悠久の……
 深淵に潜むものが何であるのかを語るためには、深淵とは何かを語らなくてはならないだろう。
 深淵――異界。神々の座す場所。すべての超常の力の源。
 リエラの生まれし場所。リエラの還る場所。
 ――人が死して還る場所。……人が生み出した場所。
 そこでは人の羽ばたく想いが形を創る。人の熱い願いが力になる。人の深き慈愛が調和をもたらし。それらの粘り強い積み重ねが安定をもたらす。
 そうして深淵は生まれた。そうして深淵に棲むものは生まれた。
 深淵に潜む怪異もまた、その落とし子ならば。
 それは人の――が産み落とした化け物なのか――


 まだ学園にフランの姿はない。フラウニー・エルメェスの呪われた運命は知る人ぞ知るところとなっていたが、しかし万人がそれを知るというほどのこともなく、またアルメイスは日常のような顔を見せていた。
 最近あった目立つ異変を言うならば、ショーゼル街の辺りの住人が、その地区がテロリストに狙われているということで避難したことだろう。いまだに避難した者たちは自宅には帰っていない。
 元々アルメイスは学園都市を機能させるためだけの住人しかいない。学生でなかったならば、仕事で移住してきたか、研究生として卒業生が居残っているか、講師教授の類かに大別される。なのでアルメイスにしか行き場のない者というのは、通常はあまりいないのである。
 どうしてもアルメイスにいなくてはならない者については、寮の空き部屋で事足りた。通商や業務でアルメイスに滞在していた者ならば、いくばくかの保証金を手にして元々の故郷へ里帰りの休暇に変えてしまった者が多かった。だから、それらもまだあまり深刻な課題になることなく、今に至っている。当事者たちは、原因となったレアン・クルセアードの回復によって解決されるものと思っていたようだ。
 実際には、その鍵を握っているのはレアンではなく、今もまたランカークの屋敷に身を寄せているフランであるわけだったが。

「どうなんだ……あの……娘は」
 サウルが食事を運んできたとき、レアンがふと訊ねてきて、白い林檎の皮を剥きながらサウルは顔を上げた。
「レディフランなら……まあ、普通に戻るっていうのは、無理だろうね。隠れている間は薬を使って眠らないでいたようだけど」
 薬という言葉に、レアンは顔を顰める。先日わずかに顔を合わせたときに、そうではないかとは思っていたが……しかし、体や心に負担をかける薬はレアンにとっては鬼門だ。
「もちろん今は使ってないけど……残っちゃうこともあるしね。実際、やっぱり今もあんまり寝てないらしいよ」
 眠らないのではなく、眠れないという意味で。不安がフランを苛んでいるのだろう。また眠りのためにイルズマリを犠牲にしたことを、心晴れやかには受け止められるまい。だが、イルズマリが戻ってきたなら……再び、繰り返しになるのだ。
 イルズマリは戻ってくるだろう。そんな記述がわずかでも残っているということは、過去にそうしたことがあるということだ。元来エルメェス家の呪いのことを知る者の間でも、その記述についてが廃れていったということは、それには限定的な効力しかないということだ。何よりイルズマリがフランのそばにいたということが、イルズマリが戻ってくる証拠である。
「彼女を救う方法は、正直、僕にはわからないけど。何か確実な方法があれば、過去にすでに行われていただろうし」
 呪いの歴史は長いので、皇室に属し帝国の情報を握る職に就くサウルは、その呪いの存在自体は初めから知っていた。だが、解決の方法は知らない。それはまだ誰も知らぬことなのだろう。
 それはいつ降臨するかもわからぬ、深淵より来る者。それを消滅させる方法はないのだろう……人がこの世にある限り。リエラがただ唯一の方法によってしか、消滅することのないように。それは自らにしか従わぬ、エゴイズムの具象神。
 簡単で確実な解決の方法が、過去の記録に残されていることはありえない。何故なら、それを実行すれば解決するということがわかっているならば、今このときまで問題が残っていることはないからである。抜本的な解決があるとすれば、その道は過去の中ではなく、今を生きる者の創造する力の中にある……本当にあるか否かも約束はされない苦難の道であるが。
 ともあれ、イルズマリが戻ってくるたびに殺される、殺されるために戻ってくる……なんて、そんなことには、やはりフランの心は耐えられるまい。そういうこともあって、代々多くの依り代は心を病んでいったのかもしれない。
 後悔は多い。
 それがやむをえないものであってもだ。
 後悔の迷路は堂々巡りで、どこへ向かっても出口は見えない。
 ただ、伝承に伝わることは、出現を抑える方法だけだ。
「ただまあ、出てこないようにする方法はあるみたいだけど……僕は知らなかったけどね」
 その方法については、サウルは多くは語らなかった。自分が当事者ではないと思っているからかもしれない。いや、ルーの未来について無関係でないのならば、サウルも無関係ではないのであるが。
 四大リエラの主のうち、大きく対立するのはルーとレアン。
 誰が妥協し、どのような未来を目指すのか。少数派を力をもって屈服させても、調和したことにはならないだろう。それは心の問題なのだ。
 すべてが丸く収まらないなら、やはり収まるところまで何かを切り捨てていくことになるのだろう。
 そのとき切捨てられるのは、彼らかもしれない。サウルが切り捨てられるときには、レアンも共々だ。逆もまた真。
 あるいは、彼らが切り捨てる側に回るのか。ルーを切り捨てるときには、エリスも共にかもしれない。あるいは更なる時間稼ぎに、やはりフランを切り捨てるのか。
 レアンか、ルーか、フランか……
 遠からず、誰かが誰かのために選ばなくてはならない時が来るかもしれない。すべての選択は『保留』だ。選ばぬままに先へ進められるのなら、それでも良いが……
「……俺は、妥協はできない」
 ぼそりと、レアンは呟いた。
「ま、譲れないことは誰にでもあるね」
 さらりと、サウルはそう答えた。
「当面、僕の希望は君に近い。だからもちろん、僕から君に妥協しろとは言わないよ。言ってくる者もいるだろうけどね……」
 そこで、サウルは一度言葉を切った。
「本当に、君だけの、君たちだけの問題なのかな。君たちだけが、責任を負うことなのかな」
 調和するべきは、四大リエラの主だけなのだろうかと。


 つかみどころのない話のかたわらで、小さな願いが何もなかったわけではない。
「あのね……」
 ラジェッタがアルメイスに来て、もう一年ほどになるだろうか。その言葉も、以前ほどにたどたどしくはない。
「おうちにかえろうとおもうの」
 それはラシーネが言ったことに触発されたのだろうか。ラジェッタは、レイドベック公国に帰ると言い出した。
 ラジェッタの故郷はレヴァンティアースとレイドベックの国境に近いとは言え、いまだ一触即発の敵国である。そこでは、フューリアの存在はそもそも許されない。自存型リエラを連れたラジェッタが、そこで暮らすことは不可能だ。
 だが……


 フランは今も、ランカークの屋敷に身を寄せていた。自分の家に帰らなかった理由は……人から身を守るためだろうか。地下から地上に出てきただけで、カレンの仕事はあまり変わり映えしないようだった。
 フランと話をしたい者にとってはランカークはやや難関だが、無制限にフランに人が近づくことを抑制する関所にはなるだろうか。
 フランの様子も、あまり眠っていないことに変わりはない。ただ薬を断ったというだけだ。
 イルズマリ――アルディエルは帰ってくる。
 だが、それはまだのようだった。
 帰ってきたときには、繰り返される。
 そのとき、どうするべきか……
 そのときまでに、するべきことをしなくてはならない。
 そして、そのときのための準備を怠るわけにはいかないだろう。
 そのときまでに、選びきれなかったときのために。
 エイムが消失した後、ラジェッタの元へリエラが帰還するまでにかかった時間は一週間足らず。それと同じ時間はもう過ぎた。何を決めるにも、時間はあまり残されてはいない……

 それが多分、約束の時。
 本当の選択の時。
 ただ見守る者にとっても。
 選ぼうとする者にとっても。
 もう答は出ているのかもしれなかった。
 まだ答は出ていないのかもしれなかった。
 すべてにおいて――
 揺らぐ未来を望む形に繋ぎとめるための、後一歩。
 その一歩が――
 明日を選ぶ。

 いつか神々を超えよ――それがラーナの教えだ。
 どのように神を超えようというのか、何をもって神を超えるというのか、それを明らかにする記録はない。
 だが聖典は伝えるのだ。
 いつか神を超えよ……と。

 ラーナ教の歴史とフューリアの歴史は、完全には重なり合わない。その発祥は異なるものだ。
 かつてラーナ教を奉ずる民は、その神を畏れぬ信仰を異端とされて元々居住していた南の土地を追放された。追われ追われてラーナ教徒たちは北上を続け、その果てに北の大地イシュファリアの先住民であるフューリアの一族と出会ったのだ。
 神にも等しき強大な力<リエラ>と共存し、あるいは自由に使役し、大自然のすべてを信奉し絶対神の宗教を持たぬがゆえに神に服従することなく、力で満たされているが故に慈悲を持ち欲のない……そのときラーナ教徒が出会ったフューリアたちは、彼らにとってその信仰の行き着く先の姿に見えた。
 当時のフューリアは数少ないがゆえに同じ一族で婚姻を繰り返し、特にその素質を強めていた時期でもあったのだろう。故国を追われてきた弱き者を隣人として住まわせることはやぶさかではなく、ラーナ教徒とフューリアはこのときから同じ場所で歴史を紡ぎ始めた。
 深淵にあるものは、これより前からその名を持っていただろうか。それを証するものはないが……
 フューリアの一族と、今帝国でエリアと呼ばれるラーナ教徒たちの祖先。彼らが出会い寄り添ったときが、このときだった。
 時は流れ、ラーナ教徒とフューリアの血は分かちがたく混ざっってゆく。
 その途中、ラーナ教の中でリエラは神に従う物になった。そして特別な四つと言われたリエラはラーナ教に従わざる物となった。
 その分岐点は、かつて聖者と呼ばれフューリアを統べた者。深淵の果てに狂いし王アルディエル。あるいは彼こそが、現代ラーナ教の礎となった司祭だ。<神>にも飲み込まれぬ自我を持ち、深き淵よりその一柱を召喚し……ラーナ教において超えるべき目標を、おそらく初めて示した者。
 昏き深淵より来たりしは“奔放なる者”……あるいは“イゾルド”。
 一方で世界そのものたる4つの力もまた、自ら選びし者を介して干渉した……世界がエゴに歪んでしまわぬように。人の神の理を捻じ曲げる暴力を認めはせぬと。
 この争いの結果は、世界と人が人の創りし神を封じ込めることで終わった。
 滅ぼすのではなく封じ込めた理由は、人によって創られし神は人を滅ぼす以外の方法で滅びぬからだ。それ故にそれは出口に力をかけ続けるという、不確かな方法に拠ることとなり……
 そしてそこより<世界>は<神>に反逆したとされ、ラーナ教の聖典は記録する。
 神に叛きし四大リエラ、と。
 その反逆の記録は呪いの言霊となり、以降、世界が選ぶ<触媒>に作用するようになる。
 触媒たる彼らもまた人であるが故に。

 ラーナの教えは、飽くなき向上心。
 いつか神をも超えよと……
 そして今また……試練の手を取って、狂気の司祭は舞い降りる。


■噂は走る、その行き着く先に■
 フラウニー・エルメェスについて憂いている者に、気になる情報がある。
 そんな噂は野次馬の興味も手伝って、疾風のごとく学園を駆け抜けた。いささか関係者たちが眉を顰めるほどの速さで、その噂は学園中に広まった。
 だが、フランの情報を求めた全員がそれにたどり着けたわけではない。
 知りたい者は何日の何時にカフェ・ラルメールへ来るがいい……そう噂はくくられていた。しかしこのカフェがどこにあるのか、知らない者も多かったのである。本当に知りたい者だけが訪れ、野次馬を排除できたことは評価されるべきかもしれなかったが……

「どちらへ参られまするか」
 ルーが学園長であることを知る者も、今はそれなりの数にのぼるだろう。そんな状況下においては、その守護を勤めとする騎士ならば常に主のそばにいなくてはならない。ならばマイヤはルーのそばにいなくてはならないのだ。本来ならば。“深藍の冬凪”柊 細雪がマイヤを主君と定め、「侍とは候ものなり」と言ったように。
 だが生憎と、アルメイスの学生を統べる双樹会会長という立場においては、なかなかそれは許されなかった。ルーが身分を隠している間にはそれでもよかったかもしれないが。
 それは如何ばかりの苦悩であらんと、細雪は思う。
「街の皆さんの様子を伺いに、繁華街まで視察に行って参ります。なに、お気遣いは無用ですよ。あまり美しい女生徒を連れ歩いては、商店主の方々に妬まれるやもしれません」
 だがそう答えるマイヤからは、張り詰めた空気は感じられなかった。ここ半年ほどの間には、普段の生活の中でも緊張感のある雰囲気を感じさせていたものだったが。今、返事をしたマイヤはそれより前に帰ったかのような……珍妙な優雅さを醸している。
 早咲きの薔薇の一枝を襟元に挿して、気障にもとれる微笑みで。
 ……如何ばかりの苦悩であらんと、細雪は思う。
 マイヤは余裕を取り戻したのではなく、余裕を装っているのだと細雪は解釈した。そうでなくては果たすべき職分が果たされていないことを、悟られたくない者にも容易に悟られてしまうからだ。
「お供の必要がござらぬならば他のご命令を。男性ゆえに手の届かぬところもございましょう。幸い拙者は生物学的分類上は女となっておりまするゆえ……主からの命あれば誠心誠意……我が身を以って、その代わりを勤める所存にございまする」
 ルーを護れと命を下せと、細雪は暗にマイヤに求める。命さえあれば、その身に代えても護りきろうと。
 マイヤはそれに困ったように微笑んだ。
「もう早咲きは蕾をつけている……薔薇盗人に気をつける必要はあるでしょう。ですが気高き薔薇も可憐な野の花も、花に変わりはありません。僕にとって散らされて嬉しい花はないことを、憶えておいてくださいね」
 薔薇のために野の花が無残に踏み躙られることもあるかもしれない。それは已む無しではあっても、好しではないと……ルーを護るために細雪が犠牲になることは、好しではないと。
「それを踏まえたうえでなら、お願いしましょう」
 主君を絶対とする同じ価値観の持ち主だからこそ、最期の命を易々とは下せない。命を賭せと命じれば、細雪は躊躇わないことをマイヤも知っているからだ。自分が皇女に命じられれば、同じことをするのだから。
「心得てござる。なんなりとご命令を」
 マイヤは細雪に耳打ちして、それから会長室を出た。
 ぶらぶらと余裕のある足取りで、校舎の出口に向かう途中。会長室を目指していた“旋律の”プラチナムに行き合った。
「会長。お出かけですか」
 マイヤは細雪に言ったことと概ね同じ返答をしたが、プラチナムは男性なので後半の半分は使えない。お話があるのです、というプラチナムを振り切れず、道々に聞くことにしてマイヤは再び歩き出す。
「会長はどうなさるおつもりですか?」
 ことさらに人気のない道を選んだのは、プラチナムが少し厄介な話を振ってくることを察していたからかもしれない。
「学園長の望む革命は、あちらに知られている以上、失敗は目に見えています。失敗するとわかっているならば、別の方策を探すべきではないでしょうか」
 マイヤは相槌だけで答えた。是とすることも否とすることも、自分にその権利はないかのように。
「学園長の破滅など、会長もお望みではないでしょう」
「もちろん、それはそうです」
「そもそも革命によって平等な世界ができるなどが幻想だということは、会長もおわかりのはず。確かに能力の有無や貧富の差など、生まれながらの格差はあると思います。しかし、そのようなことは些細なことなのではないでしょうか」
 そこで、ふと微妙な表情を浮かべてマイヤは問い返した。
「本当に……そう思いますか?」
 マイヤもまた、生まれついた家と能力に縛られた者である。それが不幸か否かは彼ら自身の決めることだとして、マイヤはそれを是として生きてきた……そして自らは是としながら、それに類するものを否定し改革を望む主人を持ち、それを補助してきた。
「ええ」
 問い返された時には、プラチナムはまだその意味に気づいてはいなかったが。
「……そうかもしれません。多くは与えられた中で懸命に生き、立場に応じた幸せを得て、それに満足して生涯を送ります。でも、夢を見ることもある。叶わぬ夢と知っていても。……望むことは許されているのに、けして実現しないというのは、残酷ではないのでしょうか」
 マイヤの中で、その是非は折り合っていたのだろうか。マイヤの叶わぬ夢も、革命によって手の届くところに来るものだったのか……それはわからないが。
「それは本人の努力次第で身分に関わらず登用できる制度など、機会平等を保障する社会に現状を改善していけば良いのだと思います」
 そしてそれは、革命という手段でなくても実現できるのではないか、と。
「学園長とサウル様、そして会長が協力すれば、革命などしなくても」
 ルーとマイヤの破滅を回避する。そのためには革命を望む学園長……ルーがなんらかの妥協をしなくてはならない。ルーを説得するには、サポートするマイヤの心も傾ける必要がある。プラチナムはそう思ったのだ。
「……伝えておきましょう」
 それが革命の代わりになると、マイヤに思わせることができたなら。
 マイヤがそこでうなずいたことで、プラチナムは息をついた。できることはできただろうか、と。
 だが、マイヤが続けた呟きが耳に響く。
「僕の夢は、夢のままですが」
「……どんな夢だったんです?」
「子どもの頃の夢ですよ。他愛のないものです」
 訊ねたプラチナムに、マイヤは悪戯めいた微笑みを向けた。具体的な答えはない。
 それから二人は微風通りに出て、人通りが多くなると自然に話が途絶えた。しばらくして路地裏に入り込み、プラチナムが行き先を改めて問うまで。
「ここから、どちらへ」
「ちょっと喫茶店に。一つのことばかり考えていられれば、少しは楽なのですが……そういうわけにもいきませんのでね」
 路地の先には、小さな入口に『カフェ・ラルメール』の看板が見えていた。


「どちらへ行かれるんです?」
 “炎華の奏者”グリンダは、出かける支度をしていたサウルに訊ねた。着ている服は普段家にいるときよりも良い物ではない。みすぼらしいとまではいかないが、庶民の服だ。
「新聞配達の坊やみたい」
「坊や? そこまで変かな」
「訂正しますわ。新聞屋のおじさまみたい」
「アルメイスには普通の労働者が少ないからなあ。ガイネ=ハイトや近郊の街だと、これで十分目立たないんだが」
 サウルはしばらく考え込んだ後、いっそ制服にするかとクローゼットを開ける。
「制服なんて持ってらしたんですのね。お出かけなさるなら、お付き合いしますけど」
 どちらへ? とグリンダは最初の質問に戻った。
「ちょっと野暮用でカフェまで。誰かに頼もうかと思ったけど……自分で行くことにした。今日は優真君もいないから、グリンダ君には留守番してて欲しかったんだけどな」
 当然ながら、レアンは残していくからと。
「まあ。でも今、貴方にいなくなられたら困るのよ。ルーのことにしたって何もかも御破算だわ。一人で出歩くのは勘弁してもらえるかしら?」
「駄目かい?」
「行っちゃダメとは言わないけど、貴方のことが邪魔な人もいるでしょってこと。私にわかるくらいだから貴方が気づいていないとは思わないけど、気をつけてもらわないと」
 だから護衛代わりに一緒に連れて行け、というわけだ。グリンダの提案にサウルが考えこんでいると……
「なんだ。出かけるなら、俺が留守番しといてやるよ」
 レアンのところを訪ねてきていた“白衣の悪魔”カズヤが、ひょいとグリンダの後ろから顔を出す。お湯を貰いにきたと、手に持っていたポットをグリンダの手に渡して。
 グリンダは「あら」とポットを受け取って、キッチンへ早足で戻る。その隙にサウルは制服に着替えながら、カズヤに言った。
「……君に害意がないことは、信用しないわけじゃないんだけどね」
 以前追い返されたことを根に持つこともなく、カズヤはレアンのところをこまめに訪ねてきていた。カズヤはレアンの意見に賛同し、レアンを襲撃から守りたいという意向を示して、無理のない範囲でサウルの屋敷に通っている形だ。またレアンが普通に食事を摂る普通の半病人になったせいか、特別にトラブルになることもなく訪問回数を重ね……警戒心も薄らいでいる。それはカズヤのレアンへの好意を疑わない、ということなのだが。
「無理強いはしちゃ駄目だよ」
 恋愛対象に男女の区別のない者を、好意を向けた誰かと二人きりにするのは、別の意味で危ないと言えるかもしれない。
「安心しろって。半病人に襲いかかるほど獣じゃないぜ」
 調子よくカズヤは答え……それなら、と、サウルは決めたようだった。その直後、サウルが着替え終わったところでグリンダが戻ってきた。
「じゃあグリンダ君、カズヤ君に留守を任せて行こうか。それでもあまり長いことは出かけていられないし、手早く帰ってこないとね」
「あら、すぐ出ますのね。じゃ、これ、お湯よ。後は足りなかったらキッチンのストーブにお鍋のせてあるから、そこから持っていって」
 盆に載せたポットをグリンダはカズヤに渡し、二人はそのまま玄関に出て行った。
 サウルが微妙に不安になるほど上機嫌に、カズヤはそれを見送って……それから二階のレアンの部屋に戻るべく、階段を上がっていく。
「無理強いなんかしないさ。まあ、抵抗されるのも燃えるけど」
 カズヤは笑顔で怪しい独り言を漏らしつつ廊下を抜けて、にこやかにレアンの部屋の扉を開け……
「レアン、サウルが出かけたぜ。しばらく二人き……」
「おまえは今も心に正義を燃やしているかー!」
 一歩踏み込もうとしたそこで瞬間冷凍されたかのごとく、カズヤは足を止めた。にこやかな表情が、にこやかなまま引きつる。
 その理由は、レアンのいる部屋の扉を開けると正面に先日修繕されたばかりの窓があるのだが、そこにべったり人が貼り付いていたからだ……
 誰かと言うのは、言うまでもないだろう。“蒼空の黔鎧”ソウマである。
 レアンはベッドサイドに腰掛けて、杖を突いて立ち上がろうとしていたところだった。
「……開けてやってもいいか?」
 振り返ったレアンにそう訊かれて、カズヤは頭を抱える。
 ソウマが下から登ってきたのは間違いないが、今後の展開は三択だ。
 1、このまま落ちる。
 2、窓を割って入ってくる。
 3、窓を開けて入れてやる。
 カズヤは瞬間的に考えた。多分2になると、せっかくのサウルからの信用が下がる。1でもカズヤはいいが、それだとなんだかんだ言いながら情の厚いレアンに冷たい男だと思われるかもしれない。そうなると答は3らしい……あんまりカズヤには嬉しくない答だったが。
「俺が開けるから、座ってろよ」
 一度は立ち上がったレアンを制して、ポットと盆をワゴンに置いてからカズヤは窓に向かった。
「なんでこんなところから来るんだよ」
 そして窓を開けて、ソウマを引っ張り込む。
「玄関から呼んだけど、誰も出てこなかったからだぜ!」
 奥でグリンダとサウルが話していたから聞こえなかったのか……と、事情は飲み込んだが、だからといって失望感が癒されるわけでもない。二人きりという甘美なシチュエーションを衝撃的に粉砕してくれたソウマに、カズヤは怨みの眼差しを向けたが。
 ソウマの方はそんなカズヤのことなどこれっぽっちも気にしていないかのように、早、レアンに向かって自分の用件をまくし立てていた。
「レアン! フランの話は聞いてるか? まだなら俺が教えてやるぜ。エイムはおまえを正義だと言った! 正義とは皆を救うことのはずだぜ! 確かに帝国のやったことは許せねえ! そこに正義がある限り俺も手伝う! だが何をするにせよ! まずは世界を救おうぜ! このままじゃ結局は誰も救われねえ! 護るべき者もなにも! 一緒くたになくなっちまう!」
 ソウマが肺活量の限界に挑戦するかのように一気に言ったことへ、カズヤが冷静に感想を述べるとしたら……「コイツ誰かと一緒だと絶対隠密行動はできねえなあ」という辺りだろうか。途中で耳を塞いだが、それでも十分な音量で聞こえてきた。しかも、話が支離滅裂だ。多分フランを助けたいという意味なんだろうということは伝わってくるが……何をしようと言いたいのかが、さっぱりわからない。
 わからないというのに。
「とりあえず、俺と一緒に来い!」
 そう言って、ソウマはレアンの手を引っ張る。
「ちょっと待て!」
 カズヤの立場としては、ハイそうですかとレアンを連れて行かれるわけにはいかない。なんのために、この屋敷の周囲の住人を遠ざけていると思っているんだという話だ。
「いつイルズマリが戻ってくるかわからないっていうのに、人の多いところに連れ出す気なのか?」
「いつ戻ってくるかわからないんだから、今行くしかないだろう! レアンが正義なら、そうでない方を説得するしかないんだ! ついでにフランの話をしてくれるって奴に話も聞いてくるぜ!」
「いや待て、おまえ本物のバカだろう! ただ単に直接話し合わせてすんなり解決するなら、話はこじれやしねえっての!」
 どうも、ソウマの意図はレアンと対立する者のところを、回ってこようというところらしいが……絶叫の口論の果てに、息切れした二人が睨み合う。当事者は置き去りだ。
 次に口を開いたのは、おそるおそると……ソウマだった。
「ダメか?」
「駄目に決まってるだろ」
「フランの情報を教えてくれるってヤツのところに行くのもか?」
「それ、例の噂だな。罠じゃない保障はどこにあるんだ」
「俺が守るから大丈夫だ!」
「てめえなあ……! だからいつイルズマリが戻ってくるかわからないっていうのに」
 口論が堂々巡りで再燃しようかというときのことだった。
「……おい! いるなら出てこいよ」
 まだ開け放されていた窓の下から声がした。
 新たな訪問者にも玄関での呼び鈴には返事はなかったが、二階での怒鳴りあいは聞こえたようだった。
「あー……とりあえず待ってろ! 勝手にレアンを連れて行くなよ」
 カズヤは完全に夢破れたことを悟りつつ、ソウマにそう命じて一階へ駆け下りていった。

 新たな客は“光炎の使い手”ノイマンだった。サウルの留守にレアンのところに客を通すのも躊躇われたが、ソウマのことだからあまり待たせると窓からレアンを連れ出しかねないような気がして、やむなしとカズヤはノイマンを連れて二階に戻った。
「取り込み中みたいだからな、手短に言う。わたしと勝負しろ、レアン」
 戻って即刻、それを後悔したが。レアンのところに来るヤツはこんなのばかりかと、自分のことは棚に上げてカズヤは溜息をつく。
「ここでとは言わない。場所はアリーナで……」
「おまえもちょっと落ち着け。冷静になって考えろ。いつイルズマリが戻ってくるかわからないっていうのに、人の多いところに連れ出す気なのか」
 同じ台詞も、三度目になると棒読みだ。
 ノイマンはソウマよりは常識的だったのか、そこでいったん黙り込んだ。それから、考えを少し改めたのか、再び口を開いた。
「今すぐにとも言わない。不都合なく動けるようになってからでいい」
 そこでレアンが口を挟んだ。ソウマとカズヤの口論には、ソウマの話を理解するのから大変で口を挟む余地はなかったが、ノイマンの意図はそれなりに汲めたようだ。
「殴って気がすむのなら、ここで殴っていくといい」
「……決着はつけたいが、サンドバッグを殴りにきたわけじゃない。ただ殴るだけなら、殴る価値があるかというのも疑問だしな」
 殴る価値もない小者な気がすると、ノイマンはレアンを評価している。自分が虐げられたことを理由に狙いを絞らず無関係な者に八つ当たりをした、無分別なテロリストと。真のフューリアならばリエラの力を借りなくても……と言いながら、アークシェイルに融合して力を借りようとしたと。これらは多分に解釈の違いと理解の問題であるが、ノイマンはそう考えているということだ。
 言葉の意味としては、真のフューリアという言葉が自存型リエラを指していたことは、それなりの者が理解できていただろう。それを前提にクレアと話していた者も多かったはずだ。結局レアンは、それに失敗したわけであるが。何らかの原因で力が及ばなかったというだけで、融合しにいったこと自体は『真のフューリア』を目指す者として間違いではない。
 またレアンも帝国から離反していた間にしたことを、帝国の法に照らして罪であることは認めている。だがレアンはその間レイドベックの協力者だったのだ。帝国にとってテロリストであることで、レアンはかの地に安住の権利を持っていた。その地ではレアンは犯罪者ではなかった。ただの特殊工作員だ。
 レアンはかつて帝国の都合で、傷ついた体で敵国の只中に放置された。その後はただ生きるのも安易な選択ではなく……それでも、もっと違う国で隠れ住むことを選べば良かったと糾弾するのなら。それは当事者ではない者の、都合の良い要求に過ぎない。
 だからノイマンの言葉に、カズヤなどは不快感を示したが……レアンのほうは、ただ自嘲的に笑った。
「そう思うなら、それでいい。だがただ殴るのでは気がすまないというのなら、当分希望を叶えてやることはできない。この部屋は牢獄ではなく、おまえたちは自由に出入りしているが、それはただこの家の主の好意に過ぎないんだ。本当ならば俺は即刻首を刎ねられているか……そうでなくても牢の中で他人と面会は許されない身だ」
 更生の余地のないフューリアの犯罪者ならば、即断で処理されることも珍しいことではない。判断の基準は更生の余地があるかないかで、常習は軽い犯罪でも重い処罰に相当する。常習であり、逃亡の可能性があれば……
「だから悪いが、俺はここから出て行くことはできないだろう。俺が許しなく外をうろつけば、この家の主は困ったことになる」
 それはソウマへの答でもあるようだった。
 罪が清算されるまで動くことはできない。あるいは……その前に動くのならば再び罪を背負っていくことになる。
「正義を貫くために世界が滅ぶなんて馬鹿なことがあってたまるか! そこに正義はない!」
 だがそれは正義ではないとソウマは言い切った。世界を救うことこそが正義であると。
 その反論に、あきれたようにカズヤは顔を顰める。
「じゃあ、その正義のためにレアンが犯罪者として処刑されても良いって言うんだな?」
「俺が守……!」
「黙れ」
 カズヤは強制的にソウマの口を封じた。
「とりあえずサウルが帰ってくるのを待ちやがれ」
 サウルの許しなく外には出ないとレアンが言うのならば、話はそれからだ、と。


 さてサウルが屋敷に戻るまでには、まだしばらくかかるだろう。意外といえば意外な、まったく意外ではないと言えばその通りの場所でマイヤに遭遇して、おやおやと言うのもまだしばらく後の時間のことだ。
 指定の時間が近づいてくると、カフェ・ラルメールにはずいぶんと人が集まってきていた。どこかで見たような顔が多いのは、同じような者がフランのことを気にしているということなのだろう。
 カフェ・ラルメールに着いた者は、決まってテーブルを見回した。一番先にいた客が誰だったかと言えば、隅のテーブルを囲んでいた“陽気な隠者”ラザルスと“紫紺の騎士”エグザス、“銀の飛跡”シルフィスの3人である。だが指定の時間が来る前に着いた者には先客が必ず招待主であるとは決め付けられず、黙って席を埋めていく者が続いた。
 二番目には“飄然たる”ロイドと“影使い”ティルの二人が来て、それから“泡沫の夢”マーティがふらりと一人で入ってくる。その後にマイヤとプラチナムが。
 指定の時間が近づくにつれ、扉の開け閉めされる間隔は狭まっていった。いくらかの顔が続いて、それから“蒼盾”エドウィンと“貧乏学生”エンゲルスの二人も入ってきた。それから“冒険BOY”テムが。その後にサウルとグリンダが到着して。
 そして指定の時間ぎりぎりに“静なる護り手”リュート、“鍛冶職人”サワノバの二人が立て続けに入ってきた。
 誰があの噂を流したのかということが、気にならない者はいなかっただろう。噂を無視するかしないか迷って、試しに訪れただけだとしてもだ。
 最後にエリスと“ぐうたら”ナギリエッタが、カフェに入ってきた。
「時間は過ぎてるな。騙されたか?」
 時間が過ぎると、早々にエドウィンが席を立とうとした。それをラザルスが引き止める。
「まあ待つのじゃ。せっかちじゃのう」
「ラザルスさんがあの噂を流したのかい?」
 テムが聞くと、ラザルスはうなずいた。
「こんな方法を取ってすまんかったの。しかし、フランのことについては団結しなくては解決の道は拓かれんと思うのじゃよ」
 噂を流したのはラザルスだ。人を集めるための噂であったことは認めたが、噂に嘘があるわけでもないと言う。
「エグザスとシルフィスと、先に色々話し合って情報を突き合わせた。ここに来るような者ならば、知っていることも多かろうが……知らぬこともあるかもしれぬじゃろう? 何かを知らずにいて道を誤ってほしくないのじゃ。わしらの知っていることならば、すべて話そう」
 四大リエラの主たちが調和しなくてはならないことから始まって、始祖の名前がアルディエルという話。アークシェイルの主レアンの体験と主張、また現在レアンをバックアップしている憲兵隊長サウルの目的。学園長でありクロンドルの主であるルーの目的と主張と、その協力者であるエリスの存在……
 そんなことは知っていると言って席を立つ者はいなかった。
 その場に当事者か代理人が、ある程度揃っていたからだろう。全員が揃わなくては意味がないと考えている者以外にとっては、当事者たちの前で繰り広げられる暴露話に近いそれは十分に興味深い。
 当事者たちはと言えばマイヤもサウルもエリスにしても、飄々とした顔で話を聞いていた。内心で何を思っていたかは知れない。だが遮ることもなく、それを聞き。
「……概ね間違ってないと思うよ。僕が知ってる限りのことではね」
 一通り終わったところでサウルが肯定のコメントを述べた。マイヤとエリスはまだ黙っている。
「ねえ、フランさんを乗っ取ってる者って何? 魂みたいなものなのかな」
 テムが周囲の者に聞いていた。隣に座っていたマーティは、それに答えるでもなくぶつぶつ言っている。
「始祖の名は銀の鳥と同じなのね……深淵……ベオリーズ? まんまじゃないの」
 そして突然、立ち上がって声を上げる。
「……なんてことだ……! 我々は気づくのが遅すぎたのかもしれない……! 心を司る8つの神がリエラの起源だったんだよ! 四大はさらに深き淵……言わば世界の意志なんじゃないか? ……つまり何時いかなる時、場所にも存在し続ける我々が言う所の”始祖”はエゴ……自我を司るリーラスの使者、イゾルドだったんだよ!」
 突然の雄叫びに、びっくりしたテムは目を丸くした。きょろきょろと周囲を確認すると、カフェの中にいる者はテムと同じようにびっくりしている者と平然としている者に二分されるようだった。
 その間にもマーティは芝居がかった様子で呻くように喋り続けている。
「相手は神……か……俺達は余りにも無力だ…このままではアルメイスは滅亡する!」
 えええ、とテムは思い、手近な他の者へと声をかけた。
「……あの、あんなこと言ってるけど」
「間違ってはいないと思うがの」
 テムが訊ねた相手はラザルスだったが、あっさりと肯定されてテムは二の句が継げなくなった。マーティだけ見れば狂人の妄言のようだが、今同じく答えたラザルスは冷静に見える。
 マーティはまだ続けていた。
「だが! 俺達には俺達の戦い方がある! そう! それは諦めないことだ! 神を殺す、封じる方法を調べるわ。サウルちゃんっ、何かそういう古い資料とか持ってない?」
 そして、そのままサウルに詰め寄る。
 さすがにその勢いで迫られて、サウルもぎょっとしたようだった。それでも心当たりはないと答える。
 まあそこで心当たりがあるなどと答えた日には、なぜ今まで黙っていたと回り中から責め立てられたことだろう。もちろん知らないのは本当のことだ。
 次にマーティはその場にいた四大の主エリスのところに歩み寄って、何かわからないかを聞き、同じように答えられて。
「仕方ないわ、ラーナ教関係の書物をありったけ調べるわ。特にイゾルドに関しての記述を総て洗い出さなきゃ!」
 後でレアンのところに行くとサウルに言い残して、飛び出してマーティはカフェを飛び出して行こうとした。
「待ってください! 僕も手伝います!」
 毒か薬か、どちらにしろマーティの発する何かにやられたのか、それとも自ら思うところがあったのか、リュートもそれを追いかけていく。
「私もついて行ってみる。何か手がかりでもあれば……な。なくても挑戦はしてみるつもりだ」
 エグザスもそうラザルスに告げ、駆け出して行った二人を追って店を出て行った。
「本当に神様なのかい? フランさんに取り憑いているものは」
「わしも同じ結論になったのじゃ」
 エグザスを見送ったラザルスが、困惑するテムに答える。
「あれはイゾルドなんじゃろうな」
「私も行くべきかな」
 そこで呟いて、ロイドも立ち上がった。ロイドとティルの結論は先に出て行った彼らのものとは似て……非なるものだった。宗教家が聞いたなら異端と断じられるかもしれず、学者が聞いたならいくらかには支持されるかもしれない、そんなもの。
 ロイドとティルも店を出て行く。
 次々席を立つ者を見送って、テムはせめてと残った者に訊いてみた。
「フランさんに取り憑いているものを、別の器に入れられないかな?」
「それは……フランを殺すという意味?」
 そう訊き返したのはエリスだ。
「そんなんじゃなくて! リエラみたいに呼び出した器にだよ」
「他の器に移すことはできても、あれはリエラみたいな物には入らないのよ。他の誰かの体を乗っ取るだけ。移す方法はあるけど、その時点でフランは死ぬの」
 テムがその話を知らないのだろうと思ったからか、エリスはそんな説明を始めた。先日まで、それはエリスが実行しようとしていたことだ。だから、よく知っている。
「正確にはフランを殺すことで器が移るのね……そのとき適合する体がなかったら、少し時間を稼ぐことができる」
 それも時間稼ぎの一つの方法でしかないけれど。
「それもどうしようもなければ一つの方法よ」
「エリス!」
 ナギリエッタが声をあげ、エリスを止めた。
 この二人がここに来たのは、エリスが望んだからだ。ルーが考えを改めたとしても、まだエリスはどこかで考えているのだろう……少なくとも、それで当面アルメイスを守ることはできるかもしれない。アルディエルを排除するよりも、上手くいけばもっと長い時間。もっと長い時間があれば出来ることも増える。
 冷静に考えたなら、その選択肢はある意味で有効なものなのだ。だがもちろんテムは、そんなことを望んでいたわけではなかったので……消沈した。
「本気で言っておるのかの、エリス嬢ちゃんや」
 そこで顔を顰めて訊ねてきたのは、サワノバだ。エリスがフランに害意を持っていたのでは、せめてフランを救うという一点において四人を調和させようと考えていたサワノバの計画も立ちいかない。
「冗談を言っているつもりはないわ」
「勘弁しておくれ。エリス嬢ちゃんまで……フラン嬢ちゃんが何をしたって言うんじゃ」
「何もしていないわね。ただ、ああ生まれついただけ。生まれる場所を選べないのは誰しも同じだわ……私も彼女も」
 まさにエリスは、生まれる場所を選べなかったが故の辛苦を知っている。ただそれだけの理由で、死んでいった者もたくさん見てきた。それは当たり前のことだった。それを経て……今、彼女はここにいる。
 だから何もしていないから護られるべきという理論は、エリスには通じない。そんな言葉では心は揺らがない。
 誰もがその中で、なすべきことを探して生きている。エリスはずっと自分のなすべきことを求めていた。それは今は、ルーの願いに重なり合っている。
「もっとたくさんの命のために、彼女の犠牲がどうしても必要になることになることだってあるでしょう」
 ただそこに生まれたというだけの、どうしても必要ではない犠牲だって、貧民窟ではたくさんあったのだから、と。
「いやいや、エリス嬢ちゃんのなすべきことは違うじゃろう。そうは言っても、すぐに考えが改まることはなかろうがのぅ……」
 サワノバは首を振った。
「せめてしばらくは、そのことを忘れてくれんかの。そうではない方法でフラン嬢ちゃんも、ひいては他の者も救うことができるなら、それはどうしても必要なことではなくなるじゃろう?」
 エリスは考えるように目を伏せ……
「そうね、他に方法があるのなら」
 うなずいた。
「おお、他の者にも承諾を取り付けたら、後でまた連絡するからの……最初から大きな世界でなくていいと思うのじゃ。四つの力を代行するものがフラン嬢ちゃんを守っていたなら、混沌の力の入り込む余地もなくなるかもしれんと思うのじゃよ」
 それが正解であるかどうかはわからない。だが、試してみる価値はあるのではないか、と。
 それからサワノバも後でレアンのところにいくと、サウルのところにも言いに行って。
 三々五々、カフェから人は散っていった。マイヤとプラチナムも静かに出ていったようだ。
「さて、僕たちも帰ろうか」
 話も終わりかと、サウルも立ち上がる。
「ちょっと待って」
 それを呼び止めたのはシルフィスだった。
「一緒に行きましょう?」
 一緒に帰ろうと、シルフィスはサウルの隣を取って歩き始める。
「話があるの、でもあまりたくさんの前でするのもなんだから」
 そしてシルフィスは単刀直入に用件を述べた。
「改めて、この先あなたに協力することを約束するわ。とりあえずはあなたがすることを見させてもらうけど、協力が必要ならば言ってちょうだい」
「心に留めておくとするよ。愛想を尽かされないよう努力しよう」
 派手に喜ぶでもなかったが、愛想の良い笑みを浮かべてサウルは応じた。
「でもね、一つだけ最初に。私はあなたに協力するけど理想はルーの目指す平等なの」
 サウルの笑みが、おや、というちょっとわざとらしい驚きに変わる。
「だけどそれが、人である限りありえないこともわかってる。私としては誰もに平等な競争で上にいける機会を作ってくれれば……まずはそれでいいと思うの」
 サウルは、それを不快とは思わなかったようだ。
「理想を持つこと自体を咎めはしない。それを目指す手段さえ誤らなければ」
 サウルは理想や目標を否定まではしないと答えた。サウルの立場を考えれば、思想を取り締まることもまた仕事のうちではあろうが……現状を盲目に守ろうとするのなら、理想さえも握り潰さなくてはならないものになるが。
 サウルにとってはそうではないようだった。それは忠誠を誓う物に由来するのだろう。国という器とその中にある者を守ることは、その形を変えないことではないと。
「けれど手段を誤るなら、僕はけして優しくはないよ」
「……心に留めておくとするわ」
 路地を抜け表通りに出て、しばらく歩いたところでサウルの反対隣を歩いていたグリンダがシルフィスに訊ねた。
「ところで、どちらまでなの?」
 行く道が一向に変わらないからだ。
「あら、言ってなかった? サウルのお屋敷までよ。私、レアンに用があるの」
 今度はグリンダとサウルと二人揃って、おや、あら、と小さく声をあげた。
 マーティもサワノバも後で来ると言っていった。レアンに用があると言う者は、まだまだ後を絶たぬようだ。
「この分だと、留守中にも結構来ていそうだなあ。ちょっと急ごうか」
 そう言いながら、サウルは遠くに見える時計塔に目を凝らした。


■襲撃の一閃■
「……いったい何をやってるんだ」
 と、物陰からサウルの屋敷の窓を見上げるのは“銀晶”ランドだ。庭の隅で身を潜めていることの許可は、屋敷の主から得ている。なのでソウマが壁をよじ登って行く様も、一から十まで見ていたわけだが……
 ランドは襲撃を警戒して張り込んでいるわけだったが本命と目している者は他にいたので、あえてソウマの侵入は見送ってみた。程なく中から引き入れられたので多分問題はないだろうと思っていたら、中から怒声が轟き始め。そんな中で更なる訪問者が来て、窓から漏れ聞こえる部分だけでは……何がなんだかわからない。よく響く怒声なので概ね聞こえているはずなのだが。
 根本的に理解しがたい話なのだという結論に至ったのは、ようやく中が静かになった頃だった。
 サウルが外出すること自体ランドにとっては想定外のことだったが、訪ねてくる者たちは更にその上を行っているようだった。
 こんなんばっかりかと思いながらも続けて様子を窺っていると。
 次に訪ねてきたのは女生徒が二人だった。

 連れ立ってきたというわけではなかったようだったが、“縁側の姫君”橙子と“福音の姫巫女”神音は、屋敷に来る途中で行き会ったようだった。ショーゼル街で来るとなにしろ人がいないから、歩いている学生がいたらその8割はサウルの屋敷に来る者だ。
 二人とも何をして良いかわからないという同じ悩みを抱えて、サウルの屋敷を目指していた。
「ボクはみんなと友達になれるよ、ケンカなんてしたくないもん。きっとみんなそうだと思うんだ」
 神音はそう言うが、そんなに簡単なものではない。そこまでは隣を歩く橙子にもわかっている。だから誰もが迷っているのだから。
 橙子は曖昧に神音に相槌を打っていた。誰もが譲り合えたら、少なくともいくつかの問題は解決するのだろう。だがそうはできないから、誰もが戸惑っている。せめてその助けになりたいと橙子はサウルの屋敷に通っていた。
 玄関につくと、疲れた顔でカズヤが顔を出した。
「あー、来てくれたのか……」
「カズヤクン、どうしたの? 疲れた顔してるよ?」
 神音が問うと、カズヤは頭を振った。
「留守番してるんでな。客の相手、手伝ってくれるか? サウルは今いないんだ」
「サウルクンいないの? レアンクンは?」
「レアンはいるよ。でも、客の相手してるとレアンの看病ができない」
「優真さんは? 今日はいらしてないんですか?」
 今度は橙子が問う。
「優真は今日は用があって出かけてるから来ないらしいぜ。遅くに顔くらい見せるかもしれないが」
 カズヤは答え、続けて応接間に二人いることを話した。レアンの部屋からその二人を引き離すことで、カズヤはさらに消耗していたようだ。
 橙子もカズヤに劣らぬくらいはこの屋敷に通っているし、神音は勝手知ったる仲だ。ある程度は任せても平気かと、カズヤは適当に頼みごとをして。
「橙子、お茶淹れてくれるか? 神音は……客の話し相手でもしててくれ」
 ようやく自分はレアンのところに、とカズヤはやっと晴々とした顔で階段に足をかけたところでだった。
 再び、呼び鈴が鳴った。
 がくり。
 まだレアンのところには戻れないらしい。
 カズヤは脱力して、再度歩いてきた廊下をとぼとぼと戻っていく。
 さて次の客は男子生徒が二人だった。来るならいっぺんに来いよと内心毒づきつつ、カズヤが玄関に出ると“不完全な心”クレイと“翔ける者”アトリーズが立っていた。
「あの、サウルさんは」
 躊躇いがちに、先に聞いてきたのはクレイだった。
「サウルなら出かけてる。出直すか?」
「いつごろ戻って来られるんでしょう。あまり長くないのなら、待たせていただきたいのですが」
 お詫びと、お願いがあるからと。
「……わかった、そっちは?」
「俺はレアンに話。勝手に話すから、寝ててくれてもいいし」
 アトリーズは扇子を握った片手を上げて、あっけらかんとした顔で答える。
 先客がいる以上、無碍に追い返すことも出来ず、カズヤはさらに二人を中に通した。
 クレイも応接間に押し込んで、アトリーズはやむなく連れて、カズヤは二階へ階段をあがった。だがアトリーズがレアンを前にして初めにし始めた話は、ノイマンのものとも大差はなく。またレアンを傷つけただろうことに、カズヤは少し後悔した。来客を選別して、時には追い返していたサウルの苦労が身に染みた気がする。
 レアンはノイマンのときと同じように、ただ黙って聞いていた。目的のために他人を巻き込んだことは揺ぎない事実だからだろう。言い訳にできることはあっても、長いことレアンがそれを口にしてこなかったこともまた事実だ。
 レアンが我を見失うような事件がなかったなら、まだそれらは語られなかったかもしれないこと。言い訳にするなと責められるまでもなく、言い訳にするつもりはないのだ。証言しようということさえも、求められてのこと。テロリストとして帝国に関わりあったことを、レアンはなかったことにしようとは思ってはいない。
 それがレアンの帝国へ向けられた愛憎の発露、そのものだったのだから。そんな形でも帝国に関わり続けたかった、歪んだ愛と自尊心と復讐心の。
 ただカズヤが少しほっとしたことは、アトリーズはレアンを責めるわけではなく目的のために生きているのは誰しも同じだと、最後にそう述べたことだった。ルーも目的のために、やはり他人を巻き込むようなことをしている。どちらも同じだと。どちらが良いわけでもないと。
「だからまあ、俺はどちらを絶対ともしないけど」
 それでいい、とだけレアンは答えた。レアンが求めたのは警告で、道連れにしてでも止めることで、なぜそんなことになったのかを考えさせることで……それこそがテロリズム。アトリーズのように捉えるなら、十分にレアンの目的は達せられている。
 話がそこで一段落したかと思ったら、アトリーズはそのまま違う話を始めた。
「でね、深淵についても考えてみたんだけど」
 深淵とは人が考えるよりも深いものなのかと。人の心の領域が深淵を形成する中、それよりも上位の立場にある領域もある。四大リエラの所属するそれは、人外の領域なのか。
「世界さ」
 そう横槍から答えたのは、カズヤだった。
「人は人だけで生きているんじゃねぇ。世界の中で生きているんだ。もし深淵が人の創ったものなら、世界は誰が作ったんだ?」
 世界創生の神話はラーナ教にも存在する。世界と人が深淵の神に作られたことになっているそれは、しかし深淵の一端に触れた者には強い矛盾を感じさせるだろう。
「世界は世界のまま、初めからあったんだろうさ。そして世界に意志があるのなら」
 世界に意志がある。その考えもまた、人の生み出した幻想かもしれないが。
 それが初めからあったものである可能性も、捨てられはしない。少なくとも、フューリアがラーナ教と出会う前から世界は存在していたのだから。深淵が深淵と呼ばれるよりも前から。
「四大リエラは世界の意志?」
「……世界にとってはよ、エリアもフューリアも一緒くたに人なんか滅びていいのかもしれないぜ」
 それでも世界は続いていく。人が滅び、深淵が失われても。だからこその上位。
「そうか、そうだね。人なんかどうでもいいのかもしれない」
 でも世界を道連れにされては困る。だから時には人を介して、介入する。
 それらが人の信仰から生まれたものか本当に世界に意志があると言うのかは、アトリーズには判断できなかった。
「難しく考えんなよ」
 カズヤはアトリーズの肩を叩いた。
「世界と仲良くやっていきたいと思う気持ちが大切なんだと思うぜ? 意志があろうとなかろうと、世界が世界であることに変わりはないからな」
 世界、あるいは自然はそこにあって、人の勝手な都合や願いなど聞き入れることなく存在する。人はそれを畏怖し、それでもどうあってほしいかと願い、ときにそれは叶い、ときにそれは裏切られ……押さえつけられ踏みにじられ。それでも人は。
 それが何かと同じ姿で、同じ形であることに気づけるだろうか。
 世界が荒れているとき、人は穏やかには生きられぬ。強い自我が生を分けることもあるように。欲を持たねば、厳しくならねば。何かを排除し、何かを奪い。
 ならば世界が穏やかなるときには。
 それはどこかで見た箱庭の姿。
 少しの間、部屋は静かになった。
「……それにしても、サウル、ちょっと遅ぇな」
 その沈黙をかき消すようにつぶやいて、カズヤは窓の外を眺めた。


 さて。そんな間も、ランドは外で張り込みを続けていた。ランドが警戒していたのが誰であるかと言ったなら、それはカレンとマイヤの二人である。この二人のどちらか、あるいは両方がサウルを暗殺しにくるであろうと……
 そして来た場合には自分の能力と先日カレンと実際に闘った経験を鑑みて、とにかく先に気づいて先手を打つより他に方法はないと考えていた。だからこその張り込みだ。それでも突破されるかもしれないとも考えていた。
 ……何故その二人が、と言うならば。
 サウルにいなくなって欲しい人物と言ったなら、まずは当然ながら話が折り合わなかった場合のルーがそうである。
 もしもサウルとルーが折り合えなかったとしたら。サウルはこのまま、王手で最後まで詰めばいい。そのための準備は抜かりないだろう。各種証人は押さえているし、レアンの裁判さえもデモンストレーションの一つである。サウルが血筋的にルーに劣っていることは、さほど不利な条件にはならない……不利にならぬよう立ち回る術をサウルは十分に心得ているだろう。
 一方、ルーは分が悪い。タイミング的には一手遅れた、その程度の違いでしかないのかもしれないが。“闇司祭”アベルもそう判断したように、今からサウルを相手にルーが正攻法で勝負を完全にひっくり返すのは難しいだろう。
 ただしどちらにとっても弱点は、実は彼らの性格の良く似ている点にある。そこが似ているのは、まさに彼らが同じ血を引く兄妹であるせいなのかもしれない。
 それを一口で言うならば『甘さ』であるだろう。優しいというのとは少し違う。兄皇子も妹姫も、どちらも甘いのだ。刃物を握り振り下ろすことを厭わぬ冷徹さを持つ反面、それを本当にぎりぎりのタイミングまで待とうとする甘さを持っている。それゆえにルーは出遅れ、それゆえにサウルは待ちの姿勢を示した。どちらも先手を打とうと考えたなら、相手を問答無用で制することも不可能ではないのだが。
 サウルが待つと言ったその間にルーができることは、負けを認めるか行く道を再考するか……概ねはどちらかだと周囲は考えていただろうか。だが実はもう一つある。勝負をひっくり返すための選択肢が。
 仮にサウルが死亡して後任が就任した場合、ルーとの力関係でいって、後任が今のサウルと同じくらいに上手く立ち回れるとは限らない。そもそもそんな気のない者が後任に納まる可能性もある。どちらにしろかなり高い可能性で、ルーは優位を得ることができる。
 ならば……ルーとサウルの間で話が折り合えなかったときに行われることは、九割九分サウル暗殺。
 そして折り合えないと判断する、このイニシアチブを持っているのは暗殺する側のルーとなる。その場合に刺客の役目を負うのは当然ながら、マイヤだ。
 彼らは主のために手を汚すことを厭わない……それが肉親であってもだ。彼らはそのような教育を施されて育てられ、またそんなことは珍しくもない。
 だからもちろん同じ血を引くサウルも、そこまでの予想も覚悟もした上で動いてはいるが。
 さて仮定の話ではなく、いつやってきてもおかしくないもう一人の暗殺者はカレンである。こちらも主のために手を汚すことは厭わない。
 こちらはランカーク自身はあまり危機感を感じていないが……その分、部下は前々から強い危機感を抱いている。
 馬鹿で、かつ善良とは言い難いランカークはサウルに利用されるだけ利用されて、いつ切り捨てられてもおかしくはないと……カレンには見えている。実際に今も冷静に考えたなら相当危険なことをさせられているのだ。フランを預かるというのは、そういうことである。
 サウルを殺しても、その辺りが解決するかどうかは微妙なところだが……ルーの求める革命が成ればランカークなどはもっと酷いことになるのだから。
 しかしこのままサウルに利用され続けても、ランカークに見返りはない。またランカークが迂闊に見返りを要求するようなことがあれば、その時点で切り捨てられる可能性は高い。そしてランカークは迂闊に見返りを求めそうな性格なのである……時が経てば経つほど、その危険度は増す。
 カレンがどういう立場でランカークがどういう人物かを知っているだけでも、襲撃は予測できるだろうか。それを迷わせるルーという天秤の片側がどれだけ重いか軽いかは、情報量にもよってくる。
 ランドは、この二人の暗殺者のことを警戒していた。両方とまではいかなくとも、どちらか一方が実行に移す可能性を考えたなら、けしてその確率は低くはないと思っていた。
 そしてカレンは過去に襲撃の意思を漏らしたこともある。ごく一部には、それを知っている者もいた。それはランドではなかったが。
 さて知っていたのがランドでなかったことは、ランドにとって幸運だったのか否か……

 それよりも前に、ランカークの屋敷をアベルは訪ねていっていた。そこで「レディフランに限らず貴族を狙ったテロリストが暗躍しているので注意されたし」とでまかせを告げ、ランカークを乗せて、護衛として居座ることに成功している。
 ある意味それはでまかせでもないが。フランもまだ、その命を狙われる意味を残していたし、実際にエリスがその可能性を捨ててはいなかった。サウルにしてもそうだ……こちらは加害者の側にランカークが名を連ねるかもしれなかったわけだが。
 ただしアベルがランカーク邸を訪れた目的は異なっている。イルズマリの帰還をいち早く押さえて、アルディエルの対策をしようという考えであるのだ。世界を救おうという大儀ではなく、アルディエルに挑もうという友人“自称天才”ルビィの手助けをしようということだった。
 そのためにはフランの近くに居座る必要があったので……
 カレンの動向も目にすることとなったわけだが。
 もっとも、カレンが目立っておかしな動きを見せていたわけではなかった。相変わらずフランの世話をして、フランを訪ねてくる者の相手をしていただけだ。そんな中に、たまにカレン自身を訪ねてくる者がいる。アベルが偶然に見かけたのは“闇の輝星”ジークだった。
「君にとっては結局、あまり状況は変わらなかったか」
 裏口に近い廊下を通りすがったときのことだ。窓の外に二人の人影が見えた。その二人の話が、すべてアベルの耳まで届いたわけでもなかったが。近くを通る気配にカレンは気がついているように思えたので、アベルは足を止めることもしなかったので……
「……そうね。少しはマシになったくらいかしら」
 ジークの言葉にカレンはそう答えた。名前は出さないがフランのことだ。主人は当然のこと、外で話しかけてくる者も屋敷に居座る者もフランを救いたい者が圧倒的に多い中、フランを疎むような発言は色々不都合を招きかねない。だから余計に疎ましくも感じるだろう。
 その元はと言えば……という話になるわけだが。ジークは以前にカレンの心積もりも聞いていたので、きっと今この時が実行のタイミングであろうと止めに来たのだ。
 だがカレンはしらばっくれた。
 心は既に決まっていたようだった……


 その日、ランカークの屋敷からサウルの屋敷に向かう途中の道の路地裏にジークは身を潜めていた。もうショーゼル街には入っている。サウルの屋敷はすぐ近くに見えるが、その目の前ではない……そんな位置だ。
 ジークは、サウルがグリンダ一人を連れて屋敷を出て行ったことは知っていた。どこへ行ったかまでは見届けなかったが。そして多分カレンも、それをどこかで察知しただろうと思っていた。
 いつか、そして遠からずカレンがサウルを襲うのなら、それはサウルが外へ出たときだろうとジークは考えていた。サウルの屋敷には弱っているとは言え、レアンがいる。他に学生が複数いることも多い。そこを襲うより、もっと人の少ない場所がいいはずだった。カレンにとっては幸いなことに周辺住民の避難している今は、一歩サウルが屋敷を出てしまえば一気に周囲の人口密度が落ちる。近くに人がいないことは成功の助けになるはずで……そのタイミングはほどなくこうしてやってきた。
 サウルの外出に気づいたなら、きっとカレンは来る。そう思ってジークは待っていた。来なかったとしたら、外出のことがカレンの耳に届かなかったというだけであろうと。ならば次のタイミングを待つだけのこと。
 そして……
 通りの向こう側、少し離れたところを屋敷に戻るサウルが歩いていく。一緒に出ていったグリンダの他に、シルフィスも一緒だった。
 それに向かって走るようにジークは近づいた。一部始終を誰かが見ていたなら、このときにはジークこそが襲撃者に見えたかもしれない。
 実際にサウルの隣にいてジークの接近に気づいたグリンダは、サウルを庇うように突き飛ばした。サウル自身も後ろに身を翻そうとしていたところだったので、突き飛ばされてもそう体勢を崩すことなく数歩下がっただけだ。
 そして弩の矢が、サウルを突き飛ばした瞬間にグリンダの鼻先をかすめていった。
 庇って怪我をしても、そのくらいなら……とグリンダは軽く考えていたけれど、必ずしも暗殺者は甘い相手ではないかもしれなかった。今のが直撃していたら、どちらにであっても洒落ではすまない。
 走りこんできたジークは矢の通り抜けた瞬間に二人の手前で足を止め、それから振り返って矢の飛んできた場所を見定めた。さらにそこへ向かって走り出す。
「大丈夫?」
「大丈夫かい?」
 シルフィスとサウルに問われ、グリンダはうなずいた。
「当たってないから平気よ。でも当たってたら、ちょっとまずかったわね」
 サウルとの身長差と突き飛ばした時の体勢のせいだろうが、位置からして当たれば命を落としたし、かすめても鼻だ目だを持っていかれる可能性は高かった。そうなると残りの人生は楽ではない。
 そう言っている間に、もうジークの姿も見えなくなっていた。
「追います?」
 そう聞くグリンダに、サウルは首を振った。
「危ないからやめておいたほうがいい。怪我をするだけではすまないかもしれない」
 姿は見えなかったが、相手が誰なのかわかっているかのようにサウルは答えた。わかっているというだけなら、グリンダにも見当はついていたが。
「それから護衛のつもりでついてきてくれたんだと思うけど、やっぱり僕を庇うつもりなのはやめたほうがいいかもなあ」
 サウルは屋敷の方へ急ぐでもなく歩き出しながら、やっぱり危ないよと真顔で言う。
「誰か巻き込まれても、僕を狙いに来るような人はあまり気にはしないだろうからね」
「あら、私だってフューリアだもの。命くらいは自分で護るわ。……でもそうね、顔に傷でもついて、お嫁にいけなくなったら」
 ちょっとした怪我くらいならかえって好都合、それを盾にサウルに責任を取らせてもとグリンダは調子の良い想像を頭の中で巡らして、にっこり微笑んで見せる。
「責任取っていただければ、それで」
「えっ」
 珍しく、サウルの飄々とした顔が崩れた。
「それは……ちょっと」
「私じゃ、お嫌?」
「いや、嫌とかそういうのじゃなくて」
 サウルは気まずそうに顔を背けた。一方グリンダは断られても不機嫌ではない。現時点で脈はないが、思ったより手慣れてもいないと思ったからだ。これなら上手く丸め込めば玉の輿も夢ではないかも、と。
 さて。少々余談の話ではあるが、サウルには実は放浪癖じみたものがある。本来人を使ってさせるようなことを自分の手でやりたがるのは完璧主義的なものではなくて、理由をつけて外をうろつきたいのだ。
 サウルと話をすると高い頻度で『望んでこの仕事に就いたわけではない』ことを口にするが、それは割と大雑把に物事を受け入れるサウルが諦めきれぬかのように不満を述べ続けていること。カレンやマイヤほどに全面的に自分の血筋を肯定できないのは、ダーティな仕事が嫌なだけではなくて、兄弟姉妹から劣って見られるからだけではなくて……この仕事の責任者である限り、サウルは望む自由を得られないからだ。それは多分一生の単位で。
 サウル個人にとっては不運ながら、父方の血も母方の血も立場や使命に拘束するものだった。それらに伴う徹底的な教育が、その性癖の発露を最小限に押さえ込んでいる。
 いや帝都に残されている憲兵隊副隊長以下に言わせたなら、そんなに押さえ込まれてないと口を揃えて強く主張するかもしれない。相手がいくら大物でもトップが自ら単身で乗り込むなんて、ましてやそれで一年帰ってこないなんて有り得ないとは確実に言うだろう。隊長を代行する者を残してはきているが、それなら部下をアルメイスに送り込んでサウルが帝都に残っても良かったはずだと。なので立場に比して考えれば重症だとも言える。
 こういう人物の特性として、自分をどこかに繋ぐ鎖になる物は怖いのだ。だから女性自体は嫌でも苦手でもないし、純とかうぶとかいうものでもないが、深いお付き合いには不慣れなのである。『責任を取って』なんて言葉を向けられたことは暗殺されそうになった事実よりも、はるかにショックが大きかった。……グリンダには知るよしもないことだが。
「お嫌でないのなら」
 ここぞとばかりに攻勢に出るグリンダに、サウルは声を出しあぐねているかのようにぱくぱく口を開け閉めする。それからサウルは救いを求めるように辺りを見回して、屋敷の前にいる人影を見つけて「あっ」と言った。話を逸らしたいのが見え見えである。
 門の前にいたのはランドだった。屋敷の外での異変には気がついて、様子を窺いに出てきていたのだ。
「無事だったか」
「おかげさまでね」
 普段より三割増くらいで愛想良く、サウルはランドに応えた。それでグリンダとの話はうやむやにしてしまうように。
「襲撃は、誰が?」
「いや、姿は見なかった。そんなに遠くはなかったと思うけど」
 いきなり出てきたジークが追いかけて行ったことを話すと、ランドもそれがカレンであろうと悟る。
「もう一度来るか?」
「さあ……彼は止めたいのだろうから、彼次第だけど。次はもっと慎重に来るだろうね。退けるのも、もっと厳しくなる。だから彼には頑張ってほしいかな」
 ジークが止めきれないなら、再び来るかもしれないと。
 ランドはもうしばらく屋敷のまわりにいてもいいかとサウルに求め、サウルは構わないよと軽く応えた。

 ジークは建物の中から狙っていた犯人の逃走経路を予測するように回り込み、そしてその姿を捉えた。
「カレン」
 それ以上は逃げる気を失ったのか、黒装束のカレンはジークに……冷ややかに言う。
「もう邪魔しないで」
 もし相手が一瞬気がつくのが遅かったなら、急所ではなくとも当たっていたかもしれない。当たっていれば……
「いいや」
 だがジークは首を横に振る。
「何度でも邪魔するつもりだ」
「困るわ」
「でも……俺は馬鹿だから、君を止めるのに、こんな方法しか思いつかない」
 ジークはそう言って、訓練用の大剣を抜いた。
「馬鹿ね。女だからって言っても、私、負けないわよ?」
「知っている」
 それもつい先日、目の当たりにした。力では勝っているのだから戦い方次第だとしても……それでも格闘では掛け値なしにカレンは強い。
「それに」
 カレンは弩をそのまま軽く構えた。矢はつがえられていないので、射抜かれることはないが……そこに一瞬視線が向かう。その瞬間、一気に間合いを詰めて横殴りに弩が振り抜かれた。飛び退くと鼻先を弩の体部がかすめていく。
「何度でも、なんて言われたら殺さなくちゃいけなくなるわ」
 それと同時に空いた片手が逆側から素早く伸びてくる。いや、その手が空いているはずはなく、そこには必ず刃物が握りこまれているとジークは思った。こんなときどうするかはもう決めてあった。
 避けない。ジークはそのまま腕で急所を庇って、ナイフはジークの腕に刺さって……そこに刺したままカレンの手から奪う。
「……本当に馬鹿ね」
「わかってる」
「一本とは限らないのよ」
「それもわかってる」
「死ぬ気なの?」
「そんなつもりはないが……手足の一本や二本引き換える覚悟もなしに勝てるとは思ってない」
「それ、きっと勝ててないわ」
「……かもしれないな」
 のんびり会話が続いているようで、緊張感は高まっていった。どちらも相手の動きを待っている。……どちらもリエラは呼ばなかった。
 カレンはジークの動いた瞬間の隙を。正面切っての戦いでは、カレンに少し不利だった。防戦ならば、けして負けない。不意を打てれば、ひっくり返されることはない。だが女である限り、平均よりはるかに上の身体能力であろうとも力押しには限界がある。
 ジークにとってもカレンが攻撃してくる瞬間が、勝負の分かれ目だった。意地だとしても、どちらも退くことができないので、次の一閃で決まる。
 先に動いたのは……カレンだった。十分に勝算はあっただろう。まだナイフの刺さっている左腕を狙って蹴りを放ち、そのまま位置を入れ替えて背後を取りにいく。
 ジークは蹴りをかわすと、重い破斬剣を斜めに振り上げる。懐を空けたのは背後ではなくそこに誘い込むためだ。蹴りが外れれば背中を取るよりも狙いやすい。思ったとおり、カレンは身を翻して飛び込んできて……
 もう一本のナイフは再び急所を庇った左手に刺さった。カレンは寸分違わず急所に当ててくるので、当たりに行くつもりなら下手な者より当てやすいのかもしれなかった。
 二本目を持って行かれないためにか一瞬手を離すのが遅れたところで、ジークは既に剣を投げ捨てた右手でカレンの手を掴む。
「勝った」
 その勝利宣言は、掠めるように唇を重ねるのと同時にだった。
「……これであなたの勝ちなの?」
「十分だ。俺に手を取られてるようじゃ、彼には勝てないだろう?」
 だから諦めてくれ、と。ジークは我が侭な恋人を宥めるように優しく囁く。
「それは……」
 ジークはさらに腕の中にカレンを引き寄せ、その目を細めてカレンの上気した顔を見つめる。それが幻でなければと思ったが。しかし。
「駄目」
「う!」
 その体勢のまま、カレンは膝蹴りを叩き込んできた。一瞬ジークの力が緩んだ隙に、片手の弩で側頭に一撃。たまらずよろけて、意識が混濁するのをジークは感じた。
「諦めるわけにはいかないわ……安易に切り捨てて何も害がないと思われるのが一番困るの。だから私が害になる。殺せなくてもいいのよ。ランカーク様を切り捨てたら、もっと酷いことになるかもと思ってくれれば御の字だわ」
 下策だけれど他に手もないと。
 いつか聞いた甘い囁きで。
「嫌なら止めにいらっしゃいよ……何度でも」
 何度でも受けてたつわ、と……ジークが意識を失う前に、そんな声が聞こえたような気がした。


■人の平等■
 “演奏家”エリオは時計塔広場を自分のリエラ、ヴァレリオと並んで歩いていた。エリオには、最近のアルメイスの出来事について色々と疑問がある。
 よく考えればアルメイスタイムズ社編集長ロバートの殺人未遂は重大な事件ではないかと思うが、どうも学園として調査に積極的にあたる気配はない。他にもショーゼル街を狙うテロリストなど色々事件はあるが、どこか奇妙で、中途半端で、よくわからない。
 すっきりしないと思いながらも、自分で解決できそうなものはないような気がしていた。
 ぶらぶら歩いて、気がつけば研究施設のほうまで歩いてきて。
 そこで聞き込みを続ける“黒い学生”ガッツを見た。ガッツはロバートの聞き込みと同じことをしているらしい。そして、ロバートを殴った者についても。エリオは何もできないと思っていた自分が、少しうしろめたくなる気がした。
 だが、ガッツもけして上手くいっていたわけではない。ガッツははじめに、まだ入院中のロバートに話を聞きにいったのだが、結局何を調べていたのかは教えてはもらえなかった。取材中調査中のネタを漏らす新聞記者なんていないというのもあるが、この調査には当初自分が考えていた以上に大きな危険が伴うとロバートは判断していたからだ。
 ロバートはそれを迂闊にべらべら人に言うような、そんな無責任な男ではなかった。いかにガッツが世を渡るのが上手かろうが、そんなことは関係ない。それはロバートの良識の問題である。
 ロバートは何を調べていたかはけして語らなかったが、最後にどこでどんな人物に話を聞いていたかだけは粘るガッツに渋々語った。
 そしてガッツは研究所まで来て、話を聞いたという人物を探していたが……どうしてもその人物は見つからなかった。誰もそんな人物のことは知らないという。
 少し見ているだけでもガッツの調査が難航しているのは見て取れたので、エリオはがっかりした。学園では何かが起きていそうだが……やはり何が起きているのかがエリオにはわからない。
「頑張っとるみたいやけど。どうなんや?」
 そんな肩を落としたエリオに後ろから声をかけてくる者がいた。“笑う道化”ラックだ。
「あの調査? 難しいみたいだな」
 二人は話しながらガッツに近づいていった。そして改めて、どうかと問う。
「駄目だ、全然」
 その返事は、やはり想像通りのものだった。
 研究所に出入りしている者を捕まえての聞き込みの部分は、見ているだけでも手応えの悪さが察せられたが。それに加えてロバートが倒れていた現場の過去見を頼みに行ったときの話も、ガッツはエリオたちに披露した。
「ロバートは何もない、誰もいないところで倒れてるんだ」
 ロバートには打撲傷があり、倒れたときに地面で打ったものではないらしいことはわかっている。だがそれが誰かがどこかの時点で殴ったか、何かに自分でぶつかったものなのかはもうわからない。倒れた瞬間に見えるものはロバートが一人で、他にそのまわりには誰もいないのだ。幻視的なものでごまかしているのかもしれないが、そのままでは見えないことだけは間違いない。そしてその後かばんが開いているが、ノートが消えたところは過去見でもよくわからなかった。
 これでわかることはと言えば、ただの通り魔や物取りではないだろうということだ。
 これ以上が知りたいなら、長時間対象を追いかけることのできる過去見のできる協力者を、自分で調達してこなくてはならなかった。過去見には制限かリスクを伴う者が多いので、一回ならばともかく、親しくもないのに繰り返しの依頼に応じてくれる者は少ない。
「調べていれば同じ目に遭うかもしれない。気をつけるんだね」
 エリオがそう忠告すると、ガッツは「来たら返り討ちだ」と自信を持って言った。
「でも見えないか、その場にいないわけだろう?」
 だがエリオの冷静な指摘に、ガッツもむうと考え込む。だが楽観的に、できるさ、と最後には言い切った。
「まあ、無理はせえへんとね。ロバートさんは教えてくれへんかったのやろ? それはガッツが危ない目に遭わんようにやで」
 不幸は平等に訪れるかもしれない。人はそういった面では、かなり平等にできている。
 だがそれは来るとしても当分は先のことのようだった。ガッツにはまだ、その糸口さえも掴めていないので……このまま掴めなければ永遠にこないかもしれない。


 さてロバートの不幸の遠因はと言えば、ルーであろうか。ルーとクレアと、その目的と計画と。彼女たちは目的のために、また保身のために、まだ隠さねばならないことがある。
 クレアのことにしても認めよう受け入れようというのは各個人の判断の問題なので、事実が一人歩きして広まれば絶対の否定をもって接する者も出るだろう。クレアが不自然な物であることに変わりはないのだから。クレアは否定されても迫害されても負けない強さを、もう持っているかもしれないが……傷ついても負けないことは、傷つかないことと同じ意味ではない。
 だからだろう、事実が事実だとしても、それをわざわざ触れ回るような無神経な者はいないようだった。クレア自身も言って回るようなことはない。まだそこにはクレアだけではすまない大きな利害が絡んでいるからもある。
 サウルはそれを暴き追い詰める側だ。ロバートという駒はその中に意図せずに組み込まれ、急に動き出したので王手をかけられる前にと相手方にとられたのだ。ロバート自身は、その点は理解できている。自分の職業においては、それは十分ありうることであると。
 全体の流れは、それでもまだサウルのほうに向いている。数年後、数十年後にすべての最後の形を見た者ならば、違う感想を抱くのかもしれなかったが。
 今現在に視線を戻せば……
 ルーをただ呼び出しても、そう簡単にサウルの屋敷にはやってこない。サウルは兄であるが、サウルにとってルーがただ愛しいだけの妹ではないように、ルーにとってもサウルは信用できる兄ではない。ルーにしてみればサウルを信用している者は、サウルが今まで何をしてきたか知らないのだと思う部分もあった。
 サウルは憲兵隊の長官になる前は、やはり同じくその隊にあって、『帝国のためにならない危険思想や、摘発の難しい犯罪』を取り締まったりしていた。名前を変えて他の施設や部隊に紛れ込むこともあったようだ。だからサウルがアルメイスに来た、そのときにもっと警戒しておくべきだったのかもしれない。
 それで摘発された者たちが直接にルーの知り合いだったわけではない。だがそのやり口は知っている。味方の顔をして近づいて、信用を得て情報を引き出すのだ。そして最後に待っているのは手酷い裏切り。
 罪は罪だ。それはわかる。だからそうする兄のやり方も、きっと間違ってはいないのだろう。
 だが自分に向けられるそれが同じ罠でないと信じることは、なかなか難しいことだった。罪は罪だ。わかっているから。
 この二人の間には、互いに憎しみあうような哀しい出来事があったわけではない。一言で言うならば、ただずっと長いこと疎遠であっただけだ。違う環境で違う教育を受け、違うものを見て成長した。それだけだ。生まれ持った性格を客観的に分析してみたら多分そっくりだというのに、それ以外の要素が違いすぎて、かえってわかりあえない。
 ではルーが来ないのならば、サウルとレアンが出向くのではどうかとなると。
 レアンはまだ半病人で、なによりまだ彼の出向いた先が安全である保障がない。ショーゼル街の住人は避難しっぱなしだからいいけれど、どこかに行くたびにそこの住人を追い払ってはいられない。だから基本的にはサウルも出歩かない。
 この問題は最初の一歩で壁にぶち当たるのだ。
 どちらもどちらへ出向くことがないならば、彼らが折り合うというのもそれだけでは難しい話だ。どうにかして再び引き合わせるためのお膳立てをするか、あるいは自力で話をまとめる必要がある。
 そのためにルーのところへ行こうと思った者は多かったようだ。事情のすべてを知らなくとも、サウルに聞けば最低限のことは答えてくれる。このままルーが失脚してアルメイスが存続の危機に至るのならば、ここにいる誰もが当事者であると。当事者には望むのならば選ぶ努力をする権利があると。それはアルメイスを崩壊させることが自身の目的ではないことを、アピールするためでもあるだろう……結果的にそうなるとしても。
 何をどう選ぶのかは個人に委ねられていた。何を第一とし、何が二の次となるのか。すべてが選べなかったとき、何から切り捨てられるべきなのか。
 それでサウルに話をするのではなくルーの元を訪ねる者が若干多かったということも、ある意味サウルの優勢を示しているのかもしれない。
 もちろん初めからルーやクレアと一緒にいる者たちもいる。“緑の涼風”シーナや“天津風”リーヴァがそうだ。シーナはやっぱりクレアと共にいたし、リーヴァは寮にいるとき以外はルーのそばを離れない。ラックもほとんどはルーとクレアの近くにいた。訪ねてきて、そして通り過ぎていく者たちを順に見送りながら、ときには自分の意見を囁いて。
 “春の魔女”織原 優真と“真白の闇姫”連理が連れ立って、ルーを訪ねてきたとき……連理はできるだけ同席者は少ないほうが良いと望んだ。
「聞いたことを無闇やたらと口外せぬと、そちらが信用する者ならば、無理に出て行けとは言わぬがの。本当ならば、サウルやレアンも交えて話がしたかったのじゃが」
 来ないのならば仕方がない。こちらもレアンは迂闊には出歩けないのだから、お互い様だ。と、彼女らは出向いてきたわけである。
 不要ならと、クレアとシーナが席を外そうと言う。一瞬、優真はそれを引きとめようとした……クレアは、これからする話において部外者ではなかったので。だが考え直して伸ばしかけた手を引っ込める。
 その話はクレアにとって優しい話ではないかもしれなかった。
 エイリアの実験をやめて欲しい、それだけの訴えならばそれだけのことだが。しかしその説得の過程で、この世でただ一人のエイリアの心を傷つけることはあるだろう。クレアはそれもわかっていて席を外したのかもしれないと……
「ここでお話していいですか?」
 クレアもルーも相変わらず日常を日常として送っている。クレアは明るく、ルーは相変わらず大人しい。何も知らない者なら何も変わったことなどないと感じるだろう。ずっと見ていた者だけが、クレアの変化を感じ取れる……そのくらいのものだ。
 彼女たちは昼は授業を受け、放課後はクレアが自主訓練をするならアリーナにいて、劇場でアルバイトをしている日は劇場の辺りにいる。
 今日はアリーナだった。ルーたちはアリーナの堀の淵にいて、クレアとシーナは訓練のための準備運動をしていたところだ。それでクレアとシーナは連れ立って訓練場のほうへ行ってしまった。残ったルーたちに、優真はもっと閉じられた空間へ移動するかを訊ねた。
「……じゃあ、中に」
 アリーナの中の、数多くある控え室の一室へ。それで改めて優真とルーは向き合う。もう、そこではおどおどした内気な少女のルーではなかった。
 優真がサウルのそばに控えていたのは、先日サウルの屋敷を訪れた際にルーも見ている。ならばその話は見当もつく。
「改めて……なぜ革命を望まれるのか、お聞きしたいんです」
 優真は聞くことから入った。その答えは先日にサウルと共に聞いたことと大きくは変わらないとしても。
「それは革命という名前になるだけのことよ。私は、すべてを力で変えようというわけじゃない。ただ……埋められない差を埋めたいだけ。貴族と貧民、それだけじゃない。今はフューリアであるというだけで、エリアというだけで、人生はある程度決まってくるわ」
 それはアルメイスの存在、ラウラ・ア・イスファル計画の存在ゆえにでもあるが。フューリアは多少の問題ならば目を瞑られ、その力を伸ばすことを求められる。更生の余地のない重犯罪、常習の犯罪ではフューリアはエリアよりも重く裁かれるが、過失の犯罪程度なら……実は人を殺したとしても大きく咎められることはない。キックスがそうであったように。だがもちろんエリアはそうではない。
「明文化されてはいないけど、エリアとフューリアでは裁く法さえも違うのよ。同じことをしても、刑罰が違うのよ。そんな不平等が本当に正しいと思っているの?」
 フューリアが必要であるのは戦争が続いているからだ。戦争の道具としての存在も幸福ではないかもしれない。だがいなくなれば、レヴァンティアースと言う国を護れない。だからフューリアが必要だというのはわかっている……その数を減らさないためにフューリアに対する法は甘くなり、また減らさないために厳しく律される。エリアに対する法が本来の形ならば、それは極端と極端だ。……それは結局、エリアとフューリアという二つの存在があるから不平等なのだ。
 ではどうしたらいいか。フューリアを失うことができず、エリアとフューリアという存在の差をなくすためには……エリアをフューリアにするしかない。
 全員が等しく同じ条件ならば、せめてそこに不平等はなくなるだろう。
「レヴァンティアースの貴族は元々すべてがフューリアの一族だから。貴族で裕福で法にも護られて……なのにエリアは、その皺寄せを受けても、その被害を受けても泣き寝入るだけ。片方を護るということは、そういうことだわ。それがおかしいでしょう。……でも全員同じ力を持ってしまえば、もう貴族も何も区別はいらない」
 戦争に必要だからと言って、どちらかが無闇に軽んじられたり、どちらかが無闇に大切にされるようなこともなくなるだろう。
「……同じ……命なのだから」
 最後に呟くように口にした言葉が、ルーの理想のすべてだろう。幸いなことか不幸なことか、それを頭から違うと言うほど意見の異なる者はルーの近くにはいない。最低限の同意があることは幸いだが、絶対の対立ではないから相手を排除するという選択肢はなかなか上がってこない。それは結局、ルーにとっては息詰まる結果を招きかけている。
 同じ命。それですべてをすませるには、この国は……いやこの世界は少し複雑な構造をしているからだ。
 今、ルーの隣にいるリーヴァとラックも、そういう意味では諸手を挙げてルーの味方ではなかった。
「同じ命ですね……でもだからこそ、エイリアの実験は止めてもらえませんか?」
 優真はそのままに、鏡に映すように願いを述べた。力では結局その差は埋まらないと。力を手に入れた者が、更に弱い者を傷つけてしまうこともあるかもしれないと。どんな理想があったとしても、その理想のために誰かを傷つけていいことにはならないと。
「……でも……!」
 ルーが反論を口にしようとしたとき、それをリーヴァが遮った。
「まあ、落ち着いて」
 横合いから止められて、ルーはリーヴァを睨みつける。だがリーヴァはルーの視線には動じなかった。かえって笑顔を見せる。怒った顔も可愛いとか、そんなことを考えていそうな笑顔だった。
「彼女が言っていることも間違いではないと、それはわかっているんだろう?」
 そう問われて、ルーはぐっと唇を噛んだ。
 罪は罪だ。それはわかっている。
「……それでも変えようとしなければ、何も変わっていかないのよ。このまま、いつまでも……」
 搾り出すように口にした言い訳にも似た言葉に、ああやっぱり、とリーヴァはうなずく。それしかないと思っているから、この方法を選んでいるのだと。
 ルーが甘いほどに優しいことをリーヴァは疑っていない。それでも被害を避けられぬ方法を取ろうと言うのなら、それはそれ以外に方法がないと思っているからだ。
「きっとそれ以外に方法がないと思っているのかもしれないが……そうではないと思うよ」
 ならば違う方法を提示してあげることができたなら。それが現実的な方法であると思わせられたなら。
「まずフューリアとエリアの差であるリエラを呼び出せるか否かだけどね。それは本当に『絶対的な差』なのかな」
 リーヴァは根底となる部分に疑問を呈した。その差を埋める、それがこの問題の出発点だ。ルーは別に、戦争の道具としてのエイリアを大量生産したいわけではないのだから……
 エイリア実験の最初はそうであったとしても、ルーの手に委ねられた時点でその目的は変わったのだ。そのやるせない差を埋めるため、という目的に。
「私も聞いた話でしかないが……フューリアを制圧するための格闘技術というものも帝国にはあるそうだよ」
「それは……特殊な人たちにしか」
「やっぱり現実にあるのか。知っているんだね、君も。特殊な人たちっていうのは、なんだろう、特別な能力とかがいるのかい?」
 ルーは、少し呆然とした表情で考え込んだ。
「リエラとも違う特殊能力が必須なら、話は別なんだが」
「……でも彼らもフューリアよ」
 やっとそれだけを答え、ルーはまだ考え込んでいる。
「フューリアなのか。格闘術にはリエラが要るのかい」
 長く考えたその果てに、ルーはわからないと答えた。
「……ごめんなさい、彼らのことは私もよくわからないわ。言ってくれないし……秘密の多い一族なのよ。技術が敵に渡ったり、必要以上に広めないためだと思うけれど。リエラを利用するけれど……確かに必ずしもリエラを使わなくてもフューリアを倒せるわ」
 優真は今語られているそれが、サウルたちのことだと気がついていた。マイヤもそうだ。他にもいるのかもしれない。
 ルーが思い浮かべていたのは、もちろんマイヤである。だがマイヤ個人ではなく、その後ろに広がる一族のことを。ぼんやり考えていた以上に、自分が彼らのことを知らなかったことに改めて愕然としたのだ。……物心がついた後からはずっと一緒にいたからこそ、追求してみたこともなかった。
「そうか、それだけわかれば十分だ。そんな格闘術が成立しえるのならば、フューリアか否かなんて戦闘力の面ですら絶対の差ではない。ルー君の頭脳なら、落ち着いて考えればわかるだろう?」
 エリアでも同様の訓練を積めばフューリアを倒すことができるようになるということを、それは示しているはずだと。
「その一族とやらが協力してくれないなら、改めて技術開発が要るかもしれないが……エイリアを作るより、きっと簡単だ」
 ルーは答えない。また考え込んでいるようだった。
「次にね、この国の下層階級が悲惨な状況に追い込まれたのは、フューリアかどうかだけが原因じゃない。それは経済と政治の問題なんだ。上に立つ者が下を押さえつけるだけでなく、彼らを助け、その幸せを考えたなら状況は変わるだろう」
 それは今まさにルーが求めることだ。だがリーヴァの声はルーを賞賛する者のそれではない。優しく諭す響きは過ちを正す者のそれだ。
「闘争を経ず、平和的に国を変化させられるのは……上に立つ君だけだ。君なら、できるはずだ」
 だがルーの顔には戸惑いが浮かんでいる。
 こほん、とラックが咳払いした。
「リーヴァ君、もうちょいわかりやすく言うてもええと思うで?」
 ラックはそれは遠まわしすぎるとリーヴァを批判した。リーヴァは言わなくてもわかるはずだと、皆までは言わなかったことだが。
「あれやね。改革のためなら君が皇帝になって進めるのが一番の方法や。サウルだって違う方法を選ぶように示唆しとるのは、そっちの方が被害がないからや。それを嫌って言うのは、単に理想に逃げてるだけやで」
 目的から否定しているわけではなく手段を選び直せと言われたのだと、ラックは言った。やはり少しルーにとっては厳しい口調かもしれなかった。
「急に言われても……ルーさん、困っていますよ」
 そこに助け舟を出したのは優真だ。なんだか立場が入れ替わっている。
「でも私も同じことを言いに来ました。急激に変えれば、傷つく人が出ます……だったら混乱が起きないように少しずつ、身分や力の差で傷つく人がなくなるように、この国の仕組みを変えていくほうが良いと思って」
 でも、と、優真は笑って続けた。
「私が言うことではないかもしれませんね。ルーさんのまわりの人たちもわかっているんですもの。私はサウルさんのところに戻りますね……どうかゆっくり話し合ってください」
 きちんと礼をして、優真は自存型のシャルティールと連理と共にルーの前を離れた。
 だがルーにとっては、残った二人と話をするのも大きくは変わらないだろうか。
「……な、力がなければ成立しない平等なんて、平等とちゃうで? 現実を見て理想に近づくために歩んでいく……君が本当の意味で前に進もうとするんなら、ボクは協力するよ? 今までみたいにクレアのためってだけやなく、ルー、君のために」
「私は長女ですらないわ。もちろん上に何人も兄がいる。帝位継承権は高くはないのよ」
 本当に困った顔で、ルーは言う。
「まずは過去の清算や。実験の一部は今は止めへんといかんよ。ルーのやったことやなくても、隠しておいて誰かに暴露されたらルーの責任にされるかもしれへん。少なくともルーが意地張ったら、サウルはそのつもりやで。過去を否定して、それでも前に進むってことを、サウルやレアン、そして帝都のお父さんにも伝えて、協力を求めるのがええんやない?」
 皇帝になるならぬ、またなれるかどうかは、そこから先の問題だ。
「まだ……少し考えさせて」
 ルーは目を伏せる。
「ルー、あんまり時間は」
 そう言いかけたラックの口を、リーヴァは後ろから塞いだ。
「考えるといい。君は正しい道を選べるはずだ……私はそう信じている」
 ルーは顔を上げ、リーヴァを見る。
「大丈夫だ、きっと」
 リーヴァは迷わぬ瞳でうなずいて見せた。


「ルーさんは?」
 シーナと二人で訓練をしていたクレアのところへ“抗う者”アルスキールがやってきて訊ねた。
「あれ? 遠くには行ってないと思うけど」
 クレアがきょろきょろ辺りを見回す。
「ルーさんたちならアリーナの中に入って行ったわ。じきに戻ってくるんじゃないかしら?」
 シーナが入っていくところを見たと言う。それを聞いて、アルスキールは訓練場の縁石に腰を下ろした。
「じゃあ、待っていましょうか。訓練、続けててもいいですよ」
 シーナとクレアは顔を見合わせ、どちらからともなくアルスキールと並んで座る。休憩時間にすることにしたようだ。
「ルーに何の話?」
 隣に座って、クレアはアルスキールにそう訊いた。簡単にルーの助けになれないことはわかっていても、気にはなるのだろう。シーナも耳をそばだてる。
「大したことじゃないんです。何か力になれることはないかと思って」
 何をするか、具体的に考えているわけではないとアルスキールは言った。何も望まれることがないならば、気になるところの情報でも集めて時々話に来ようかと思っていた。そのぐらいのことだ。
 今日アルスキールにできる話があるとするならば、ラザルスが噂を流して人を集めていたことだろうか。この時点ではその目的までは知らなかったが、必要ならばそこまで聞き込んでこようと。
「そっか」
 ルーを困らせるのでなければいいと、クレアはほっとしたようだ。
「……初めてクレアさんとルーさんを見たとき」
 そんなクレアに、アルスキールは優しく目を細める。
「運動が得意なクレアさんと勉強が得意なルーさんで、足りないところを補い合って、上手く支えあっているんだと思いました。今色々ありますけど、詳しいことはよくわからないですけど……結局そういうことなのかな、と思うんです。もっと大きな、たくさんの人たちの単位で」
「それって」
「一人の人にできることは限られますから。でもみんな助け合って、できることをして、それで一つにまとまっていくんじゃないでしょうか。誰かのことを思って、みんなのことを思って……あのパティアという人の話は何でも自分でできちゃうから、何でも自分の好きにしようとして他の人のことを考えないから……みんなに敵視されるんじゃないでしょうか」
 パティアという者。それはすべての人間に置き換えられる。まさにそれは、すべての人間の一部分なのだから。
「僕は僕にできることを。みんなが自分のできることを頑張って、誰も無意味に傷つかない世界が僕の夢だから」
 アルスキールは春を迎えようとしているアルメイスの空を見上げた。
「何をすればいいかよくわからないけど……今、僕にできることは何かなあって」
「同じだね」
 クレアが笑う。
「私も何をしていいかわからないけど。何かできることがあるかなあ」
 シーナもそこで、もうすっかり定着した猫耳のアクセサリーを揺らして笑った。
「あ、わたしもわたしも。でもクレアさんは、クレアさんのことを頑張るのが、今できることなんじゃないかしら」
 シーナは膝を抱えるようにして……まるで大切なものを抱きかかえるかのようにしながらつぶやく。
「ルーさんにとってはきっと、そうじゃないかしら。いろんなことがあって、クレアさんのことばかり考えていられないだろうけど」
「そうかなあ。ルーは反対じゃないのかな。私にはなれないと思ってるのかも……」
「そんなことないと思うわ!」
 クレアはまだ、そのフューリアとしての能力を維持するために継続して薬を必要とする。そして『フューリア』と『エイリア』に区別できる点があるとするなら、そこしかない。
 フューリアも生まれたときからリエラを呼び出せるわけではないので、後天的な覚醒という点においてはエイリアとフューリアに差はないのだ。
 クレアが本物のフューリアになるということは、まずその薬を断ってなお能力を維持できるようになるということ。表立っては語られてこなかったそれが、蒼い薬包紙の秘密。
 薬には精神の揺らぎを大きくする力があり、精神の不安定さと引き換えに交信の能力をクレアに与えている。もちろん究極という意味での真のフューリアを目指すにしても、必ず通り抜けなくてはならないだろう。
 だからすでにだいぶ前から、クレアは自らの意思で、それを減らすことを試みてはいるのだ。いまだそれは無縁になったとは言えないが、一歩離れて見たならば、クレアの精神的な部分が昔よりも落ち着いていることはわかるはずだった。
 シーナというもう一つの心の支えを得て、クレアの努力は少しずつでも実を結ぼうとしている。
 でも、それは。
 クレアが薬を必要としなくなるということは、ルーの望んだ研究の不要論も招くだろう。ルーの手からクレアが一人立ちすることと共に。そこにルーにとって喜ばしいことはないのではないかと。
 頑張らないほうが……
「そんなこと……クレアさんは、すごいフューリアになれると思う。わたしはそう信じてるし、ルーさんも……そのときにはルーさんがクレアさんを大切にしてきたことも評価されるんじゃないかしら」
 何が間違っていて、何が正しいか。それを決めるのはこれからで、見知らぬ誰かだから。
 クレアが幸せであることが、きっとその評価を分けるだろう。
「クレアさんはすごいフューリアになって、幸せになるの」
 それがクレアにできること。
「わたしは、そのクレアさんと一緒にいるの」
 それが自分にできることだと。
 それは祝いの言霊だ。
「そうだね」
 人にできることは限られているから……
 そんな三人の上に、影が射す。
「ルー殿はどちらでござろう?」
 細雪だ。誰だかはすぐにわかったが、一瞬違和感があった。理由もすぐわかる。今の見た目が、普通の女子学生に近いからだ。ルーのそばに張り付くために、細雪は普通の制服にして来たのである。
 クレアとシーナはアルスキールのときと同じ話を繰り返して……
「ルーに何の用?」
「主の代わりを勤められれば幸いにて、及ばずながら参じてそうろう」
 見た目はまともに近づいても、中味は変わっていない。何を言っているのかわからないとシーナとクレアは顔を見合わせた。
「……その御身をお守りし、その願いを叶えるべく、全力を尽くすためにござる」
 そこまできて、ああ、と三人は納得いった。
 同じだ、と。
 そして。
「あ」
 声と視線を追いかけて、細雪も振り返る。
「ルー、帰ってきた」
 三人も戻ってくるルーたちを見つけて、立ち上がった。


■帰り着く場所■
 レアンのところを訪ねて来た者で、本当にレアンを困らせた者は実はソウマやノイマンではなかった。
 レアンの性格に一切の問題がないと言えば嘘になるが、しかし彼にも状況を捉える力は人並みにある。今サウルの庇護下から出るのはもちろん、一歩外に出ることさえも問題を引き起こしかねないことはレアンでもわかっている。だからレアンは迂闊な誘いには乗らなかったし、サウルもレアンがどうしてもと言わないのならと、誘い出す者は適当にあしらって追い返していた。
 だがレアンを悩ませる客人は、これからが本番だったのだ。
「あなたはわかっていると思うわ。そんなに馬鹿じゃないわよね」
 先だって訪ねてきたシルフィスはそう言って、ラジェッタが何を言い出したのかをレアンに教えている。ラジェッタに協力しろというのではない、ラジェッタを止めろという意味でだ。フューリアがレイドベック公国で生きる辛さは誰よりもレアンが知っているはずだと。
「あなたを無視して、あの子たちだけで行こうとはしないでしょう。なら止められる可能性が一番高いのは、あなただと思うの」
 自分も忠告はするけれど、と言いながら。
 きっと悪役になるだろうとシルフィスは思っていた。それでも、だ。予想できる悲劇を回避するために。
 シルフィスの危惧も覚悟も、レアンには痛いほどよくわかった。それはかつて強制的に課せられた運命の道筋だったからだ。そこにどんな辛さが潜んでいるか、経験した者はレアン一人。だがシルフィスは概ね正しくそれを悟っていたと言えるだろう。
「殺されるか……利用されて帝国と、私たちと戦わされるか。どちらかだわ」
 生きて祖国と戦う道を選んだ男は、黙っていた。かつて祖国への恨みと思慕とがその道を選ばせたが……
 少女から父を奪う遠因を作ったのもレアンなら、アルメイスに連れてきて父と引き合わせたのもレアンだ。かつて二つの祖国のうち、生まれた地を捨てさせたことに、うしろめたさがなかったわけでもないだろう。そしてその反動がとうとう戻ってきたのだとも言える。
 その縁深い少女の行く先に、レアンが自分と同じ未来を予見したのは想像に難くない。シルフィスがそうだったように。
 帰すこと、引き止めること。
 そのどちらが正しいか。
 それはレアンにとって、一年前に出ている答でもある。だが故国に帰りたい気持ちもわかる気がして。

 それから数日。レアンの元にはまだまだ入れ替わり立ち替わりに訪問者がいたが、ラジェッタの話をもたらしてくれる者は少なかった。そのときまでにレアンを訪ねて来た者は、ラジェッタに話をちゃんと聞く前にレアンのほうへ来た者で……レアンは一方的に言われるか、聞かれるばかりだった。気にはなっても、自分で直接聞きに行くわけにもいかない。
 ここのところ落ち着いていたレアンの様子がおかしいと何も知らぬ者ならば思っただろうか。
 だがシルフィスが言ったように、この話をレアンを無視して進めることはなかったようだった。しばらく音沙汰がなかった理由は、ラジェッタを囲む人々の間でも、この話はなかなかまとまらなかったからだ。
 とにもかくにもラジェッタの周辺の者たちがまとまる前にレアンを訪ねてきたのは、頭から反対を唱えたシルフィスと、安全な方法の情報を求めた“黒き疾風の”ウォルガの二人だけ。
 そしてウォルガの聞いてきたことは、実に単刀直入にこれだ。
「レイドベック公国に安全に入る方法はないか?」
 シルフィスに先に話を聞いていなかったなら、レアンは「そんなものはない」と一笑に付して終わったかもしれない。もっとも深刻に考えたところで、答が変わるわけでもなかったが。
「……安全な方法はない」
「どうしてだ? あんたはずっと、向こうとこっちを行き来してたんだろう?」
「完全に安全な道はない。なにかしらリスクは負わなくちゃならん」
 かつては多少安全だった道も、今は別の意味で危険がある場合もあると。
 考え込んだ後、レアンは訊いた。
「ラジェッタ一人なのか?」
「いや、多分、ついてくつもりのヤツもいるな」
 ウォルガは何人かの顔を思い浮かべて答えた。確認はしていないが、何があっても離れることはないだろうと思える者はいる。
「なら、やっぱり危険は避けられん。俺一人ならどうにかなる場所でも、人数が多いと話は変わる。相性が悪ければ……帰って来れなくなる」
 レアンは諦めたほうがいいと言おうとして迷っている様子だった。
「危険なことはわかったが、それは一体どういう道なんだ?」
「……ごく浅い……『深淵』だ」
 それは位相の異なる世界とも言う。つい先日、深淵から戻る途中のレアンが彷徨っていた場所。
「深淵の成り立ちは説明しない。あれは自分の感覚で理解できないと、まず飲み込まれてしまうからな。だがその深さには段階がある。ごく浅いところでは、この世界に良く似た姿をしている」
 よく似ているが……少し違う、そんな姿。それは人の心の力を受けて変化する……人の意思を受けて変化することが深淵の証でもある。そうして奥に進むにつれて、その形はこの世界とかけ離れていく。その果てが……神々の座する場所。深き淵。
 ずっと昔にレアンがクレアやアルメイスの学生たちを、封印されていた怪物『夢の王』を利用して閉じ込めた場所もそうだった。そのときのそこは、ずっと昔に夢の王の封印のために、細工された空間ではあったが。本質的には同じもの。
「望めば、そこを通っていけるのか?」
「開いている入口から手順を踏んで入れば、ある程度の能力のあるフューリアならば入ることはできるだろう。だが、入れるだけのレベルでは中で迷う。入口として開かれた場所ではないところから入ったり、目的地まで中を通って渡るには、相当慣れる必要がある」
 レアンには、それができる。それができなければ理屈に合わない突然の移動や消失などの事象を、今まで何回か見せてきてもいる。
「具体的に、それは何が危険なんだ?」
「入口に当たるものはアルメイスにもあるが、そこから入ってもラジェッタに目的地まで突っ切って進む力はない。迷って出られなくなる。仮に中を自在に進める者が一緒でも、中ではぐれる可能性が高いから……危ない。俺がこっちに連れてくるときには、抱えて国境線だけ潜って越えてきた」
 ラジェッタやアルメイスの学生たちだけでは、それは難しいということ。あるいはレアンのサポートが得られたなら、来たときと同じルートを用いて実行するという方法が残されてはいるが。
 だがそんなことはラジェッタの近くでこの話に関わる者に、わかっていない者など一人もいない。だからこうしてウォルガはレアンのところに話を聞きに来ているし、シルフィスは先回りして引き止めるための根回しに来ていたのだ。
「それがリスク、危険ってことか。でも、あんたならラジェッタを連れて渡れるんだな」
「それは……そうだ。だが、数多く連れて渡れるわけじゃない。何度も言うが、はぐれるんだ。はぐれたら、そいつはもう帰ってこれないぞ。それに今は……もうひとつ」
 レアンは微妙な表情を見せた。
「こちら側には出てこれなくても……そこまでは来るかもしれん」
 何がとは言わなかった。言えば呼んでしまうと言うかのように。
 それは深淵に住まう者の話。
「わかった! ラジェッタに話してくる!」
「いや、待て!」
 本当にレアンの話を聞いていたのかとツッコみたくなる勢いで、ウォルガは走って帰ろうとした。レアンは一瞬のタイミングで、どうにかウォルガの服の裾を掴んで引き止める。
「……俺が案内するとは限らないんだぞ」
 ウォルガはそう言うレアンの顔をじっと見つめた。迷いが見える。
「わかった、それも言っておく」
 ウォルガはうなずいた。そこで、レアンの手が離れる。
「できれば……引き止めて諦めさせてくれ。向こうに帰っても、あの子の面倒を見てくれる大人はもういない……悲しい目に遭うだけだ」
「あんたは? それでいいのか?」
「俺は……今ここを、離れるというわけにはいかないだろう。それが許されるとも思えない」
 悩んでいることは十分にわかったので、ウォルガはただ「伝えよう」とだけ言った。
 レアンは迷っていても、ウォルガの気持ちは揺るぎなかった。ウォルガもまた、今できることをしなくてはならないと。ラジェッタの願いを叶えてやろうと……そう努力することが自分に今できることだと。そう信じて、駆け抜けるつもりだった。
 その想いのままに、ウォルガは走ってラジェッタの元へと帰っていった。

 まずラジェッタの突飛というか、とんでもない願いを聞きつけてラジェッタに会いにやって来た者たちがするべきことは、ラジェッタの考えを確認することであった。
 問題は、その集まった中での予測が大きく違っていたことで、混乱が生じたことにあるだろう。一体どれが真実であるかを掴むのに少々時間がかかった。本来的には祖国に帰って暮らしたいのか、一時的に帰りたいのだけなのか、この二点のどちらかだと思うところだが。
 そのどちらなのかを訊ねるだけでも、そう簡単にはいかなかった。ラジェッタ自身、当初明確な区別をそこにつけていなかった、それを自分でもよくわかっていなかったことも悪いことだったのだろうが……子どもというのはそういうものでもある。自我や、それを表現する技能は、まだ形成されていく途中なのだから。どうしたいのか考えてはいても、理詰めの信念ではないから、表現するのが難しいこともある。
 そしてラジェッタが、それを上手く説明できないでいる間に……
 そこで一緒に話を聞いていた“のんびりや”キーウィが何をどうして勘違いしてしまったものか、「ラジェッタちゃんは戦争を止めるために帰るんやないか」などと言い出したものだから、余計に事態の混迷は深まってしまった。
 それはおそらく、キーウィの願望だったのだろうが。およそ子どもらしくない、立派な理由をキーウィは考え出してしまったらしい。
 大人が子どもに偉そうな動機や行動を期待したなら、その子が良い子であればあるほど本音は言えなくなってしまう。そこから先は、更にラジェッタが理由を語ることはなくなった。そんなラジェッタには、ただレイドベック公国へ帰ることの危険性を説いたとしても効果は薄い。いや効果が薄いのではなく、素直に説得を受け入れられないのだ。言うことを聞くのと聞かないのと、どちらが良い子でどちらが悪い子なのか、そこに迷いはしても。
 それはキーウィが正しいのか、説得してくるシルフィスや“風曲の紡ぎ手”セラ、“轟轟たる爆轟”ルオーの言うことのほうが正しいのか……というラジェッタの判断でもある。
 ラジェッタは普通の子なので、自分が安全なところにいることと、危なくても他人のためになる良いことだと思われることとを比べたら、後者が正しいと思う。そして、それを実践できる程度には良い子だ。それで面倒と心配をかける点においては、ラジェッタを想う者たちにとっては大変だが。だがそういう子でなかったなら、ラジェッタは父親を失うことはなかったかもしれない……それで自分の願いも叶うなら、そちらだとしておきたいのは当然だ。
 キーウィの思い込みの罪は、早い段階においてラジェッタの真意を聞き出すという作業に失敗させたこと。またラジェッタに、同じく早い段階で説得を聞き入れない姿勢を作らせてしまったことだろう。
 キーウィのそれがなければ、皆の言うことが正しいのだろうと幼心は思ったはずだった。引き止める説得を受け入れて、おそらくはまったく違う未来があっただろうが。
 ラジェッタが帰るという意志を翻さないとなったとき、各人の行動や説得は次の段階に移る。
 さて、そのうちの一人。全面的にラジェッタをレイドベック公国に帰そうという“闘う執事”セバスチャンは、レアンを帝国から逃がすための手段として、ラジェッタの帰国を利用しようという心積もりだったので……ラジェッタのことは、ある意味どうでもいいことだった。いやラジェッタだけではなくレアンのことも、どうでも良かったのかもしれないが。セバスチャンが逃がしたいというレアンは、捕まって以来、一度たりと自ら逃げる意志を示したことはないのだから。
 幾度も繰り返した話かもしれないが、レアンがアルメイス、そして帝国から逃げる気ならば誰にも止められない。どうしてなのかは、レアンを実力で止められる者が事実上いないからだ。それがわかっているからサウルはレアンの部屋に外から鍵をかけたことはなく、またそれでもレアンが生かされているのはサウルが監視しているからという建前になっている。レアンがその監視から迂闊に外れることは、ごく一般的に見た場合、自ら死刑執行のサインをすることに限りなく近い。
 それでも本気でレアンが逃げるつもりなら、体が万全となる時期さえ見計らえば逃げ切れる。誰の助けも要らない。ウォルガが聞いた話が、もう少し具体的にそれを示しているだろう。異なる位相を迷わず移動できるなら、それができない者を振り切ることなど簡単である。今まで、ずっとそうだったように。今逃げてないのは、レアンにその意志がないからで……
 それらを理解したうえで、セバスチャンのようにその意志のない者を逃がしたいというのであれば、それは『追い出したい』とか『死に追いやりたい』とか、そういう負の意味を含んでいるとしか考えられない。これは、他の者が聞けば当然に、そう感じること。……仮にセバスチャンにその自覚がなかったとしても、だ。
 レアンも迷惑な存在ではあるから、アルメイスから追い出したいと、そう考えたとしてもやむをえないかもしれないが。
 セバスチャンはラジェッタが帰ると言うのならばそれで良いとして、自分たちだけでは帰せそうにもないのだから、レアンとサウルのところを訪ねて行こうと提案した。
 一方どんな理由であっても、ラジェッタが本当に帰りたいのならば協力しようと言うのはルオーだ。ラジェッタの気持ちが最優先であるルオーは、単純でわかりやすい。問題は方法ということになるが、これももうレアンを頼るしかないことはわかっている。
 セラは、行くとしてもせめてすぐに帰ってくるようにと。方法はやっぱり、レアンに依存という考えだった。
 こういう状況であるので、レアンに先手を打ったシルフィスは賢く立ち回ったと言えるかもしれない。
 しかしそこでまず起こった対立は、ラジェッタの帰国に対して反対派と賛成派というカテゴリーには別れなかった。
 最も全面的に対立したのは、セバスチャンとセラである。なぜならばこの二人は、ラジェッタについてもレアンについても意見が正反対だったからだ。
 もちろん、セラだけではない。当然反対の立場であるシルフィスにしても、控えめながらやはり諦めて欲しいと願っているスルーティアにしても、ラジェッタをレイドベックに行きっぱなしにさせるような……ラジェッタを高い可能性で死に追いやるような提案は、受け入れ難い。そこには妥協の余地もない。
 最初のうちにはキーウィとセバスチャン、そしてそれ以外での口論は拮抗していた。理由はラジェッタの意志が、キーウィの側にあると思われていたからだ。キーウィが妄想したような理由なら、ある程度は向こうにいなくてはならないだろう。
 しかし、反対する者たちだって譲れはしない。そうだとしても、二人を行かせることは二人を間違いなく死なせることだと。
「ですから、何を考えていらっしゃいますの?」
「レアン様に一緒に行っていただくのです、レアン様も犯罪者として裁かれるよりは」
「レアン様がそうお望みになりましたの? いいえ、仮に望まれたとしても、有り得ません。レアン様が帝国を再び裏切ったなら、どれだけの人が困るか、セバスチャン様もキーウィ様もおわかりでいらっしゃらないのですわ。それはレアン様も重々ご存知ですのに」
「いや、うちはレアンはんと一緒でなくても……」
「他に方法があるわけもないでしょう」
 かなり長いこと、そんな不毛な口論は続いた。
 その喧嘩の原因になっていることは、ラジェッタにもわかるわけで……次第に沈み込むラジェッタにルオーとスルーティアは心を痛めた。この最初から行き詰ってしまった状況を、どうしたらいいのかルオーとスルーティアは悩んで……
 主にセラとセバスチャンが言い争っている間に、最初に戻ることにした。
「ね、ねえ……? もう一度聞くんだけど。ラジェちゃんはどうしておうちに帰りたいのかなぁ……」
 スルーティアがラジェッタの前に屈みこんで聞くと、ラジェッタは更に困った顔を見せた。
「ご……ごめんね……? 何度も聞いて……」
 視線の高さを合わせて、スルーティアはラジェッタをじっと見つめる。何か言いたそうで、それでも言えないもどかしさが感じられた。
「なんでもええんよ、理由は。俺はラジェッタちゃんのお願いなら何でも叶えたる。でも……ラジェッタちゃんのホンマの気持ちが聞きたいなあ」
 ぽろりとラジェッタの目から涙が零れた。
「おにいちゃん、おねえちゃん……ごめんなさい……」
「あ、謝ることはなにもないよ! わたしは、ラジェちゃんがお母さんのお墓参りに行きたいのかなあって思ってた。もしかしたら、もうアルメイスが嫌になって、ずっとおうちに帰りたくなったのかもしれないけど」
 ラジェッタははっとして、力いっぱい首を横に振った。
「そんなことないの、ほんとよ……ずっとかえらなくてもいいの」
 それで、ラジェッタは戸惑うように喋りだす。やっぱり上手く言葉にはならないようだったが。困って、悩んで、もう一度口を開くまで、少しかかる。
 二人は、ゆっくりそれを待っていた。急かす必要はない。ラジェッタが言ってくれるのならば、それを待てばよかった。
「……かえりたいの」
「うん」
「かえって、おとうさんのめがねと、おようふくをおかあさんにあげるの」
 おかあさんはずっと待ってたから、と。
 ラジェッタが住んでいた場所は、レイドベックの国境に近い森の中。人里から離れたそこは、夫のいない若い母親と幼い子どもが住むのに適した場所ではない。それでも、そこにいた理由は……
 父親は戦争に行って帰ってこないと言いながら、そこにいた理由は。子どもにだってわかっただろう。
 一緒にいる間には思い出せなかったことだった。けれどエイムを失って、同じように悲しんでいる者がいることを知って思い出した。その帰りを待っていた母の姿を。
「ムリだよねっておもってたの。でも」
 できるのかもしれないと思ってしまった。帰れるのなら帰りたい。それが、本当の願い。
 ほんの少し優しい、そして忘れていた罪を償うための、小さな願い。危険を冒すのは、その罪への贖罪だ。
「ラジェちゃん」
 スルーティアは、今はどうか諦めてほしいと、そう言おうとした。ラジェッタが危険なことをしても、エイムも母親も喜びはしないと。
 だが……
「わかった、必ず連れてってあげるさかいな!」
 ルオーが言った。それは話を聞く前にも後にも、何一つ変わらないルオーの正義だ。どんなに難しくても、危険でも、ラジェッタの願いならば叶えると。
「ルオーさん!」
「おにいちゃん……」
 ラジェッタは瞳を輝かせている。ああ、と、スルーティアは困った。それでも、言わなくちゃ、と勇気を振り絞る。
「……ラジェちゃん、行かないで」
 ラジェッタはルオーに伸ばしかけた手を止めて、スルーティアに見開いた目を向ける。
「ラジェちゃんが見えないところに行っちゃうのは不安だよ……お願い、ここにいて」
 泣きそうな顔でスルーティアは訴えた。
「おねえちゃん」
 やっぱり困ったような泣きそうな顔で、ラジェッタは答える。
「だめ?」
「今じゃないとだめ?」
 お互いに聞きあって。
 二人は、ほとんど同時に泣き出した。
「ああああ! 待ちや、二人とも」
 そこに挟まったルオーが慌てる。
「大丈夫や、泣かんでええから! ラジェッタちゃんは、俺がなんとしても無事連れてく。それでちゃんと帰ってくるから、な?」
 ええよな、ええよな、と泣きじゃくる二人を宥めすかして。
 だが、セラと一緒に口論に参加していたシルフィスが、ここでこちらの状況に気づいて口を挟む。
「ちょっと待ってよ、できない約束をするものじゃないわ。すぐ帰ってくるのは行きっぱなしよりマシだけど……行くのがそもそも難しいのよ」
「そんなん、レアンに頼むに決まっとるがな。連れてきたのはレアンやで」
「だから皆して! 少しはレアンの都合も考えなさいよ! あの人が、今出られると思ってるの?」
「そこをどうにか」
「どうにかならないわよ」
 ルオーは軽く言うが、とシルフィスはおかんむりだ。だが軽く言っているけれど、ルオーの決意は十分に固い。ラジェッタのためならば……

 その話を聞いて、キーウィは自分の考えがただの思い込みであったことに落ち込んで、もう何も主張する力はなかったので……
 残る者たちの戦いは、それほど長くはなかった。全面的に反対のシルフィス、送り出そうというセバスチャン、行って帰ってきてもらわねばならないというセラの三竦みとなって。
 答えからいけば、勝者はセラであった。
 当然ながらラジェッタが一人で故郷で生活し続けることなどは不可能だと、その点においては誰もが認めなくてはならない。それは保護者に拠らぬ、客観的な事実だ。なので必ず帰って来させるという主張に、まずシルフィスが折れ、次に。
 『レアンが帰ってこなくてはならない理由』と、その覚悟をもって、セラがセバスチャンをとうとう言い負かした。
 それは、レアンが裁判の場に立って証言するべきだということ。それがエイムの死を無駄にせず、過去の悲劇を背負って生きてきた今までのレアンの想いを伝えることだと。
 このまま何もせず行けば、そうなるはずのことだ。……なのに、一度姿を消せばレアンは厳しい立場に立たされるかもしれなかったが。
 セラは責任を押し付けるつもりはなかった。自分ができるフォローはするつもりだと。
「サウル様はこんなことは認めません。認められないのですわ。だから、私たちが勝手にするしかありませんのよ……」
 だから、セラは、サウルに許しを得るつもりはなかった。意外にも、サウルが何があっても絶対に許さないという点で……セバスチャンは困惑を見せた。
 サウルや他の者の協力は得られない、それでも。罪を背負う覚悟があるのかと。
 覚悟の違いが、最後には押し切った。
 さてウォルガの合流は、この後であった。ウォルガはレアンからの言葉をもたらして、そして……
 彼らは、準備を始めた。
 他の者たちが他のことを考え、他の準備をしている一方で。彼らの小さな願いを叶えるために。
 ……それもまた、世界を作る一片。


■深淵の向こう側で■
 レアンの元を訪ねてくる者は、まだ後を絶たなかった。後から行くと言っていったマーティたちが来たのは、だいぶ遅くなってからだった。だから逆に、そこまでに訪れた者たちの話は色々と聞けた。
 いつぞやにサウルの帰りを待っていたクレイは、再度四大リエラの主を集めた会談を計画しようとしたらしい。
 サウルはよほどでなければ自分は出て行かないが来る者は拒まずであったので、クレイが会場を貸して欲しいと言ったときには二つ返事で了承した。ただし人を集めて何を言おうとしているのかを聞いた途端に、大爆笑したが。そして、その場でそれが不可能であることを告げている。
「いや、すごい発想だなあ。でも無理だよ。僕がルーを追い出して、アルメイスの学園長になるなんて!」
 クレイは旅に出てもらうのであって追い出すわけではないと言ったが、それは追い出すということだと笑いの治まったサウルに優しく諭された。
「僕は確かに、ルーを学園長の椅子から追い落とすかもしれない。そういうことになってしまって……アルメイスがそれでも続いていくのならば、後任にはできるだけ良い人が来るように、僕が力になれることはしよう。でもね……」
 そこでサウルは、ほんの少し悲しげな表情を閃かせる。
「僕がルーの後釜に座ることはないんだ。仮に僕が望んだとしても、それはない。見えにくいかもしれないが……この国がそういう仕組みになっているんだと思ってくれないか」
 サウルがサウルの母親から生まれたことで、それは定まった運命。サウル自らには選べない条件だ。誰もが何か、そんなものを抱えて生きている。初めから人生の選択肢は、その可能性は、無限ではない。フランも、エリスも、ルーも……だが、その中でできることを精一杯に。
 それが一つの答。
「それじゃ、ルーさんも」
 学園長という以外にはなれないのか、と、クレイは考え込む。
「さてそういう話なら、ここを使うのは勘弁してほしいな。僕がルーを、この国から追放しようとしていると思われかねない。さすがにそんな誤解はごめんだよ」
 悩んでいるクレイに追い討ちをかけるかのように、サウルはそう畳みかけた。クレイは慌てる。会場のあてがなくなったら、その時点でこの話はご破算だ。
「まあ、僕が言うのもなんだか奇妙な気がするがね。ルーも、まったく自由の身ではないんだよ。それは知ってはいるんだろう? だからもう少しルーの事情もちゃんと考えてあげて……考え直して、良い案が出たらまたおいで」
 アルメイスから出て行けと言われたら、言った者に悪気がなくても、やっぱりルーは傷つくだろうと。
「サウルさん」
 クレイを残して、サウルは応接間を出た。クレイはまだ考え込んでいたので、ゆっくりしていくと良いと言って。同じく戻ってきていた優真にお茶のおかわりの支度を頼んで……部屋を出たところで、一緒に出てきた優真がサウルに声をかけた。
 シャルティールがサウルと優真の後ろから、ワゴンを押して付いてきている。優真にくっついているのは連理もだ。ワゴンと連理は、微妙にサウルと優真の真ん中を割るような位置をキープしていた。
 だがそんなことは、サウルも優真も特に気にはしていないようだった。
「サウルさんには、ルーさんも守るべき人なんですね」
「そういうわけでもないけどね」
 基本的には自分よりはるかに強く、守る必要もない相手だからと。
「いいえ。誰にも分け隔てなく、サウルさんは帝国や、そこにいるわたしの大切な人たちを守ってくださるんだと」
 サウルは少し微笑んで、それにはうなずいた。けして広くはない選択肢の中で、それがサウルの選んだ誇りだ。負の面が、いささか目立ちやすい生き方の中で。
「絶対を約束することはできないかもしれないが……そうありたいと願っているよ」
 優真もにこりと微笑みを返す。
「それなら、わたしがサウルさんを守りますね。もう一人で、全部抱え込まなくてもいいように」
 サウルは少し微妙な表情を見せて……ほんの少し視線を逸らした。
「……ありがとう」
 そこで、廊下を前から橙子がぱたぱたとやってきた。
「サウルさん、優真さん、お客様ですけど」
 そして次の客人の来訪を告げた。
 その客は、サワノバだった。
 サワノバも四人を一所に集めようと思っていた者の一人だ。その考えは地味だが堅実だった。
 サワノバのしようとしていることに実があるという保障はなかったけれど、だからしないという理由にもならず、サウルはサワノバに改めて「出て行くことは多分できないが、来るのは構わない」と答えている。
 サワノバはその後、先に訪ねてきていたシルフィスと入れ替わりで、レアンのところに顔を出してから帰った。話を聞いたレアンは、その場でサワノバの持っていたフランが刺繍したネーム入りハンカチと、蒼雪祭の折にフランと一緒に売った……そのものではないのだが、イルズマリを象ったからくり時計の二つにアークシェイルの力を込めて渡した。
「これに意味があるのかどうかは、俺にもよくわからないが」
 先日から時々望まれて、レアンは確かに同じようなことをしている。それは聖職者が信者に祝福を与えることと良く似ていた。ある意味、それはまさにそういうものなのかもしれなかった。
「しかしじゃな、今でなくても良かったのじゃがの。できればフラン嬢ちゃん本人に与えてやって欲しいのじゃ。世界なんて大仰なものを調和させるのは困難なことじゃからの……せめてフラン嬢ちゃんが安らかに生きられるよう、祈ってやってくれればとな」
 ハンカチや目覚まし時計を使うのは、直接フランにそれが効かなかったときにとサワノバは思っていた。だがレアンから、それを先にすると言い出したのだ。
「……おまえの考えでは、もしも必要なときに俺がいなかったら困るだろう」
 サワノバは強く疑問を呈したわけではなかったので、レアンは理由をそう述べただけだったが……ここにずっとはいないかもしれないことを、考えていたのかもしれない。
 それからも、誰かがレアンのところに来ては去っていって。
「調べても、何もでてきやしないわ」
 やはり予告の通りにマーティもレアンのところに来たが、手がかりは何も見つからなかったという。それでも聞いた話や、見てきたものを語って。
「だろうな。神かどうかなんて、関係はない……深淵から生まれた物は、多分滅びることはないだろう」
「まったく? 全然? 方法はないの?」
 多分、とレアンは答えた。
「それって、やっぱり溶けかけたからわかったの?」
 少し時間を置いてから、レアンはうなずいた。その間、自分の手を見つめて……
「深淵の奥に……おそらく、時の流れはない。俺にはとても受け止めきれなかったが、正しくすべてを受け止めることができれば、きっとすべてがわかるんだろう」
「全知ってヤツねぇ、まさに神様だわ」
 神秘主義者のマーティでなかったなら、返答に窮したかもしれない。実際にマーティと一緒に調べ、一緒に訪ねて来たエグザスは、顔を顰めてただ聞いていただけだった。
「全部受け止めていたら、帰って来れなかっただろうな。悠久の過去と未来のすべてを知ってしまったら……きっと狂うだろう」
 その不合理とせつなさに。この世界の歴史は、けして優しくはない。そして今後も、甘い蜜のような時代があるとは思えない。自分一人の経験さえも、ときに破壊衝動に身を任せそうになるほどやるせないのに。それを、すべての人の悲しみまでも受け取ってしまったら。
 狂ってしまうだろう。あるいは、変わるのかもしれない。始祖アルディエルのように。
 ぴくりとエグザスが反応する。どうやってレアンは深淵に潜っていったのか、それがエグザスは知りたかった。ただ深くリエラと交信しただけでは、エグザスにはたどり着くことはできなかった場所。
「時のすべてが深淵にはある。だから、そこに存在の根拠を置く者は滅びはしないだろう。『存在しない時間』が過去と未来のすべてに存在しないんだからな」
 ますます言葉のパズルのような世界に踏み込んでいく。マーティはうんうんとうなずいていたが、さて正しく理解していたかどうかはわからない。
 そして、レアンもまた主観抜きには語ることはできず……それを正確に語るのならば、『人の知る時のすべて』となっただろうか。
 どちらにしろ、深淵に存在を依存する何かが完全に消滅するときには、過去からも未来からも消滅するということだ。それはパラドックスを引き起こす結果となるだろう。過去において存在しないものは、消滅させることもできないのだから。
 ……仮にそれを行う者が現れたなら、世界の存在の理からその場で外れることになるだろうか。悠久の存在を消滅させた者は、過去にも未来にも……やはりどこにも存在できない。生まれることもなく死すこともなく消え失せて、世界とそこに属するすべてはそれを忘れるのだろうか。
 イゾルドと始祖アルディエルのいない世界……それはもう、初めからこの世界ではない。
 気が付いたら、エグザスは膝を突いていた。意識が遠ざかりそうだった。それは、かつてラシーネが幾度か経験した感覚でもあり……それが、深淵に触れることへの拒否感。
 自分の中にとうとう入口を見つけても、そこに潜って行こうとはできなかった。そもそもなにかをするということが、そのままではできそうにもなかった。
「ちょっと、ねえ! 大丈夫? 真っ青よ」
 マーティが揺さぶる。揺さぶられているのはわかっていたが……何を言われているのかよくわからない。
「何も考えるな」
 そこに、レアンの声だけが聞こえた。
「あるいは別のことを考えるんだ。おまえの大切なものはなんだ?」
 何か執着するものはないかと、レアンの声は訊ねる。大切なものと言われて、ふとフランの顔がよぎった気がした。どこが見えたのだろうと考える。フランが――笑って……
「手放したくないものがあるなら、戻ってくるがいい。このまま飲み込まれるだけでは無駄死にだぞ」
 そこで、エグザスの視界に現世の色が戻ってきた。一瞬で弾けるような鮮やかな色彩を感じて、そこでやっと目が見えなくなっていたことに気がついた。
「今のは……深淵なのか? あれだけディウムと交信しても辿りつけなかったのに」
「違う、おまえの中に一瞬入口が繋がりかけただけだ。まだ入ってはいない。……行こうとしていたのか? おまえには、まだ荷が重いだろう。やめておけ」
 それは通ってきた道なのか、淡々とレアンは言った。まだ早い、と。
「それは駄目だ、私はアルディエルを倒さなければ……」
 そう言ったところで、エグザスは体が振り回されているかのような嘔吐感に襲われた。
「体が拒絶しているうちは、自分の中の入口から入りこむのは無理だ。それには体を完全にコントロールできないと……第一、今、答にはたどり着いたんじゃないのか?」
 だから、真理の入口が開きかけた。そうなのだろうと。
「……倒せないというのが真理なら、そんな真理はいらない」
 レアンはじっとエグザスを見つめていた。
「馬鹿だな」
「馬鹿でもいい。それでフランが救えるのなら」
 レアンは目を伏せた。
「……まあいい、そういう馬鹿は嫌いじゃないかもな……」
 溜息をひとつ。
「自分の中から入ろうとするから、そうなるんだ。深淵はこの世界と一体になって存在している。別に自分の中からでなくても、空間に穴をこじ開けても入れる……おまえたちだって、そうやって俺を引っ張り出しただろう? 他人の開けた入口や、固定された入口から安定した体ごと入れば、拒否感に苛まれることはない」
 何故自分の中から入ろうとしたときに体が拒絶するのかと言えば、『体を心の中に入れる』という……明らかに物理に反した不条理な行為を行おうとしてしまうからだ。それを理を曲げて押し切るには、果てしない心の力が必要になる。
「案内はしてやれん」
 レアンの言葉に驚いて、エグザスは顔を上げた。
「倒すこともできない。それがわかっていても……しかも、迷って戻って来れなくなる可能性も高い。それでも行くのか?」
 エグザスは迷いなく答えた。覚悟はできていると。
「……なら、入口だけは開けてやる」


 フランが休息を得てから後。フランの元を訪ねてくる者も少なくはなかった。もちろん“七彩の奏咒”ルカが行かないはずもなく、自分の体が回復するかしないかのうちに、ランカーク邸を訪ねていった。
「またおまえか」
 ランカークには渋い顔をされたが、そのくらいのことではへこたれない。
「もうしわけありません、先日は失礼いたしました。フランさんにお会いしたいのです。会わせていただけませんか」
 ルカに他意はなかったが、ルカは元々少しねじの飛んだ子で、さらに先日は薬のせいでおかしくなっていたことも事実だった。
 おかしくなっていたルカをランカークはしげしげ見たわけではないが、2階から飛び降りたという話はフランの顛末を聞く際に耳に入っている。そんな先入観のせいで、棒読み口調の挨拶にランカークはじりじりと少し後退った。
「うう……む、レディフランが会ってもよろしいとおっしゃるならばな」
「できればおそばにおいてください」
「う……」
 わ、わかった、と勝手に押し負ける形で引いたのがランカークの運のつきだ。先に来て、フランに会わせろとごねていたエドウィンがそこで「ずるい」と喚きたてた。ルカを会わせるなら自分もと。
 そこからは雪崩だ。
「申し訳ありません〜! ランカークさん〜!」
 エドウィンに押し切られ、エンゲルスは謝りながらも通り過ぎて行き。ラシーネも便乗して通り過ぎて。
 結局ずるずると全員が通過していくような形になった。ルカのようにまたずっと帰ろうとしない者もいたし、エンゲルスのように通ってくる者もいたが、出入り自由の雰囲気になるまでにも、あまり時間はかからなかった。
 ランカークはフランを独占するのに失敗して落ち込んでいた。それで一番災難だったのは、やはりカレンだったかもしれない。ランカークの八つ当たりを受けて、出入りする者の監視が必要になって。ストレスも溜まろうというものだ。
 イルズマリの帰還を待っているだけのラシーネやアベルはある意味そこにいただけだったので、そこにいることにだけ気をつければよかったが。積極的に話しかけるような者たちには、話の内容にも注意をしなくてはならなかった。その結果フランに何かあったときには、またランカークから責められることになるからだ。
 警戒されるのがわかっていたからか、ルカもエドウィンも、なんのためにフランのところにきたのかをランカークにはともかくカレンには正しく説明している。
 フランのいる部屋は、南向きの日当たりの良い一室だった。上等のゲストルームで、大切にされていることだけは見てすぐわかる。フランはその部屋から出なかったが、ルカたちがそこにたどり着いたときには自分一人では立つこともできない重病人というような雰囲気からは脱していた。
「フランさん……」
「……少しは元気そうだな」
「ルカちゃん……皆さん」
 少し、やっぱりやつれてはいるか。
「体が辛くなったら言ってくれ。話をしよう……」
 エドウィンは勝手に椅子を引っ張ってきて、腰掛けた。長い話をするつもりなのかもしれなかった。
「全部話す、今どうなっているのか。大して聞いちゃいないんだろう?」
 ランカークがどれだけ正しく知っているかはわからなかったし、カレンは知っていても大してフランには言わないだろうと。
 エドウィンが話すのを、フランは黙って聞いていた。あまり表情に動きがないのは、やはりまだ薬の影響が残っているからだろうか。
「皆、頑張ってるはずだ。希望は捨てないでくれ……こっちの期待を押し付けてるってのも、百も承知だ。それでも」
 ぼんやりと……フランはそれを聞いていた。
「フランさん……辛かったら、一人で頑張らなくても良いと思います。手伝えることなら手伝います。フランさんは、したいことをすればいいと思います。どんな結果になっても、ルカは一緒について行きますので」
 ルカが続けて言った。だがやっぱりフランに反応は薄い。目の焦点は合っているように思えるので、エドウィンのこともルカのことも見えてはいるようだったが……心と頭がそれについていっていないのかもしれない。
「フランさん……?」
 ぱっぱっと、エンゲルスがその目の前で手を振ってみる。
 すると、ちゃんとエンゲルスのほうは見る。見るけれど、ぼんやりした顔は変わらない。
 エドウィンとエンゲルスは顔を見合わせた。
「何かあれば、言ってくださいね」
 ただ、それすらも気に留めぬ様子でルカは続けていた。
「どんなことでも覚悟はできてます。些細なことでも、命に関わることでも……」
 淡々と。そのほのかに漂う奇妙さは、並べてみたならフランに良く似ていたかもしれない。
 ともあれ、ルカ以外の者にとっては……したいと思っていた話をちゃんと理解させるには、時間がかかるような気がした。

 根気良くさえなれれば、逃げ出すわけではないフランを相手に話すことはそれ程困難なことではない。しばらく近くにいればわかることだったが、フランも話がまったく理解できないわけでもなかった。日常的な簡単なことなら理解して、言われたことも実行できる。
 ただ何も望まないがごとくに、ぼんやりとして応えないだけだ。
 心を鈍くして、辛い現実に耐えている……そんな風にも見えた。
 ルカもまったく正常とは言いがたいのでお互い様だとしても、エドウィンとエンゲルスは多少なりと理解してもらわないことには話にならない。
 希望を持ってくれと。諦めるなと。何か大切な守るべきものを持ってくれと。
 根気良く語って。
 だが、それはフランの心に響いただろうか。見た目からそれを察することは、まだできなかった。
 そうしているうちに、ティルも訪ねてきた。
 ロイドがもしも調べ物に成功したならフランに会いに来るつもりだったので少し待ったわけだが、残念ながらマーティたちもそうであったように、ロイドの望むものは図書館では得られなかった。
 過去の中に今を変える記述はないのだ。変えることはできても、残すことはけしてできない……それが成ったとき、世界は過去から書き変わるのだから。
 なので結局一人でやってきて。ティルはフランの状況を先に来ていた者たちから聞き、困り果てるというほどではなかったけれど、自分のしようとしていたことの難しさを感じた。
「お話を聞いてくださいますか、フランさん」
 フランはティルの顔を見た。話をする者の顔は見る。やはり聞いてはいるのだ。
「うちに自分ならざるものを抱え、それが親しいものを傷つけてしまうかもしれない。死に逃れようにも、それは次の自分を生み出してしまうことになる……とてもお辛いことかと存じます」
 挨拶のように、ティルはそう語り始めた。
「どうか……思い起こしてください。最初に“奔放なる者”が目覚めた時のことを。貴女が貴女を信じる力の弱まりが、彼の者の覚醒を許してしまったのではないでしょうか」
 それがいつだったのか。フランは正しく憶えていただろうか。だが、ぴくりとフランは身動ぎした。
 正しく初めての記憶ではなくても、フランにとっての最初はある。それに気づいてしまったときが。どこまでも鈍くなった心でも、弱点はある。それはまさに、そこだ。
 他人を怨まないならば、自分を責めるしかない。仕方がないと諦められないならば、やはり自分を責めるしかない。責めて責めて、心が磨耗するまで責めて。
「違いますっ!」
 そこでいきり立ったのは、ルカだった。
「フランさんの責任じゃありませんっ!」
 ティルを追い出そうとするかのように、ルカは突き飛ばした。女の子の細腕にしては強い力で、どんどん押す。まさに正気のたがが外れている効果なのかもしれない。
「出てってください! 出てって!」
「ルカちゃん……!」
 フランは手を伸ばした。ささやかながら……フランの元に人が出入りするようになった数日の間には、これがフランがフランの意志で動いた初めてのことだったかもしれない。
「ルカちゃん、いいの」
 ふらりと立ち上がって、ルカのところへ行こうと歩く。
「いいの、本当のことだから」
 一時的にでもフランの正気が帰ってきたことを、何人かは悟った。声がしっかりしてくる。
「私は大丈夫だから」
 足元はまだふらついているが、それは体力的な回復の問題なので。
「違います、フランさんは悪くないんです」
 いいのよ、とフランは繰り返す。
「私の力が足りないばかりに……」
 ずっとフランはそう言っていた。前からだ。力不足を知っている……それはつまり裏を返せば、フラン自身に力があれば押さえ込むことも不可能ではないと知っていたということでもある。
 もちろん、外因が影響することも間違いはない。世界の理が狂うこと。それは、自我の調和が薄れ摩擦が増えること。人が争いあうこと。四大リエラの主たちは、それを代理で体現している。
「ご存知なのですね? では、なにとぞ御自身の心の力が彼の者に負けぬとお信じください」
「それは……」
 フランは両手で顔を覆った。
「何より、貴女を助けようとする者の力を信じてください」
 エドウィンもはっと思い出す。今なら、伝わるだろう。
「そうだ、皆頑張ってるんだ。だから信じてくれ、フラン」
 今度こそ、と。それは前にも言ったことかもしれなかった。けれど、今度こそ。
 信じる力が、想う力が、そのままに強さになるなら。
 ティルは明るく言った。それはなんでもないことだと言うように。
「なぁに、伝承の時代より、復活するたびに封じられてきた程度の奴ですよ。我々が勝てないはずもありません」
 少しずつゆっくりと、フランは顔を上げる。
 本当にそうだろうかと。ようやく再び動き出した心に……まだ語らなくてはならないことがたくさんあるだろうと、誰もが思った。
 人の願いが、信じる心が……きっと力になるのだから。


 最後に一目、フランに会いたい。レアンの協力を得て旅立つ前に、エグザスはそう思ってランカーク邸を訪ねた。
 そのときちょうど、ルビィが門の前にいた。フランに会いに来たのかと思ったが、陶製の小鍋を渡して、そのままルビィは立ち去るようだった。
「じゃあ、頼んだぜ。ちゃんと渡してくれよ!」
「わかったわ。毒見はさせてもらうけど」
 ルビィもまた深淵に向かう意志を持っていたが……やはり、その手段はわかっていなかった。ルビィとエグザスを分けたのは、巡りあわせか、その強運か。より運が良かったからこそ、ルビィにその道は開かれなかったのかもしれない。そんな、失敗を約束された道は。
「やっぱり隙はないな」
「……何のこと?」
 そう思って注意してみれば、ルビィ程度にならカレンに隙がないことはわかるだろう。勝てないこともわかるなら、前よりは近づいている。
「いいや、まあ、大したもんだ」
 感心した様子で、ルビィはランカーク邸の前を立ち去った。そしてルビィとエグザスは、黙ってすれ違う。
 そこで彼らの道は、本当にわかれ……
「カレン」
 中に戻ろうとしたカレンを、エグザスは呼び止めた。フランに会いたいと告げ、中に入れてもらう。
 エグザスがフランのいる部屋に通されたとき、フランは微笑んでいた。それはエグザスにとって幸運だった。
 ちょうどサワノバが来ていて、四大リエラの主たちが、フランのために祝福の力を寄せてくれると話していた。フランは嬉しそうだった。それが、フランの支えになるならば良いと思う。世界がフランを支えてくれるなら……
 だが、それは、真に奔放なる者からフランを解き放つことにはならないから。
 エグザスはただ挨拶をして、それだけで退出した。
 分の悪い賭けであることはわかっていた。

「道を開けてくれ」
 後悔はしないと約束して、エグザスは旅立った。
 羽ばたく想いが作った、この世界の影の中へ。
 そこは、強い願いが力になる場所……


■世界は回る――その往路に■
 四大リエラの主たちを集めるという作業において難関はどこにあったかと言えば、土のティベロンに囚われた寮長アルフレッドであっただろうか。大地の理は動かぬこととして、不動の態度を貫く彼は、真実正しかったのか。
 “探求者”ミリーは、まずアルフレッドを問い質しに行った。
「少々、お訊ねしたいことがあるのじゃがの」
「私に? なんだろう?」
 動かぬと言っても、座り込みをしているとかいうわけではない。普通の生活を普通に送っている。それで十分動きすぎだと思うくらいにはアルフレッドは日々働いていた。それを捕まえて、ミリーは訊ねた。
「自らの理とは、どのように自覚できるのじゃろう?」
 問われてアルフレッドは、えっ、という顔を見せた。
「いや……それは師匠の教えなので」
 困惑した様子で、何もせず悟れるものではないと答える。アルフレッドだけが悟れて、他が悟れぬという理屈はない。
「では、必ずしもそれが正しいとは限らんのじゃな?」
「正しいと思う、そう私は信じているが」
「頑固になりすぎてはおらんかのう。人助けくらい、してもよかろうよ。呼ばれておるのじゃろう?」
「それは……」
 アルフレッドは目を伏せる。
「過ぎたるは及ばざるが如しじゃな。今は、調和を求められておる。調和というものは中庸じゃ。行き過ぎてもいかん」
 むろん逆ももちろんいかん、とミリーは言った。大して時間をかけた話ではなかった。
 だが……それから程なく、サワノバの四人を集めようという席に、アルフレッドも出席する旨の連絡があった。

 それから、ミリーはルーのところを訪ねた。ちょうどラックとリーヴァ、そして細雪が“夢の罪人”アリシアの背中を押して、ルーから離してどこかへ行くところだった。ルーは少し複雑な顔をして、クレアは気にしていないと明るく言っていた。シーナも少し困った顔をして……
 ミリーには何があったかわからないが、気まずいところへ来てしまったことだけはわかる。タイミングが悪かったかもしれないと、考え込んだ。タイミングは重要だ。聞いてもらえる話も聞いてもらえないこともある。
 実際にミリーの言わんとしていたことは、内容的にはアリシアの言ったことと同じであった。ただしアリシアに問題があった部分は、クレアが傷つく真実を、またルーがどう答えたとしてもクレアを傷つけるような回答しか出せないことを訊いたことにある。
 だからルーが口を開く前に、リーヴァとラックは彼女たちの前からアリシアを引き離すことにした。本当のことを言えば人は傷つくということがわからない子どもを諭す時間は、多分なかった。ならば、それが手っ取り早い方法だ。
 ミリーが近づきあぐねているところで、先にルーがミリーに気づいたようだった。
「ううむ、取り込み中にすまんのう。またの機会……にしたいところじゃが、あまり時間もないようじゃ。わしの話を聞くだけ聞いてはくれんかの」
 サウルから色々話は聞いていることをミリーは前置きして、ルーの推し進めるエイリアの実験がもう必要ないのではないかと告げた。
「あれじゃな、クレアは成長した。もう、続けなくても大丈夫なんじゃないかのう。続けるほうが不自然になったものを続けているから、理に合わぬと言われるのではないかの」
 言葉を選び損ねたら、アリシアの二の舞だ。
「そんなこと……!」
 ルーは顔を曇らせる。だが少し悩んだのち……それを打ち消すように、クレアが答えた。
「うん。私なら平気。まだ、不安がないわけじゃないけど……頑張れると思う」
 薬を減らして、最後にはなくする。それがクレアの願いでもあるから。
「クレア」
「おお、おぬしがそう言ってくれるのが一番ありがたいかもしれん。誰も、おぬしを傷つけたいと思っているわけではないのじゃ」
 止めろと言われたのは新規の実験で、継続のものを止めろとまでは言われていない。なのでクレアについては止めなくても良いのだが、先にあるそれがなくなれば、もう後続を続けるにも限界はあるだろうとは考えられる。
「まあ、聞いてくれればよい。それからのう……今、寮長のところにも行ってきたのじゃが。あちらには、極端に頑固じゃから中庸が良いと言うてきた。それで思うのじゃが、ルー、おぬしも極端に頑固ではないかの。しかも、どうにも立場やらなんやらにがんじがらめじゃ」
 それでは自由たる風の理に反すると言われてもやはり仕方がないかと。
「ありのままには生きていけぬか。望むままにというわけではないぞ……あるべき姿でじゃ。良いではないか、学園長が生徒の一人でも。何か困ることがあるかの? 正体をさらすと、安全ではないからじゃろか?」
 自由に、ありのままに。望みは望みのままに。多分、本質的にはルーは『自由に生きる』ことは不向ではないはずだった。今は縛られていても……本当に囚われた者なら、きっと革命云々などということも考えはすまい。それは、自由な発想がもたらしたものだろうから。ならばそれにも囚われず、自由に。
 言うだけ言って、ミリーはそそくさと立ち去ってきた。ラックたちが戻ってくれば、やっぱり摘み出される気がしたからだった。

 それから、ミリーはレアンを訪ねた。できればルーから何か答が欲しかったところだが、残念ながらそういう状況ではなかったと言わざるを得ない。レアンに言えるとしたら、クレアの言葉くらいだろうか。
 クレアが頑張ると言っているのだから、レアンにだって頑張ってもらわねば困る。友愛を象徴する水のアークシェイルの主が、破壊活動をしていてはしまらない……生産的な活動に、これからは従事してもらうのが良いだろうと。
 許されるなら、たとえばアルメイスの講師など。非道なことのないように監視もできて一石二鳥だろう。レアンも激しいことをし、激しいことを言うけれど、本質的には情の厚い男なのはわかっている。
 そう思ってサウルの屋敷を訪れて、ミリーはレアンへの面会を申し込んだ。
 二階に案内してくれたのは、連理だった。
 二人で階段を登り、レアンのいる部屋の前に立ち。
「レアン、客じゃ。入るぞえ」
 レアン目当ての客は多く、連理ももう慣れっこになっていたというのはあるだろう。ノックもせずに扉を開けた。
 すると……
 先客がいた。
 人型の自存型を含めて、五人。
 ただし玄関は通ってきていない。
「なんじゃ、おぬしらは……」
 それはいわゆる侵入者である。窓から入ってきたようだった。ただし、子どもを含む学生が中心だった。
 時間を少し巻き戻して、侵入者たちにその視線を移すのならば。
「後はここを登るだけや」
 当然のごとく……ラジェッタを抱いたルオーが鉤に繋いだロープを窓縁に引っ掛けたものを引っ張って、そこを登ろうという。
「ラジェッタちゃん、首にしっかり捕まっててや」
「いや、俺が先にいく」
 だがそう言って、ウォルガがロープを取った。そして先に壁を二階までよじ登り……レアンは、やっぱり前と同じように窓を開けたのである。その後ろにルオーとラジェッタたちが続いて。最後にセラが窓から侵入を果たして、中に入りきった。
 その後、すぐには特に騒ぎになるでもなく。
 それを……彼らが中に入ってしばらくまで……やっぱりランドは見ていたが、侵入者の意図は掴めなかった。組み合わせも奇妙だが、窓から侵入しなくたってあの顔ぶれなら問題なく正面から入れるはずだったので。
 それでも気になったので、ランドは玄関に回った。一応、サウルには話をしておこうかと。
 その頃、ミリーと連理が階段を登っていた、ということになる。
 中に入って、ルオーは開口一番に言った。
「一緒に来てくれへんか、レアン。あんたの力が要るんや」
 ラジェッタを連れて行って、そして戻ってくるために。
「……嫌だと言っても引きずってでも連れてくけどな」
 ルオーの言ったそれが、この侵入のすべてであり真実である。
「説明はしたはずだ……! たくさん連れては」
「お邪魔ならば、私は参りません。でも、絶対に戻ってくると約束してくださいね……あなたはまだ、このアルメイスと帝国に必要な人ですから」
 セラがそう言い。ラジェッタとルオーの荷物らしい鞄を代わりに持ったウォルガも同じように続けた。
 そして、ウォルガはラジェッタにリュックを背負わせ、ルオーの分をそちらに渡し。
「気をつけて行っておいで。ちゃんと帰ってくるんだぜ」
 ラジェッタを頭を撫でて。ラジェッタは、うん、とうなずく。
「……悪い、無理矢理はよくないのはわかってる、わかってるけどな」
 もっと話し合って、ウォルガはラジェッタのために一番良い方法を取りたかった。だが、いくつかの状況と条件が……それを最善のものにしなかった。あちらを立てればこちらが立たぬなら、何を立てるかやっぱり選ばなくてはならない。
「レアン、客じゃ。入るぞえ」
 そこで扉が開いた。
「なんじゃ、おぬしらは……」
 ルオーはラジェッタの手を引いて、レアンに駆け寄る。
「動いたらあかんで! レアンは俺が預かった! メルっ」
「メル君……!」
 呼ばれたのはエイムの顔をした自存型リエラだ。その能力は、少し有名かもしれない。
「預かったって……ま、待たんか! レアンが居ねば、どうなるんじゃ、後五日後にはじゃな」
 連理は再び予知し、それは関係者の間には伝えられていた。イルズマリの帰還と……アルディエルの出現について。それは奔放なる者の帰還でもある。
 ルオーの耳には届いただろうか。それは疑問だった。言い終わる前に、レアンとルオー、そしてラジェッタとメルの姿は消えていたので。
 レアンは聞かされていたはずで、知っていたはずだったが、しかし。
「なんてことじゃ……」
 四人の消えた空間を見つめて、連理はつぶやいた。
 そこへ、ランドから話を聞いたサウルもやってきた。
「何があったんだい、いったい……?」
 セラはサウルに微笑みかけた。このためにここに残ったのだと言っても、良かった。
「レアン・クルセアード様の身柄は、私どもがお預かりいたしました」
「は?」
 さすがのサウルも一瞬では理解できなかったか、少し間の抜けた声で聞き返す。
 セラはごく冷静に繰り返した。
「ですから……レアン様を誘拐したと、申し上げましたのですわ」


「すまへんな、ラジェッタちゃん。大丈夫か?」
「へいき、だいじょうぶ」
 行きに壁をよじ登った理由は、ラジェッタの体力を温存するためだった。逃亡時に転移で一気に引き離して、追っ手を振り切るために。以前にはエイムが相当補助していたのだろうが、今の……メルに変わって、運べる量も距離も格段に落ちた。それでも、まだ制御も甘い初等部の子の普通以上ではあるが。
 そこからセラの用意してくれた切符と通行証を使って、即座にアルメイスを出る。出るつもりだった。
 しかしレアンが一緒に来てくれなければ、ここから先に進む意味はないのだ。行かないのではなく行けないと言うのならば、無理矢理にでも。と言っても転移で飛び続けることができないなら、強制力は弱い。
「おまえたち……」
 まだサウルの屋敷に近い路上に出て、困惑のままにレアンは二人を見た。ルオーも見返す。
「これ以上、無理矢理あんたを運ぶ方法はあらへん。だから、こっから先はついてきてもらわなあかん」
「考え直すんだ……俺が言っても説得力がないか」
 こういうことにおいてでは自分の言葉にさほど重みがないことを、レアンも理解しているだろうか。サウルの屋敷に留まっている間、散々色々な者がレアンを叱りに来ている。レアンの事情や心情を深く理解している者からまったく理解していない者まで、様々ではあったが。
「これ着てや」
 そんな説得の言葉には無反応に、ルオーは鞄の中から帽子とコートを出す。
「あんたは脅されて付いてくんや、心配あらへん。親友の大切な忘れ形見を守らなあかんから、仕方ないんや。じゃ、そういうことやから」
 ルオーも望んで死ぬ気はなかったから、レアンを連れて行けるかどうかは重要だった。これに失敗したら、ラジェッタを無事に帰すためには自分を賭けなくてはならない状況も十分に出てくる。
「……俺は行ってもいい、結局俺は帝国とは疎遠な運命だったのかもしれん。だがこんなことをしたら、おまえや残った奴は」
「ええんや、俺はラジェッタちゃんに約束したんや。絶対連れてったるって……な? だからあんたが来てくれなくても、どうにかして行く。そのかわり、すごく危険や。ラジェッタちゃんも俺も、戻って来れへんかもわからん」
 それでもええんか? と、ルオーはレアンに訊いた。レアンは自分が脅されているのだということに、やはり一瞬気が付かなかった。この誘拐は変則的過ぎたので。
 だが、考えてみれば理解できる。
 行くしかないのだと、そう思って。
「五日で帰ってこれるだろうかな……」
 約束の日のことを思った。


 レアン・クルセアード誘拐。
 公式には公表されなかったが、関係者の……特に期日の迫っていた会談の関係者へはサウルから連絡がいった。それでも犯人については伏せられていて、事件そのものについても口止めがなされていた。
 現実にはサウルにはまったく捜索する意志はなく、その行動もおざなりだったのだが。戻ってくる気があるなら、戻ってくる。戻ってこないなら、その気がないのだ。誰にどう脅されようとも。それは初めからわかっていたことだ。
 それでも誘拐されたということにしてあるのは、むりやりに連れていくという選択をした犯人たちへの敬意だろうか。戻ってこなければ自身が困窮することになるとしても、そんなことは知らぬ気に、サウルは涼しい顔でいた。母方の血と教育のせいか自己保身の欲が薄く、それでその身を心配する者には叱られるわけだが、反省はいつも活かされない。
 そんな中、何人かサウルの屋敷に入ったまま行方が知れなくなった生徒がいる……そんな噂がちらほら流れていたが、具体的なものではなかった。
 とりあえず看板だけが『鋭意捜索中』であるとのままに、連理が予知し、サワノバがお膳立てをした席の日がやってくる。
 サワノバの手元にはあらかじめ祝福を受けたハンカチなどがあったけれど……できれば当日までにレアンに帰ってきてほしかった。
 そんな期待を裏切るかのように、当日はやってくる。
 会場はサウルの屋敷であることには変わりはない。イルズマリの帰還とアルディエルの出現は、同時と予知された。アルディエルの出現があれば、奔放なる者もまた現れる。それがその日であるという予知ならば……多分周囲に人は少ないほうがいい。
 そしてその予知の示す物は、その日までには、彼の者の出現を抑える状況が成り立たぬということでもある。それが永遠になのか、ただほんの少し間に合わないだけなのかは、そこからは窺いしれない。
 ただ少し間に合わないだけならば、再びイルズマリには返ってもらう。イルが傷付くところを見るフランは辛いかもしれないが……時間稼ぎなのだから。そう、フランの近くでひっそりとそのときを待っていたエドウィンとラシーネは考えていた。
 その答は、その日が来て、そして……


■世界は回る――その復路に■
『えろうすんまへん、もう国境だなんて気が付かなくて』
 ルオーはレイドベックの国境にほど近い森の中で、近くに住むという狩人に呼び止められて……楼国の言葉と身振り手振りだけで答えていた。
 旅人であるとは伝わっているはずだったが、それ以外は一つの話にずいぶんとかかっている。いや、時間をかけているのだ。
 レヴァンティアース帝国とレイドベック公国は、親しかったことも支配しあったこともないので、言葉があまり混ざり合っていない。それでも、楼国――レイトエルメシアよりは二国の言葉は近いだろうか。
 なのでその男に呼び止められたとき、何を問われているのかはルオーにもおぼろげにわかったのだが、迂闊な言葉では答えられなかった。レアンが口を開こうとしたのを止めて、楼国の言葉でぺらぺら喋りだす。
 そして楼国の言葉で、ルオーは先に行くようにと二人に言った。ラジェッタにはともかく、レアンにはその意味もわかったようで。
「彼はレイトエルメシアから商用で来た方で、私は通訳です。それで、すみませんが……森の中に置き忘れてきてしまったものがあるので、ちょっと取りに行ってきます。彼はほとんど言葉がわからないので、それまで一緒に待っていてもらえませんか。誰か来ても、彼一人では事情が説明できませんので」
 そう狩人に流暢なレイドベック語で言って、レアンはラジェッタの手を引いて奥へ向かった。杖を突いて歩いていく通訳は、病気か怪我か……どちらにせよ、いかにも体を動かすのは辛そうに見えただろうか。
 浅くても異界を通るために、メルは置いてきた。だから本当に三人で、だから本当になんとしても帰らなくてはならなかった。
 ラジェッタは、ルオーのことを心配そうに振り返り振り返りとしていたが、すぐに森の中へと姿を消した。
 ルオーが自らの役目として課したことは、この善良そうな狩人をひきつけ続けること。善良であるがゆえに、ルオーたちと離れて里に戻ったときには、悪気なく国境近くの森に奇妙な他所者がいたことを語るだろう。おそらく、国境警備の兵士たちに。
 そのとき既に彼らが目的を果たしていれば逃げ切れるだろうが、そうでなかった場合にはここまできた目的を果たせなくなるかもしれない。
 だから、時間を稼がなくてはならなかった。
 ルオーはラジェッタの願いの叶う瞬間に立ち会えないことは残念だったが、ラジェッタが願いを叶えられなくなるのは残念どころではすまないと思っていたので、その自分に課した務めを全力で果たした。不幸中の幸いにも狩人は善良で、ルオーの意味のわからない言葉を熱心に聞いていた。
 それから、しばらくして……レアンとラジェッタが戻ってきた。ラジェッタはルオーが見えると駆け寄って抱きついたが、声は出さず、何も言わなかった。二つの祖国の仲が良くないことは知っているが、ルオーがレイドベックの言葉をよくわかってないのも知っているので、どちらの言葉で言えばいいのか判断できなかったのだろう。
「ずいぶんとなついてますな」
「……娘は、可愛がってもらっているので」
 レアンはそれを見てそう言った狩人に、そう答えた。
 ラジェッタが振り返る。
「おとうさん」
 合わせるように、そうレアンを呼んだ。
 狩人は若商人と通訳に不似合いな子どもを、それで通訳の子どもだと思っただろうか。それとも、やはり怪しい三人連れだと思っただろうか。それはもう、どこまでもわからなかったが。
 そこで狩人に礼を言い、三人は狩人と別れた。狩人の姿が見えなくなったなら、大急ぎで再び国境を越える準備をしなくてはならなかった。
「もう時間も足りない……少し長い距離を渡る。はぐれるなよ」
「わかっとる、俺はなんとしても付いてくさかいな。そっちはラジェッタちゃん離さんでくれよ……そんじゃ」
 ルオーはそれから、ラジェッタの前にしゃがんだ。これ以上はできないくらいの優しい顔をして。
「おかあさんに、渡してこれたんか?」
 ラジェッタは、ただ笑顔でうなずいた。
「ほな、帰ろっか」
「うん」
 ただ笑顔で……

 この先、きっと少女は信じることができるだろう。
 この世界では帰れなかった父と待ちきれなかった母が、出会えたことを。
 きっと一緒にいられることを。
 それが幻であっても。
 信じる力が――


 どれだけ彷徨っていたのか、エグザスにもわからなかった。時の感覚はなくなっていく。そこには時がないからだろうか。
 いや、そこまで奥にはたどり着けていなかった。そこはレアンの言うところのごく浅い淵。上も下もなく、ただ白く濁っていた。よく見知った世界の形が崩れてしまって、ただ前に進むための拠り所さえなくなってしまったからだ。進んでいるかどうかわからないから、時が流れているかどうかもわからない。
 奥へと向かおうとしても、どちらが奥なのかもわからなかった。ただ奥へと、ただ……アルディエルの元へと望むだけだ。
 あれを本当に消し去れば、フランは拠り代としての運命から解放される。
 それは不可能だと言われたことだったが。
 そのまま漂って、いつか執念だけになるのかもしれなかった。
 ――悪くない。
 そう思っているのが何なのか、エグザスはふと疑問に思った。まだそれはそこが浅いからだったのだろうか。
 悪くない。いや、この状況が良いはずはない。ならば偽りの感情か、あるいは誰か別のもののそれなのか。
 それに気づいても……何もできなかった。
 ――望むがいい。
 自分ではない誰かが、自分の中で思っている。
 ――その願いは、我を強くするだろう。
 ――その願いも、我を作る。
 ――我は己。
 ――我は。
「こっちだ」
 誰かの声が聞こえた気がして、はっとエグザスは振り返った。振り返ったつもりだった。ぐにゃりと乳白色の世界が歪んで、人影が見えた気がした。
「うわ、どこ行くんや、レアン! 行きにはこないなとこ通らへんかったやろ」
 ここで声がするなんて、音があるなんて、エグザスは初めて知った。
「はぐれるなよ! 急ぐんだ! もたもたしていると追いつかれる……逃げろ、おまえもだ!」
「せやけど――何が来とんのや」
 レアンの声ははっきりと、他の声は少しぼけて聞こえた。少なくとも、レアンはそこに居る。確かに居ると……そう思ったとき、ごく間近に人影は現れた。
 レアンが見え、ラジェッタが見え、それからルオーが見えた。
「わ! びっくりした……何もないとこから人かいな」
 あんた……と、ルオーにもエグザスが見えるようになったらしい。レアンは驚きはしなかった。気づいていたのだろう。先ほどおまえもだと言ったのは、おそらく自分にだとエグザスは理解した。
「……何が来る?」
 声が出るのだとも、そのとき初めて気が付いた。
「何に追われている……?」
 それはアルディエルか、あるいは奔放なる者か。前者であれば、と、やはり執念が問わせた。
「おまえには無理だ……諦めるんだ。やっぱり願いや思いだけで消えるほど、不確かな存在じゃない。可能ならば見てみたくなって手を貸したが……悪かった」
 願うだけで、それが叶うならば。だがやはり、そういうわけでもないのだろう。
「急ぐんだ……」
 乳白色の風が流れる。まわりは、先ほどよりも澱んではいなかった。
 だが意識を離すと、レアンたちの姿は霧にまかれて消えてしまいそうでもある。
「あれもまたリエラならば、やっぱり消しさることはできない。戦えば限りある存在のおまえが消えて、それでおしまいだ。消え失せるときには消した者も共に消える……どちらも居なかった、別の世界になるんだろう」
 それは理屈の上のことで、それを実証した者はいない。実証はできぬ仕組みになっている。実証はできぬが……
「メル君」
 ラジェッタが父の顔をした、新しいパートナーを呼んだ。
「どうしたんや、ラジェッタちゃん」
「ききたいことがあるの……きいてなかった」
 だから、帰らなくちゃ、と道を探すようにラジェッタはあたりを見回す。
「そうや、帰らへんとな。約束したし」
「そうだ、時間はない。追いつかれて化け物の餌にされても困るが、抜かれてアルディエルがあの娘のところに還る前に、俺たちも帰らないと」
 帰らなくては。
 誰かがそう言うたびに、白い霧が少し薄くなっていくようだった。
「アルディエルがフランのところに還るのか……?」
 ならば止めなくては。
 エグザスがそう思ったとき。
 白い世界に、三人の姿が消えた。いや、影は見えている。明るいほうへと動いている。
 それを追うように巨大な……本当に巨大な鳥の影が見えた。
 あれだ、と思う。
 レアンを追っているのか、ただフランのところに戻ろうとしているのか。どちらにせよ。
 いかに巨大であろうとも、あれを行かせてはならないと、ただそう思い。
 追いかけて、追いかけて――
 いつしか、世界は色彩を得た。目の回るこの感覚は、エグザスには二度目だった。
 不確かな世界は、少しだけ固さを取り戻して。
 それでも追いかけて。
 そこから更に、物理法則の支配する世界へ……


 ルーは歩いて、予定の時刻よりもずっと早くにサウルの屋敷を訪れた。
 二番目にきたのはアルフレッドだった。
 所在の明らかな三人のうちの最後はエリス。
 ルーが時間よりもずっと早くに来たのは話をするためだ。
「さて、今日で終われるのか、まだ続くのか……定かではないけれど。返事を聞かせてくれるのかい」
「……ええ」
 サウルは自ら出迎え、立場は悪化しているはずなのに、そう……明るく訊ねた。そして、ルーは決意があることを答える。
「おや、そうなのか。立ち話もなんだから、中へどうぞ」
 ルーが牙を剥くことを決めてきたなら、もう手遅れだ。サウルが穏やかなのは、かえってそのせいだったのかもしれない。少なくとも楽観的な性質ではない。
「エイリアの開発は停止するわ。もう、ダイネムの研究所にも連絡は出しました」
 ルーがそう言うとは、サウルは思っていなかったのかもしれない。
「疑問があるなら、確かめるのね」
「ああ、まあ、確認はするけど……いいのかい? 今ならひっくり返すことだってできただろうに」
「……良くわからない人ね。止めろって言ったのは、あなたでしょ? でも、勘違いしないで。止めることにしたのは、あなたに命じられたからやむなくじゃないわ」
 ルーは眉根を潜め、きつい表情を更にきつくする。大人しい顔しか知らなかったなら、ぎょっとするほど怖い顔だ。
「……それほど重要ではないかもしれないと思ったからよ」
 皇帝になるとかならぬとか、そんな話は言わない。そこまでまだ、ルーはサウルを信じることはできないが。だが何人もに忠告を受け、それが考えた結果だとだけを。
「大変結構なことだと思うよ。あとはまた、君が手段を間違えないこと祈るばかりだ」
「手段を……間違っていたつもりは……」
 ルーは顔を背ける。まだ晴々とした気分で、それを告げているわけではないのだろう。意地も残っているに違いない。それでも。
「まったく正しい手段なんてないのかもしれないが、より良い手段はあるはずさ……多分ね」
 サウルはそんなことは気にしないかのように、レアンが聞いたなら喜ぶだろうと言い。
「戻ってきたの?」
「いいや」
 ルーの問いに、あっさりとサウルは首を横に振って答えた。戻ってこなかったなら、それは素直にサウル自身の失策となる。ルーがつけいらなくても困ることに違いはないはずなのに、あっさりしたものだ。
 そして今は、フランに関わることを含めて様々困る者が現れるはずだったが……
 そのために、今日ここにルーも呼び出されたのだから。


 馬車がサウルの屋敷の前につき、ゆっくりした足取りでフランは再びその場所に降り立った。
 前に来たときには朦朧としていたが、今はそうでもなかった。
 自分のために何人も知恵を出し、支度をし、人を集めてくれたことは間違いなかった。
 それを信じてくれと言われて……今は信じて、ここにいる。
 人を信じられなくなってすべてを疑ったり、信じるしかないと思って盲目に信じたり、フランの弱さは見極めることができないことだった。今もそれはあまり変わらないのかもしれない。
 どうあがいても、フランには他の誰がどうなろうと関係ないとは言えなかったし、孤高には生きられない。ならば、やっぱり信じるしかないのだ。仮に裏切られても、それは自分に責任あることと思って。
 安心して信じていいのだと思える者たちが確かにいることは、フランにとって救いだったと言えるだろう。たとえ具体的には何の助けにもならなくとも……少しずつ積み重ねた優しい想いと、生きていても良いと言ってくれる者たちの存在が、今はフランを支えていた。
 ティルの言うとおり、信じることが力になるのなら……
「フラン嬢ちゃん、良く来てくれたのう」
 必要と思われる者はレアンを除いてすべて、先に到着していた。サワノバが出迎え、その場でハンカチをその手に握らせる。
「憶えておるかのう、フラン嬢ちゃんが刺繍してくれたハンカチじゃ。あのときは、フラン嬢ちゃんの賞品を目指して熾烈なデッドヒートじゃったの。手放すのは少々惜しいが……持ち主に還るのじゃからの、よしとするべきじゃろうて」
 四つの力の祝福はフランを守るか、気休めに過ぎないか……それも、もうじきわかるはずだった。
「これに世界の祝福をこめてもらったのじゃ。レアン殿は今はおらぬが、先にこれには祝福を与えていってくれた。これなら、いつでも持ち歩けるじゃろう? いつでも世界は嬢ちゃんと共にある……ああ、このハンカチで、わしも一緒じゃ。きっとフラン嬢ちゃんを守ろう」
 さあ中へ、とサワノバはフランの手を引いた。引かれるままに中に入ると、今回は一階の広いサロンで人が待っていた。ある程度フラン抜きでするような話は終わっているのか、穏やかな雰囲気が漂っていた。
 中心には、ルーとエリスと……今回は寮長アルフレッドもいる。元々エリスはルーの協力者で、アルフレッドは問題に関わることを極力避けて中立の立場でいたのだから、この三人の間で荒れるはずもないが。荒れる原因の主だったところは今不在の水のアークシェイルの主と、学園代表風のクロンドルの主の衝突が原因だ。
 だがそれも、ルーが幾人かの説得に応じて、一応はサウルとルーの間では当面の決着をみている。それがレアンにも了承されるなら……それで目に見える喧嘩はなくなるはずだ。わだかまりがすべてなくなるわけではなくとも。それ以上を望むのなら、もう少し時間をかけなくてはならないだろう。与えられた時間の中では、できる限りのところまでは果たしたと言えるだろうか。
 ともあれ、レアンが戻ってこないことには……
 このままレアンが帰ってこないのならばどうなるのだろうと、フランを心配する者たちは思っていた。世界の調和に、彼はやはり必要だろうと思った者も多かったのもある。実際にそのバランスが狂うまで荒れた大きな原因は、それなりに長いレアンと帝国との抗争にある。帝国と……だったものが、いつの間にかクロンドルとアルムの主たちとになって、それは決定的になったのだ。
 それがようやく終着しようというのに、肝心のレアンがいないなんて。今日のうちにはイルズマリも……アルディエルも還ってくるというのに。このまま、もしもフランが救われなかったなら。
 そんな厭世観が、じわじわとにじみだしはじめ……
「かりかりしないで待ちましょう。大丈夫です、きっと。悪い想像は良くないですよ、明るい気分で待ちましょう」
 そんな重くなりかけた雰囲気を、ティルが宥めたときだった。
 庭にどさりという音がした。
 何が、と誰もが振り返る。
 テラスのすぐ外。そこに……銀髪と黒髪の二人の男と、薄茶の髪の少女が倒れている。二人が少女を抱きかかえるようにして、庇って上から落ちてきたようだった。上……と言っても、二階からというわけではないが。
「レアン!」
「ラジェッタちゃん」
 テラスの戸を開け、何人かが走り出る。そのぎりぎりの帰還にほっとしたり、無責任さに怒りをおぼえたり、反応は様々だ。だが気にならない者は一人もいない。急いでもゆっくりでも、誰もがテラスに出て……
 最初に駆け寄ったセラとウォルガが、三人を引き起こしているところで……上空から影が射した。
 それはあまりに大きくて、多くの者がぎょっとした。何が、と空を見上げる。
 だが、見上げたときには巨大な影は消えうせ、少し小さな猛禽類みたいな鳥が逆光の中に羽ばたいている。
「…………」
 それは少しずつ降下してきて。
 誰もが息を飲んだ。『それ』は『誰』か。
 その後ろから、もう一人現れた。何もない空間から不意に現れ、そのまま落ちる。ただ執念が、空を切る間に手を伸ばさせた。
 落ちざまに翼を掴んで、鳥と人影は共に落下する。
「ぬぅ!」
「ぐ……!」
 落ちて呻いたエグザスは、それでも手は離さなかった。翼をばたつかせ、それに逃げられるまで。
「イル……?」
 呆然と、フランが呟く。
 それは初めての邂逅だったのかもしれない。
 銀色の燐光をまとった気高き鷹を、フランはフランとしては見たことはなかった。
 再びアルディエルは舞い上がる。
 時間はなかった。
 フランの手に確かに間に合ったのは、ハンカチが一枚……

 そんな一幕と同時進行で、幾人かは起き上がったレアンの元までたどり着いていた。そこにはサウルとルーも含まれている。
「あなたにただ理解してもらうだけでも大変なのに、時間さえもないなんて……これも高い次元からの妨害なのかしら。私たちは、やっぱり踊らされ続けるのかしら……反逆の呪いに」
 知らないはずもない、反逆の呪い。争うことが刻まれた言霊。
「今するべきは、そんな話やないやろ? ルー」
 時間がないことはわかっている。今、目に見えて。この次の瞬間にどんな大混乱や、地獄絵図があろうと不思議はない。
 ラックに促されて、ルーは手短にエイリア研究を凍結することをレアンに告げた。
「言いたいことはまだあるわ……でも、今は時間がない。事実だけを受け止めてちょうだい」
 実験を止めるという事実を、だ。それはまだ、ルーにとって完全に納得の選択ではない。新たな道にも、行く先に大きな不安はある。
 ルーが上からの改革を望まなかった理由は、救うべき者と共にあろうとしたからである。ルーがそういう面で不器用であることは否めない。だからエリスも最初は半ば無理矢理に引き込んだ……結果的にはエリスはルーに同調したわけだが、エリスは最初はルーとの決闘に負けて、半ば強制的にアルメイスに連れてこられている。
 貧民窟時代のエリスとはレアンが先に密かに交流があって、その強奪がもう一つの、レアンとルーの関係を大きくこじれさせた原因でもあった。やはりアルメイスは……ラウラ・ア・イスファル計画はすべてを力で奪っていくものだと、レアンに幾度目かの絶望と確信を与えたそれが。
 それもルーとレアンの間のわだかまりとして解決しなくてはならないことだったのかもしれないが……今となっては。ほとんど、当事者たちの胸に秘められてきたことだったので……ずいぶん昔に、一度エリスが片鱗を口にしたことがあるだけだ。
 ともあれ、人々と共に。新しい選択では、それはルーには叶わないかもしれないと思われた。他の者に言えば、きっと異なる意見も返ってこようが。ルーにはあまり現実的にも、良い道だとも思えなかったそれを、良いと思う者がまわりに多いのならば……
 だが今は、そんな話を悠長にしてはいられなかった。
 アルフレッドとエリスは、もうフランのところへ行っている。フランを心配してここまで来た者たちも、フランを囲んでいた。逃げる者はもういない……ここで逃げるなら、そもそもここに来てもいないだろう。ここはこうなるように約束された場所だ。
 落ちたときにルオーと共にラジェッタを庇って、したたかに体を打ち付けてまだ座り込んでいたレアンに、ルーは黙って手を差し出した。
 レアンはルーの顔を見返し、その手を取って立ち上がった。

 フランはエグザスのところまで来て、膝を突いた。頭上には大きくはない影がある。
 エグザスが何をしようとしていたかはフランにはわからなかったが、きっと自分のためにここに倒れているのだろうと、それだけはわかった。
 フランは頭上を見上げる。
 フランのまわりには、今日のこれに立ち会おうと思って来ていた者たちが、次々とやってきていた。だがまだ誰も何も言わないし、しない。
「イル」
 フランが呼ぶ。フランにとって、あれはイルなのだろう。
 フランに変化はない。それが小さな努力の積み重ねであるのか、還って来たばかりならばそういうものなのか、判断は付きにくかった。
「…………」
 迷うように、考えるように、それは声を出しあぐねているようだった。
 再び逆光の中で……銀色はもっと暗い影に変わったような気がした。
 そんな中で。
「あなたはイルズマリなの?」
 フラン以外で、それに最初に訊ねたのはラシーネだった。
「……いかにもそうである」
 イルズマリは答えた。
「私のことはわかる?」
 そして、次の問いには考え込んだ。
「申し訳ないが、今すぐには無理かもしれないのである」
 少しずつ降りてきたイルズマリは、いつもの茶色の羽をまとっていた。イルズマリは難しい顔をしている。何か懸命に思い出そうとしているように、考え込んで……
 その答にラシーネもまた、考え込んでいた。考え違いをしていたのかもしれないと……
 エイムのときに深淵への帰還によって喪失したのは『人だったエイム』で、イルズマリは『リエラだったイルズマリ』だ。同じに考えてはいけなかったのかもしれない。
 ただ、今イルズマリが奇妙な迷いを見せているように、自存型リエラの深淵へ帰還の弊害は別にも存在するようだったが。
「……イル」
 フランが呼んだ。
「…………」
「イル」
「……フラウニー?」
 悩んだ末に、イルズマリは確かめるようにフランの名を呼んだ。先ほどから微妙な発言をしてはいるが、イルズマリは記憶がないわけではないようだった。それがかなり混乱しているようではあったが。
「フラウニーなのだな? フラウニーがいるのならば、ここはアルメイスなのだな? すまない、すまないフラウニー……」
 そしてその前まで、舞い降りてきた。
 それはやっぱり一瞬の邂逅かもしれなかった。フランがこうして目覚めていたなら、今までならばアルディエルも奔放なる者も、現れないはずだが……アルディエルは現れるという予知だ。
「……もう少しである……すまない、フラウニー」
「イル?」
「何を知っているの?」
 それでもラシーネは、イルズマリが知っていることには違いはないのではないかと、そう訊ねる。
「何を……」
 迷うようにイルズマリは呟いた。
「……それはすべてをである。そして何もわからぬ。すべてを知ると、それがいつのことだったのか、本当に自分のことであったのか、わからなくなるのである。おそらくは我々は、人と同じ言葉による思考力を得た瞬間に……すべてを捕らえる力を失うのだ」
 人がリエラと混ざることは、神に近づく階段を昇ること。だがリエラが人と混ざることは、その階段を降りることだ。その代わりに手にするものもあるが……
「人の思考力という枷は、すべてを正しく理解する力を奪う。器が小さくなると、すべては入りきらぬのだ」
 自存ではないリエラは、まさに異界の神。彼らは何も語らない。ただ、すべてを知っているだけだ。
 自存型のリエラは……もう神ではない。誰の想いに拠らずとも存在できるものは、もう神ではない。
「……すぐに要らぬものは忘れなくては、我を見失う。ときには要るものまでも忘れてしまう。フラウニー、すまなかったのである……」
「でも、知っているのね? 今は思い出したのね? アルディエルのことも」
「あのとき、喰らいつくしてしまえばよかった……」
 イルズマリは悔恨の表情を見せ、そして続けて。
「それは無理……喰らいつくすのであれば、それは私がイルズマリを。しかしイルズマリの存在すべてを消してしまったら、私も世界に消されてしまう。鬱陶しい法則です」
 全力で食い合わずにすむだけの、その存在を許しておけるだけの力があってこそ可能な、その状態。燐光が再びイルズマリを覆う。
「それに、共存に何の文句があると言うのでしょう」
 アルディエルが再び、そこにいた。
 すべてを生み出せる深淵で、人の命の軽さを知って。すべての時のある深淵で、人の心の持つ力を知った。そのアンバランスさに狂ったのか。それとも、これでなお正気なのか。
「我が血筋の子よ。そしてその仲間たちと……あと、原始の力の代理人よ。私が憎いですか?」
 強く願い望むそれが奔放なる者を産み落とし、奔放なる者の力となる。そして憎み想うそれさえも、その存在を確固たるものにする。
 たとえばロイドの仮説は根源的には当たっていたが……消し去ることは、もうできない。
 ただ、可能なことは。
「お願い……もう苦しめないで」
 フランはハンカチを胸に抱いて、そう呟いた。訴えるというほどに、言葉に力はなかったかもしれない。
「苦難が意志を産むのです。固き信念も燃える情熱も閃く感性も……そして意志こそが、人を強くし、人を先へと進ませるのですよ」
 人に与えられた神の持たざる物、それは向上心。その行く先に、進化がある。
 超えるべき、打倒するべき目標があるとき、人は飛躍的な速さで進化し強くなる。生き残るために……
 背中を丸めかけたフランの肩に、サワノバが手を置いた。
「どうか、祈ってやっておくれ。フラン嬢ちゃんのために」
 そして、約束通りにと四人に望む。
「四人だけではなく……みんなもだ。意志の強さが力になるのなら」
 ロイドは、自論を裏付けるものは得られなかった。だがそれでも……
「希望を持つんだ……フラン。きっと大丈夫だ。ほら……あいつがいるのに、君はまだ君のままだ」
 このまま大丈夫だと、エドウィンが言い。そしてルカは黙ってフランの隣に膝を突いた。
 フランも再び顔を上げた。
「そうです、強く心を持って……貴女が最初の一人ではない。貴女にも越えられるはずです、その呪いを」
 ティルは不可能なことはないと、そう囁く。
「……イル」
 フランはそう呼んだ。
「私のリエラはイルズマリで……あなたじゃない。私のところに還ってくるのはイルズマリで、あなたじゃない……」
 手を伸ばしたそこに、舞い降りてくる。
「……フラウニー」
 もう、燐光は放っていなかった。


 それから数日が経つ。
 アルメイスには、慌しいけれど普通の日々が戻ってきたように思えた。
 何日かに一度は、フューリアに覚醒したばかりの新入生が中央駅に降り立つ。
 更に数日が過ぎる。
 何事もなかったような顔で、やはり日常は通り過ぎていく。
 更に数日……
 時は流れる。
 アルメイスがなくなることもなく。
 日々は繰り返し、繰り返し。
 見えないところで何かが変わって、いくつかの約束が交わされて。
 生をかけた闘争で変わることを選ばずに、そうやって少しずつ良くなることを選んだのが誰だったのかは、記録には残らない。
 けれど、形は確かに刻まれていく。
 悠久の時の中の、その一瞬に。
 この悠久のアルメイスに……

参加者

“福音の姫巫女”神音 “飄然たる”ロイド
“天津風”リーヴァ “蒼盾”エドウィン
“怠惰な隠士”ジェダイト “白衣の悪魔”カズヤ
“探求者”ミリー “光炎の使い手”ノイマン
“翔ける者”アトリーズ “静なる護り手”リュート
“笑う道化”ラック “風曲の紡ぎ手”セラ
“双面姫”サラ “ぐうたら”ナギリエッタ
“闇司祭”アベル “紫紺の騎士”エグザス
“銀の飛跡”シルフィス “黒き疾風の”ウォルガ
“自称天才”ルビィ “待宵姫”シェラザード
“鍛冶職人”サワノバ “幼き魔女”アナスタシア
“六翼の”セラス “闇の輝星”ジーク
“銀晶”ランド “深緑の泉”円
“餽餓者”クロウ “闘う執事”セバスチャン
“抗う者”アルスキール “陽気な隠者”ラザルス
“蒼空の黔鎧”ソウマ “炎華の奏者”グリンダ
“拙き風使い”風見来生 “緑の涼風”シーナ
“貧乏学生”エンゲルス “猫忍”スルーティア
“七彩の奏咒”ルカ “のんびりや”キーウィ
“深藍の冬凪”柊 細雪 ラシーネ
“旋律の”プラチナム “轟轟たる爆轟”ルオー
“影使い”ティル “泡沫の夢”マーティ
“黒い学生”ガッツ “不完全な心”クレイ
“夢の中の姫”アリシア “春の魔女”織原 優真
“冒険BOY”テム “真白の闇姫”連理
“演奏家”エリオ “縁側の姫君”橙子