな」
 理解不能の状態に、彼は一歩踏み出そうとした。
 ぐるるるる……
 そのとき、そんな唸り声が聞こえた。
「……な、なんだってー!!」
 そして緑と湯煙の中から、大きな黄色と黒の縞模様の獣が現れた。
「うわーっ!」
 そこで彼は、慌てふためいて温水プールを逃げ出したのだった……


「そんなことがあったわけなんですが……しかし、この彼が翌朝、カマー教授と一緒に温水プールを確認に行ったところ、そんなものは跡形もありませんでした」
 逃げ帰った彼は一晩布団をかぶって怯えていたのだが、翌朝になって他の人が獣に襲われては大変だと思いなおした。それで、早朝に研究所へ行き、そこで休日に出勤していたカマー教授を捕まえて確認に付き合ってもらったのだと言う。だが、カマー教授と一緒に見に行ったそこには、いつもと変わらぬ温水プールが広がっていた……
 それから数日。マイヤは「ちょっと頼みたいことがあるのですが」と言って、人を集めていた。
 そして集めた生徒を前にして、この話を始めたわけである。
「翌朝には、いつも通りだったそうです。開け放して逃げ帰ったはずの鍵も閉まっていたそうで」
 夢でも見たのでは……とカマー教授には言われたのだが。
「でも、確かに見たのだと彼は言っています。そして、気になったので、自分で調べてみたのだそうです。そうしたら……」
 これを見てください、とマイヤは油紙の包みを差し出した。
 中には少量の泥と、葉っぱが数枚。
「これは、アルメイスの付近にはない植物の葉です。もっと南の方ですね……とは言え、常夏というほどひたすら暑い地方のものでもないようですが。温暖で湿潤な地方の植物のようです。これが、排水溝に引っかかっていたのを見つけたのだそうです」
 証拠というわけだ。
「自然現象ということは考えにくいわけでして、なんらかの原因があることは間違いありません。実際に温水プールに植物を持ち込んだ者がいるという可能性もあるわけですが、そうすると、翌朝までに撤去した手際の良さが気になります。しかも、当日の昼間……いや、夜に最後の利用者が帰るまでは、確かにプールは普通の状態だったのです」
 つまり、夜半までに持ち込んで、朝までに撤去したというわけだ。
「大型獣がいたということも少し気になります。そこで、皆さんに調査していただきたいのです。悪意ある行為かどうかは今の時点では判断できませんが、何かある前に未然に防ぐということも必要でしょう。ここは一つ、誰が何のためにそんなことをしたのかを突き止めていただけませんか」
 今は掃除も入ってしまったので、探しても他にはこういった証拠らしいものは残ってはいないだろう。
 被害者は出ていないが、手がかりも少ない。また、現時点では再度起こるという見込みはない。今のところは後にも先にも、蒸気研の職員が遭遇した、そのときだけなのだ。
「中で見張りたいという人がいるのでしたら、僕のほうに言いにきてください。でも、それで授業が免除になったりはしませんからね。昼間はちゃんと授業に出てくださいね。授業に出ない人には、夜の見張りは許可しませんから」
 しかし昼間授業に出ながら毎日見張るのは、多分無理だ。そんなことをすればじきに寝不足で倒れてしまうだろう。見張る者は、いつ見張るのかを考えなくてはならない。
「まあ、大掛かりなものですから、もしも誰かが見張っていたら、その日には犯人は現れないでしょうけどね。そうそう、場所が場所ですから、過去見や遠隔視聴には細心の注意を払わなくてはなりません。やたらな場所ではできませんから、必ず僕が立会います。こっそりやってる人がいたら、止めてくださいね……さすがに、覗きと区別できませんから」
 そのように、話が終わろうとしたときのことだった。
「ちょっと、会長ぉー? これってばなんの騒ぎ?」
 カマー教授がその場に乗り込んできたのだ。
「やあね、こんなおおげさにするようなことかしら?」
 何か被害が出たわけでもないのに、と、カマー教授はマイヤの調査の方針にご立腹だ。
「言っておくけど夜中に蒸気研の敷地内でうろうろしてる子や、昼間でも騒ぎを起こしてる子がいたら、つまみ出すわよ? こっちだって管理責任ってもんがあるんだから!」
 と、カマー教授は鼻息も荒い。そしてプールも蒸気研の敷地内……と言えば、敷地内である。
「そうですか……教授の言い分も理解はできますけれど」
 と、マイヤは腕組みした。


 一方その頃、研究所の近くの路上をてけてけ歩くラジェッタがいた。少し後ろからそれを追うように、エイムが歩いてはいるが……
 ラジェッタは歩いているだけではなくて、建物の間の路地を覗いたり、ゴミ箱の中を覗いたり、ベンチの下を覗いたりしている。
「なーにしてるの!?」
「きゃ!!」
 そのラジェッタに、クレアがたたっと近づいて横から抱きついた。
「あ、おねえちゃん……あのね、ラジェッタ、ねこちゃん、さがしてるの」
「猫?」
「うん、にげちゃったの」
「そっか……じゃあ、私たちも探してあげる!」
 そう、クレアは後ろにいたルーを振り返った。ルーがうなずくのを見て、ラジェッタに向き直る。
「どういう猫なの?」
「きいろいしましまのねこちゃんなの」

■見える真実■
 プールに突然ジャングルが現れた……

 今回のプールの調査では、双樹会のマイヤの意向と、蒸気開発研究室のカマー教授の意向が食い違っている。いかに学園長と親密であろうとも学生の代表であるマイヤが無理を押して捜査を進められるほど、事態が切羽詰っているわけでもないこともあって、管理責任を主張するカマー教授と真っ向からぶつかる形となっていた。
 昼間はともかく、問題は夜だ。ここで表立って強行にマイヤが調査を進めれば、カマー教授のみならず、教授会からの反感も出てきかねない。教授会全体では、今はどちらにも一定の理があると静観の構えだった。
 夜に表立って動けないとなると、とりあえずは昼間に人が普通に入れる時間に調査をするしかない。ここで期待されるのは、どうしても過去見の力となるだろうか。
 だがしかし。
「それはやめてくださいね」
 “影使い”ティルがマイヤに過去見を許可したことを確認に来たとき、マイヤに何故と問われた。ティルのリエラでは、過去見はできないからだ。それで、ティルが過去見を使って捜査するから自首せよと噂を流すとつもりだと答えると……マイヤはそれを即座に止めた。
「なぜ?」
 納得できない様子のティルに、マイヤは苦笑を見せる。マイヤが口を開くより先に“笑う道化”ラックが、あきれたようにティルにつっこんだ。
「なあなあ、キミ、幻覚って能力、知らへんの? ボクにやって、あれが幻覚やったら過去見で見ても誰にも気がつかれへんように出して消してってできるで?」
 幻覚で自分の姿をわからなくした上で、ジャングルの幻覚を出せば良いだけだ。土や葉っぱは、ただの偽装かもしれない。
 姿を消すのではなく誰かの幻影をまとえば、罪をなすりつけることだってできる。その結果を無闇に信じれば、いつか真犯人に行き当たろうとも、取り返しのつかない大きな傷跡を生贄となった人に残すだろう。
「エリス君の事件のときのことが良い例でしょうね……君はあのとき、いませんでしたね。過去見は、証拠にはならないのですよ」
 過去見をした者の証言は、何を見たかを偽らぬ呪いと、偽りの過去に惑わされぬ力がなければ証拠にはなりえない。仮に他人に見せられるものであっても、それが偽りの過去でない保障が必要だ。だがリエラの能力の細かなところは千差万別で、幼い頃から学園に管理されて育たなかったならば能力そのものを偽ることも不可能ではない以上……
 マイヤは微笑んだ。
「ティル君、君が善い人であることは疑いないと思います。発覚すると思ったら自首してくると考えるのは……君が本当に善い人だからです。でも、世の中には残念ながらそうではない人もいると思わなければ」
 実際に“自称天才”ルビィの口車に乗って、マリーがプールの過去見反対を口実にマイヤの様子を覗きに来ている。だが、マイヤ公認の過去見の方針を聞くだけで引き下がった。マイヤも様子を見に来た理由を追求はしなかった。マリーが今回の事件とは関係ないかどうかはさておき、探られると痛い腹を持っているから、そんな駆け引きも成立する。
「また、関係のない人に被害を出さないよう、配慮しなくてはなりませんね……君は不安にはなりませんか? 過去見をする者が、あるいは視覚を偽れる者が、自分を陥れようとしたらどうしようか……と。過去見を必要以上に強調することは、その不安を煽ることです」
 ティルの流そうとした噂に恐れおののくのは、罪人だけではない。
 噂の独り立ちしたその先は、無辜の民の不安に繋がる。冤罪の想像だけではない。誰に責められることもない完全に清廉潔白な者など、何一つ秘密のない者など、現実にはけっして存在できないのだから。自分の秘密に行き着いたら……と。
「ですからあくまで、過去見で見えたものは参考程度でなくてはなりません。必要以上に使いすぎてもいけません。犯罪者に脅威であるからと言って、罪なき者を脅かして良いことにはならないのですから。だから、こっそり行っている者は止めてくださいとお願いしたのです。そしてラック君の言うとおり、犯人は過去見を恐れず、関係ない者だけが恐れることとなるかもしれないのです」
 ここはフューリアの学び舎、アルメイス。悪意と意図があれば、真実を覆い隠すことなど容易な者たちの集う場所だ。
 真実を見極める力は、リエラの力ではない。フューリアの持つ理性と思慮だけが、真実を掴みうる……
 それらはエリスの冤罪事件の過去見の折にも、繰り返された言葉だった。
「見えた物が真実である保障はないのですから……いいえ、あなたが嘘をつくと言っているのではありませんよ?」
 そういうマイヤの横には、これからまさに過去見をしようという“憂鬱な策士”フィリップがいる。当然のことながら、複雑な表情を見せていた。
 自分を信用できないと言われたも同然なのだから、心中は複雑だ。
 だが、それも過去見や遠隔視聴などの……他人に厭われる力の逃れえぬ宿命でもある。リエラの力の中には使い手に孤独をもたらしやすい悲しい力もあって、過去見はその中の代表的な一つなのだから。
「フィリップ君、気を悪くしないでくださいね……過去見で見られることを意識している計画的な事件ならば、どこまで対策しているかわからないということです。油断をすると、相手の思惑に乗ってしまうことになる」
 見えたものが真実か否か。あるいは……何を見たならば、真実を得られるか。注意深く判断する力が必要だ。
 わかっているとフィリップは肩をすくめた。悲観的なフィリップ自身、彼のリエラであるセシルに、この事件のすべてがわかるとまでは思っていなかったからだ。……わかるかもしれないという、可能性の問題である。
「気にするな! これも正義のためだ!」
 “蒼空の黔鎧”ソウマが、突然声を張り上げた。そうは言ってもさすがに萎れかけていたフィリップも、びっくりして背筋を伸ばす。
 まわりにはマイヤに見回りや調査の許可を求めに来た者たちがいたのだが、ソウマはその一人。それで悪が断たれるのなら、自分が正義を尽くすのならば、過去見の何が悪いと言って、逆にフィリップに迫る。
「いや、気にしてはいないが……そもそも私のセシルが見えるものには限りがあって、なんでもかんでも見えるわけじゃない。見られたくないのなら警戒してもらっても構わないし、無闇に見ないと信じてくれる人とだけ親交を持っても特に問題はないし」
 かえって困惑しながら、フィリップは答える。それをちゃんと聞いているのかいないのか、ソウマはやっぱりまくしたてた。
「なら迷わず見ろ! 胸を張って見ろ! それからそこの! お前は悪の匂いがする!」
 次にソウマが迫ったのは、ティルにだ。
 ティルはなんでという顔を見せるが。
「罪なき民衆を不安に陥れる、それが悪でなくてなんだというんだ!」
 ソウマ君、そのぐらいにしておきましょう、とマイヤが間に入らなかったなら、息の続く限りソウマはわめきたて続けただろう。
「どんな力も正しく使われれば、問題はないのです。そして正しく使われていると信じてもらうためには、してはいけないことがあるのですね」
 過去見に結論を頼ること、頼っていると思わせることは、してはいけないことなのだ。その結果を闇雲に信じられても、まったく信じなくても、わずかに疑われたとしても、やはりどこかで不幸な人を生み出すことになる。
 大切なことは、過去見で得られた手がかりを読み解くことと、それを裏付けること。そこでようやく、過去見は真実と正義を得る。
「ああ! だから俺は行くぜ! 会長! 俺と俺の正義を信じてくれ! 俺にプールを見張る許可を!」
 ムダに熱く訴えるソウマを、どうどうと抑えつつ……
「僕の責任の範囲で、調査は許可します。気をつけて欲しいことは、器物の損壊や関係のない人に迷惑をかけないこと。こういったことがあれば、カマー教授の主張が正当となって、その後の調査に支障が出るでしょう」
 調査できなくなるのは、ここにいる誰にとっても本意ではない。
「あと、カマー教授や蒸気研の方々に調査を止めるよう言われたり、あるいは調査の邪魔もしてくるかもしれませんが、無駄な争いは避けてください。極力……穏便に」
「わかったぜ!」
 本当にわかっているのかと聞く前に、ソウマは会長室を走り出ていってしまった。
「行ってもうたなあ。大丈夫なんやろか」
「一人でずっとは無理ですよ。見回りのローテーションを作ろうと思っていたんですが」
 それをあーあと見送って、“旋律の”プラチナムは手元の表を見た。
 勝手に過去見や遠隔視聴をすることを制限するのだから、昼間だって誰かは見張らないといけないのだ。
「まあ、この人数だ。分けるとしたって、午後と夜の当番くらいだろう」
 “伊達男”ヴァニッシュは、部屋に残ったメンバーを見回す。ヴァニッシュには残念なことに、マイヤにきちんと協力を申し出た者は多くはなく、その中に女性は一人だけだった。紅一点は、“深藍の冬凪”柊 細雪。
 細雪は先ほどから一人、しきりに首を傾げている。
「さっきからどうしたんだ、細雪?」
 話が途切れたこの隙に、ヴァニッシュは気になる紅一点の挙動不審を訊ねた。
「黄と黒縞の大型の獣……なにやら聞き覚え見覚えがあるような気がするのでござるが、ど忘れしてしまったようでござる」
 それで考え込んでいたのかと、ヴァニッシュはフッと笑って髪をかき上げ胸を張る。
「そいつは虎っていうんだ、細雪」
「虎……そうでござるな。虎! ……されど、レヴァンティアースにも虎はいるのでござるか? 故郷楼国にはおりまするが、北方にいるとは思いもよらず……それゆえ失念してそうろう」
 ああ、と細雪は納得できたが、新たな疑問がわいてくる。
「サーカスとかにはいるね。見世物になるくらいだから、その辺にたくさんいるってわけじゃないが、実は帝国にも虎がいる地方もあるんだよ。この辺じゃないけどな」
 毛の白っぽいヤツだが……とヴァニッシュは説明する。聞き手が細雪と麗人なので、説明にも力が入っている様子だ。
「ヴァニッシュ殿、詳しいでござるな」
 細雪の感嘆の視線に気を良くして、さらにヴァニッシュは口の滑りもよい。
「フフ……俺は、動物好きなのさ。もちろん一番好きな物は、美しい女性だがね……なあ、細雪」
「しかし虎となれば……マイヤ殿」
 だが、ここからが口説きの本番とヴァニッシュが細雪の肩に手を回そうとしたところで、細雪は一歩、マイヤのほうへ。……むろん、細雪に他意はないが。
 すかったヴァニッシュに気づくこともなく、細雪はマイヤに申し出た。
「発見されたのは南方の植物とのこと。やはり、楼国の植物でござろうか」
 それを見せて欲しいと。
「あ、ルカにも見せて欲しいです!」
 “七彩の奏咒”ルカが手を上げる。
「葉はこちらです」
 泥土はフィリップの提案で、地質学関係の教授とその研究室に分析を頼んでいるという。蒸気研との関係が微妙だが……学園内に他に学術的な判断のできる場所はないので仕方がない。ちなみに研究所エリアの中では蒸気開発研究室と能力開発研究室が2大勢力だが、他の研究室がないわけではない。小さな研究室はたくさんある。それこそ教授の数と同じくらいには。
「これは……」
「見覚えはありますか?」
「やはり楼国のあたりの葉でござる。見たこともあるでござるが、何の葉だったかは思い出せませぬ……蔓を延ばす樹の葉に、このようなものがあったように思うでござる」
 葉は小さいものと、大きなものが千切れた一片とある。成長した葉の全体は、小さくはないだろうと思われた。
「実は酒に漬け込んで……あれはなんと言ったか……『もくてんりょう』……でござったか」
 また細雪は考え込んでいる。
「もくてんりょう? そういう名前なんですか?」
 ルカはそれをメモして、図書館に行くと出て行った。もっとも、帝国の言葉ではないので、そこから調べ上げるのは骨だろうが。
「見てみますか、フィリップ君」
 フィリップのリエラ、セシルは植物に関わる過去を見ることができる。この葉から、閉館時間から職員が確認した時間までを覗こうというのだ。ちなみにセシルは、チーズケーキで既に懐柔済みである。
「では……セシル、見てくれるか?」
 その葉を受け取り……セシルは告げた。
「……温室のようですわ」
「温室?」
 セシルが見ているのは、プールの終了時間に、この葉があった場所だ。
「研究所の裏手の方に温室があったっけな」
 ヴァニッシュが思い出す。中身は研究用の植物の栽培なので、関係者以外は立ち入り禁止の場所だ。
「出所はそこか?」
「まあ、南方の植物だろうということも、そこから聞いたことでしたからね」
 マイヤもうなずいた。
 フィリップはここから先、職員がプールでジャングルを見た時間までをセシルに見てもらうように頼んでいるが、さすがにすべて連続には見られない。休養を挟んで……今日中には終わらないだろう。
 そしてティルにも説明したとおり、見えたら終わるというわけではない。
「じゃあ、こちらは当番を決めましょうか」
 その間にと、プラチナムが残っている者を見回したが……
「この人数だしな、カマー教授が反対してるからには余計に授業に出ることは必須だし、厳密に決めるまでもないんじゃないか? まあ、あれだ、犯人を見つけるだけならちょろいぜ」
 見てな? と“白衣の悪魔”カズヤがにやりと笑う。
「愛するマイヤのためなら、俺は無敵さ」
 そしてマイヤの肩に腕を回した。ヴァニッシュとは違ってすかることはなく、すんなり顔が近づく。
 マイヤは動じることなく微笑み返して、期待していますよと答えた。
「えーっと……そうだな、俺も、しばらくは閉館時間までプールにいるし」
 と、至って趣味はノーマルなヴァニッシュはちょっぴり反応に困りつつもハンドタオルを持って格好つける。
 ……あまり格好ついてないのは、さておくとして。
 見張りが目的ではないが、必要ならば気にしておこうとヴァニッシュは約束した。
「君は何を……?」
 見張りが目的でないのなら、何をしに行くのかとマイヤが訊ねると……
 よくぞ聞いてくれましたと、ヴァニッシュはハンドタオルを掲げた。
「虎がいたのなら、毛も落ちたはずだ! それをゲットして、必ずマイヤに届けてみせるぜ!」
 ということですちゃっと手を挙げ、行ってくる、とヴァニッシュは出て行った。
「なあ、マイヤ」
「なんでしょう?」
「プール、もう掃除入ったんじゃなかったっけ?」
 カズヤの問いに、ええまあ、と曖昧な顔でマイヤはうなずく。
「運が良ければ残っているかもしれませんしね……」


■ねこの真実■
 相変わらずのクレアが通りすがりの生徒たちに声をかけまくったのもあって、数日がたつ頃にはラジェッタの猫探しの面子は膨れ上がっていた。
「猫を探すには、猫の気持ちがわからないとね!」
 なんて言って“六翼の”セラスと“双面姫”サラ、“緑の涼風”シーナの三人が、どこから買ってきたのか作り物の猫耳猫尻尾をラジェッタにつけたりしていたのも、人目を引いた原因だろう。
 もちろん三人娘は、自分たちも装着済みだ。
「あたしもつけるー!」
 なんて面白がって、クレアも猫耳をつけている。
 まあ、わかってやっている少女たちはいいとして、すっかりおもちゃになっているラジェッタを、誰か止めてやれと内心考えていた者もいたけれど、
「可愛ぇなあ……ラジェッタちゃん」
 おおっぴらに萌えあがっている“轟轟たる爆轟”ルオーやら、
「……写真が欲しい……」
 ひそかに萌えあがっている肝心の保護者やらが囲んでいるので、手の出しようがない。
 “怠惰な隠士”ジェダイトなどは、エイムにもっとラジェッタの近くに行ってやれとけしかけたのは正しかったのか? と頭を抱えていた。
 いきなり親子の再会を果たした二人に本当のところ、戸惑いがないわけでもない。しかも、ある意味、エイムが人としての生ある間には果たされなかったと言ってもいい再会だ。埋められない時間と、存在の差が、そこにはある。
 とは言え、血を分けた娘が可愛いのはどこの世界にもある程度成立した法則のようで、愛情が欠乏していることだけはなさそうだった。それは今の様子から見て取れる。ただ、お互いに『正しい父子の接しかた』がまだよくわかってないというところだろうか。
「……みんなで何してるの?」
 そんなだから、“海星の娘”カイゼルが怪訝そうに聞いたのも、無理からぬことだ。
「猫を探しているんですよ」
 逃げてしまったんですって、と“弦月の剣使い”ミスティがカイゼルに答える。
「そうなの。じゃあ、私も手伝うよ」
 よく見れば、ラジェッタで遊んでいるようにしか見えないセラスとサラ以外は……“竜使い”アーフィや、ルーなどは、路地裏を覗いたりと確かに猫を探している風だ。もっともルーは集まってきた者たち、特に男子と距離を置きたくて、探すほうに力を入れているのかもしれなかったが。
「ルーさん、一緒に探そ!」
 カイゼルがぽんとその肩を叩くと、ルーはおどおどと顔をあげた。
「……通りすがりの人に声かけたりって大変でしょ?」
 ちょっと囁くようにカイゼルがそう言うと、ルーはこくりとうなずいた。
「じゃ、ちょっと待ってて……もう少し猫の特徴聞いてくるね」
 それでカイゼルがラジェッタのところに戻ると、話を聞いてから、それぞれに支度をしてきた者たちなどもまた増えていた。
「ラジェッタが探している猫が、プールに出たという大型獣ではないかと思うのですが……」
 と言いに来た“滅盡の”神楽などもいて、人数が増えて、混乱気味である。
「やだなあ! もう〜!」
 その神楽の背中を、バンバンと叩きながら“路地裏の狼”マリュウは笑い飛ばした。
「私とおんなじ誤解してるし!」
「ご、誤解?」
「そうだよ! 私も大きな猫かと思って気が遠くなりかけたけど……それじゃあ、ベンチの下には入らないって!」
「べ、ベンチの下?」
「そうだよ、ラジェッタちゃん、そういうとこ探してんだもん」
 だから大きいはずはない……とマリュウは言うが、それにはサラが、
「甘いですわ!」
 と反論した。
「普段は猫サイズで、大きさが変化するのかもしれません」
「……って、それじゃリエラじゃない!」
 さすがにリエラだとまで考えていた者はその場にはおらず、「ええー!」と声が上がる。
「どうなの? ラジェッタちゃん!?」
 マリュウは、慌ててラジェッタを振り返る。
「にゃーん」
 で、返事がこれだ。
「違うって言ってるわ」
 猫になりきるために猫語で話せ……というのも隣に立っているセラスの入れ知恵……らしい。
「いい加減になさいませ」
 その後ろ頭を、“風曲の紡ぎ手”セラがぱしっと叩いた。
「ええ〜、いいじゃないの、可愛いんだからぁー」
 ラジェッタの猫語は自分がすべて訳してみせようと、セラスは胸を張る。探し猫は大型獣では、リエラでは、と考えている者たちと比べたらお気楽な限りだ。
「小さな子をからかって!」
 叱りつけるセラは……反省のなさそうなセラスを、すうと息を吸って睨みつける。
「……わかりましたわ、私が今、猫ちゃんを連れてまいりましたので、その子かどうかラジェッタちゃんに確かめてもらいましょう。通訳が役に立たなかったら……あなたはクビ!」
「え? 猫連れてきたの?」
 セラスがきょろきょろすると……セラの足もとに薄茶の縞々の猫が一匹いる。足もとにすり寄って、なおぉ、と鳴いていた。
 いや、なんか気がつくとまわりには、模様を問わないなら猫がイッパイ。なんでこんなにいっぱい? という疑問にセラは答える。
「呼び寄せられるか試してみましたの……この子かしら? ラジェッタちゃん」
「にゃーん」
 ラジェッタは目を輝かせて、屈んで手を出した。
 しましま猫は意外に人懐こく、その手に顔をすり寄せている。
「え、ええっと……そう……かな?」
 この嬉しそうな様子は、当たりか? いやでも、と迷いつつ、セラスがいちかばちかで答えるが。
「ラジェッタちゃん? 正解は?」
「ちがうの、このこじゃないのー」
 セラス、敗北。
「役に立たない通訳ですわね」
 勝ち誇るセラの前に、セラスはがくりと膝と手を突く。
「どうやって連れてきたの?」
 ラジェッタと並んで、マリュウが猫を撫でながら聞く。
「ムーサで、メス猫の声で呼んでみたんですの……発情期の」
 ちょっと恥ずかしげに、セラは説明した。それでオス猫が寄ってきたというわけらしい。
「へえー、声でわかるんだ」
「母猫が仔猫を呼ぶ声や、仔猫が母猫を呼ぶ声も違いますわ」
 他にもいろいろ違うのだろうけれど、それ以上はさすがに区別がつかないというわけで、試しにそれで呼び集めてみようということだった。
 でも、その前に……
「もう少し、特徴をお聞きしたいですわね」
 黄色い縞々だけでは、と、セラはラジェッタとエイムを交互に見る。
「ラジェッタちゃん、動物図鑑持ってきたで!」
 そこに、“のんびりや”キーウィと“土くれ職人”巍恩が、図書館から図鑑を借りてきたと言ってやってきた。
 その後ろから、“銀の飛跡”シルフィスも来る。
「なに? ラジェッタから猫の話を聞くの?」
 なら、とシルフィスは大きなバスケットを掲げた。
「食べながら、どう?」
 お弁当を多めに作ってきたからと。

 手近な芝生に入り込んで、弁当を広げつつ話を再開する。どこかの研究室の庭なような気がするが、まだ日も高いのであんまりこだわらずに、めいめいに座り込んだ。
「ラジェッタ殿、こういう猫なのか?」
 スケッチブックに鉛筆に色鉛筆。これらを用意してきたのは、ジェダイトと“風天の”サックマンだ。
 彼らが考えたことは、ラジェッタかエイムに猫の絵を描いてもらうことなのだが……エイムに頼んだジェダイトは、絵は苦手だからと断られた。その際に、エイムが微妙な顔をしていたのは少し気になったが……とりあえずラジェッタが色鉛筆を手に取ったので、ジェダイトも一応、そちらの手元を覗き込む。
 描き終わったところでサックマンが、それを受け取った。
 こういう猫かと聞かれて、ラジェッタ自身も首をかしげているところから、悟るべきか。父親も絵は苦手だと言ったし、これも血筋なのかもしれない。
 だが、サックマンと“爆裂忍者”忍火丸にとっては『未来の隠密同好会会員のため』だ。困っているなら全力で助けよう。そんな地道な活動が、いつか会員を増やす……かもしれない。
「それでは何とか丸! きっちり変身するでござるよ!」
 忍火丸は、リエラ『何とか丸』に変身能力を使って、スケッチブックに描かれた姿を再現させる。
「「おおー!」」
 と、歓声が上がった。
「芸術的だな」
 サンドイッチをかじりながら、“天津風”リーヴァはそう評した。
 色鉛筆の落書きを見事再現した何とか丸だが……あまりに正確に再現したがため、生物にとても見えない。
 セラスに続き、忍火丸、敗北。
「絵では無理があるべさ。ラジェッタは画家じゃないべ」
 と、続いての挑戦者、巍恩とキーウィは動物図鑑を開いて、ラジェッタの前に出す。
「これを見て、逃げた猫ちゃんと同じのはいないか、見るべよ」
 まだ帝国語に弱いラジェッタのために、キーウィによって辞書も用意されている。
「猫とは、どこで会ったんだべ?」
「プールなの」
 と、少し離れて見える温水プールの屋根をラジェッタは指差した。
「…………」
「…………」
 みんなでプールの屋根を黙って眺めて、考え込む。
 案の定というべきなのか、なんなのか。
「でも、ベンチの下に隠れちゃうほど小さいんでしょ?」
 マリュウが改めて確認すると、ラジェッタはやっぱりこくりとうなずく。
「大きくはないのね、やっぱり」
 シルフィスも、まさかとは思っていたことだ。小さいなら、やはりプールにいたという大型獣と同じではない。
 その間にも、ラジェッタはぺらぺらと図鑑をめくって……しかし、猫だけの図鑑なんてマニアックなものはなく、そして借り出せる程度の図鑑で事細かにありとあらゆる図解があるものもなく……いや、一通りは挿絵があるのだが。
「ないのー」
 結論は、見つからないということだった。
「似たのはいないやろか? ……普通の猫も違うんか?」
 と、キーウィが猫科の生物のページをめくりなおす。模様のせいなのか、普通の猫を指してもラジェッタは首を振る。
「もようは、このこににてるの」
 指差した先には虎。
 アルメイス……はもちろんだが、帝国全体でも珍しい生き物だ。
「……この子?」
「でも、ちがうの」
 ぶんぶんとラジェッタは首を振る。
 図鑑にある虎は違うのだと、言い張る。
「黄色い縞々以外の特徴ってないのかしら?」
「もう少し具体的な特徴がわかれば……」
 カイゼルとシルフィスが、そう訊ねると。
「ううんと……まるぅいの」
「丸い?」
「……太ってるってことかしら」
 二人とも、やっぱり首をかしげる。
「その猫ちゃん、部屋で飼っとったん?」
 次にはルオーが訊く。するとラジェッタは首を横に振った。
「エイムも見たんだよな?」
 ジェダイトがエイムに話を振る。それにカイゼルも、うなずいて続けた。
「猫ちゃん、どうして逃げたのかしら。プールから、どっちのほうへ行ったの?」
 突然声をかけたらとか……と、逃げた理由がわかれば、探す手がかりになるのではないかと。
「そうですわ、リエラということは……」
 猫耳のサラが、身を乗り出す。
「ええと……リエラではありません」
 話を振られると、どこか困った顔をエイムは見せる。そして言葉を濁す。話を聞く者たちは誰も、それが気になっていたが、さすがにエイムもサラの疑惑は否定した。
「普通の生き物ですよ」
「大きさは?」
「このくらい……でしたか」
 エイムは両手で大きさを示した。
 仔猫の大きさではない。示されたのは成猫ほどの大きさだろうか。
「……ラジェッタが追いかけたので逃げたんです」
 そして、近くの者にだけ聞こえるように、囁くように、そう言った。
 聞こえた者は納得はした。子供が猫を追いかけて逃げられているのは、意外性のある光景ではない。
「私はそのとき、他のことに気を取られていて、捕まえてやることができなくて」
 それでもやっぱり、どことなくエイムの言葉は歯切れは悪い。
「では、その子は本当に虎ではありませんのね?」
 ずばり。
 改めて、サラが核心に触れた。
 プールでの奇妙な事件の話を耳にしていたら、誰しも一度は疑ったことだが。
 だが、情報は行ったり来たり。プールで出会った黄色い縞々。でも大きさが合わないし、リエラでもない。となれば……
「…………」
 エイムは大きく息をついた。
 諦めのため息のように。
「……実は……虎の子なんです」
 その告白に、ああやっぱり、と誰もが思う。それは、あまり意外な答ではなかった。
「でもまだ大きさは本当に猫くらいで」
 ラジェッタに猫と仔虎の区別は、正確にはついていない。ちなみに動物図鑑に虎の挿絵はあったが、仔虎の絵は載っていなかった。親と子は違うものと判断したわけで、ある意味正しい判断かもしれない。
「……虎でも……いえ、虎だからこそ、探し出してあげたほうがいいと思いますよ」
 ミスティは慰めるように、困り果てた風情のエイムに言う。だがやっぱりエイムは、複雑そうな表情を見せた。
「放っておけば、プールのほうで獣を探している人たちもいますから、その仔が傷ついてしまうかもしれませんし」
 ミスティにとっては、猫も獣も同じ弱い生き物。ミスティの迷いない言葉に、クレアもその気になったようだ。
「そうだよね! 見つけて保護してあげなくちゃ!」
 クレアはすっくと立ち上がった。
「そうですわ! 虎だからと差別するつもりはもとよりありませんのよ!」
 それに猫耳仲間のサラが続く。
「仔虎だって、可愛ければおっけーよね!」
 同じく猫耳仲間のシーナは、クレアと手をぐっと握り合う。
「仔虎なら、親のところに返してあげなくちゃ!」
 遅れてなるかと、猫耳四人娘の最後セラスも立ち上がった。
 奇妙なテンションの高さの中、猫耳美少女戦士たちはそれぞれに調達してきていたマタタビと猫じゃらしを武器に、旅立つ。
「あ……クレア」
 ルーが手をクレアに延ばしかけたが……
 突然のその熱さには、ついてはいけなかったようだ。追いすがることは出来ずに、見送ってしまう。
「あー……」
 置いてけぼり感は、ジェダイトもそうで。
 クレアと一緒に探そうと思っていたあては、意外な形で裏切られた。いやさすがに、猫耳つけてあの熱い仲間に入れるほど、ジェダイトはまだ自分を捨てられない。
 一方、これはラッキーと思っていたのはリーヴァだ。クレアが先に行ってくれたなら、ルーと一緒に行動する難易度は結構下がる。
 行ってしまった4人を見送って、フォローともつかぬ言葉をルオーは呟いた。
「捕まえて食べようと考えとるヤツがおらんとも限らんしなあ」
 早く探すに越したことはないと。
「うん、やはり鍋が一番だね?」
 上機嫌にリーヴァは応え……
 アレ? とルオーとリーヴァは顔を見合わせた。
 ちなみに斜め下から、ラジェッタが無邪気に見上げている。
「冗談だよ」
 にっこり微笑んでリーヴァが訂正したので、ルオーはほっと胸を撫で下ろしたが。
「いや、本当は、煮込みのほうが……」
「……わあああ!」
 ほっ、のほの字が消える前に、おんなじ笑顔でそう続く。
 もちろんそれが全部音になる前には、ルオーは全力でラジェッタの耳を塞いでいた。……その瞬間速度は神の領域だったとかなんとか。
 愛は強かったらしい。

「やっぱり虎なんですねぇ」
 そんなことをしている間に、芝生に入り込み輪になって弁当を開いていた者たちの後ろに、ルカが立っていた。
「仔虎なんですかぁ」
 元はプールに現れた獣の正体を追っていて、ラジェッタが猫を探している噂に行き着いた……ということで、ルカはこちらの様子を見に来たのだという。
「檻が欲しいですねぇ」
 捕まえた後、逃げ出さないように。
 ルカは抵抗なく輪に混ざって、サンドイッチに手を伸ばす。
「まあ、仔虎だからと言って、捕まえることに誰も異論はないようだし。そろそろ行こう。この人数じゃあ、手分けするのがいいだろうな」
 ジェダイトが立ち上がる。クレアに置いていかれて、ちょっと自棄気味だ。
「なるべく散らばって探すのがいいだろう」
 大人数では、ルーがやりにくいから……と、今更気持ちを隠す意味もないリーヴァが分散を提案する。もちろんそれで、自分はこっそりルーの近くで探す気マンマンなわけだが。
「動物は人がいっぱいいたら、でてきません〜。だから散ったほうがいいですねぇ」
 その辺の事情は理解していないルカの後押しも受けて、完璧だとリーヴァは思った。
 そこに、ポン、と肩を叩く手が一つ。
「そうだな、じゃあおまえ、俺と一緒に探そうぜ」
 悪魔の微笑みを浮かべて、ジェダイトはリーヴァの肩に置いた手にぎゅっと力を込める。一人で美味しく目的を果たさせるものかという、ネタミパワー炸裂だ。
「じゃあ、さっき約束したし、ルーさん、行こうか」
 しかもそんなことをしている間に、肝心のルーはカイゼルと手に手をとって行ってしまって。
 リーヴァ、敗北。
 なんか今日は、勝てない人が多い日らしい。
「猫……ではないですけど、虎も暖かいところを好むでしょう。元々暖かい地方の獣ですし」
 それはさておきと“求むるは真実”ラシーネが、そういう場所を探すことを提案する。
「暖かいところ……」
「温水プールでござる!」
 サックマンが考え込む横で、忍火丸が立ち上がる!
 手には水着。用意周到というか、最初から遊ぶつもりだっただろう? という視線は避けられないタイミングだ。
 まあとりあえず、そんなこんなで散らばることとなった。


■見えない真実■
「周囲の風景が変わりましたわ」
 セシルの過去見は続いている。
「風景が変わった?」
「……空間転移したものと思われますわね」
 暗い温室から一転、暗い……ジャングルへ。既にジャングルは存在している、そんな中への転移だった。それゆえに、後からやってきたこの葉からジャングルの由来はわからない。そして周囲はいまだ暗く、辛うじて変化したことがわかるのみだ。
「犯人の姿は……」
「見えませんでしたわ。少なくとも灯りはつけておりませんわね。視点となるこの葉から見て、影になっていたとも考えられますけれど……」
 犯人の姿は近くになかったと考えるのが、妥当かもしれない。
「まあ、そんなところでしょうね」
 マイヤはうなずく。
「簡単に尻尾を掴ませてくれるほど、甘い相手ではないと思いますよ」
「会長は、犯人に心当たりがあるのか?」
 フィリップが問うと……
「さて……どこかでボロを出しているのではないかと思うのですが、まだわかりません。予想以上に狸かもしれませんし」
 マイヤは何を思ってか、煙に巻くようなことを言う。
「まあ、これで一つわかったことがありますから、良いでしょう」
「ああ……犯人は転移ができるってことだな」
「……正確には、転移のできる協力者がいた……ではないかと思いますが」
 そう、マイヤは複数犯の可能性を示唆した。


 思うところあって、それぞれにこの事件を調べようとした者たちもいた。
 たとえば、“抗う者”アルスキールは蒸気研の中に猛獣が隠れていると思って、マリーと仲が良いせいか蒸気研の中に詳しいレダに聞いてみようと思ったが……
 蒸気研の中には、そんな怖い子はいない。蒸気研を良く知るレダだからこそ、そう即答されて、そこでアルスキールは行き詰ってしまった。

 もう一人、“飄然たる”ロイドは使っていない葉の一片を借り、それから植物全体を再生してほしいと寮長のもとを訪ねていたが……
 リエラを使うまでもなく、寮長にはその正体がわかったらしい。
「これは……マタタビじゃないかな。私も以前、枝を買ったことがあるんだ」
 もくてんりょうかもしれないと細雪が言っていたと告げると、寮長はうなずく。
「木天蓼は煎じ薬としての名前だね。これは、この近辺にはもともと自然には生えてないものだから、原産国のレイトエルメシアから薬として輸入されているんだよ」
 寮長から得たその答を持って、ロイドはマイヤのところへと戻った。
 湿気が高く温暖な気候に、繁茂する緑。水と緑豊かな大地は、楼国……レイトエルメシアの特徴である。レイトエルメシアはロウレアス大陸の中でも、リリュード川を境にして、植生も文化もまったく異なった発達を遂げた国だ。
 ジャングル、それは密林。それは……楼国の風景の写しなのかもしれない。

 個人で動く中には目的が事件の解決ではない者もいて、“闇司祭”アベルなどがその代表だ。大型獣の出所を、近隣の町を巡回して結構な頻度でアルメイスにもやってくるサーカスではないかとあたりをつけ、何か知らないかと訪ねていったりしたが……
「と、とんでもない、うちのはちゃんといますよ……こいつなんか最近調子悪くてね、逃げ出せるほど元気はありません」
 アベルがサーカスを訪ねて行くと、“蒼盾”エドウィンが先客でいた。サーカスの調教師だという男は、エドウィンにしていた説明をアベルにも繰り返した。
 黄色と黒の縞といったらこいつでしょうがと実際に見せてもくれたが、檻の中の虎はだるそうにしてアベルのほうを見もしなかった。
 サーカス団員の言い訳じみた口数の多さが気にはなったが、確かに虎に自力で脱走する気力はまったく感じられない。この虎が問題の虎だとしたら、そもそもアベルの目的……戦闘訓練は果たされないだろう。やる気がまったく見えないのだから。
 アベルはその虎にはすぐに興味を失ったが、エドウィンはかえって興味を抱いたようだった。
「こいつはなんか病気なのか? ホームシック……じゃないのか?」
「ええと……よくわからないんですよ。そちらと同じに、そうじゃないかって言う方もいるんですが。よく効くって薬も与えてみたんですけどね、やったときには、それなりに元気にはなるんですが……」
「薬? ……ヤバイ薬とかか?」
「いえいえ! とんでもない〜。マタタビって言って、本当は猫の万病薬らしいですが、こいつにも効くって言うんで。こちらも色々な方が見に来てくださいますんで、口利いていただいて、研究所から譲っていただいたりとか」
 アベルは先にサーカスを出た。
 後ろから、ストレス溜まってるんでしょうかねえ……子育ても放棄しちゃって……という声がかすかに聞こえた。
 続いて、虎なんてものを個人で隠れて飼っているとしたらこの者くらい、とアドリアン・ランカークを訪ねていくと。
「つまみ出せーっ!!」
 “熱血策士”コタンクルがつまみ出されたところだった。
「なんだ!? 貴様も金目当てか?」
 と、玄関先で遭遇したアベルにも鼻息荒く、そう見下したような目を向ける。
 コタンクルはプールに本当にジャングル風呂を作ろうとして、ランカークから資金を引き出そうとしたのだ。だが……
 それは先だってのエドウィンが、先日『ホワイトアローEX』を作る資金調達のためにしたことと同じこと。あれも蒸気研だと思えば、因縁めいている。
 しかし策が二番煎じもいいところなうえ、名前をランカークにちなむ約束まで同じ。そして前例のエドウィンはまんまと金をせしめて、後は知らん顔だ。
 ランカークは怒っていた。普通の者でも怒って当然だが、ましてやランカークである。
 他人を馬鹿にしすぎるのはよろしくない、せっかく出来かけたコネクションを自ら潰してしまうこともある……という反省を残して、コタンクルの野望はここにて潰え去った。
 ランカークがこんなでは一気に話す気も失せて、アベルもそのまま立ち去った。仮に話しても、まともな話にはならなかっただろう。
 さて……と、アベルは考え込んだ。

 そんな小さな情報たちを、持ち寄って突き合わせ、組み合わせたなら、見えない真実も見えるようになったのかもしれない。
 だが、パズルのピースはまだ、綺麗に組み合わせられるほどの量には至らないようだった。
 その足りない欠片……手がかりのいくつかが、蒸気研にある。そう考えて動いた者もいる。そんな彼らは……敵陣と目す場所へと赴いていた。


 例のジャングル事件でのマイヤとの対立が明るみに出て以来、カマー教授を訪ねて来る者は、多かった。
 いや、元々普段から訪ねてくる生徒は少なくはない。なんだかんだ言って名物教授、彼を好きだという生徒もけっこういる。同じくらいかそれ以上に、嫌いだという生徒も多分多いが。
 蒸気研の前では“新緑の泉”円が座り込みを敢行していたが、それで何かが変わることはなかったようだ。強いて言うならば、研究所に詰める教授たちの頭痛の種になっていたというところだろうか。
 円の要求は、蒸気研の調査の許可。
 他の教授からしてみればカマー教授にどうにかしてくれというところだが、別にカマー教授も蒸気研の敷地内……プールも含まれるわけだけれど、そこで「夜中にうろうろしている生徒」「昼間でも騒ぎを起こす生徒」はつまみ出すと言っているだけで、それは蒸気研に属し、管理する責任のある教授として一片たりと間違ってはいないのである。放置したほうが、責任問題となる。
 昼間にプールに入ることは今も制限されていないし、騒ぎを起こさないならカマー教授とて手は下せない。そして、下すつもりもないようだった。……必要がないということなのかもしれない。
 なので円の要求では他の教授には無茶か、意味なく聞こえて不利なのだが、居座る本人にはまだわかっていないようだ。
 実際に“光炎の使い手”ノイマンと“翔ける者”アトリーズが、蒸気研に話を聞きに来ているが、カマー教授はそれを止めたりはしていない。
 ノイマンは正確には、ジャングルの目撃者である研究員に、スペアキーやマスターキーを扱える者のアリバイを聞くよう言いに来たのだが……現れた研究員は何故か“炎華の奏者”グリンダと一緒だった。手を繋いで、まさに『ラブラブ』という雰囲気である。……いや、一方的に研究員の熱のほうが高そうではあったが。
「じゃあ、私はこれで。何かあったら連絡ちょうだいね」
「わ、わかったよ! 必ず!」
 バイバイ、と手を振って、グリンダは去っていった。
「今の人は……恋人?」
 話の取っ掛かりに、ノイマンが訊ねると。
「え? いえ……そうじゃないんですけど……可愛いですよね、彼女」
 古典的に、目がハートだ。まあ、可愛いことは間違ってはいないので、それ自体に問題はない。
 ただグリンダが何をしたか知ったなら、多くの者は不快感を示すだろうが……もちろんグリンダはそんなことは誰にも言わないし、当人だって気がついてはいないのだから、まずそれが立証される日は来ない。
 さて、ノイマンから呼ばれるまでにグリンダがかの研究員から聞き出せたことと言えば、ガス灯はすべてついていたわけではないということと、プールでは大型獣の唸り声以外の音は聞かなかったということ。それからカマー教授に不審なところはないか……ということでは。カマー教授の挙動は割といつも不審だが、最近はよくルピニアン劇場付近に通っているらしいという話だった。
 話を戻してノイマンの主張は、目撃者は鍵を閉めずに持ち帰ってしまったのだから、温水プールのスペアキーかマスターキーを扱える者が関わっている……ということだ。
 アトリーズは、それに加えて当日研究室に居残っていた者の話と、最近南の地方へ行った者や南の出身者はいるかということだった。
 マスターキーは研究所長の教授と学園長と双樹会会長が持っているだけ。だが、蒸気研の教授、助教授、助手までならばみんな、所属の学生もそれなりの数がスペアキーの在り処を知っていた。
 研究室自体の鍵と違って、定時に開かれ、定時に閉まる温水プールの元の鍵は誰かに持って歩かれると肝心な時に見つからないこともあるために、スペアキーの在り処を知る者が多かったのである。スペアキーは『代替』なので、その出番が多ければ、存在を知る人が増えるのも道理だ。
 扱う資格を持っているのは助手以上だが、場所を知ってさえいれば現実に使うことは難しくはない。しかし目撃者の研究員は、夜中にもボイラーの面倒をみる宿直以外では、その日最後の居残り者のはずだった。
 ちなみに実験用ボイラーの火が完全に落ちることは、年に数度しかない。弱くはしても、耐久実験等の関係で、完全に火を落とすことはめったにないのだ。
 では、この宿直が怪しいか……というところは、ひとまず後に回すとして。
 結局、多人数の自己申告のアリバイを取るだけでも取りきれなかった。ましてや、しらみつぶしに裏を取りきるのは不可能だ。それこそ過去見で全員分確認しない限りは。だがそれは現実的な話ではない。更には自己申告のアリバイだけでも、成立していない者が多数にのぼった。
「真夜中のアリバイなんて、普通あるはずないでしょ。普通に帰ったら、もう寝てる時間よ?」
 鍵とアリバイから犯人を求めることは、カマー教授にそうあしらわれることとなった。
 しかし、犯人はそのアリバイの成り立たぬ中にいる……それが否定されたわけでもないのである。
 一方アトリーズのほうは、宿直以外に居残り者の記録はなかったということで、ひとまずそちらの道は閉ざされた。もっとも隠れてやっていたことならば、堂々と居残っているとも考えにくい。
 次には、南の出身者って誰だっけ? というところから入らなくてはならなかった。楼国字の名前は、学園ではかなり見かける。帝国出身で外国に行ったことのある者……はある程度限られるが、蒸気船や戦艦の製作やその航海に関わった者も蒸気研内には少なくない。そんな彼らは、かなりの確率で南方に赴いている……なぜなら、沿岸部を持つ大陸中央の諸国と帝国は険悪に仲が悪いからだ。航海の目的地は、危険を潜り抜けて一足飛びにレイトエルメシアかクリアス沿海連合国となっている。
 これは、多少候補を絞り込めるにとどまった。
 さてここで、話は先ほどの宿直の者に戻る。当日夜にボイラーの火力をコントロールできた彼は、南方出身でも、南に行った経験もなかった。ここで、宿直の単独犯は除外だ。共犯がいると考えることもできるが……ちなみに、定時に石炭を足す以外では寝ていたと本人は証言をしている。
 さて、この犯人は蒸気研関係者の中にいると考えたのは、サーカスに虎の様子を見に行っていたエドウィンもそうだった。条件を重ねることで絞り込める、そういう考えかたにも、前出の二人と大きな違いはない……唯一違うところがあるとするならば、エドウィンはプールのジャングル化を悪いものだと捕らえていないところだろうか。
 動機的にはコタンクルとどっこいで、エドウィンはジャングルを逆に恒常的なものにして、アルメイス名物に仕立てようと考えたわけである。そのためには、あの夜の現象を起こした者を探し出す必要がある……それがエドウィンが犯人探しに乗り出した理由だった。
 双樹会には関わらぬというスタンスで、ノイマンやアトリーズとは別にエドウィンは蒸気研に赴いたが、その扱いは変わらなかった。
 鍵の話はエドウィンにも予想外の広範囲に渡る結果となっていたが、エドウィンにはもう一つ、事件の手がかりとなるものに目をつけていた。アトリーズのアイデアとも似ているが、微妙にアプローチが違う。
 それは石炭……ボイラーの燃料である。
 暖房を入れ、プールの水を湯気が出るほど暖めるには、石炭を相当消費するはず。そして、温水プールの鍵と同じく、ボイラーも外部の人間に勝手には操作できない。全員が扱えるわけでもない。
 当日の宿直は、定時以外は仮眠室で寝ていたと言う。
 石炭の投入は重労働であるため、ここで鍵を扱える犯人候補の中から、力の弱い女性と若年層が一気に脱落する。
「まあ、人数がいるか、時間をかければ、女の手でだってどうにかなるけどね」
 という、ときどき自力でこっそりボイラーを動かしているらしいマリーの証言もあったが……
 多人数が共犯だと、別のところでボロが出ていそうである。時間をかけたとなると、宿直に目撃されていそうだ。だが、今のところそれらは表には出ていなかった。なので、少数の迅速な行動だと考えられる。その結果、エドウィンは体つきのしっかりした成人男性に的を絞ることにした。
 もっとも、もう一つ手がかりに期待していた石炭の残量の記録のほうは、マリーのような常習犯がいるために、普段からさしたる正確性がないということで断念せざるをえなかった。
 ここまでで犯人像は、
1.『スペアキーを扱える』
2.『南方出身か南に行ったことのある』
3.『体力のある成人男性』
 ということとなった。
 だがまだその数は、ごく少数に絞り込まれたとまでは言えない数だ。マイヤの側に集まってきた情報もエドウィンには知りえないことだった。逆もそうで、マイヤに協力する者たちは、エドウィンの持つ情報を知らない。
 加えて他に、
4.『主犯か共犯のリエラは転移能力がある』
5.『転移で持ち込まれた植物はマタタビである』
 ……その他色々、すべてが寄せ集められたなら、浮かび上がってくる物もあっただろうが。
 エドウィンの絞り込んだ中にも、双樹会に協力している者たちが集めた情報に該当する者の中にも、カマー教授は当てはまっていた。両方掛け合わせても教授一人に絞り込めるほどではないが……もしもそうできたなら、実は個々に話を聞くに困るほどではない数と言える程度にはなったのだ。
 残念ながらエドウィンが単独に作成したリストでは、全員に話を聞くには時間がかかりそうだったので……それに加えて、その中の植物操作のできるリエラを持っているフューリアがいないかを調べてみた。
 いたらそれが最有力候補だと思ったからだ。だが、植物操作が可能なリエラの数は0。
 そのかわり、カマー教授のリエラの能力をエドウィンは初めて知った。
 幻影だった。
 いや、それ以前に教授もフューリアだったのか、とか、リエラがいたのか、とかそんな感想も湧いたが……
 まあ、別におかしいというほどでもない。
「教授ではないんですか?」
 一応、エドウィンはリストアップした者には話を聞いてみようと、カマー教授のところにも訪ねていった。
「なによ? 何のためにそんなことする必要があるって言うの?」
 と、切り返されて……エドウィンも考え込む。鬱になった虎のためだけに、カマー教授がそこまでするかなあと……


 蒸気研の中に入り込んで調べることを選んだのはルビィの他に、“ぐうたら”ナギリエッタがいた。手伝いはせずに話だけ聞きだそうとした者には“幼き魔女”アナスタシアがいたが……
 アナスタシアの聞き込みは、あまり上手くいってはいなかった。
「ねぇ、おにーちゃんたちー、聞きたいことがあるんだけど、いーかな」
 なんて普段のアナスタシアを知る者が見たら気持ち悪くなりそうな言葉遣い全開で、純真な蒸気研の研究員をひっかけようとしたわけだが……蒸気研が色々と槍玉に上がっている現在、アナスタシアの意図がどこにあるかわからないほど研究員たちも鈍くはない。演技で人格は猫を被れても、その意図は騙せなかった、というところか。
 研究員たちははははと苦笑しながら答えてはくれたが、まったく心許して親身に……とはいかなかったようだ。
「別に蒸気研は普通だよ。いつもと変わりない」
 返答はさっぱりしたものだった。いつもと変わりないことが一般的に見て普通かどうかはさておくとして、複数に聞いても、その答に大きな変化はない。
「最近のカマー教授の研究? 研究なのかどうか知らないけど、最近凝ってるのは映写機じゃなかったっけな」
「映写機って……」
「写真を白い壁に大きく映すんだよ。映写機自体には確かに蒸気機関を使ってるけど、教授が熱中してるのは違う部分みたいだね」
 どうも肝心なところを濁されて……しかも明らかに意図的に……アナスタシアの疑惑は揺れた。それらの反応に、研究を隠そうとしているのかと一瞬思ったが……というよりはアナスタシアをこどもだと思ってからかっているような気がしたので。
「むう……この演技は失敗だったかの」
 研究の実態を知りたいという点では、カラダを張って手伝いに乗り込んだほうが確実だったようだ。さらに言うならば、口数多く自ら事件のことに触れたルビィよりも、自然に入り込むことを心がけたナギリエッタのほうに、幸運の女神の軍配は上がったらしい。
 ルビィの予想が蒸気研ぐるみの大掛かりなものだったのも、わずかにポイントを外した原因だったかもしれない。本命の教授ではなく、まわりから攻めようとして……熱力学やら温泉やらの話をしてみたわけだが。研究員たちは振られた話には乗ってきたが、それ自体が今の研究と関係あるかと言えば、結局そうではなかったのだ。
 そんな中で、ルビィも、アナスタシアと同じ程度の情報は得られていた。教授の、今の興味は映写機であると。だが、聞く限りではその研究はもう存在している『映写機』の改良らしく、それは直接に事件とは結びつかなかった。

「教授ぅ、忙しそうですねぇ〜」
 レポートの提出のついでに差し入れをしていると言って、ナギリエッタはクッキーの包みとドリンクを教授の傍らに置いた。
「あら、気が利くわね。でもレポートの点は甘くならないわよ?」
 こんなささやかな騒ぎくらいではカマー教授の精神は揺るがないのか、カマー教授はナギリエッタに軽やかに切り返す。
「何なさってるんですかぁ?」
「資料の整理よ」
「写真……だょね。整理、お手伝いしょぉか?」
「あら、ありがと★ でも大丈夫よ?」
「あ、これ……森……?」
 写真は様々だったが、中にいくらかこの付近のものではない森……南方の密林のような森の写真が混ざっている。事件を知っているなら、タイムリーなものだ。
「あらあら、目ざといわね。まあ、今だと仕方がないわねえ」
 でも、関係ないわよ……と笑って言うが、なんだか目は笑ってないような気がするのは気のせいだろうか。
 そこへ、ひょいと横から“鍛冶職人”サワノバが顔を出した。
「ジャングルは風情がありますの」
 わしは温水プールよりジャングル風呂のほうがえぇんじゃが、とかなりストレートにサワノバは切り出した。
「やあね、関係ないって言ってるじゃない?」
 そうカマー教授は口を尖らせる……もちろんカマー教授はオカマ言葉の男性なので、口を尖らせて見せても愛らしくはない。
「いやいや、幻のジャングル風呂では入浴はできませんからのぅ。それならば、現実に作ってみてはどうかと思うて、お話に参りましたのじゃ」
 ほっほっ、と好々爺のように笑い、サワノバは続ける。声だけを聞いていたらサワノバのほうが年寄りのようだが、もちろんサワノバは学生なので、教授よりもずっと若い。
「そして、実装するならば蒸気研しかありませんからの。良い趣向だと思えるわけですがの、いかがじゃろう。公共施設としてのジャングル風呂は、なかなかに魅力的な空間ですぞ」
 ジャングル風呂をよしとした者としては3人目、最も直球勝負で挑んだわけだが。
「……まあね」
 あくまでも例の事件はヒントであり、そこからアイデアを得て新しく作ってはと主張したのが効いたのかもしれない。
 カマー教授は、まんざらでもない顔で答えた。
「南の国の密林っていいわよね……なんか、落ち着くって言うか、血がたぎるって言うか」
 ぽっと頬を赤らめて、カマー教授はジャングルへの熱い想いを語る。想いが矛盾しているあたりは、さておくとして。
「ジャングルに囲まれてゆったり湯に浸かる……いいですのぅ」
「いいわよね」
「法楽の極みじゃの」
 二人でうんうんとうなずきあっている横で、どうコメントしていいかわからなくなってきたナギリエッタが固まっている。
「やっぱり、ジャングルは生が一番よね」
 ……生が一番って、火の通ったジャングルがあるの!? と、とうとうグルグルし始めたナギリエッタの横で、サワノバはようやく話を変えようとしていた。
「それにしても、例の事件が解決しなくてはジャングル風呂も進展はいたしますまいて」
 なので、自分を温水プールまわりの警備員にしてもらえないかと持ちかける。
「うーん……」
 そこで、カマー教授もトリップから戻ってきたようだった。
「そうねえ……プールのまわりは、ちょっと考えようかしら」
 あくまでカマー教授の主張としては『幻の』大型獣はともかく、現実には夜中に学生がうろうろ……という方が問題であるとのことだ。
 では、温水プールの鍵を……という段で、結局個人に中に入る鍵を渡すのはダメ、ということになって、サワノバは警備員としてジャングル出現時に一番風呂を味わう……じゃなくて、確認することは出来なくなったのだが。
「じゃあ、もしカマーちゃんがよければ、あたしたちで見回り手伝っても良いわよ?」
 さらにここで、横から“泡沫の夢”マーティが口を出した。
 ちなみにマーティに『あたしたち』とくくられたのは、ミステリー研究会グループメンバーの“銀晶”ランドや“不完全な心”クレイだった。三人とも、まるで研究室の学生のような顔で、カマー教授が作業していたデスクの隣のテーブルを囲んでお茶をすすっていた。
 マーティの尊敬する人はカマー教授であるので、ここにいるのはおかしくはない。
 ただマーティは過去の記憶をフランのために一度すっぱり捨て去ったため、人間関係的には再構築中というところだ。ランドとクレイは、記憶によって構成される一部常識が微妙に喪失中のリーダーを単独で放置できないために、横にくっついているようだった。ランドは一人で外をうろつくのは危険なマーティにとっては欠かせぬ相棒とは言え、ランドにしてもクレイにしても、ともすれば自分を忘れるリーダーを見捨てずに、よく付き合っていると言えるだろうか。
 もっともマーティ本人は、そう深刻に忘却を思い悩んではいなかった。フューリアとして、そういう星の下に生まれたと言ってしまえばそこまでのこと。
「あんなの、カマーちゃんのほうが良い迷惑よねぇ?」
 勝手に淹れたお茶をすすりながら、マーティはカマー教授に提案した。
 あんなの、と言うのは、玄関先にて座り込み中の円だ。
「見回りねぇ……お願いしようかしら」
 カマー教授は考えこんだ。マーティのほうは、プールの中には入らず、まわりだけ。忍び込もうとする学生を、とっ捕まえてくれるというなら願ったり……か。
「そうね、じゃあお願いしようかしら」
 ウン、とうなずいて、カマー教授は立ち上がった。
「まず初仕事は、やっぱりあれよね?」
 そう言いながら。

 鞄の中にいつのまにか入っていた手作りの人形のアクセサリーを手に乗せて眺めながら、エリスは蒸気研の前で立っていた。
「エリス」
 呼ばれて振り返ると、シルフィスだった。つい先日一緒に路地裏を逃げ回った仲なので、お互いに認識は新しい。
「どうしたの? こんなところで」
「ナギリエッタがレポートを出しに行ったから」
 シルフィスは確かにいつもエリスにひっついている緑の髪の子がいないなあと、あたりを見回して思い……
「……あなたは?」
 エリスはエリスで、なんだか急に漂い出したいい匂いの出所を探して、あたりを見回しつつ聞いた。
「あ、私は、この辺で、と……いえ、猫を探してる人たちに差し入れに。そろそろ日も暮れるし、おなかすく頃かと思って」
 と、シルフィスはよいしょ、と、バスケットを掲げた。やっぱり出所はそこか、とエリスはバスケットを眺める。
「まあ、あなたに会えて、ちょうど良かったかも。こないだ迷惑かけたしね、お詫びしなくちゃいけないと思ってたのよ」
 シルフィスはそう言いながら、巨大なバスケットのふたを開けた。中は、半分がサンドイッチとファンティーニ。この辺はそんなに重さがないからいいとして、半分は小さめの深皿にふたをするように浅皿が乗っている。その中の二皿を取り出して、シルフィスはエリスに差し出した。
「これ、良かったら食べて。好きだったでしょ、ビーフボウル」
 エリスはちょっと考え込んでから……
「……ありがとう」
 受け取った。なんだか最近ビーフボウルを貰うことが多くなったような気が、エリスはしたが……まあいいか、と。
「じゃ、またね」
 あの緑の髪の子にもよろしくね、とシルフィスは手をあげて、隣のプールのほうへと走っていく。
 そのとき、急に蒸気研の玄関のあたりが騒がしくなった。ナギリエッタが走って戻ってくる。
「どうしたの?」
「教授が、実力行使に出ることにしたみたぃ〜」
「……実力行使?」
 目を向けると、玄関先で座り込んでいた円が教授と男子生徒たちに囲まれている。対人恐怖症でいつも木箱をかぶっている円は、木箱の中に隠れてしまっている。もともと一人で座り込みというのに無理があったと言えるだろうが。
「悪いけど、アタシもこの学園の教授なもんで、真夜中に女の子一人で野宿なんて認めるわけにはいかないわ。あなたに何かあったら、あなただってお友達だって困るでしょ?」
 自分は大切にしなくちゃ、と言いながら、マーティ、クレイ、ランドに目配せする。
 次の瞬間、三人の手で木箱がひっくり返された。
「きゃー!」
 円は木箱にしがみついていたので、そのまま木箱の中にいる。
「じゃ、そのまま寮まで運んでってちょうだい」
 そして棺桶を運ぶがごとく、円入り木箱は蒸気研から運び出されていった。


■プールの真実……その前に■
 過去見は研究員が逃げ出したはずの時間が過ぎても続けられた。その前に、虎はいつのまにかいて、そしてわずかに灯りがともった。
 新しくわかったことは、実は灯りは既存の照明ではなかったらしいということ。光源はよくわからなかった。
 そこまでには、犯人の姿は見えなかった。
 もう一つ意外だったことは、大人の虎以外に仔虎がいたこと。仔虎は二匹、じゃれあって遊んでいた。
「……これは、おそらく幻ですね」
 セシルは言う。
 まだ媒体にしている葉は樹についているのか、視点は樹を中心にしている。明るさを得て、まわりはジャングルそのもののようだとわかったが、この樹だけは温室から転移で運ばれたために一段高くなっている。土と根の分だ。段差になっているところを植木鉢のように利用して、目立たないようにはしてあるが。蔦を絡める支え木があるのも、この樹だけだ。
 これが研究所内の温室のマタタビの樹だということは、確認が取れている。マイヤが聞きに行って、周辺の土ごと一気に持っていかれた形跡があったという。薬剤の研究員はそれに気づいて、根を心配していたようだが、今のところ樹にダメージの出ている様子はなかったようだ。
 虎はうろうろ、この樹のまわりをめぐっては、酔っ払ったようにごろごろ転がったり、プールの方へ近づいたりしているとセシルは言った。
 そのうちに、虎が樹や茂みを突き抜けて動いていることがあって、他の樹が幻だとわかったのだ。そう思えば、プールにあるには不自然な深みや影がある。奥行きのないはずの場所に奥行きが出ているような。
 いつのまにか葉は落ちたようだと言った。
 ごろごろしていた虎が眠ったのか、動かなくなり……いつのまにか、仔虎の姿は見えなくなっていたと言った。
 しばらく虎はそのままだったが、不意に消えたと言った。
 やはり転移したのだろう。
 マタタビの樹も消えたと言った。
 掃除をしている気配があるが、幻の影でよく見えないと言った。
 そして消灯。
 最後にジャングルの幻も消えたと言った。
 その一番最後に、人影が見えたような気がしたと言った。
「……能力高いですね」
「いや、連続ではないと思いますが……間に休みを入れてると思います。幻は、動いている気配がないのなら、一度出したら一定時間出っ放しのタイプかもしれませんね……」
 連続だとしたら、幻が出ていた時間は1ザーハン以上。学生の力では、限界ぎりぎり、このあと倒れてしばらくは動けないところだ。
 あるいは、もう少し耐えられる者が行っているか。
 マイヤにも思う答はあるようだったが。


 さて、マーティ、クレイ、ランドの三人がカマー教授の任命を受けて夜半までプール周辺で待ち構えるようになった日から、温水プールの激闘はさらに激しさを増した。
 激しさを増した……ということで、実はその前から暗闘は始まっていたのだが。
 後に翌日提出のレポートの入った忘れ物を取りに戻りたかったのだと証言した“賢者”ラザルスは、温水プールの建物の通用口の横でノビていたところを発見された。
「アレを……アレを……」
 と、わけのわからないうわごとをうめいている状態で、見回りにきたマイヤと細雪に見つけられ、敷地の外に運び出されたのだ。
 閉館直後まだ閉められていなかった窓から侵入したというラザルスは、翌朝になって気がついた後も温水プールの建物の中で何が起こったかよくわからないと言った。十分気をつけていたはずなのに、見えない何かに殴られて昏倒したと。
「転んで頭でも打ったのでしょう。それで記憶が混乱しているんですよ」
 マイヤはそんなラザルスの訴えを軽く流して、ラザルスの前に『忘れ物』を差し出した。
「そうそう、忘れ物はこれですね。事務室に届いていたそうですよ」
 実はレポートよりも大切なヒミツがそれには入っていたので、他人の手から渡されたショックでラザルスは凍りつく。そんなラザルスに、マイヤはにこやかに続けた。
「急いでレポートを出しに行ったほうが、よろしいんじゃありませんか?」
 と。


「どぉ? そっちは」
 カマー教授が様子を見に来るとは思ってもみなかったので、リーヴァは正直びっくりした。だが考えなおしてみれば、探している場所は温水プールも含んでいる。こんなところをうろうろしている集団がいれば、教授の耳に入らないのも嘘だろう。
 とりあえず、リーヴァにとっては歓迎できぬ客であった。リーヴァは仔虎を探すのリエラの力である遠隔視聴を使おうと、マイヤに許可を貰いにいったのだが、
「例外は認めません。プールの近くで遠隔視聴は禁止です」
 と、一刀両断だったので。許可が出ないならこっそり使うしかないが……人目につかない場を探すのも面倒臭い。一緒に探す者たちには理解を求めるにしても、教授が一緒では話題に出すのもはばかられる。
 ここはひっそりやりすごそう……と思っていたら。
「教授!? プールで探してはいけないでござるか!?」
 と息抜きと称してプールで泳いで戻ってきた忍火丸が何を思ったか、カマー教授を見て声を上げた。捜索を止めにきたと勘違いしたのだが……
「別に日が暮れるまでは構いやしないわよ」
 でも、日が落ちたら帰りなさいね……と言って、それからカマー教授はエイムに向かってばちんとウインクした。
 目撃してしまった者たちは、げー、と思ったが、その意味がわかった者はここにはいなかった。
「じゃ、頑張ってね」
 結局激励だけに来たのか? と一同は首を傾げる。
 ……そんな様子を覗き見ていた者がいた。それは二人。
 一人はこの事件のきっかけを作った、第一発見者の研究員だ。今はすっかりグリンダのとりこで、彼女に頼まれたことを忠実に実行していた。元々臆病で、しかし誠実な人柄が災いしたと言えるだろうか。
 その後、研究員はサーカスを見に行った教授を確認して、それからグリンダに連絡した。
 もう一人はアナスタシアである。カマー教授の行動は奇行というまでではないが、自然というのもはばかられる。悩んだまま、こちらは尾行を続けていた。
「……いたわ!」
 そんなことは知らぬ仔虎捜索隊は、地道な捜索を続けていた。そして、とうとう……
 見つけた。最初に発見したのはラシーネだった。
 暖かいところ、暖かいところ、と探していって、蒸気研の正規の敷地と温水プールの境目あたり、ボイラーからの管やら温水の管やらが並んで走っている場所の、隙間にいたのを発見した。
 みんな走ってくるが、いち早く反応したルオーがそれを遮る。
「あかんあかんっ、逃げてまうやろ」
 ルオーの独断で、ラジェッタとエイムだけを通して……ラシーネが一匹抱き、ラジェッタが手を伸ばそうとしたところで、そっとしゃがんだエイムが胸に抱いた。エイムに抱かれた仔虎をラジェッタは撫でて……
「ねこちゃん、げんきない……」
「多分、逃げたあと、あんまり食べてないのよ。赤ちゃんだから、まだおかあさんのお乳がいるんじゃないかしら……そういえば、いつ逃げたんでしたっけ?」
 エイムは困ったように笑って……例のジャングル風呂の事件があった日を告げる。
「ちょっと経ってるわね」
「ルカ、ミルク持ってきてます」
 ルオーの向こうからルカが手をあげる。
 今日のシルフィスの差し入れから皿を借りて、ミルクを入れて差し出すと、しばらくしてぺちゃぺちゃとなめはじめた。
 それを半分は遠巻きに眺めつつ……
「無事に見つかって、よかったね」
 カイゼルがルーに囁いているように、探していた者たちはほっと囁きあう。
「このあと、どうするの? 親はどこ?」
 セラスが首をかしげている。
 それを聞いた大部分の心に、心当たりが浮かぶけれど……それは、真夜中の温水プール。さすがにラジェッタに虎が飼えると思う者もおらず……一番妥当な選択肢が親元に帰すことなのは、誰もが納得するところだった。
「ミルク飲んだら、マイヤ会長のところに連れて行きましょう〜。この子が、この間プールに出たっていう虎さんのあかちゃんなのは間違いないし」
 ルカが主張する。他に選択肢がなかったら、確かにそれしかなさそうではある。
「……ええと……ちょっと待ってもらえますか」
 しかしそこで、エイムが止めた。
「親元に帰すのは問題ないんですが……いえ、責任持って帰しますので」
 今夜はちょっと待ってもらえないか、と。
 そこにいた半分は、ラジェッタのために一晩一緒にと考えているのかと思い……
 もう半分は。
「エイムさん、まだ隠し事がありますね」
 ラシーネは、ずばり指摘した。ラシーネとしては、猫……仔虎が見つかったら一段落かと思っていたのに、そうではなさそうなので、ちょっといらついたのもある。元々ラシーネはエイムに話を聞きたくて、そのために捜索を終わらせたくて、手伝っていたわけなので。さすがにラジェッタが猫を探している間は、エイムに関係ない話は聞けないだろうと。
「……これだけ手伝ってもらってしまうと、私も隠しておくのは辛いんですよ……でも」
 エイムは微妙な顔でため息をつく。
「もし、今晩一晩だけ、マイヤ会長に言わないでくれるなら……お話します」
 猶予は一夜。
 それは、明日の朝には状況が変わるということでもあった。


 さて、その夜は……
「あそこだ」
 そう言って、携帯用双眼鏡を下ろしたランドは、温水プールの屋根の上を指した。
 まだ黄昏時。まったく見えなくなるにはまだ少し、猶予のある時間だ。
「ランドさん、すごいですね。予想通りです」
 クレイが感嘆の声を上げる。風邪気味なので、少ししゃがれ声だ。
「高いところが好きな人間が、無駄に多いみたいだからな……まさかと思ったが、本当にいるとはな」
 今屋根の上に発見されたのは、“福音の姫巫女”神音。下から見ていたら発見されないように上手く隠れてはいたが、屋根の上にいると思って探されたのでは、そりゃあ見つかってしまう。
「そうだな……俺はプールの近くを回ってるマーティに知らせてから、あれを捕獲するから、おまえはカマー教授に知らせてくれ。カマー教授が来ないと、連れ出せない」
「わかりました!」
 ランドに割り振られた役目に笑顔で答え、クレイは走っていった。教授のところに行けば、マリーに会える。もっと親しくなれば、通い詰めても不自然じゃない。それがクレイが今回の協力を決めた動機だったので、否やもない。将を射んと欲すれば、まずは馬からだ。
 そしてランドは、マーティのところへ。ちょうどマーティに寝技をくらって、プールに侵入しようとしていた“慈愛の”METHIEがのびたところだった。METHIEは事件解決のためにと訴えていたが、残念ながらそれではカマー教授のために行動するマーティの手を緩めることはできなかった。
 さて、METHIEをロープで縛って、引渡し準備をすませてから。
「もー、あんなとこにぃ」
 ランドに言われて気づいたマーティは、神音を見つけて歯噛みする。
「どうしましょ。あそこじゃあたしたちには手が出せないわねえ」
 カマー教授との約束は、マーティたちも敷地内には入らないことだ。
「そうだな……教授が来るまで、檻でも作って閉じ込めておこう。それでどうだ?」
「どうやって?」
 プールの真上の部分は、採光のためにガラス張りだ。ガラス一つとっても帝国最高の技術の賜物だが、ガラスを支えるためにふんだんに鉄骨が使われている。そして、ランドのリエラの能力は金属を操る力だった。屋根の鉄骨を借りようというわけだ。
「……屋根のガラス、落ちないかしら」
「大丈夫だろ。……いくぞ」
 そんなわけで、神音は完全に先手を取られた。気がついたときには、もう生き物のように鉄骨が伸びて襲ってきて……
「きゃー!?」
 動きを封じられてしまった。
 騒ぎらしい騒ぎにもならず、後は回収を待つばかりだ。
 そんな中に暗さも手伝って待ち合わせしていた神音が捕らえられたことに気づかぬまま、カズヤが上空から近づこうとしていた。背中には悪魔のようなこうもり羽。カズヤのリエラの具現化だ。
 神音がどうしよう〜、気がついて〜、来ないで〜、と祈っている間に……
「空から来ますよ!」
 地上から、誰かの声が上がった。それも敷地の中だったりしたが、視線は声につられて上空を探す。
 闇に紛れてはいたが、月明かりのおかげでまったく見えない真の闇でもなく……また、リエラの力とは言え形の力であるので、無音でもなく。
「あそこだ!」
「あっちにもいるわ!」
 カズヤは発見された。この巻き添えを食ったのは上空から様子を窺っていたアベルのリエラ、天狗だ。姿を消すこともできたが、いつまでかかるかわからない見張りに常時力を使っては、肝心のときには間違いなく力尽きている。ただでさえ、非自存型で召喚時間には限界があるのだから。
「片方はリエラだけか!? フューリアが近くにいるはずだ」
 さて、ここでアベルは逃亡。天狗も姿を消した。
 残る問題は、カズヤだ。
 逃げるか、どうするか、と迷ったが……
「どうしました」
「どうしたの?」
 そこで細雪を連れたマイヤと、クレイに呼ばれてきたカマー教授が同時に到着した。
「空から忍び込もうとした奴が。もう一体鳥頭のリエラが飛んでたんだが、そいつには逃げられたみたいだ」
 ランドの報告を受けて、カマー教授はマイヤの顔を見る。マイヤは空を見上げる。
 カズヤは上空からマイヤの登場を見つけて、逃げるのを踏みとどまっていた。マイヤが弁明をしてくれればそれですむ。駄目なら逃げるまでだ。神音を置いていくことになるが、そこはそれ。
 だがしかし。
「……落としましょうか」
 上空のカズヤには聞こえなかったが、マイヤはカマー教授に、にこやかにそう言った。総合的に判断して、無関係を主張することにしたらしい。
「……出でよ、オルデ・コッタ・アリス」
 マイヤがリエラを召喚し、カズヤとそのリエラ黒曜の名を唱えて拘束を命じる。
「うわっ!」
 そんな異変にカズヤが気づいたときには、もう遅かった。動きを封じられ、バランスを崩して落下する。マイヤも地面に叩きつけようというつもりはなく、落下してくるカズヤを抱き止めた。
「……見つかった以上は諦めてくださいな」
 囁きにカズヤは苦笑する。
 さて、一方そのころ地味に、しかしある意味派手に、クレイも別の捕り物をしていた。
 何を考えたのか、“貧乏学生”エンゲルスが赤い上着、青いズボン、緑の傘、紫の靴という前衛芸術的ないでたちで、侵入を図っていたのだ。
「敷地に……勝手に……はいるな……」
 クレイもクレイで、風邪気味で寒いからとリエラのイビルガードを呼び出して、それを風除けにまとっていた。イビルガードは見た目に上部が骸骨のような姿なので、それにくるまるような形をとると、骸骨の幽霊が歩いているように見える。
 そして、しゃがれ声。
「うわあああああ!」
 巡回に遅刻しました、なんてエンゲルスの用意してきたちゃちな言い訳も吹っ飛ぶ、ホラーな登場だ。
 結局その悲鳴にランドとマーティが駆けつけて、エンゲルスは捕縛の憂き目を見ることとなった。
 ということで、本日の捕縛者は4人。
 後はつつがなく……と思いきや。
 まだ暗闘は続いていた。
 プールの、建物内で。

 二度目の温水プールのジャングル化は、まだ起こってはいなかった。
 あのとき一回だけだったのか、それとも何か条件があるのか……と思えば、最初からマイヤが言っていた通り、誰かが見張っていたなら、その日には現れないということなのかもしれない。
 犯人が様子を窺い、少なくともミステリー研究会の3人組が侵入を企む者を狩り出し、定時にはマイヤとその護衛の細雪が様子を見に来ると思っていれば、動かないのだろう。それで再発は防げるけれど、いつまで続ければいいのか……という問題はある。
 ちなみにマイヤが温水プールの不法侵入者を回収しているのは、特に不自然なことではない。カマー教授との折り合いの関係で、異なる目的を持った者が侵入し発見された場合、その責任が双樹会に押し付けられることを防ぐためだ。これも水面下の暗闘と言えるだろう。
 プラチナムの組んだローテーション表は人手不足のために穴が多く、後から手伝おうと申し出てきた“待宵姫”シェラザードに見せたときも、あきれられた。シェラザードは適当に自分の名前を書き込んで、去っていったが……
 さて、シェラザードの目的は見回りや警備の手薄なタイミングを調べることだった。事件をどうこうということには興味はなく、ただ風呂に入る、それだけが目的だ。
 ジャングル化してなかったらどうするんだというところだが、そんなことは考えてなかったらしい。
 本当はリエラを使って騒ぎを起こして、その隙に……と思っていたのだが、自分で騒ぎを起こさなくても神音やらカズヤが代わりに起こしてくれたので、ラッキーとばかりにシェラザードは入口に向かった。なんだか、前を人影がよぎっていった気がしたが、気にしないでさっさと玄関へ。
 無計画もいいところだが、見つかったらヤバイという考えだけはあったらしい。
 さて、無計画の極みには、実はシェラザードは玄関の鍵をどうするか考えていなかった。だから本当なら、ここで足止め……のはずだったのだが。
 何故か、鍵が開いていたのである。
 まんまと中に入り込んだシェラザードは、一路更衣室へ。そこで服を脱いで、生まれたままの姿になる……そして、服を入れておくために、シェラザードは手近なロッカーの扉を開けた。
 するとそこには……
「……ひ……っ!」
 もぞもぞと蠢く触手が詰まっていた。
 悲鳴を上げる間もなく、伸びた触手はシェラザードの口を塞ぎ、体を引き寄せ。
 ばたん。
 ロッカーの扉は閉まった。
 しばらくガタガタとロッカーは震えていたが、すぐにそれも止んだ……

 さて、シェラザードの見た人影は誰だったのかと言うと、“闇の輝星”ジークと、“闘う執事”セバスチャンのものだった。
 正確にはジークの影を、怪しい人物と目したセバスチャンが追っていったのだ。
 シェラザードとは違って、ジークは正面から入ろうとは思ってはいなかった。すかさず建物の人のいない側にまわり、先に行ったジークが通用口の鍵を見事な早業で、針金で開けた。そしてすっと中に入る。
 それを見届けて、確信の度合いを増したセバスチャンがさらに追った。

 木箱型の大きなゴミ箱のふたが、少しだけ浮き上がっていた。
 ……その前を人影が通り過ぎていく。
 ゴミをものともせずその中にいて、人が来るのを待っていたソウマは不意の人影に緊張した。
 ちなみにこのゴミ箱の中には、こそこそと侵入してきた第一発見者の研究員とグリンダが気絶させられて、一緒に収まっている。
 研究員の立場を利用してマーティたちの包囲網を抜けて入ってきた彼を、すっかり犯人だと思って、ソウマは飛び出して締め上げたのだ。
 ちなみにシェラザードは、彼が鍵を開けた後に入ったわけである。
 そのうえ彼女に頼まれて手引きしたのだとか、ソウマの勘違いを煽るようなことを言ったために、研究員は締め上げられすぎて気絶した。そこで後から来たグリンダが、研究員をのしたソウマに危機感を感じてリエラを呼んだ瞬間……
 グリンダも何者かに後ろから殴られ、気を失うこととなった次第だった。
 音もなく近づき、グリンダを殴ったのはラック。ソウマは別に隠れていた仲間に助けられたのだ。
 女子更衣室のロッカーに隠れている触手……もとい、“探求者”ミリーも含め、温水プールの建物内に潜んでいる者たちは一応マイヤに協力し、大型獣とジャングル化現象を解明しようという者たちだったわけだ。ちなみにラックがマイヤからマスターキーを借りているが、基本的にはみんなプールの開いている時間のうちに入って、見つからない場所に隠れて夜を待っているのである。ランドが閉館前に隠れて残ろうとしている者がいないかチェックしはじめてからは、その困難の度合いも増して、今も残っているのは3人のみ。
 マイヤからは潜入捜査の許可は貰っているが、カマー教授の許可など貰ったはずもなく。見つかれば、不法侵入者たちと同じく、つまみ出される運命には変わりないからだ。
 そしてグリンダたちを気絶させたあと……
 これは犯人ではないのではないかということに、ラックとソウマは考え至った。第一発見者の狂言は捨てきれない可能性だったが、それは彼が気がついたら改めて尋問してみればいい。しかしもしも違っていたなら……犯人が現れ動くように他の侵入者たちを排除し、隠れて待ち続けてきた自分たちの努力も水の泡だ。
 外にはカマー教授のために見回りをするマーティたちがまだいることもわかっていたので、外に二人を放り出すこともできず、その始末に困ることとなった。結局、どこかに放り込んでおくしかないということになり、ソウマと一緒にゴミ箱の中へ。
 大きなゴミ箱ではあるが、3人入るとちょっとキツイ。そんな満員のゴミ箱の中から、ソウマは次の人影を確認したのである。
 人影は、音もなく通り過ぎた。ソウマは出て行くかどうか迷う。隣で気絶している研究員のときの反省だ。もう少し泳がして、証拠を掴むべきか、と。
 だが……もう一つ人影がまた音もなくゴミ箱の前を通り過ぎていって、状況は変わった。
 後から来た人影が、前を行く人影に背後から襲いかかったからだ。
 襲いかかられた側も、見事な直観力でそのまま最初の一撃をもろに喰らうことなく、紙一重で避ける……襲いかかられたほうがジークで、襲いかかったほうがセバスチャンだった。

 すべての問題は、プールに忍び込む者やプールに潜む者たちの中で、『犯人像』が特定されていなかったことにあるだろう。
 マイヤから情報の提供があるソウマたちでも研究員の侵入には混乱させられた。
 セバスチャンも実はマイヤの元に過去見で犯人像が特定されているならばと訪ねていっているが、そのときにも特定と言えるところまでには至っていなかった。しかも特にマイヤの下に協力しようと集まった者たちと協力する気がなく、侵入の隙を作るにあたって空にいたカズヤをわざと発見させて騒ぎを起こしたのもセバスチャンだ。
 ジークは最初からマイヤに協力する者たちとは、まったくの別行動。
 こんな彼らに、この事件においては横のつながりはない。当然『仲間意識』がないのだ。
 つまり……挙動不審者を犯人と目す考えならば、それぞれにお互いが『犯人』に見えるというわけである。
 後は、どの時点で行動に出るかの違いだった。

 セバスチャンは拘束を目的としてジークに飛びかかった。もろには喰らわなかったが完全にかわしきれもせず、ジークは横転する。だがそのまま押さえ込みにきたセバスチャンの腕をすり抜けて、身を起こした。
「待て……!」
 ジークは自分が襲われていることが何かの勘違いだと思ったので、呼びかけて止めようとしたが、不法侵入に違いはないので大きな声は出せない。
 ジークの声は聞こえなかったか、かわされたセバスチャンはジークにダーツを投げつけ、それはジークの腕に刺さる。
 ジークはしまったと思ったが、傷は浅く耐えられない痛みではない。そのまま反撃に出ようとして剣の鞘を掴んだとき……
「貴様らは悪だな!」
 そのとき斜め後ろにあったゴミ箱のふたが突然開いた。ゴミまみれの少年が飛び出してくる。
 ジークもセバスチャンも、予想外の場所からの闖入者に一瞬気を取られ、その瞬間にセバスチャンにソウマから一撃が入った。
 よろめいたセバスチャンを見て、ジークはこれで終わるかと思ったが、ソウマはそのままジークにも蹴りを飛ばしてきた。一瞬油断したところでそれを腹に喰らって……ふらつく。
 セバスチャンは倒れたようだ。
 直後に何か後ろ頭に衝撃が走る。
「大きな声出すんやないって!」
 ジークの意識も途絶える前に、無理に潜めたような声で、そんな言葉が聞こえた。

「大きな声出すんやないって! もー……」
「だって……!」
 ラックはソウマの口をガバッと塞ぐ。
「……やつら忍び込んできたし、いきなり後ろから襲うし」
 塞がれたソウマも、声を落としながらも続けた。ソウマ的正義の主張があるようだが、ラックにしてみればいきなり飛び出して叫んだソウマが一番問題である。
「あ、ヤバ!」
 ラックは、外にまだいた者たちが中の騒ぎに気づいたことを悟った。
「隠れて……!」
 慌ててソウマはゴミ箱に、ラックは用具室に、それぞれ再び身を潜めた。

「……これは、相討ちってヤツかしら」
 様子を見に来たのはカマー教授だ。
 しかたないわねえ、と言いながら、ジークとセバスチャンの体を両脇に抱え、教授は外へと出て行く。
 玄関を出て、開けられていた鍵を閉め、外へ出ると。
「カマーちゃん、もう一人いたわよー」
 追加でもう一人捕縛者が出たらしい。
 マーティのところにまでカマー教授が戻ると、ランドが捕まえたというそれはアナスタシアだった。アナスタシアはカマー教授をずっとつけまわしていたのだが、ここに来てとうとう発見されたのだ。
 そろそろ夜中で、温水プールのまわりとなれば弁解の余地もない。
「おつかれさま。今日はもう、来ないでしょ。あなたたちも帰っていいわよ」
 捕まった者たちを寮に帰すにあたって、カマー教授はミステリー研究会の面々にも帰るように告げた。
 自分も蒸気研に荷物を取りに戻ったら、家に帰ると言う。
「……それにしても、本当に今日はいっぱいね」
 それぞれ考えて、準備が整ってきたからか。明日いきなり減るとも思いにくければ、こういう状況はしばらく続くか……と思われた。
 何か劇的な変化が起こらなければ。
 カマー教授は寮に戻る一行を見送ってから、蒸気研のほうへと歩き出した。
「こうるさいことね。前より気をつけないとね……」
 その姿は、闇に飲まれて……
 いつのまにか消えた。


■プールと虎の真実■
「きっかけは、ラジェッタにサーカスを見せてあげようと思って行ったときのことでした。残念なことにサーカスの虎が具合が悪いので、お休みで、でもラジェッタに見せてあげたかったので、終わった後で団員のかたにお願いしてみたんです」
 親子と言っても二人は出会ってから日も浅く、お互いに何が好きで何が嫌いかもわからない。手探りで好きなものを探しているうちに、ラジェッタが街中で猫を見かけると興味を示すことにエイムは気がついた。寮で猫を飼うわけにはいかないが、何かラジェッタが喜びそうなものはないかと探して、たどり着いたのがサーカスだった。
 サーカス自体にもラジェッタは喜んだが、虎を見せたかったので、見るだけでもとお願いしたところ……カマー教授と偶然そこで出会って、逆に『お願い』されたのだとエイムは言った。
「虎が元気がないので、元気づけたいということだったんです。こどもも産んだのに、子育てもできないそうで。それではいけないと……それでも体が悪いわけではなさそうで、どうしてなのかわからないから、色々試してみたいと……それに力を貸してほしいと」
「カマー教授って……虎好きなの?」
「好き……なんだと思いますけど」
 エイムは苦笑を浮かべた。自信があるわけではなさそうだ。
「実験をなさりたかったのもあるようですが」
 だろうなあ、と話を聞く者たちはうなずく。虎好きで、無私に虎を慰めたかったからだと言われるより、ずっと納得できた。
 最初は映写機でジャングルを映し出したかったらしいが、どうしても上手く行かなくて、諦めて本番ではリエラに頼って幻影を出したのだ。
「映写でジャングルって、上手くいきそうだったのか?」
 それでもはじめはと言うのなら、上手くいく見込みがあったのだろうかと聞く。見込みがあったのなら、それはすごいことなのかもしれない。
「いいえ……実験のことはよくわかりませんが」
 全然駄目だったらしいということを、エイムは控えめに答える。
 楼国からの輸入品マタタビは猫の万能薬だということで、粉末で与えると虎もそのときは酔っ払ったようにはなるが、元気にもなる。なら樹ごと与えてみようと言って、温室から転移させたりもした。
 エイムとラジェッタの頼まれた仕事は、温室のマタタビの樹と、虎と仔虎を転移させること。対象が見えていれば、知っている場所になら転移は可能だという。一緒に転移する必要もない。
「ただ、この子たちのほうは元気で、扉を開けた隙に、逃げ出してしまったんですよ」
 親虎はマタタビに酔っていて、気がつかなかった。サーカスに戻ってから気づいたようだが……なんだかより消沈が深くなってしまったような気がするらしい。
「だから、この子たちは親のところに返してあげなくちゃいけないんですが……」
 本当は親虎に、同時に元気になってほしい。仔虎の面倒を放棄気味なのは事実なので。返してそれだけで元気になれば良いのだろうが……
「今度は、酔わないようにマタタビ抜きでやってみようって、教授がね。効くかどうかわかりませんが」
「で、その決行が……?」

 ラシーネやルオー、マリュウ、そしてクレアとルーなども含むけっこうな数が、夜半過ぎでもサーカスに行くエイムとラジェッタについていった。仔虎は交代で抱いている。
 ラジェッタはエイムが話をしている間には眠っていたが、今は目を覚ましていた。
「おっきなねこちゃんなのー」
「おっきなねこちゃんは、とらちゃんって言うんやでー」
「とらちゃん……?」
 どうやらキーウィが心配していたように、ラジェッタの語彙はまだ微妙に足りてないらしい。虎も猫も一緒くただ。
 だが、動物図鑑を見たことを思い出したようだ。
「とらちゃんなのね」
 と納得している。
 ラシーネはせめてこの道行きの間にエイムに話を聞きたくて、エイムの隣を歩こうと足を速めていた。
「エイムさんに聞きたいことがあるんです……あなたはリエラの記憶も受け継いでいるのですか?」
 リエラと一つになったエイムに、聞きたいこと。それはリエラはどこへ行ってしまったのかだ。消えてしまったのか。
 ただ純粋な知識欲にエイムが向けた目は……なんだか悲しそうだった。
「……リエラに過去の記憶はありません」
「え?」
「ただ知っているだけです」
「それでは……あなたのリエラの意思は」
 そう聞こうとして、ラシーネは不意に気持ち悪さを感じた。ひどくめまいがする。何故なのかはわからなかったが、意識が溶けて消えていくような気がした。
 それに気づいたようで、エイムはラシーネの背中を叩いた。
「落ち着いて……少し考えるのをお止めなさい。違うことを考えるといい。私のせいでしょうけれど、君にはまだ早い」
「え、ええ……じゃあ……レアンと仲が良かったようですけど……彼が変わってしまった理由は……」
 他にも聞きたいことはあったが、何故だか今は『自存型リエラ』や『真のフューリア』と口にするのが怖かった。言葉の持つ真理に、自分が溶けて消えてしまいそうな錯覚。飲み込まれたら戻っては来られない……エイムのようには。
 聞き耳を立てていたシルフィスは、ここで話に入るべきか迷った。聞きたいことはあるが……
「彼が変わったかどうか、私にはわかりません。私が知っていることは……彼は堅実で、限りなく誇り高く、そしてとても優しい人でした」
 だから許せないこともあったでしょうね……と、目を伏せる。
 サーカスはもう目の前だった。


 真夜中を過ぎて、ジャングルは現れた。それより少し前から暑くなってきていたので、もうじきだと隠れている者たちも思っていた。
 ただ、ジャングルが現れたとき、人の気配はあったが……その姿は、隠れていた者たちを酷く悩ませるものだった。
 その姿は、マイヤだったからだ。いや、本物ではないだろうと思うわけだが、きっと犯人には違いない。
 交信を上げながら、様子を窺う。
 すぐに虎と仔虎が現れ……これが確たる証拠と、ソウマは再びゴミ箱を飛び出した。
「悪はこの世に栄えねえぜ! 覚悟っ!!」
 そう言ってマイヤに見えるものに飛びかかる。
 だが……
 すかっ。
「なにぃ! やるな貴様!」
 やるなも何も、明らかに触れられないのだが。
 そしてそんな奇妙に殺気むんむんのソウマに反応したのか……
 ぐるるる……
 虎が唸り声を上げていた。
 そちらに気づいて、ソウマはターゲットを変えた。
「やるかっ!?」
 そして向き直ろうとした瞬間。
「虎に何さらすんじゃい!」
 ソウマの真の敵は後ろから来た。ちなみにラックは必ず交信を上げ、リエラの力で姿を消し、足音を消して後ろから近づくために大変気づきにくい。
 ソウマが前のめりに倒れたところをラックはすかさず踏んで、友好の印に虎にソーセージを出した。するとより人馴れしているのか、仔虎のほうが近寄ってこようとして……
 親虎に退けられた。
 自分が食べたいからではなく、ラックを警戒しているのだろう。
 ラック的には仲良くなりたいのだが、意思の疎通はなってないようだった。
 じりじりと睨み合う。
 犯人……カマー教授なのだが、まだラックたちは知らない……は、まだ幻にまぎれて、その姿を現してはいなかった。


「……教授」
 カマーもおかしいとは思っていたのだ。
 前のときには虎を飛ばしてきた後、すぐにエイムたちも飛んできて幻に隠れていたのに。
 ずいぶん、時間がかかった……と思いきや、現れたときには、他にも学生を連れていた。
「そこまでやりますか」
 マイヤのダミーにエイムがあきれてそう言った。
 ちなみに、ラックと虎は戦っている。いや、戦っているつもりなのは虎のほうだけかもしれないが。ラックも、ところどころ服も裂けていて血も出ていて……エイムと一緒に来た者たちは慌てたが、上に乗ろうとしているのか、なんだかラックは楽しそうだった。
 ……脳内麻薬のせいで、痛みがわからなくなっているだけかもしれないが。
 最近の虎の普段の状態を知っていた者がいたなら、虎の状態にもびっくりしただろう。戦う気力などないと思われていた虎だ。狩人の野生が目覚めたのか、こどもを守る本能が戻ったのか。
「あの、すみません、私、話してしまいました……これだけ親身になってくれる人たちに嘘をつき通すのは、ちょっと」
「なんですってー!」
 それでも、一応カマー教授は隠れていたのだが、ここでようやく幻の中から姿を見せた。
「裏切り者ッ」
 というか、隠れている意味がなくなったからだ。
「……まあいいわ、虎も元気になったみたいだし」
 一瞬いきり立ったかと思ったが、すぐに暴れている虎を見やって、カマー教授はそう言った。
 仔虎たちはキラキラした目で、親虎の戦う様を眺めている。
「マイヤちゃんには借りが出来そうねー」
 さすがに教授とはいえ、無罪放免とはいかないだろうと思っているようだ。だが、悪かったところはと言えば無断で夜中に温水プールを利用したことと、マタタビの樹を無断借用したこと。これぐらいならば、どうにか言い逃れてうやむやにするんだろうなあ、と生徒たちは思う。
「……いいけどさ、教授」
 ルーにつつかれて、頭を掻きながらクレアが言った。
「あれ、止めなくていいの? そろそろ出血が……」
 そう、虎と戦うラックを指す。

 熱い戦いは、引き分けに終わったらしい。

参加者

“福音の姫巫女”神音 “飄然たる”ロイド
“天津風”リーヴァ “蒼盾”エドウィン
“怠惰な隠士”ジェダイト “白衣の悪魔”カズヤ
“探求者”ミリー “光炎の使い手”ノイマン
“弦月の剣使い”ミスティ “翔ける者”アトリーズ
神楽 “笑う道化”ラック
“風曲の紡ぎ手”セラ “双面姫”サラ
“ぐうたら”ナギリエッタ “闇司祭”アベル
“紫紺の騎士”エグザス “風天の”サックマン
“銀の飛跡”シルフィス “黒き疾風の”ウォルガ
“自称天才”ルビィ “待宵姫”シェラザード
“鍛冶職人”サワノバ “伊達男”ヴァニッシュ
“幼き魔女”アナスタシア “六翼の”セラス
“闇の輝星”ジーク “銀晶”ランド
“深緑の泉”円 “餽餓者”クロウ
“闘う執事”セバスチャン 空羅 索
“熱血策士”コタンクル “海星の娘”カイゼル
“抗う者”アルスキール “陽気な隠者”ラザルス
“路地裏の狼”マリュウ “蒼空の黔鎧”ソウマ
“土くれ職人”巍恩 “竜使い”アーフィ
“炎華の奏者”グリンダ “拙き風使い”風見来生
“緑の涼風”シーナ “爆裂忍者”忍火丸
“貧乏学生”エンゲルス “慈愛の”METHIE
“七彩の奏咒”ルカ “のんびりや”キーウィ
“深藍の冬凪”柊 細雪 ラシーネ
“旋律の”プラチナム “轟轟たる爆轟”ルオー
“影使い”ティル “憂鬱な策士”フィリップ
“泡沫の夢”マーティ “不完全な心”クレイ