ラウラ・ア・イスファル〜その過去と未来【2】
「さあ……本当に何を視たんだい?」
 落ち着いて言ってごらんと、サウルは促した。
 混乱から立ち直った“真白の闇姫”連理は、一瞬の間に脳裏を駆け巡った予知を整理して、少しずつ語り始めた。
「戦いが見えたのじゃ。だが、何が戦っておったのかはわからぬ」
「それは、戦争のような戦いだった?」
「違うのう。対立する二つの何者かの闘いじゃ」
「では、何故、それが誰なのかわからないんだい?」
「何か……水のような膜を通して見ておるかのように、ぼんやりと姿がゆらめいておったからじゃ。影のようでもあったの。そして速かった。どちらも、暴れまわっているかのようじゃった」
 連理は視えた物の細部を思い出そうとして……頭を振った。
「ここと同じ世界ではないのかもしれぬ。その2体は、アルメイスの街並みの上に被さるように見えておった。じゃが、街並みが壊れていたわけではない……視えたままの大きさであれば、恐ろしく巨大じゃ……リエラじゃろうか」
「どのような形だった……?」
「片方は……龍のようじゃった。片方は、形が更に鮮明ではなかった。人型じゃとは思うがのう」
 幻のような闘いだった。現実感の薄い予知。
「……それが何故、君をあんなにも混乱させたんだろう?」
 サウルは誘導するように問いを続ける。
「……恐ろしかったからじゃ。理屈ではないの」
「恐ろしかった?」
「そうじゃ。アルメイスが破壊されていたわけではないぞ。じゃがの……」
 アルメイスが窒息していくような気がした。
 ゆるゆると。
「他には?」
 見えすぎたと、連理は予知の際に言った。
 では他に視えた物はなかったかと、サウルは問う。
「あったと思う。じゃが、もう思い出せぬ。一瞬の間に……見えすぎたのじゃ」
 ああ……と、連理は考え込んだ末に、一つだけ思い出したと言った。
「雨が降っておった……」
「雨?」
「そうじゃ、アルメイスの街に」

 サウルは、自ら双樹会と学園長に宛てて手紙をしたためると言った。何が起こるかはわからないが、何か起こるかもしれないことを隠すこともないと。不思議な予知の話は、知る人ぞ知るところとなるようだった。
「君の見たそれは、ラウラ・ア・イスファルに関わる未来の一つなんだろうね」
 そう言って。
 だが、予知の時は、何事もなく通り過ぎていった。
 元々、さほど先の未来ではなかったはずだった。
 当たったのか、当たらなかったのか、それはわからない。
 だが、アルメイスの上空に怪しい影が現れることはなかった。
 見えなかったのかもしれない。
 ただ……
 雨は降った。
 かねてよりアルメイスを覆っていた厚い重い雲から、雨が降り始めた。
 耐えかねたように降り出した雨は、しばらく降ってはやみ。やんでは降って。
 徐々にその時間を長くしていくようだった。
 それが今年の初雪に変わったのは、いつであったか。
 雪は、アルメイスに降り積もっていく。
 静かに……
 アルメイスをやさしく絞め殺すかのように。


 幼い少女は、まだ声の主を探していた。
 今は雪の降る空を見上げる。そして街を見回す。
「どこ……?」
 戸惑うような呟きが、その唇から漏れる。
「どこにいるの……?」
 見えていたものを、見失ったかのように。
 それでも少女は探し続ける。
 それは、ラウラ・ア・イスファル――ではない。
 それは、純粋なる声の源。
 それは、純粋なる魂の声。
 それは……
 その悲しみを慰めるために。

 赤毛の少女は、まだ秘密の場所を探していた。
 ラウラ・ア・イスファル。それは、力を与えてくれる場所。伝説ですらない、約束の場所。
 それでも、強い意志をもって、彼女はラウラ・ア・イスファルを探していた。
 彼女と共にいた者は、遠からず悟っただろう。彼女は、声の主を探しているのではないことを。
 ただ、純粋なる力を。
 ただ、純粋なる未来を。
 ただ……
 自分の弱さを脱ぎ捨てんがために。

「ラウラ・ア・イスファルはどこなのだ!?」
 もちろん、ランカークもまたラウラ・ア・イスファルを探し続けていた。
 幾らかの協力者を得て、あちこちを手広く探している。ランカークにとって最大の幸運は、フランの参加だろうか。
 フランは最近、酷く眠たがるようになって、積極的に……という参加ではなかったが、体調の良いときには調べ物を中心に協力していた。

 彼らは探し続ける……彼らの望むものを。
 手がかりは、かつて噂に語られた場所。
 手がかりは、目撃談が減少しつつある……彼の幽霊。
 雪は降り始めた。
 砂時計の砂が落ちるように。
 最後の一粒へ向けて……時は流れ始めたのかもしれない。


 雪は降り続ける。
「いつまで降り続けるつもりかしら」
 学園長は報告書に目を通すと、そうコメントした。マイヤは、それに静かに答える。
「例年よりも初雪は早く、また降雪量は増加の傾向にあります。今年はじきに雪かきと雪下ろしが必要になりましょう」
「雪かきと雪下ろし……ね。言葉だけなら、のどかだわ」
「今のところ対症療法以外に、方法があるわけではありませんので……早い対策は必要かと」
「そうね。中心街路は人を雇って、早めに対応して。住人にも今年は早めに雪害対策を始めるように注意を呼びかけてちょうだい」
 少し考えた後……学園長は付け足した。
「それと……雪は食べないように、と」
「は……しかし、水を飲まないわけにはいきませんが」
「わかってるわ。気休め程度よ。でもね」
 その後は続けず、学園長は学生会長を見つめた。
「御心のままに。殿下」
 ――マイヤに、否と言う権利はない。
「……殿下、もしも、ラウラ・ア・イスファルの真実に触れる者が現れたときには……どうなさいますか?」
 マイヤの問いに、学園長は心配要らないと首を振った。
「たどり着けはしないでしょう。仮にたどり着けても、それは所詮ラウラ・ア・イスファルの過去の幻」
 そのとき、どう答えるべきかは決まっていると。
「新たなラウラ・ア・イスファルに、気付く者はいないわ」
 それは誰も知らない……レアン・クルセアードさえも、と。
 知っているのは……
「私と、あなたと……エリスだけよ」

 ほどなく学生たちと街の住人のすべてに布告されたものは、二つ。
 屋根の雪下ろしと、道の雪かきの奨励。
 それから……
 「雪を食べてはいけない」という不思議な禁止令だった。

 雪は降る。
 降り積もる……

 雪は降る。
 ただ静かに降り続ける。
 “銀の飛跡”シルフィスは、灰色に垂れ込めた空を見上げ、小さく呟いた。
「きっと止めてみせるわ」
 雪を止める……何を言っているのだと、笑う者もいるかもしれない。だが、シルフィスは本気だった。
「きっと、あなたを止めてみせるわ」
 ラウラ・ア・イスファルの呼び声……それは彼の根源からの呼び声だと、シルフィスは気づいたからだ。
 アークシェイルと共に暴走する、レアン・クルセアードの。
「あなたに応えられるのは誰……? レアン。私が応えられるなら、いいのだけど」
 シルフィスは、握った拳に力をこめる。
「孤独を悲しむ心が……あなたにもあったのね」
 かつてアルメイスに生き、そして強く憎んだ反逆者の想いの欠片が、今、アルメイスを覆い尽くそうとしている。この純白の雪は、いつ滅びの魔物に変わろうとも、おかしくはないのかもしれない。暴走する彼の者の悲しみが、臨界点に達したなら。
 見捨てるのも、諦めるのも、突き放すのも簡単だ。
 けれど、それではきっと誰も救われはしない。
 彼を、あるいは彼の心を救うことが――アルメイスを救う道。
「ねえ! 誰ならあなたを呼び戻せるの――?」
 白い世界に答えはなく、ただ、雪は降り続ける……

■幾千万の真実■
 サウルの新しい屋敷には、客が引きも切らずに訪れていた。
 最初の客人は、“春の魔女”織原 優真。優真は予知をした“真白の闇姫”連理と共にいたので、その思うところは、連理の予知のことだった。
「家事の手伝い? 無理しなくてもいいよ、僕、一応一人暮らしもできるし」
 雇うと言っていた使用人はまだ見つかっていないが、一通りはできるのだとサウルは言った。実際に今、優真にお茶を淹れているのはサウル自身だ。
「無理なんてありません。ただ」
「ただ?」
「その代わり、お訊ねしたいことがあるんです」
 音も立てずに白いティーカップが優真と彼女のリエラの前に置かれた。そのティーカップから視線を上げれば、サウルの顔がある。目が合うと、サウルはにこりと微笑んだ。
「なんだい? 聞きたいことって」
 それは人当たりの良い微笑みだが……他人に心を許さぬ仮面にも、優真には見えた。
 サウルから信用されるためには、どうしたら良いのだろうと優真は思う。微笑みの仮面が嫌だと言うのではなく、ただ心配になるのだ。一歩を踏み込める者がいないのなら、それはどんなにか孤独ではないかと心配になる。
「お聞きしたいのは、ラウラ・ア・イスファルの真実です」
 そのとき、空気がひんやりとした気がした。
 優真は……望む形ではないかもしれなかったが、そのとき一歩を踏み出したのかもしれなかった。
「誰の真実が聞きたいのかな」
 サウルは、まだ微笑んでいた。
「え?」
「真実は千差万別だ。一人一人にあるものだよ。『ラウラ・ア・イスファルが人の革新を意味する』ということだって、偽りじゃない。ごく一般的に大多数には、これは真実だ。それでも敢えて、『真実』を問うのなら……他の誰かの真実を探しているんだろう? 君は誰の真実を……いや、誰の秘密を暴きたいの?」
 誰の。そして、何故。
 サウルは問い返し、優真は混乱した。
 真実を問うとき、多くの場合、それが他人の真実を問われているとは思わない。だが、サウルは違った。
「それが小さくても大きくても、秘密の末路は転落だ。僕はたくさんの転落を見てきたよ。誰かの転落を望む者が、誰かの秘密を求めるところも。誰かの秘密を興味本位で求めた者が、誰かを転落させるところも」
 静かに、サウルは続ける。もう、微笑んではいなかった。
「転落から身を守ろうと、暴かれる側も抵抗する。そして、争い合う。それが生き残るための戦いなら、誰が悪いんだと思う?」
 秘密を持った者が悪いのか、秘密を暴く者が悪いのか……
「僕は、秘密を暴く仕事をしていた。望んで就いた仕事ではなかったが、ある意味、僕には、それしか生きる術がない」
 サウルは、ぼそりと呟いた。独り言のように。
 サウルの声はその一瞬、消え入りそうなほどにか細くなったが、次の瞬間には元に戻った。微笑みと共に。
「……だからね、僕はたくさんの秘密を知っている。きっと、君の望みにも応えられるだろう。さあ。君は誰の転落を望むのかな」
 ただし、その条件は『誰の真実』を望むのかを明らかにすること。
 この意地の悪い問いが、いつものサウルから発せられているとは優真には思えなかった。静かだが、圧倒的な威圧感がその二人きりの部屋に満ちている。サウルは微笑みながら、怒っているのだ。逃げ出したい気持ちを抑えて、優真は答えた。
「あなたの……真実を」
 ここで答えられなかったなら、二度とサウルが自分に心を許す日は来ないこともわかったので。
「僕の? 僕の秘密なんて知っても、何の得にもならないよ?」
 ようやくサウルは椅子を引き、腰を下ろした。優真の前に座って、サウルは静かに目を伏せる。
 緊張した雰囲気が、かすかに和らいだ。
「連理さんの予知を聞いたとき、サウルさんは戦争のような戦いかとおっしゃいました。そう思われたのは、心当たりがあったのかと」
 はぐらかさないで答えてほしいと、ここに来るまでは思っていたけれど、今の優真にはそれは言えなかった。
「あれは、なんとなくさ。ただ、そういう可能性もあるかもしれないというだけのことだよ」
「なんとなく?」
「そう。明確に理由があったわけじゃない」
 だが、そう言われて信じられるはずもない。優真の顔にそれが表れたのを、サウルはくすりと笑った。いつものサウルに戻りつつある。
「まあ、信じられないだろうから、説明しよう。そういう約束だね。僕にとってのラウラ・ア・イスファルは、強いて言うのなら、祖父の考えだ」
「お祖父さま?」
「そう。先代の皇帝だね」
「え」
 優真はその辺りはまったく知らなかったので、少し驚きの顔を見せる。
「フィルローの進化論に、祖父がかぶれてた……って言うと、不敬罪に問われそうだけど。当時フューリアの力は衰え、限りなくエリアに近づいていた。フューリアそのものが滅びに向かっていると認識した祖父アルフォンス三世は、フューリアを保護する計画を立てた。どんなに科学が発展し、それによる強力な軍隊が作れても、優秀なフューリア一人に敵わないと」
 そこで、サウルは一度言葉を切って、ティーカップを傾ける。
「祖父の立てた保護計画に従って作られたのが、この学園都市アルメイスだ。それらを含むフューリア保護計画の全体につけられていた名前が」
 『ラウラ・ア・イスファル計画』と言う。
「フューリア保護計画に関わることは、諸外国から重要施設・重要事項として狙われている。だから、それ自体が戦争と直結していると言っていいだろう。……ここまででいいかな」
 だからラウラ・ア・イスファルに関わる予知が戦いならば、それが戦争であっても何も不思議はない。そういう理屈だった。
「満足したかい?」
 優真に否とは言えなかった。問いの答としては十分な気がする。
「……はい」
 そして、優真もお茶に口をつけた。
「片付けますね」
 立ち上がって、ワゴンにテーブルのポットとカップを戻す。
「別に、無理はしなくていいよ。本当に」
「いいえ、約束ですから。三ヶ月間……お手伝いに来ますね」
 優真はワゴンを押して、部屋を出ていった。

 ――よろしいのですか、サウル様。
 サウル一人になったテラスに、かすかな声が届く。サウルにだけ、聞こえるように。
 ――あなたが言ったとわかれば。
「いいんだよ。あの子が、『僕の真実』を知りたいと言ったんだ。僕は嘘は吐かない主義だからね。前に聞いた以上の真実を望まれたのなら、答えるさ」
 ――しかし、ラウラ・ア・イスファル計画は極秘の部分も多いもの。あちらに知られれば、逆手に取られて、あなたが処分を受けることも。
「……いいんだ。そのときは、僕が転落する番になったというだけのことだよ」

「サゥルー」
 優真がテラスのほうに戻ってくると、玄関から声がした。次の客人は“夢への誘人”アリシアであるようだった。
 サウルがテラスから廊下に出て玄関に向かうので、優真もそれについていくと……玄関にいたのはアリシアだけではなかった。両横に、“翔ける者”アトリーズと“幼き魔女”アナスタシアがいる。後から聞けば、アナスタシアは偶然に玄関先で二人と出会ったが、アトリーズとアリシアはほとんどの道程を一緒に来たようだった。出発点は、クレアのところだ。
「いらっしゃい、3人揃ってどうしたんだい?」
「アリシァ、サゥルに聞きたいことがあるんだょ」
 あがってもいい? と聞きながら、アリシアはもう中にあがりこんでいる。
「テラスにどうぞ。お茶を淹れよう」
 今まで茶を飲んでいたことはおくびにも出さず、サウルは微笑む。優真はまたキッチンへ茶の支度をしにいって、三人はサンルーム様になったテラスに通された。
「クレァがね、最近変なんだょ」
 しかしどこをどう変だと言うのか、舌足らずのアリシアは上手く説明できなかった。力へのこだわりが、変だと言いたいのだが。
「クレアは力を求めて探し回っているんだ」
 見かねてアトリーズが、説明しなおす。アトリーズは元々同じことを聞きにきたも同然だったので、アリシアが手間取っているのを寛容に待つのは辛かった。
「放っておいていいのか?」
 サウルは、何故そんなことを聞かれるのかわからないという顔を見せた。
「好きにすればいいと思うよ。止める必要は感じないね」
「ぃぃの?」
 アリシアにとってもアトリーズにとっても、この答は予想から少し外れていたようだ。
「自分が何を望むのか、彼女は理解しているんだろう? ならば止めるのは野暮じゃないかな。君たちだって、自分で選んでここに来てる。それが正しくても間違っていても、意味があってもなくても、誰かの都合で止められたら嫌じゃない?」
 望むままにさせてあげればどうだいと、サウルは微笑む。二人には、その真意はわからなかった。
 優真がお茶を運んでくる。お茶が全員の前に配られた後。
「だが……彼女が関わってきた事件を自分なりに整理すると、彼女は『後天的に作られたフューリア』のように思う」
 先に立ち直ったのは、アトリーズだった。そして核心と思うことを口にする。
 アリシア、アナスタシア、優真の視線がアトリーズに集まる。
「それにルーも一緒だ。クレアの近くにいれば、危害が及ぶ可能性もあるんじゃないか?」
 サウルは、口元を歪めた。微笑んでいるというよりは嘲笑うかのように。
「ルーは平気だよ」
 その言葉に違和感を感じて、アトリーズはサウルを見返した。
「僕たちが心配することはないさ」
「そうなのかい? まあ、確かにルーのイシュリアルバスターは最強クラスのリエラだと聞くけど」
 聞く側の困惑は深まるばかりだ。
「そうだ、あれの属性は知ってるかい? 四大リエラとばかり言うけれど、まだ他にもリエラの属性はある。四大リエラと肩を並べるようなリエラもあるのかな」
 困惑ついでに、アトリーズは話を変える。変えたつもりだった。
「……あると言えばある、かな。光と闇は、大昔にはあったらしいよ……長らく世に出てないけどね。後は、知らないなあ。無属性って機械の形をしてることが多いよね。これは、近世になって増えたんだよ。昔は金属塊みたいな物が多くて、数も少なかったんだって」
「イシュリアルバスターも砲門とか持ってなかったっけ。じゃあ、あれも無属性か」
 アトリーズが納得しかかったところで、サウルは首を横に振った。
「いいや。あれは風だよ」
 そこで、話は途切れた。本日通算五人目になる客人が、そのとき玄関に到着したからだった。
 次の訪問者は、“紫紺の騎士”エグザスだった。テラスまで通されて、先客がいたことに少々考え込む顔を見せた。
「お邪魔する……話があるならば、お先にどうぞ」
 アトリーズとアリシアの話は終わっていたので、譲られたのはアナスタシアだ。
「では、先にさせてもらうとするかのう。サウルよ、聞きたいことがあるじゃがな」
 そうして切り出した話は、連理の予知の話だった。
「ァナ、なんでそんなこと知ってるの?」
「聞いたからじゃが」
 アリシアに誰にと言われて、アナスタシアは目の前のサウルを指した。
 サウルは割と積極的に、連理の話をばら撒いている。それ自体はアリシアも知っていたが、それは予想よりも広範囲に渡っているようだ。
 ばら撒くのにも理由はあるだろう。予知を知れば、『ラウラ・ア・イスファル』と今降っている雪が何らかの関係があると思う者もいるだろう。そしていくらかの噂話を知っていれば、雪とレアンが関係あることにも気がつく。
 すべてを順序よく繋げていけば、形は見えてくる。
「予知の映像に表れたものの正体、おぬしはわかっておるのではないか? ……と、素直に聞いても答えてはくれぬじゃろな」
 おやおや、とサウルは肩をすくめた。
「僕は嘘は吐かないし、聞かれたことには答えるよ。ただ、嘘を吐きたくないから、不確定なことのコメントは避けたいけどね」
「では、聞いたら答えてくれるのかの?」
「考えてることはあるけど、確証がない。だから勘弁してほしいな」
 ほれみぃ、と今度はアナスタシアが肩をすくめる。
「まあ、よいわ。それを聞きたいと思うて、ここに来たのではないからの。おぬしには見届け人になってもらいたい」
「何を見届けるんだい?」
「これから予知に現れた影のうち、人型のほうに交信を求める。その見届けじゃ」
「今から……ここで?」
 サウルは奇妙な顔をした。
「……ここからじゃ無理だと思うけど」
 そして確かに、交信は成らなかった。
 アナスタシアがいくら呼びかけても、返答はない。
 途中でサウルが雪の積もった庭へのガラス戸を開放したが、それでも結果は変わらなかった。
「その辺にしておくといい。疲れるよ」
 そして雪が吹き込まぬように再び戸を閉めながら、サウルは言う。
「……やはり、おぬしは知っておるのじゃろうな」
「交信が届きにくい相手っていうのは、いるものだよ。元々どこにでも誰にでも届くものじゃないからね。そういう場合は経路になる強い接点が必要なのさ……相手と最も近い場所、とかね」
「場所が悪いかの」
 アナスタシアはガラス戸の外を見た。
「雪、よく降るね……なんかこわぃ」
 アリシアも、外を見ている。
 それでも今日は、昨日よりも雪勢は弱い。だから客人たちが、多くこの日にサウルの屋敷を訪ねてきたのもあるだろう。
 先ほどよりもまたわずかながら、雪の勢いは弱くなっていた。それは一時的なものにすぎないだろうが……時に雪の勢いは強くなり、弱くなり……しかし、通して見れば徐々に、確実に、降雪量は増えていっていた。

 その後にサウルの屋敷へ来たのは、引っ越し祝いを持ってきた“闇司祭”アベルと“炎華の奏者”グリンダ。用件はそれぞれに別で、訪ねて来たタイミングも少しずれている。雪の小降りになった隙に、二人はやってきた。
 入れ替わりに、アリシアとアトリーズ、アナスタシアの三人が帰る。見送った優真にアリシアは何を勘違いしたのか、サウルのことは諦める、サウルを頼むと言い残して行ったが、それは余談だ。
 人数的には大きく変わりないが、お茶を淹れては片付けてを繰り返す優真の仕事は結構大変だ。
 正直に言えば人が減るのを待っていたエグザスは、アベルとグリンダの来訪時には油断すれば溜息が漏れそうだった。先の三人が帰ってくれたのを機に、意を決して喋ることにする。
「私は、お訊ねしたいことがあって参ったのだが」
 サウルを訪ねてくる者の多くは、何かを訊きにきている。余談ではあるが、サウルが質問にまともに答えないと思う者は、訊きかたに工夫が必要だ。
 遠まわしに聞いたなら、サウルも遠まわしにしか答えない。比喩には比喩で、たとえにはたとえで。嘘はなくとも、それがすべてではないことはある。これはサウルにとっては習慣のようなものだ。何を思い何を聞きたいのかを誤りの余地なく明確にしなくては、目的の答を明確には得られないだろう。
 サウルは答えられぬものには答えたくない、答えられぬと言う。答えられるものには質問に従って……質問が曖昧ならば同じレベルで曖昧に、明確ならば同じレベルで明確に答える。
 実際にはかなりどぎつい質問にも、サウルは割と平然と答えるのだが、それが目に見える機会は今まであまりなかったかもしれない。それを知ることとなったのはエグザスと、この後に話をしたアベルとグリンダ、そして居合わせた優真だけだ。
「レディに水の気配を止めろと言われたので」
 エグザスは向かい合うサウルの表情を窺った。他の者には誰のことかわからずとも、帝国と関係の深いサウルには、きっとレディと呼ばれる者が誰なのかわかるだろうと踏んでのことだ。
「何か方法をご存知であれば、ご教授いただきたい」
 サウルは珍しく考え込んでいた。
「難しい質問をしてくるなあ」
「ご存知ではない?」
「いいや……あると言えばあるけれど、それができる人がどこの誰だかはわからない」
 サウルは腕組みをし、本当に考え込んでいる様子だった。
「レディは、ご機嫌斜めのようだね」
 ひとまずエグザスは、サウルの切り返した問いにうなずいた。機嫌が良さそうには、確かに見えなかった。
 それと共に、意味が正しく通じただろうことも悟る。ただ、その答は少々わかりにくい形ではあった。いや、わかりやす過ぎると言うべきか。水というのがアークシェイルであり、暴走しているレアンであることを、サウルはあまり隠そうとはしなかったからだ。
「端的に方法をと言うのなら、一つ目は『高天の儀を行う』だ。だがこれは無理だと思う。暦が合わないし、それ以前に可能な力のある者が足りない。今回は相手が悪いからね。ただ失敗するならまだしも、最悪の事態を招く可能性も高い。そのときのことを考えると、僕は勧めないな」
 次にと挙げたものは、もう少し現実的だとサウルは考えているようだった。
「直近に実例があるので、安定させることを第一に考えるならこちらだと思う。『接点に最も適切な場所を選び、彼を求める者が彼に呼びかけ、自我を取り戻させる』。分離するにしろ、融合するにしろ、自我を取り戻せば安定はする。少なくとも雪は……いったんは止むだろう。降雪のような拡散状態は収縮し、形をとるために凝固するはずだ。自我の戻った彼が、どう動くかという問題はあるが。それは別の問題だね」
 グリンダはそれを聞きながら、自分がもう質問する意味がなくなったことを感じていた。聞きにきたことの答は、今言われてしまったようだ。
 それは、街に流れた噂について。ラウラ・ア・イスファルの声に応えるように、ラウラ・ア・イスファルを探し当てるように、意図的に流された噂。それはレアンの幽霊に辿り着き、そして今もなお声を探す者たちを生み出した。
 レアンと思われる幽霊の出没と、噂の示す物はぴたりと重なる。
 ならばその噂自体が、レアンを探し当てるために、レアンの状況を知らせるために、流されたものと見るのが妥当だと……グリンダは考えた。
 そして、今、その目的の一つは語られたらしい。『レアンを暴走から引き戻すために』と。
「……ちょっといいかしら?」
 これが答ならば、グリンダが聞きたかったことは後一つ。
「なんだい?」
 割り込んできたグリンダにエグザスは視線を向けたが、文句を言うことはなかった。
「ごめんなさいね、話し中に割り込んじゃって……一つだけ、すぐ終わるから」
 グリンダは辺りを見回す。そして、サウルに訊ねた。
「ちょっと質問なんだけど。噂を流してた人って、この屋敷にいるのかしら?」
 サウルは少し驚いたような顔を見せて。
「いや」
 肩をすくめた。
「今はいないよ」
 なんでもないことのように、そう答える。
 グリンダも、なんでもないことのように、そう、とうなずいた。
「レアンを呼び戻すのね?」
「そうだね。だが誰がどのようにすれば呼び戻せるのか、僕にはわからない。そういう人が努力してくれることを祈るしかないんだ」
「他に、方法は?」
 納得するグリンダの隣で、エグザスは更に訊ねる。エグザスが行えることでないと、事実上、どんな答にも意味はないのだ。エグザスの目的はレアンをどうにかすることではなく、『レディ』に望まれたことを叶えることなのだから。
「対症療法でいいなら、後一つあると思うけど……でも僕はそれに反対するから」
「何か、リスクが?」
「レディをアルメイスから引き離せば、感じる『気配』は薄くなると思うよ。だが正直、打つ手がなくなったときにはレディにお出ましいただくことになると思うのでね……早い段階で、自分に関係ないと思っていただきたくない。もちろん、お呼び立てせずに済むなら、それにこしたことはないが……」
 ある意味において、フランの中に棲むものは切り札であるようだった。最強のリエラの暴走が止めようもなくなったとき、滅びるに任せる前にある一手。
「レディはアークシェイルをお嫌いだから、一度離して、また近づけるなどしたら大層お怒りになるだろうね。助力を望めないどころか、災厄を増やしてしまいかねない……まあ、これ以上はやめておこう。レディの心を傷つけるだろうからね」
 だが、副作用も甚大であるようだ。
「こうしておこうか。罪なき多数の命が失われるかもしれないと知っていて、防ぐ努力を怠ったなら、僕が罪に問われるから」
 だから、一つの方法ではあっても反対する、と。
「やはり交信を行い、接触を図るのが妥当だということだな」
 そうまとめたのは、アベルだった。
「しかし今は、レアンは自我が揺らいでいるということなのか。それでは、ただ交信しても返事はないな」
 交信と共に自我を引き戻せないなら、望む返答もない。
「そうだね。さて……グリンダ君はもういいのかな。じゃあ、アベル君は」
 ただの引越し祝いならばと、サウルは話を切り上げる素振りを見せる。
「お話したいことはあるのだが。人前でよろしいのですかな」
「人前ではできない話なのかい?」
「人前でして、困るのは私ではないが……」
「僕は困らないよ? 誰の前で君が何を言っても」
 アベルは顔をしかめた。密談でなくても良いという、サウルの言葉を真に受けるべきか否かを数瞬で考える。
「話したいことがあるのなら、どうぞ。秘密の相談だというのなら、別に部屋を用意してもいいけど……それは僕の秘密ではないとは思うよ。僕は知られて困る秘密は持たないことにしているから」
 ただ、訊かれなければ語らないだけだと。秘密ではないのだから、それを盾に自分を脅すことはできないと……サウルの微笑みはそう言っているように思えた。
 確かにアベルが予測し語ろうとしていた話は、サウルの秘密ではない。それは、言わば帝国の秘密だ。
 サウルがエグザスとしていた、ここまでの話を考えても、確かにサウルは帝国の秘密を厳守するべき自分の秘密として捉えていないと見える。
 人前で言ってもかまわないというのは、どうも本気のようだ。だが、だからと言って……サウルが帝国に忠実でないという保障もなかった。一筋縄ではいかない匂いもする。ここに来るまでアベルが思っていたよりも、サウルはただ放蕩しているわけでも、傍観しているわけでもないようだった。
 アベルは意を決した。窮地に身を置くのも嫌いではない。
「クレアと……そしてレアン・クルセアードのことなのですが。レアンが今、暴走している話ははしょって良いですな。それを追っている中に、クレアがいる。彼女が迂闊にレアンに追いつき、逆鱗に触れ、貴重な実験体を失うことになってもよろしいのかと」
 アトリーズとアリシアのした話と、それは本質的には同じだ。だが、アベルのそれのほうが明瞭であった。それが差である。
 もっとも、やはり答の本質が変わるわけではなかったが。
「かまわない、というか、止めるべき責任者は僕ではない。僕としては……彼女も彼を呼び戻す一つの刺激にはなるだろうし、そのときには同時に抑止力も働くはずだ。無条件で暴走が加速することもないはずだから、大丈夫だ……と、言っておこう」
 サウルの返答は少しわかりにくかった。何か情報が抜け落ちていそうだということは、アベルにも見当がつく。だが、今はまだそれが何なのかはわからなかった。
「かまわないと。あれは大切な実験体ではないのですかな? 彼女らへのフューリア能力の開発……人体実験が、レアンが叛逆した原因でしょうに」
 当時に何が行われていたか、今それが継続しているのか。クレアのためにどれだけの命を使い捨てたのか、正確なところはアベルとてわからない。だが、レアンが道を踏み外したときには確かにそれがあったのだろう。
 それは、高潔さゆえの叛逆。アベルにはくだらないと思うことだが、それを大事とする者も多いことはアベルも知っている。
「それは先代の計画責任者と、先々代の憲兵隊長官の時代の話だ。負の遺産が積み残されてきたことは事実だが、僕は何らかの形で清算するべきだと思っている。多分、これはいい機会だ」
「清算ですか」
「そうだね。未来のためにも、問題を先送りにするのは程々にするべきじゃないかな」
 まずは、レアンを常態に戻す。あるいは……
「すべてを闇に葬っても、すべてを白日の下に晒しても、僕はかまわない。だから君が……君たちが誰に何を言おうとかまわないよ。どこに重きをおくかを決めぬまま、迂闊なことをすれば引き返せなくなることもあることをわかっているなら……ね。問題ない。ただどちらにしろ、ここで一度清算するのがいいとだけは思っている」
 サウルは微笑んだ。いつもの微笑みで。
「行って、君たちがするべきと思うことをするといい」
 サウルは優真のほうを見た。
「君も、行きたいなら行っていいよ。さっきも言ったけど、別に口止めすることは何もない。誰に何を言ってもかまわない」
 戸口に控えていた優真も、サウルを見た。
「私……お手伝いが終われば、声の主を探しに行こうと思っていました。あれはレアンさんなんですね。悲しんでいるのは……」
 一度に話を聞きすぎて、まだ整理しきれない部分も多い。ただ優真は、悲しい気がした。その気持ちに顔を顰める。
「何が悲しいのかは、彼から聞くといい。本人にしかわからないこともあるさ」
 そのためには、やはりレアンをこの現実へ引き戻さなくてはならない。行くというのは、そういうことだ。
「僕も、今まで彼と対話したいと思わなかったわけじゃない。だが、彼にとって帝国は敵だ。僕は彼の心に刺さった棘である計画から見れば部外者なわけだが、彼にしてみれば、ひとまとめで敵だ。だから、僕には彼は救えない。だが一人で戦わなくても良いのだと、そう思わせてあげられたなら……彼が立ち直り、話を聴こうとしてくれるなら、そのときには僕にもできることがあるだろう」
 ……外に雪は降り続いていた。

「そろそろ……かな」
 サウルは誰もいなくなった部屋で呟く。
 インテリアの一つのゲーム盤に、駒を置いて。
「まだかかるか」
 敵の王将を追い詰めていく途中のようだった。
「やっぱり先に、ナイトをどうにかしないといけないかな……」


■白銀の街■
 ふうっと“拙き風使い”風見来生が息を吐くと、視界は真っ白に染まった。この時期のアルメイスには当然のことだが、雪が止まないので例年よりも冷え込みは厳しい。
 来生は学園側の奨励に応えて、いつも自分が使う道を中心に雪かきをしていた。一日で終わるものではなく、また一回すれば良いものでもない。道から除けきれない分は踏み固めて、歩きやすくする。
 通りすがる者や一緒に雪かきをする者と話をしながら、それは来生の日常になろうとしていた。
「お疲れ様です。お茶をどうぞです」
 そこへ“深緑の泉”円がお茶の入ったカップを差し出す。
「あ、私も持ってきてるですよ……でもいただきますね」
 来生はそれを受け取り、口をつけた。
「そちらもどうぞです」
 次に円は、近くで雪を掻いていた“静なる護り手”リュートを呼んだ。休憩時間にしようと、他にも“光炎の使い手”ノイマンなどが集まってくる。
「ありがとうございます。雪……すごいですね。掻いても掻いても降ってくる」
 リュートは空を見上げた。帽子を取って、上に載った雪を払う。
「調べ物に行きたいけど、きりがない」
 円はリュートの言葉に、意識を向けた。
「何か新しいお話でもありました?」
「いいえ……まあ、雪を食べてもなんともならないってことくらいですかね?」
 リュートは苦笑いを浮かべ、来生に同意を求める。
「そうですね。たくさん食べれば、お腹を壊すと思いますけど」
 来生も同じように苦笑いを浮かべた。“黒い学生”ガッツや“福音の姫巫女”神音など、何人か雪を食べた者がいたが、味も変わらないと思うし別になんともないということだった。禁止されたことをしようというのは真面目なリュートや来生には考えられないことだったが、天邪鬼はいる。何かが起こることを期待したのだろうが、何も起こらなかったらしい。
「それはそうみたいですね……マイヤさんも、水を飲むんだから同じことだって言ってました」
「会長さんが? でも、禁止を決めたのは学園長さんですものね」
 円や“陽気な隠者”ラザルス、“深藍の冬凪”柊 細雪などが色々訊いても、マイヤの答はそれほど神経質になる必要はないというものだった。禁止の理由は、学園長の決めたことだからとだけ。
 “憂鬱な策士”フィリップはマイヤの前で雪を食べて見せたが、マイヤはフィリップが食べ終わってから、やんわりと「決まりへの違反は良くない」ことを諭しただけだ。一回目は見逃すが、何度もマイヤの前で繰り返すなら、立場的に処罰しなくてはならなくなると……
 それは違反したことを処分する話であって、食べたフィリップを心配するものではない。
 結局マイヤに直裁に訊ねて、何かを得られた者はいなかった。
 その後フィリップは、そんな無駄なことをしているならと雪掻きの計画指揮を取りたいと言いに来ていた“銀晶”ランドに叱られて、雪掻きの労働力として連れていかれた。ラザルスもだ。ラザルスは他にやることがあると抵抗していたが、そちらにはランドの相棒の“泡沫の夢”マーティの力が必要で、力を借りる引き替えに結局しばらく雪掻きの労働力になることになったらしい。
 別件でそのときマイヤのところにきていたのは“待宵姫”シェラザードもだったが、こちらも得るものなくランドに連れて行かれた。
「それで、これが雪掻きの計画表だそうです……一ヶ所に重なって無駄にならないように気をつけてほしいと」
 円はすでに有志として雪掻きに参加している者たちに、これを届ける名目で、ランドの魔手を逃れてきたわけだ。
「わかりましたです、参考にさせていただきますね」
 来生はそれを受け取って、ポケットにしまった。
「もう少し除けたら、固めましょうか」
 それから、また雪掻きを再開する。
 雪と上手く付き合うことは、北国の人間に必要なことだ。それが、どんな雪であっても。


 雪を食べるな。
 その禁止令がおかしいと思った者は多かったが、普通に調べてこれぞという情報が得られた者はいなかった。そこには雪と幽霊として目撃されたレアンを結びつけ、自分の中で答にたどり着いた者と、そうでない者の差があったと言えるだろう。こんな禁止令は帝国の歴史をすべて遡っても前例はなく、“繰り返されし悪夢”神楽とユリシア=コールハートの調査で得られるものはなかった。彼らに協力していた“影使い”ティルにしても、雪は溶けてもただの水と差異はないという結論に至る。リエラの力を持っているのではないかという予測さえ、実証することはできなかった。
 他にこのことについて調べていたのは“闘う執事”セバスチャンがいたが、こちらはまだ遣り甲斐という意味においてマシだっただろうか。雪に交信をしても何も得られるものはなかったが、駅で列車の車掌に話を聞いた折には、雪食禁止もこの初冬の豪雪もアルメイスだけの話だということがわかったからだ。
 それから遅まきながら雪とレアンの関係を疑うと、セバスチャンはエリスのところへと向かった。
 エリスの隣に“ぐうたら”ナギリエッタがいることはいつものこととして、セバスチャンがエリスを見つけたときには、普段はその近くで見ない顔もいっしょにいた。そのとき、エリスと話をしていたのは“双面姫”サラだ。話に入ってはいなかったが“黒き疾風の”ウォルガもいっしょだった。
「……雪を食べるなというのは、この雪がアークシェイルだからではと思うのですが、いかがでしょう?」
 聞こえてきたサラの声から、どうやら先を越されたらしいことがセバスチャンにもわかる。答が聞けるなら、それで良いのかもしれないが。
「アークシェイルは水の化身のリエラよ。どこにでもいると言えば、いるわ……もとよりレアンでも誰でも、誰かが望むのなら……どこにでもいるものよ」
 逆に言えば、どこにもいない。その存在を捕らえることはできない。だから、交信はできない……選ばれた、ただ一人しか。
「なるほど。では、何か変調はございませんか? エリス様とアルム様や、他の四大リエラに」
 セバスチャンは、そこに踏み込んだ。
「……別に何もないわ」
 何かあっても、エリスは語るまい。そうウォルガは思いながら聞いていた。
「では、もう一つ。エリス様は力を求める者たちをどうお考えで? 肯定的ではないようですが」
 エリスはそこで黙った。セバスチャンを見返す表情から、答は読み取れない。
「もう行こぅょ、エリス」
 不快感を見せたのはナギリエッタのほうだ。
「失礼、しかし」
「どうして『エリスが力を求めることに肯定的でない』なんて思ったのかが、わからないな」
 そこでウォルガが間に入った。それは、セバスチャンのためのフォローではないが。何も聞きはしないが、エリスに勝手についていくと決めたウォルガは、せめてエリスが不快にならないようにと気を遣っていた。ならばここで口を挟まないのは、嘘だろう。
 エリス自らが力のために、日々鍛錬しているのは確かだ。自らが研鑽し、他のフューリアと競い合い、力を高めること。『ラウラ・ア・イスファルはアルメイスのことである』というエリスの答も、それで一応筋は通る。どこかに他の意味を、隠しているのかもしれないが……
 少なくとも、エリスが力を求めることに否定的というのは見当違いというものだ。そうウォルガに指摘されると、セバスチャンには返す言葉がない。
「……自分のこと理解してくれない人と話すのは誰だって辛いょ?」
 ナギリエッタに促されるままに、エリスは歩き出した。ウォルガもいっしょに歩き出す。
 残ったのはサラと、失敗を悟って佇むセバスチャンだけだった。

 そこからナギリエッタの意向で三人が向かったのは、研究所エリアのほうへだった。
 途中で、雪掻きを続けていた来生と出会う。そこで呼び止められ、お茶のお裾分けを貰い。
「雪掻き、お疲れ様ね」
 立場が逆だろうと、エリスが来生を労った。
「どちらに行かれるんです?」
 必要なことだからと穏やかに謙遜して、来生は通りかかった一行の行き先を訊ねる。
「ぇえと、研究所に……アルバイトで行くんだょ」
 本当は、ラウラ・ア・イスファルの真実を確かめに。
「ああ、そうですね。あちらも雪掻きしないといけませんね」
「うん……」
 少し気まずげに、ナギリエッタはうなずく。
 『ラウラ・ア・イスファルがアルメイスのことだ』と言ったエリスの言葉を、ナギリエッタは自分なりに解釈した。それは、このアルメイスで『人の革新』を実験か何かで進めているという意味ではないか……と。
 火のないところに煙は立たない。そして実験と、噂に囁かれた中で、幽霊が現れたとか言う場所で、もっとも関わり深いと思われる場所は研究所だ。だから。
 そこに、確かめに行く。
「お気をつけて」
 来生が手を振って見送る姿に、ナギリエッタは少し罪悪感を感じた。多分それは、来生に嘘を吐いたことにではなく……エリスが何も言わずについてくるからかもしれない。
 ナギリエッタも、ここにきて力が欲しいと思うようになっていた。それは、それで叶わぬ願いが叶うのならと。だから、それを求めに行こうとしている。
 それは見当違いな願いかもしれなかったが……
「どぅして、一緒に来るの?」
 エリスに問えない問いを、ナギリエッタは代わりにウォルガに訊いた。
「答に一番近そうだから」
 端的なウォルガの答に、ナギリエッタは真剣な顔で自分の顔を手の平で撫でた。
 あのときエリスは口篭った。それは内容を知ると危険だったからかもしれない……とも考えて、ナギリエッタは、自分の考えを誰にも言わなかった。
 エリスにも。
 なのに、ばれている。顔に出てしまっていたのだろうかと。
「ナギリエッタ」
「エリス……」
 呼ばれてナギリエッタは振り返る。
「さっきあなたたちが言ったように、私は力を求めることを間違っているとは思わないわ。私もラーナ教徒だから。私には、父なるリーラスにたどり着くのは、まだまだ先だけど……それらが間違っているなら、過去と今の私も否定されてしまう。……ただ、ナギリエッタ、力を得る方法を間違わないでね」
「方法?」
「そう……方法を。否定されるとしたら……結果ではないわ。方法、なのよ」
 エリスは目を伏せる。
 ウォルガは自分の口の中で、エリスの言葉を反芻してみた。やはり、エリスは知っているのだろう、と思いながら。


■夢から覚めても■
 雪が降っているせいもあるだろうか。外を歩き回るのは、寒いし歩きにくい。そもそも冬は、屋内で活動する者が増える季節ではある。
 その日も、図書館には多くの者が詰め掛けていた。
「馬鹿言え。フランを帝都に帰すなんて、何考えてるんだ、おまえ」
 図書館と言えば、フラン。フランも調子の良いときには調べ物の手伝いをしている。だがひどく眠たがり、役に立たないときもままあった。
 それが心配だと言って、“七彩の奏咒”ルカはフランを帝都に帰そうと言う。フランの調子が悪いのは、急に寒くなったのが原因だと言うのだ。調べ物も、フランの実家の資料のほうが良いと。
 しかし自称天才”ルビィは、そんなことに意味はないという主張だった。フランが眠たがるのにもルビィには自分なりの解釈があったので、ルカの説得はまったく受け付けなかった。
 当然ランカークもだ。ランカークにとって、重要なことは、自己の欲望の実現である。これを見せ掛けだけでも満たさなくては、ランカークというハードルを越えることはできないのだ。ランカークには、フランにいいところを見せる気になっていたわけで……
 こちらは、いわゆる自己中心的思考に基づいて、ルカの説得を受け付けなかった。ランカークを説得するには『ランカークを説得する方法』がある。多くの者が納得する正攻法や正論では、ランカークは説得されない。それがどれほど正しくて、多数が感涙にむせぶような達人の素晴らしい演説でも、だ。
 その横では、すっかりランカークのお付きの人と化している“貧乏学生”エンゲルスが、ハラハラとルカと、ランカーク、そしてルビィの対立を見守っていた。エンゲルス的にはランカークの元からの従者にその役目を担ってほしいというのが本音だったが、ランカークによると従者はエンゲルスとは顔を合わせることなく『ラウラ・ア・イスファル探し』の外回りに行ってしまったらしいので、結局自分でランカークのお守りをする羽目となっていた。エンゲルス自身にも調べ物があったが、それはどうやらまるっきり見当違いだったようなので……本当にランカークのお守りが、彼に残された最大にして最も重要な仕事だった。
 その場にはエグザスもいたが……彼はどちらに味方するべきか迷っていたようだ。エグザスはサウルから解答を一つ聞き出していたわけで、ルカの方法に意味があることもわかっている。だが仮にサウルの意向はどうでもいいとしても……彼の言葉を信じるのなら、フランを守る代わりに最悪他を犠牲にする方法となる可能性もあるわけだ。
 自分に何もできないだけでも、フランは心を痛めるだろう。それが、できたかもしれないのにしなかったと気づいたとき……そのときかのレディはともかく、フランの心は耐えられるだろうか。その答は、明らかに否だ。
「このまま、倒れながら調査したほうが良いのでしょうか?」
 ルカは説得を続けているが……
「……レディフランのお気持ち次第だ。レディフランはどうなさりたいだろうか」
 迷った末に、エグザスはフランに答を委ねた。
「私……皆さんが私のこと、足手まといで、ご迷惑だとおっしゃるのでしたら、実家に帰ります。でも、そうでないのでしたら」
 そう言うフランは、悲しそうに見えた。
 それでルカは、自分の失策を悟る。フランは確かにルカの主張に説得されているけれど、
それはフランを深く傷つけての説得となったのだ。人をどこかから遠ざける主張には細心の注意を払わなければ、多くの場合にこうなる。フランが傷つきやすいことは、ルカも知っていたはずで……
「見ろ! レディフランを迷惑だなどという、おまえがここを立ち去るがいい!」
 ランカークが勝ち誇る。その倣岸な態度にエンゲルスは慌てる。だが、この程度ならば今更というところだろうか。
 ルカは失策を悟った以上、主張するべきことはなかった。強硬に続けたなら、そのままフランとの溝は埋めがたいものになっただろう。
「迷惑だなんて、あるはずないだろ!? 困ったときには俺様を頼ってくれよ」
 ルビィが胸を張る。
「話は終わったかのう」
 その後ろに、“探求者”ミリーが立った。
「おぬしら、ここをどこじゃと思っておる。騒ぐなら、外へ行くがよい」
「ご、ごめんなさい」
 ミリーに叱られて、フランが慌てて謝る。
「わかっていればよい。さて、この本を次に読みたいと言うておったのは誰じゃったかの?」
 誰かが順番待ちしていたはずだと、ミリーは自分の後ろに立つリュートの手にある本を示した。リュートの手には、それで殴れば間違いなく殴殺できそうな厚みの本が重そうに抱えられている。それは小さくて力のなさそうなミリーには、一人ではとても持てなさそうなほどのもの。ミリーが見つけ、その厚みに難儀していたところで、同じ本を探していたリュートに助けてもらったわけだった。
 二人でその本を閲覧し……さて、次は誰だったかということだった。
「僕かな?」
「俺様かな? 何の本だ?」
 “冒険BOY”テムとルビィが訊くと、ミリーは本のタイトルを答えた。
「『リエラ名鑑』じゃな」
 それなら違うとテムもルビィも答えると同時に、違うところから返答があった。
「それは、こっちじゃ。読み終わったのなら、次は妾に貸してたも」
 “演奏家”エリオ、“暇人”カルロと共にテーブルを囲んでいた、連理だ。優真も一緒だった。
 ミリーはリュートと共に、そちらのテーブルに向かった。その後ろから一人、追うように同じテーブルに向かう者がいる。“六翼の”セラスだ。
「ではこれじゃ」
 ミリーがテーブルに、どすんと本を置く。
「ミリーよ、中は読んだのかの」
 その厚みに、連理は少し眉を顰めた。
「一通りは目を通したが……全部は記憶しておらぬ。なんじゃ?」
「ついでに教えてゆけ。四大リエラの項はどのあたりじゃ?」
 今度はミリーのほうが眉を顰めたが、黙って厚みのある本の中から一発でその1ページを引き当てて見せた。
「さすがじゃの」
「調べたものが同じじゃからな」
 ミリーもリュートも、探したものは四大リエラの姿だ。
 降り続く雪に戦うリエラ。それは強大な水のリエラの悪夢的な暴走を想起させる。
 それが終わるのを待って……意味がなくなったかもと思いながら、セラスは連理を覗き込んだ。
「ねえ、予知の話を聞いたんだけど、ちょっといいかな」
 そして、イルベール札を四種、見せる。
「ここに描かれているリエラと、闘ってたリエラって似てない?」
「……その蛇のようなリエラは、似ておると言えなくもないのぅ」
 人型の方はよくわからないという答だ。
「そもそも焦点が合わず、ぼけすぎておったからの」
 そう言いながら見ているのは、アルム札である。似ていると言ったのは、アークシェイル札。
 その間に、エリオとカルロは開かれたページを眺めていた。
「こっちのほうが絵が大きいよ、連理」
 呼ばれて、連理は視線を移す。
「クロンドルは違うようじゃ。雲と思えば……違うとも言い切れんが。絵を見る限り雪雲ではなく、夏の雷雲に近かろう。やはり、考えられるものはアークシェイルじゃろうな。ティベロンは外して良かろう。後は……アルムじゃが」
 ミリーは本の解説をして、自分でも考えこんだ。連理も同じように考えていた。
「アルムとは限らんじゃろうな」
 エリオは連理の予知が見えにくかった理由について、意見があるようだった。
「リエラの世界のことだから、よく見えなかったんじゃないか? 俺たちよりも高い次元の存在だから、把握できなかった……とかさ」
「そうじゃな、『向こう側』『異世界』『別世界』『霊界』……あるいは最近では『ラウラ・ア・イスファル』。呼びかたは様々じゃが、そこにおるのはアークシェイルやアルムばかりではない。魂の根源には……」
 ミリーはリエラの世界についての知識を語る。それに続けるように、連理がつぶやいた。
「魂の根源……ラーナ教の主神リーラスにも通ずるの。魂の根源の奥深く。それは己の深き潜在的意識とも言い換えられる。その、最後に応えるものは……」
 神か、あるいは。
「本からでは、形くらいしかわからんのう」
 連理は本を閉じた。
 アークシェイルはまさに水。不定形のリエラだと言う。最も巨大な姿では、確かに龍のような姿をとって目撃されたことがあるらしい。アークシェイルが不定形である以外にも、四大リエラは複数の姿を取ることがよくあるようだった。ティベロンは大樹かその加工物、あるいは女性の姿。アルムは巨大な鉄鬼兵か、燃え盛る炎の巨人。クロンドルは空に浮かぶ雲の塊、あるいは宙に浮く要塞の姿。
「そうなのかい? ラウラ・ア・イスファルは異世界のことなのか?」
 カルロは首を傾げる。それでは、自分の解釈とは違ってくる。
「ラウラ・ア・イスファルは人の革新……高みへの到達を示す言葉だ。そして、リエラは僕たちよりも高次の存在だとされている。なら、リエラを取り込むことで人は革新される……いや、取り込む行為そのものが、革新と呼ばれるんじゃないかな」
 ラウラ・ア・イスファルとは、リエラを取り込む行為そのもの。
「古語で言うフューリア……『優れたる者』は、リエラを取り込んだ者であって、今いるただのフューリアは昔はエリアと呼ばれていたんじゃないかって……そう思ったんだ」
 語尾は少し、弱くなった。カルロにも断言できる根拠はない。
「言葉の意味が変化するのは、ままあることじゃの」
 連理とミリーはカルロを見つめた。口を開いたのはミリーだ。
「そして、言葉が複数の意味を持つことも、ままあることじゃな。先に流れた噂では、ラウラ・ア・イスファルは明らかに場所を示しておった。本来の意味からは、とても場所を示す言葉とは思えなんだわけじゃが。この、どちらかが間違っているとは限らぬ」
 カルロはミリーを見返す。
「おぬしも言うたな、リエラとは高次の存在じゃと」
 そのままエリオのほうへと、視線を振る。
「高次の世界に在るものを取り込むことをラウラ・ア・イスファルと呼ぶのも。高次の世界をラウラ・ア・イスファルと呼ぶのも」
 どちらもがラウラ・ア・イスファルであっても良い。
「どちらにせよ、魂の根源に行き着きて、見ゆるか得るかの違いじゃな」
 それはそんな言葉にしてしまうと、大きな違いには思えないものとなった。求められる行為は、魂の根源に応えることは、おそらく変わらない。ならそれは、二面をもつだけの同じものと言えないだろうか。
 連理は立ち上がった。
「どうするんだ?」
 エリオがその行き先を訊ねる。
「予知のあれがラウラ・ア・イスファルに関わりあることは確かじゃ。もう一度現れる場所を予知にて探す。前には場所はようわからなんだが、次にはわかるかもしれぬ」
 エリオもそこで立ち上がった。自分には方策がないので、ついていって良いかと。
「僕はもう少し、僕の考えを調べてみようかと思うけど……」
「ここの文献に、おそらくおぬしの望むものはないぞ」
 カルロはそう言いかけたが、それはミリーが無情に遮った。
「わしは、ここのところでほとんど関係文献は目を通しておる。じゃが、先ほどの話を裏付けるものは見たことがない……文章にすべてが記されていると思うてはいかんのじゃろ。残っておるなら、自存型リエラの出自が長らく謎とされることもなかったじゃろて」
「じゃあ……」
「言葉でわからぬものは、行動あるのみじゃ。わしも行く」
 そして、ミリーも別の方向へと立ち去った。

連理たちは外に出た。
「どうするんだい?」
「雪に予知をかけようと思うがの」
 エリオの問いに、連理はそう答える。
 それならば、どこか遠くに行く必要はないだろう。外に出れば、もう一面の銀世界だ。
 図書館の玄関先でも、雪掻きに借り出された者たちが汗をかいていた。
「もとより手伝うつもりではいたがのう……こき使われるつもりはなかったのじゃが」
 ラザルスも、そこに混ざっている。
「それはあたしだっておんなじよっ!?」
 キーっっと甲高い声で叫ぶマーティもだ。
「わかったわかった。とりあえず、手を動かせ」
 この二人をこき使っているのはランドだ。
 二人とも、他にやりたいことがあるわけだったが……二人とも、やりたいことに若干の問題があった。『自分一人ではできない』という点にだ。
 マーティはもとより、誰かに立ち会ってもらわなくては、リエラ能力である『過去見』を行使するのは危険だ。そうでないと何故過去見をしようと思ったかとか、過去見で見たものそのものとか、最悪は常識や知識を支える部分の記憶が飛んでしまう可能性もある。行動のすべてをふいにしてしまう危険を秘めているわけで、一人でやるにはあまりにも賭けだ。
 定番は、ランドに付き合ってもらうことなわけだが……今回は、ランドにもやろうと思うことがあったわけだ。ギブ&テイクの結果、マーティは、まず雪掻きをさせられることとなったのである。
 ラザルスのほうはと言えば、ラウラ・ア・イスファルの噂を流した者を追いかけるのに、過去見の能力者を必要としていた。自分ではできないことをしようとする場合には、当然だが『できる者を調達できない』というリスクを負う。
 マイヤはその目的による過去見に対して許可は出したが、協力者の調達まではしてくれなかった。過去においてもそうであったし、そして未来においてもそうだと思われるが、マイヤは学生に強制的に能力を使わせることはない。マイヤは要請はしても強制はしないので、急ぐのならば協力者は見つけだすのはラザルスの仕事だった。
 これは、今の状況をはぐれリエラと化したレアンの仕業として『高天の儀』の許可をマイヤに求めた“飄然たる”ロイドにも言えることだった。マイヤはそれが確認でき、実行可能であれば許可を出すことを約束したが、そのために協力してくれるわけではなかった。確認もお膳立ても人手を集めることも、それらはロイドがしなくては早くは動かない。他の生徒への要請すら出すことはなかったのは、ロイドの『今なら小さい力でもできる』という意見に懐疑的だったせいもあったが。
 ロイドの提案が当たりか外れか以前の問題での失敗だったので、マイヤからそれ以上の情報を引き出すこともできなかった。
 とにかく、他人を動かす必要があるならば、それなりの準備をしなくてはならない。一番簡単なことは、自分で足りるだけの協力者を探してくること。
 しかしそこまで考えていなかったので……ラザルスの過去見の提案は計画倒れになるところだった。次があるならば、この教訓は活かすことができるだろうか。
 だが、ラザルスにとっては幸運にも、そこに居合わせたのがランドである。ランドは労働力を欲していて、過去見のできる知り合いがいた。そしてその友人はランドに依存していて、多少の無理ならば聞かざるを得ない……なにしろランドなしには、友人マーティは自分の望むことができないのだから。
 ここで、三者の利害が一致したのである。
 なので、まずラザルスとマーティはランドの目的に協力しなくてはならなかった。願いの代償は払わなくてはならない。
 ランドの目的……これは非常に地味だが公共性の高いことだった。街の各所の雪掻き。
 だが、これにランドは意味を見出していた。いくらかの者が、雪とアークシェイル、そしてレアンの暴走を結びつけていたように。雪を正しく始末することを、なめて怠ったとき……しっぺ返しが来ると。魔物は油断しているときに襲ってくる。
 だからランドは人手を可能な限り集め、雪掻きに協力的な者が計画的に除雪を行えるように手配をした。予防は地味で、成果が見えにくい。なぜなら、予防が予防としての真価を発揮するなら、何も起こらないからだ。だが、その何かを防ぐためには必要なことだった。
 来生やリュートのような、ささやかな協力の手が、静かに誰かを救う日もある。
 誰も、世界さえも、それに気がつかなくても。
 その手の一つになったのだから、常に滅びの予言をバイブルにしているマーティあたりは本望とするべきなのだろう。
「あたし、なんか損してる気がするわぁ。だってこの労働の他に、あなたの分の過去見までするのよ?」
 支払いが二重な気がするというわけだ。
「噂を撒いた者を追うのじゃから、協力する意味はあるじゃろうて。誰が黒幕か、気にならんのか?」
「……言っておくけど、あたしの過去見はその場所か物の過去を遡るだけだから、一回で追いかけるのは無理よ?」
「なんじゃと!?」
 過去に一度、マーティは過去見の連続で足取りを追うという、ラザルスの希望と同じことを自らの意思で無理に行い、その代償に自分の過去のほとんどを支払っている。なので彼には、家族の記憶さえも今はない。そして、支払うべき代償が足りないという理由で二度目は無理だ。二度目を強行すれば、今度こそ彼という存在そのものを賭することになる。
「ううむ……こちらも詐欺に遭った気分じゃ」
 ランドはそ知らぬ顔で、雪掻きを続けている。そして振り返らずに、二人の視線をさらりといなした。
「まあ一度やれば、マーティの過去見なら、その場の全員で見られる。どうせマイヤも一緒に見るんだろうし、顔を憶えて自分たちで探すんだな」
 ……そんな雪掻きの横を、連理たちは通り過ぎる。
「どうしたのじゃ? 優真」
「え……いいえ、なんでもないんです……けど……」
 通りすがりに話を聞いた優真は、ラザルスが追っている真実を知っている気がした。あの噂を流していたのは……実行は別の者だろうが、その指示を出したのは、おそらくサウルだ。エグザスとグリンダとの話の中で、そうだったはずだった。
 秘密は転落の入口と言った話が優真の脳裏に蘇って、ひどく胸騒ぎがした。
「そうかの? ならば良いが」
「……私、そろそろサウルさんのお屋敷に行きますね。すみません」
「もうかの? 少し待てぬか……予知はすぐ終わる」
 優真が通いの家政婦の約束をしてきたことは、連理も聞いてはいたので絶対にと止めはしなかったが。
「さて、雪掻きの邪魔になるかのう。ほれ、そこの……少々、このあたりでリエラを出しても良いか?」
 連理はランドを呼び、許可を取り付ける。
「何をするんだ?」
「すぐ済むのじゃ。雪に予知をかけるでの」
「あら! 奇遇ねぇ。あたしは過去見をしようと思ってたのよぉ。あれね、ランドちゃん、せっかくだからここで一緒にやらない?」
 マーティが横からひょいと顔を出した。雪に予知だの過去見だのは、さほどの罪はなかろうが……
「ここは人が通るからな、やるなら少し裏手がいいだろう。余計なものが見えても、ありがたくないだろう?」
 そう言って、ランドは図書館の建物の影に誘導する。
 そして、マーティの過去見から始めることとなった。
「雪よ、あなたの過去を見せてちょうだい……あなたを降らせているのはレアンなの?」
 だが、過去見は物理的・空間的な過去を示すだけだった。雪は雲の中で水分が結晶して生まれ、降り注いでいる。いわば、それより過去はない。その向こう側でも、水は世界を彷徨うばかりだ。
 マーティは挫折し、続いて連理が予知を試した。だが、雪の未来はただ白かった。何も起こらないのは良いことなのか、悪いことなのか……二人の望んだ手がかりは得られなかった。
 それは、レアンのいる場所。あるいはアークシェイルの姿。
「……まあ、こんなところだろうな」
 ランドは、この結果を当たり前のように受け止め、そして再び雪掻きに戻ることを促した。
「なによぅ、何も起こらないなら、ランドちゃんの雪掻きだって無意味なんじゃないの!?」
 マーティの八つ当たりにも、ランドは飄々と答える。
「『何も起こらないから何もしなくてもいい』んじゃない、『努力しているから何も起こらないんだ』と思うのが正しいんだ」
 現在は、見えないところで誰かが選び取ったものかもしれない。だが未来は今、自分たちが選び取っているのだ……


■その手を取るもの■
 クレアは力を探している。それが変わることはなかった。そして昼間の間クレアにくっついて手伝うメンバーにも、大きな変化はなかった。夜や早朝には個々で動いて、クレアに調べたことを教えている者もいる。
 熊の着ぐるみを着こんできてクレアを驚かせたりした“緑の涼風”シーナや、折々に他愛ない話題を振って場を和ませようとする“怠惰な隠士”ジェダイトのような者もいたが……
 クレアのまわりは、いつもどこか緊張感があった。
 一行は今、“鍛冶職人”サワノバとジェダイトが同時に提案してきた話に乗って、アリーナに向かっていた。ここにも異世界に通じる結界があるという……確かにアリーナには誰も知っている結界があって、それのどこかが異世界に通じていても不思議はない。アリーナでは外には漏らせないリエラの破壊力を、確かにどこかに逃がしているのだから。
 先頭をサワノバが行き、クレアの両隣にはジェダイトと、“緑の涼風”シーナがいる。一歩後ろにルーがいて、その隣に“天津風”リーヴァと、“抗う者”アルスキールが。ルーとリーヴァの後ろに“笑う道化”ラックと“螺旋相克”サイレントがいる。最後にクレアの様子を見に来たという“風天の”サックマンがくっついてきて……
 思うところのある者もいたが、その多くは機会を窺っているようだった。
「変わることなんて怖くないよ!」
 屈託なく、クレアは答える――
 ラウラ・ア・イスファルを探すその道々に、それはアルスキールが訊ねたことだった。
 革新とは規則や方法などを新しいものに変えるというときに多く使われ、人に用いることは少ない。ならばラウラ・ア・イスファルは、人を何か別の存在に変えてしまう場所ではないか……と。
 いくらかの者が薄々察し始めた、ラウラ・ア・イスファルの一つの真実。だがそれは、初めから示唆されていたことでもある。人が人でなくなる……と。
 それはいくつもある『ラウラ・ア・イスファル』の真実の中の一つ。
 だが、クレアはなんでもないことのように笑って答える。
「危険かもしれませんよ。大切なものを失って、取り返しはつかないかもしれません」
 シーナはどきりとしながら、アルスキールの言葉を聞いた。猫耳のカチューシャを直すふりをして、クレアの様子を窺う。それは、シーナも聞きたかったことだった。
「怖くないよ!」
 揺ぎない答だった。ジェダイトは、自分が感じたことは間違っていないと再確認する。クレアに強い意志……想いを感じると。あるいはそれは、覚悟にも似ている。それを問うのは無粋だろう……だからジェダイトは問わなかった。
 変わることも、何かを捨てることも、今のクレアは恐れてはいない。
「それより、このままでいるほうが怖い」
 つぶやきではなかった。それは誰かに向かって放たれた意味のある言葉。その場の誰もが、クレアを見つめる。このままでという意味が、意味するところを探るかのように。
「クレアさんは、そんな変えてしまう力を探しているんですね」
 アルスキールはそう答えた。否定的になる、一歩手前すれすれの響きだ。アルスキールに自覚はなかったかもしれないが……
「変わらないで、何も捨てないで、力が手に入るなんて、夢みたいなこと言わないよ」
 クレアは前を向き、歩みを止めることはなかった。
 一行は、そのまま程なく修練場に到着した。
「ここのどこかじゃな」
 手分けをして探そうと、サワノバが提案する。賛成多数によって、それは可決された。
 ここでサワノバはまずルーに話しかけようとしたが、ルーの隣にはぴったりリーヴァがいる。これは仕方がないと諦めて、そのままルーへ近づく。
「ここまで連れてきてなんじゃがの。クレア嬢ちゃんの探索、止めなくて良いのかの? これを続ければ、おそらくいつかレアンと対峙することになろう? 危険じゃろうに」
 ルーは黙っている。ただ俯くばかりだ。
「余計なお世話だろうが、代弁しよう」
 なのでリーヴァが答えた。
「ルー君は、理由はともあれ、クレア君を止めていたと思う。クレア君が聞き入れなかっただけだ。好きにしろと言うのでなければ、付いて回るしかないだろう? それ以外の選択肢があったというのなら、教えてほしいところだ」
 いささか冷たい口調となったのは、やむを得まい。
「……そうじゃな、失礼したの」
 サワノバは一礼して立ち去った。
 声が届かなくなるほど離れてから、ルーがぼそりと言った。
「……ありがとう」
「いやなに、私にとっても邪魔だったからな」
 リーヴァは珍しくルーに礼を言われたわけだが、そんなことも軽く流した。これはリーヴァにとっては前座だったので。
 さて、と声を落とす。
「クレア君のことでは、私も話したいことがある。他の誰もいないところで……」
 普段のリーヴァになら、ルーはうんとは言わなかったかもしれないが。
 だが、何かを察するところはあったのかもしれない。
「アリーナの中に。一番奥の控え室には多分、人が来ないから……」
 リーヴァについて、ルーは歩き始めた。

 サワノバはルーの前を去ったあと、クレアを探した。だが、見つからなかった。
 シーナとジェダイトがいるのに、だ。
「え、わたしも探してるんだけど……」
 雪掻き用の平たいスコップを持って、シーナが答える。
「こんなに積もってると、雪で隠れてたら見つからないでしょう? だから雪を退けながら探さないといけないと思って、サックマンさんとジェダイトさんと一緒に、借りてきたの。でも、その間に……」
 他の者たちも特別な空間を探している間に、クレアは姿を消してしまったらしい。
「まさか異世界に入った……とか?」
 サイレントが言う。
 それにジェダイトが首を振った。
「いや……ラックもいない。二人でどっかに行ったんじゃないか」
 そしてそれが、正解だった。
 徐々に降る雪に埋まりつつはあったが……足跡を探したなら、やはりアリーナの中へと消えていく二人の足跡が見つけられただろう。
 そして。

 時は少しだけ遡る。
「ラウラ・ア・イスファルの手がかりを見つけたんやけど、他の人がいるところでは話しにくいさかい……ちょっと来てくれへん?」
 そう言って、ラックはクレアを雪の降らぬアリーナの中へと連れて行った。クレアが一人になるわずかな瞬間を逃すことなく、そしてクレア自身を逃がすことなく。
 奥の一室まできて、ラックはクレアに向き直った。
「あのね……これから何があったとしても、ボクはクレアが前に進むのを望むんなら、友だちとして協力することを誓うで」
 クレアはもう、代償を払っている。一度払ったのならば、何かを得るために何かを支払う必要があることは、他の誰かが教える必要などない。誰よりも、クレアがその法則を知っているはずだ。
 これ以上は払えぬと言うのなら、そう意思表示をするだろう。
 だが、それはやはり聞かなくてはならないと、ラックも思っていた。
「……力を失いつつあるフューリアを、どうにかしたかったんかな。帝国はフィルローに倣い、フューリアだけでなく、エリアも真のフューリアに還す計画を立てた……んやね。このアルメイスが、ラウラ・ア・イスファルの……そんな計画の根幹なんやね」
 それは推測だと、ラックは言った。クレアは黙って聞いていた。
「クレア、君自身がその成果なわけや。レアンが君を狙ったり、半端者って呼んだり……君が力を求める理由はそれやろ?」
 クレアは静かだった。いつもの興奮状態に近い激しさを、内に潜め……そしてニカッと笑顔で答える。
「ちょっとだけ違う」
「違う?」
「誰も別に私に、真のフューリアになることなんて求めてないから」
「そうなん?」
「そう。『それ』は私が決めたんだ。私が、きっと本物のフューリアになってみせるって」
 誰に命じられたのでもなく、誰かの望みではなく、自分で決めたと。
 ラックはふと、空気が震えたような気がした。
「本当は、私みたいなのは交信ができてリエラを呼べれば、それだけでいいんだって。このまま死ぬまで力を失わなければ、途中で壊れたり死んだりしなければ、それで成功なんだって」
 力を失わないように、後ろを気にしながら、臆病に生きていく。それが本来、クレアに求められた生き方。
「でも……私以外の誰も、生き残らなかった。生きてても、人形みたいになっちゃった」
 その言葉だけは……重かった。クレアの過去において、同じ運命にすれ違った者は、今はもう真の意味で生者ではないと。
 再び……空気が震えた。
「前は怖かった。いつ自分も壊れるかと思ってた」
 どこがクレアの分岐点だったのか、それはラックにもわからなかった。ただ今の気持ちだけがクレアの真実だ。
「終わりに怯えて生きても、そんなの生きてるって言えない。私は幸運だった。生き残ったことがじゃなくて……」
 エリアとして生まれながら、フューリアの力を手に入れたことが。
「だから最期まで、フューリアとして生きる。そのためにきっと『力』を手に入れる。『エイリア』なんて呼ばせない」
 今度ははっきりと、空間が揺らいだような気がした。ラックは少し焦りを感じたが、まだ聞きたいことは残っている。
 クレアが何を捨てて今を手に入れたのか、それもラックにはわからない。
 『エイリア』というのは造語だろうか、とラックは思った。おそらく、クレアのような人造フューリアを指すのだろう。クレアは今も明るく見えるし、強く見えるが、その言葉が示す事実は重く深くクレアに圧し掛かっているに違いなかった。だからこそ、それを押し返すために強くあらざるを得ないのだ。
 ただの実験体から、自らの意思で踏み出すために……力を求めている。他人の望みのままに怯えて生きる生きかたを捨て、自分で選んだ存在を手に入れるなら、仮に何を失ったとしても……
 クレアは後悔はしないだろう。
 偽物のフューリアから、本物よりも本物のフューリアへ。そうなれるのならば。
 クレアが他人に支配される運命から、己を取り戻すための通過儀礼に、それを選んだのだから。たとえ何十年かかろうと。
「けど、真のフューリアになるってことは、今のレアンみたいにリエラに飲み込まれて災いをもたらすだけの存在になるかもしれへんで? それでも……」
 それが、ラックの最後の問いだ。
「ならないよ」
 その答えも、揺るぎなかった。
「絶対にならない。たとえどんなことをしても。そうなったら、『やっぱりエイリアだから』って言われる。それじゃ意味がない!」
 そのとき――
 空間が怒りに震えた。

 時はわずかに前後する。
「ここでいいだろう」
 リーヴァはルーに向き直った。
「単刀直入に聞こう。ルー君はクレア君が力を求める理由に、心当たりがあるね?」
 ルーは答えない。
「だんまりか」
 そうは言っても、この程度で話し出すのなら、今までにも何かしら語っていただろう。しかしルーは、ずっと沈黙を守り続けてきた。
「先に誤解のないように言っておくが、ルー君に言いたいことは、もっとまわりの人を信用してはどうかということだ。別に私を信用しろとは言わないが……シーナ君たちも信用できないものかね?」
 ルーは俯いたままだ。
「君たちにどんな秘密があろうと、私たちは態度を変えないだろう」
 返答はない。リーヴァはかすかに溜め息をついた。
 だが不意に、どこかで空気が緊張した気がして……そのとき、少しだけルーも顔を上げた。
「君たちの助けになろうと思う者は、君たちが思うより多い。もちろん私もそうだ……」
 その機を逃さぬように、リーヴァは続ける。
「……クレア君は、本当にフューリアなのか?」
 今度こそ不意を打たれたように、ルーは顔を上げた。
「以前、列車強盗の事件の際に、クレア君自身がまるで本当のフューリアではないようなことを言っていたのが気になっている」
 そのとき確かに、空気が震えた。
 ルーは再び俯いた。自分の肩を自分で抱くようにして。
 何かに身構えるように。
 リーヴァも異変には気づいていた。だが、外に出るべきか否かの判断は、まだつかなかった。
「これが当たりなら、薬でも使っているんだろうが……まあ、それはいいと思う」
 しんと静かな空気が流れる。リーヴァが次の言葉を紡ごうとしたとき……その空気の揺らめきを感じた。
「……ここは出たほうがいいかもしれないな」
 リーヴァは天井を見上げる。物理的な揺れと違うことは感じていたが、屋内にいることには、じわりとかすかな恐怖心が湧き上がる。揺らぎに圧迫感があったからだろう。
「今から出ても間に合わないわ……多分」
 それに、どこにいても同じ……と、ルーの声が低く響いた。
 その声の低さに、リーヴァは驚いた。確かにルーの声に違いはないが、いつものか細さはない。
 じりじりと時間が流れていく。リーヴァも、その途中で気づいていた。ルーは交信を上げている。
 だが、外に出る時間がないと言うのなら、交信を普通に上げきる時間もないはずだ。途中で、タイムリミットが来る。
 それでも、リーヴァも交信を上げた。疲労と命は、天秤にかけられない。
 不意に……
 空間がその中の者を叩き潰すかのように、ひしゃげた。その歪みかたから、目標がここではないこともわかる。
 瞬間に、リーヴァは交信を上げきって力場を作る。だが、間に合わないような気がした。
「風よっ!」
 リーヴァの展開した力場を巻き込むかのように、暴風が物理的な空間を無視して駆け上がる。
 一瞬の激震の後、世界は静かになった。
 ルーは、自分を抱きしめたままだ。風を呼んだのは、確かにルーだった。だが、ルーの近くにリエラの姿は見えない。
「見えるだけが、リエラの姿じゃないわ」
 その考えを読んだかのように、ルーは答える。
「あなた言ったわね? どんな秘密があっても、態度を変えないと。あなたも、他の人も」
 ルーは、ゆっくりと顔を上げる。それはルーの顔でありながら……ルーの印象は跡形もない。軽く細められた目は、怜悧な印象を与えた。きっと引き締められた口元は、厳しさを窺わせた。
 目立たなかった美しさが、浮き上がるように黒髪に縁取られた顔に現れる。
「まずは見せてもらおうかしら、あなたに。あなたの言葉が真実かどうか」
 無駄でしょうけど……と、嘲るように、酷薄にルーは微笑んだ。
 そしてぱさりと、頬にかかっていた髪を後ろに払う。その仕草も、ルーのものには見えなかった。
「言っておくけど私は、あなたの知っていたルーと別人ではないわよ。あなたが私に何をしたかも憶えているし、二重人格でもないわ」
 私は私……
 そう、ルーは言った。

「なんだったんだ、今のは」
 外にいた者たちも、異変には気づいていた。一瞬の間に雪は煌き、風は吹き荒れて、吹雪が世界を覆った。その後には……ぽっかりと、アリーナの上だけ晴れている。まさに風が雲を一瞬で吹き飛ばした様子だ。
 その瞬間の局地的な状況は、その近くにいた者にしかわからなかったが……
 その結果だけは、遠くにいても見ることが出来た。

「あれは……」
「……何か、あったようだね」
 寮長のもとを訪ねていたコルネリアは、やはり寮長は何か気づいているのではないかと思ったが、その口から出る言葉は関わるべきでないの一点張りだった。
 その前も、その後も。

「…………」
 エリスは黙って、その空を見上げていた。
 空が、そうなるよりも前から。
「エリス」
 研究所の中から、“蒼盾”エドウィンが走って出てくる。
「ありゃあ、読みを外したみたいだな。クロンドルはあっちだったか」
 残りの『四大』クロンドルを探して研究所を彷徨っていたエドウィンは、空を見上げ迷わず言った。それは不正解から出た正解だ。あれがクロンドルだと迷わずに言える者は、そう多くはないだろう。
「エリス……」
 ナギリエッタが、心配そうに袖を引く。
「……大丈夫。慌てることはないから」
 エリスはそう言って、ようやく視線を空から降ろした。

 しばらくしてラックとクレア、そしてリーヴァとルーも、外にいた者たちのところに戻ってきた。
 何も、いつもと変わらぬ風情で。ただ、リーヴァが少し疲れている様子なだけだ。そちらには、何をしてきたのだと突っ込む者はいなかった。
「どこ行ってたのー? ……心配したよ」
 シーナとジェダイトが、クレアに駆け寄る。
「中も調べてたんや」
 無事なら良いと、うなずきあう。
「戻ってきたところでなんじゃが……嬢ちゃん、わしと手合わせせんかの」
 そこでサワノバがようやく再会したクレアに、決闘を持ちかけた。どちらが力に相応しいか、と。
 だが、クレアは迷わず首を横に振った。どんな挑発にも乗らなかった。
「ごめん、でも力に相応しいか相応しくないかなんて、誰かに決めてもらう必要はないから」
 それは自分が決めることだから、と。それが何よりも大切なことであるかのように。


■反逆の道標■
「こちらではなかったか……?」
 捜索の場所を微風通りに絞った者は多かった。そんな者たちにも、アリーナの異変は目に見えた。
 カレンと共に行動していた“闇の輝星”ジークにもだ。ジークは空間の揺らぎにも注意していたが、この距離ではそこまでは察し切れなかった。だが、目に見える結果だけで何か起こったことだけは十分にわかる。
 ジークが久々にわずかながら雲が晴れた夕暮れの空を見上げると、空を飛ぶ何かが横切った。それは空の上に何かあるんじゃないかと思った“白衣の悪魔”カズヤが“水の月を詠う者”セシアの協力を得て、リエラに乗って空に上がった影だ。だが、何も得られたものはなかったようだった
 軽いフットワークで、少し待っているように言ってカレンは走っていった。ほどなく戻ってきて、ジークに告げる。
「怪我人はいなかったみたいよ。あのときアリーナにいたのは……クレアたちみたいね」
 アリーナまで走って行って戻ってきたとは思えない時間だったが、どこかから聞き込んできたようだ。
「そうか」
「どうする?」
 アリーナまで行ってみる? とカレンが訊く。
「いや……こちらで探し続けよう。目撃情報はこちらのほうが多いはずだ」
 ジークはまた歩き出す。次に行く予定だったのはアナスタシアから聞いた、レアンの幽霊と出会ったという場所だった。
 もう陽が落ちる。夜が来ようとしていた。
 雪掻きで道の何ヶ所かには山と積まれた雪山ができている。道は雪掻きに従事してくれる人々のおかげで、ある程度歩きやすくはなっていたが、見通しは良くなかった。
 路地裏には先客がいた。ここで先日返り討ちにあったノイマンだ。もう当時の痕跡は残っていないが、あのときのことを回想している様子だった。幽霊は何も動かなかった。思い出せることはそれだけだったが。それでいて二人の怪我は、弱減し拡散し多数に及んでいる。
 思うところのある者に訊いたなら、こう応えただろう。水からは逃れられないと。
 ジークとカレンは、ノイマンを気にすることなく路地裏に入った。どちらかと言えば、気になっていたのは先ほどから怪しい格好で尾行してくる“爆裂忍者”忍火丸のほうだった。怪しい格好と言っても、忍火丸はいつもの黒装束ではあるのだが。二人とも気配には敏感であるというか、こういう行動にこだわりがある分……かえってわかりやすい忍火丸が気になる。囮ではないかともチラリと考えたが、それはなさそうだと否定して、奥に進んだ。
 さて忍火丸は何をしているつもりだったかというと、「他勢力の偵察」を行っていたのである。ジークたちはランカークの勢力と考えられていた。本当は貧乏なエンゲルスが雪食禁止令のせいでひもじい思いをしているのではないかと思い、その様子を見に行きたい気もしていたらしい。……エンゲルスが聞いたら、さすがに憤慨しそうな偏見だが。
 ジークとカレンは奥へと進んだ。
 そして、忍火丸を追い抜くように“桜花剣士”ファローゼも路地に入ってくる。人が何人かその路地に入って行くのを見て、“熱血策士”コタンクルもそこに足を踏み入れた。コタンクルは異世界に干渉するためにミリエラやエリスに協力を頼んだが、どちらも応じてはくれなかったので、あとは自力でするしかない状況だった。
 夜と、人が増えてくるのを、待っていた者もいた。
 ぼんやりと幽霊が……夜に浮かび上がった。
 そこに視線が集まる。
 一瞬緊張は走ったが……
「おまえ……誰だ?」
 実物を見たノイマンが問う。
 そしてジークにも、それが偽物だということはわかった。
「……レアン・クルセアードの残骸とも呼べぬもの……か。ラウラ・ア・イスファルへの道標にもならんな。本物よ、感じているのならば偽物に怒りはわかないのか?」
 レアンを敵視し続けたファローゼも、顔を顰めただけだった。
 まるっきり鵜呑みにした者は多分……
 急いで報告に戻った忍火丸くらいだろう。
「落ち着いてるな。この程度じゃ引っかからないのか」
 路地の奥から“三色”アデルが現れる。
「わたしは本物の『幽霊』を見たからな」
 アデルは見てはいないから、同じものは再現できない。
「実際には全然違う」
 ノイマンはそう指摘し。
「それに、奥に人がいることはわかっていたしな」
 ジークはそう答える。
「じゃあ、彼を理解している者ということで、一緒に探させてほしいんだが」
 そうアデルは申し出たが……そこにいた者は、目的も方法てんでばらばらに探しているだけ……あるいは探してすらいなかったので、その提案は快く受け入れられることはなかった。
 誰もがただ、好きに探せばいいと言うだけだった。


「こっちでござるよ!」
 アデルが接触すべきだったのは、おそらくはラジェッタを中心とした集団だっただろう。だが夜に仕掛けたアデルと、幼い子が中心で夜にはほとんど動かないグループは、どうしてもすれ違う。
 翌日の昼間、忍火丸はラジェッタと一緒にいた幾人かを連れて昨夜の場所に案内した。
「ほんまなん?」
 “のんびりや”キーウィがきょろきょろと辺りを見回す。幽霊と声については多くがその関係を疑っていなかった。キーウィもだ。だから幽霊が本当に出たのならば、そこに行ってみるのはやぶさかではない。
「本当かもしれませんね」
 “不完全な心”クレイは手に小さな地図を持ちながら、そう言った。同じ地図を“轟轟たる爆轟”ルオーも手に眺めている。連れて行かれる路地のさらに奥には、噂にも語られたアルメイスでありながらアルメイスではない場所も隠されているはずだった。
 ラジェッタは微風通りの限られた場所を、ずっと気にしている。そうでなければ遠い空を。だが空については、ただ上空に登っても意味はないことはわかっている。
 ラジェッタの両隣にはルオーと“猫忍”スルーティアが立って、その両手を握っていた。帰りごろに疲れ果てると、エイムかルオーが抱っこしたり背負ったりして、帰路につく。
 初め、ルオーに娘を抱かせるのは微妙に嫌がっていたエイムだったが、あるときスルーティアの何気ない一言に灰にならんばかりのショックを受けて……それ以来、理解ある父親になる努力をしているらしい。
 後5〜6年もしたらラジェッタも思春期で、そのころには普通の娘は父親とずっと一緒なのは嫌な時期も来るだろう、という話だ。
 そのときにはエイムも大変だろうという、スルーティアにはちょっとした思い付きで、当たり前の素直な発想であったわけだが……
 それを横で聞きながら、5〜6年は大丈夫なのかと、ラシーネあたりは考えていた。ラシーネは結局、エイムのようにリエラと同化した者の自我の行方を考えていたのだ。
 それは今多くが考えていることと近くはないが、無関係ではないこと。自存型リエラたちはやはり多くを語ったりはしなかったので、古き時代に人であった記憶があるかないかはわからない。だが、太古の強大な力を持ったフューリアもリエラと同化し現代に生き残っているのかもしれない……とも考えられるのだ。
 ラシーネはこっそりとエイムに交信を試み、訊ねた。ラジェッタには問いも答えも聞かれたくない……せめてそれがラシーネの配慮だった。それは、いつまであなたはあなたでいられるのか……と。そういう意味の問いだったので。
 そして、そのときの応えは「わからない」だったのだ。だが、そのわからないは知らないのわからないではなく……おそらく、『そのとき』がいつ訪れるかわからないの意であろうことはわかった。
 ならば、それはいつか訪れるかもしれない日ではあるのだ。何か定められた法則があるのかもしれなかったが、そこまで話は及ばなかった。
 シルフィスもまたエイムに聞きたいことがあって、様子を窺いっていた者の一人だったが……ラシーネのように、まずラジェッタとは離れることがないと割り切れずに、いまだに聞けていない。
 エイムも含めてラジェッタと一緒に動いていた半分が、ラジェッタの好きにさせようという方針だったので、ただうろうろして毎日が終わる日も多かった。
 さすがにそこまでのんびりとは付き合いきれないと、シルフィスや“旋律の”プラチナムなどは……忍火丸もそうだが、合流したり、他に探している者たちの様子を見に行ったりを繰り返している。
「今度こそ……出会えるといいのですが」
 プラチナムもまた、新たなる力についてはリエラと融合し自存型リエラにする計画ではないか……と考えていた。
 幽霊という形での、目撃情報は減少を続けている。既に中には、見間違いの情報も混ざっているだろう。それが0になるとき、幽霊からの証言は得られなくなるかもしれなかった。
「……あれ!」
 プラチナムは目を凝らした。路地の奥に人影が消えたような気がしたからだった。

「委員長!」
 レアン……幽霊を探している者で、最も熱かった男。そして引き下がれない男がいた。彼は“蒼空の黔鎧”ソウマ。
 彼はエイムに言われたことを彼なりに、解釈した。自分は誰と同じことを言ったのか……それはレアンとだ、と。まず最初にしたことは、レアンが自分に似ていたのかを確かめることだった。
 エリスは学生だったころのレアンは知らないと前置きした上で、答えた。レアンがアルメイスの学生であった頃には、エリスの年齢は一桁である。事情を知ってはいても、見てきたわけではない。それでも……
「……似ている部分もあるわ」
 どことは言わなかったが。
 かつてレアンを知っていた、他の者はソウマとレアンを似ていると言う者もいたし似ていないと言う者もいた。だが数少ないが、より近しいと思われる者が、より似ていると答えた。その最たるものはエイムだろう。
「……似ていると思いますよ。顔や雰囲気じゃないけれど」
 じゃあ何が、という問いに、エイムは苦笑を浮かべた。
「君が君である部分が……レアンも正義感の強い男だった」
 後は自分で確かめるしかない。だが、自分一人でどうにかなるとは思わなかったようだ。
 そして向かった先は“風曲の紡ぎ手”セラのところだった。
「ちょっと手伝ってくれ、委員長! レアンの出そうなところを教えてくれ!」
「え? え? 私ですの?」
 ちなみにセラは現在、特に委員長の肩書きは有していない。が、どうやらソウマの中ではセラの二つ名は“委員長”で定着していたらしい。
「そうだ! 委員長ならわかるだろ!?」
「え? あの? え? 待って……」
 あれーーーー……っとセラの声がエコーしている間にさらわれていった、と、後日目撃者は証言したとかしないとか。
 初めはそんな風にさらわれたセラだったが、ソウマに協力しないというわけではなかった。落ち着いたところで、ソウマのためにレアンに出会う方策を練る。
「噂は有力な手がかりかと思いますわ。あれは、事件に目を向けさせるために流されたものでしょう。ならば、必要な真実を含むはずですわ……噂の場所を探してみましょう。何人かが目撃した幽霊のような姿は、おそらく彼の意思が現出したもの……それを通じてならば、交信で呼びかけることも可能かもしれません」
 そしてセラが持ち出してきたものも、クレイやルオーの持っていたものと同じだった。
「まず、微風通りのほうへ行ってみましょう」
 なので……
 プラチナムが見かけた路地の奥に消えた人影は、セラとソウマのものだったのである。

 ラジェッタたちも、人影を追って路地の奥へ入っていった。
 落ちてくる雪の一片を手袋に包まれた手にとって、スルーティアはラジェッタに大きめのその結晶を見せる。そんな風にしながら、奥へ奥へと進むと……
 路地の奥には、一軒の喫茶店があった。そこには先客がまた一人。それはファローゼだ。昨日もここへ来ようとして、手前で足止めを食らったのだった。
 優雅にお茶を飲みながら、扉に張り付いて店を覗き込んだスルーティアにファローゼは視線を向けた。
 が。
 目的の相手ではないと、即座に視線を反らす。
「この中にはいないみたい」
 それはお互い様で、スルーティアも後ろにいる者たちに向かって首を振った。
 路地裏の奥に入り込んだ者たちは、ここを訪れるのが初めてではない者を除いて、どこか不思議そうに辺りを見回している。
 その中でクレイは一人、噂を流した人物の姿がないかを探していたが……それらしい人物を目撃することはなかった。
 警戒感を抱いているのはクレイだけではなく、ルオーもそうだ。何がと具体的なものはなかったが。
「さっきの人影は……」
 プラチナムが奥に進もうとしたときだった。
「どこだーー! レアンー!」
 更に奥から怒号がした。
 ラジェッタも、それにつられるように奥へと向かう。それを追って、ルオーとスルーティアも奥へと向かった。
 彼らがソウマとセラの姿を見つけたとき、幽霊はいなかった。
 彼らも呼んでいるのだ。
 シルフィスは辺りを見回して、交信を上げた。セラも交信を上げているのが見て取れたからだ。
 それに呼ばれたかのように――
 雪の中にそれは現れた。

「おじちゃん……」
 ラジェッタが近づくのを止めるべきかどうか、ルオーは迷った。だがエイムが止めないので、伸ばしかけた手を自ら押さえる。
「おまえ!」
 叫びながらも、ソウマも交信していた。
 幸いながら、その場にはすぐに幽霊――レアンに攻撃をしかけるような者はいなかった。
 実際には異変に気づいたファローゼが喫茶店から飛び出してきたが、それはルオーが近づくのを死ぬ気で止めた。でないと、何かあったら間違いなくラジェッタが巻き込まれる。
 ――皆を呼んだのはおまえだろう!? レアン!
 開け放されたソウマの交信が、他の者にも届く。
 ――何故、貴方は一人で辛い道を歩こうとするのですか……?
 セラの交信も続く。
 まだ、意志と言えるような応えはない。
 自我が揺らいでから、長く経ち過ぎたのかもしれなかった。だがアリーナでの一件の詳細を知っていたなら、まだ『レアン・クルセアード』の部分が彼を動かすことがあることも、わかっただろう。
 あるいは……これが最後の機会だったのかもしれない。
 彼を彼として呼び戻すことができる、タイムリミット。
 それを過ぎたなら、暴走は止まらなかった。
 プラチナムも出会えたならば交信を望んでいたが、応えがない彼には意味はなかった。
 今それでもかまわず呼び続けているのは、それさえも自らの力で変えようという者たち。
 セラは隣まで来たラジェッタの手を取る。
 ――貴方は、独りではないはずです。
 ――おじちゃん……
 幽霊が揺らいだような気がした。
 ――その様はなんだ! アークシェイルと融合したのか!? 自我を保て!
 ソウマの交信は、まさに怒号だった。
 シルフィスは、一貫して呼び続けていた。そこにいる者を。
 ――応えて……お願い!
 再び、像は揺らいだ。
 ――おまえは指名手配犯レアン・クルセアードだ!
 次の電撃に撃たれたような揺らぎは、像を鮮明に変えた。まだ、半透明ではあったけれど。
 彼は思い出したのだ。自分の姿がどうあるべきか。
 自分が誰だったのか。
 ――おまえたち。
 まだ明瞭ではなかったが……
 応えがあった。
 ――罪は清算するべきだぜ。逃げるんじゃねえ。
 視線が生まれていた。在るだけだった存在は、意識を持った。それは彼の前に居る者たちへ向けられている。
 ――答えろ! ……心に正義を燃やしていながら、何故悪に走った!
 ソウマにとっては、まだこれからだ。他の者に譲る気もなかった。
 ――何故、帝国から離反した!
 ――何故……? 離反する気などなかった。
 ――じゃあ、何故!
 ――帝国が俺を消そうとしたからだ。
 ――消そうと!? 殺されそうになったのか!?
 ――共に前線に出た仲間たちは、全員死んだ。……俺を残して。巻き込まれただけだったのに。
 それは交信だからか。あるいは、純化された存在となりかかっているからだろうか。
 今までぼかされ語られなかったことも、そこにはあった。
 ――帝国がやったのか!? なら、それは悪だ。
 ――戦った者は皆死んだ。俺たちを裏切った部隊も……エイム……
 そこにいることに、気づいたのか。視線は遠くに離れた銀色のリエラを追う。
 ――生き残ったのは、俺とおまえだけだった……
 シルフィスもエイムを振り返った。
 そのとき彼らが、殺しあったという意味に聞こえた。
 ――帝国はいったい何をしているんだ! 悪なのか!?
 ――悪だ。エリアをフューリアにする、そのために、子供を買ってきては使い捨てるように殺していった……フューリアをより強いフューリアにする、そのために、強すぎる薬を投与し続け多くの仲間が廃人になった……強いフューリアの子供を産ませる、そのために、無理矢理……
「もうやめて!」
 スルーティアとセラはラジェッタの耳をふさぎ、抱きしめていた。それでも、そんなことでは入り込む交信は遮れない。
 ――……それが、帝国のラウラ・ア・イスファルだ……! 誰が許せるものか……!
 その怒りの交信が、最後だった。
 レアンの姿は拡散し、消えた。
 残された者たちは立ち尽くしていた。
「……悪だ」
 ソウマの呟きが、ただ静かに響いた。


 その日、久しぶりに雲が綺麗に晴れた。
 その日以降は……降雪量は例年並に戻りつつあった。


■詰めの一手■
 ルビィはラウラ・ア・イスファルの調べ物の隙に、エルメェス家についてを調べていた。
 始祖の末裔であるエルメェス家については、調べていくと必ず『隠し切れない史実』に行き当たる。イシュファリアの地と近隣諸国をも脅かした、気まぐれに血を求めた狂えるフューリアの長の話だ。これが後にフューリアの迫害を招いた元凶であり、暗黒期の始まりであり、そして暗黒期の打開が帝国の起源となる歴史を作った。
 今もその記憶ゆえに、他国ではフューリアは滅ぼさねばならぬという意見が根強い。それゆえに、帝国の歴史からも近隣諸国の歴史からも、それは消えない。
 その『時』……始祖の一族は滅びたとされている。どんな本を見ても、そう書かれている。だが、帝国には滅びたはずの始祖の血を引き、叶う限り純血を守り続けてきたエルメェス家が確かに存在する。
 ルビィは、フランの変化を演技だと思っていた。エルメェス家の過去の人物に、そのモデルとなった者がいるだろうと調べていたのだが、それらしいものはなかった。目立つものは、その狂った長の話か……その前の清廉潔白な聖人の話ばかり。言わば有史以前のことであるために、当時の書物が少ないこともあったが。
 久しぶりに晴れた、その翌日のことだった。
 ルビィとエグザスが探してきた本を持って閲覧室に行くと、窓際にフランがいた。かたわらににはイルズマリもいる。だが、交信を上げているのか、イルズマリの体毛は銀色に染まっていた。
「おお、おぬしらか」
 フランは気配に振り返って、そう言う。
 それがいつものフランの喋りかたではないことは、すぐにわかる。
「レディ……」
「久々に気分が良い。このまま封印も崩れてしまえば良いものを……そう言えば、名を聞いておらなんだの。わしは今、機嫌が良い。名乗ることを許そう」
「……改めまして、ご挨拶をいたします。私はエグザスと申す者。以後、お見知りおきを」
 真横にいるルビィに、取り繕える状況ではない。エグザスはそう判断した。ならば、ただ求めに応じるのが上策だろう。
「俺様……っと、私はルビィと申します。姫君にはご機嫌麗しゅう」
 ルビィはありきたりだとは思ったが、騎士の真似事をすることにしたらしい。まだこれはフランの遊びだと思っているのか、華麗に礼をする。
「エグザスにルビィじゃな。苦しゅうない」
 本当に、彼女はとても機嫌が良いようだった。フランとはまた違う明るい笑顔で笑う。わかりやすい、屈託のない笑顔だ。
「……私どもにも、姫の御名を拝する光栄をいただけませぬでしょうか」
 丁寧すぎるかとも思いながら、慎重にエグザスは彼女の名前を聞き出そうとした。
「ふむ、フランでもフラウニーでも、好きに呼んで良い。多くの者はただ『姫』や、『姫様』と呼ぶがの。じゃが、パティアと呼ばれるのはあまり好きではない」
 同じ名なのか、とエグザスは表情には出さずに考えた。同じ名であるゆえに、ルビィの勘違いはまだ少々続きそうだとも。この後で誤解を解いておくべきかどうかを考えながら……ふと視線を逸らした隙のこと。
「ど、どうなさったので?」
 少し慌てながらもルビィは演技を崩すことなく、その異変を問う。
「……抵抗しておるのじゃ」
 フランは泣いていた。ずっと見ていたルビィにはわかったが、前触れもなく突然に大粒の涙を流したのだ。
「まあ、今日はこのあたりにしておこうかの……しばらくは自由に動く機会もあろう」
 涙は流していたが、笑っていた。
 そして……その表情はすうっと涙に似合うものへと変わっていく。
 涙はとめどなくあふれ、フランは崩れるように膝を突いた。
「やっぱり、やっぱり、私……私には、あの魔物を封じ続ける力はないのですね……」
「……レディ」
 嗚咽は抑えきれないように、フランの喉から漏れる。
「フラウニー!」
 元の色に戻ったイルズマリが、慌てたようにくずおれたフランの上を飛び回る。
「おねがい……この手を血で染める前に……殺して……」
 両手で顔を覆って、床に伏すようにして、フランは言った。
「フラウニー! そんなことを言ってはいけない!」
 イルズマリがフラン叱りつけるが、エグザスとルビィにはすぐにそれに応えることはできなかった。
「助けて……」
 泣き崩れるフランを慰める言葉一つ選ぶにも、慎重になる必要があったからだった。


「だいぶかかってしまったのじゃが」
 降雪が落ち着き始め、除雪も進んだある日、ラザルスはようやく役者を揃えて学生会長室を再度訪ねた。
「またいらしたでござるか」
 出迎えたのは、細雪だ。
「雪も落ち着きを取り戻しつつある昨今、レアンもラウラ・ア・イスファルに人を誘うことを諦めたのかもしれず。くだらぬことでマイヤ殿のお手を煩わせぬよう……」
「くだらぬとはなんじゃ! 噂は人の手で撒かれたものに間違いはないんじゃ。幽霊が吹聴して回っていたわけではないんじゃよ」
 さてマイヤと細雪、そしてランドの立会いのもと、マーティが集会室で過去見を行う。まずはそのために学生寮の集会室へ移動となった。
 だが、ひとまずはその一回だけだ。
 そこから先を追いかけ続けるつもりなら、改めて協力してくれる者を探さねばならない。
「本人の同意は必要ですよ。強制して、取り返しのつかないことになったら責任問題ですからね」
 リスキーな代償を支払う者もいるわけだった。マーティはその最たるものだが。
「いくわよ!」
 人払いをした集会室に、噂を流した人物がいたと考えられる時間を映し出された。
 その中から、噂を流していたと思しき人物を見つける。
「……学生ではありませんね」
 そう言ったのはマイヤだ。
 マイヤには、相当数の生徒の顔と名前を憶えているらしいという噂がある。少なくとも、マイヤの知っている生徒ではないということだ。
 特徴のない、地味な学生。それは語られた通りのようだった。
 その彼が席を離れたところで、過去見は終わった。
 ただ、これだけでは、以前と何も変わりない。
「そいつに、会いたい?」
 戸口のところに、いつの間にか人が立っていた。……サウルだ。
「会わせてあげてもいいよ。というか、あの噂は僕が彼に流させた。だから、望むなら何故なのかも、何を目的にしてそうしたのかも……聞きたいことは何もかも教えよう。嘘はつかない。君たちだけでなく、誰にでも」
 ただし、とサウルは微笑む。
「条件がある。その条件をクリアしたら……だ」
「なんじゃ? 条件というのは」
「そこの学生会長君が、望むなら、だ」
 マイヤが同席し、マイヤからの要請であること。それが条件だとサウルは言った。
 なのでサウルに問うことを望む者は、これ以降には、まずマイヤを説得しマイヤの同席を得なくてはならない。
「聞きたくないなら、別にいいよ。信じるか信じないかも、君たちの自由だしね」
 サウルはそう言って、立ち去った……



 ……秘密と真実の向こうには、転落が待っている。

参加者

“福音の姫巫女”神音 “飄然たる”ロイド
“天津風”リーヴァ “蒼盾”エドウィン
“怠惰な隠士”ジェダイト “白衣の悪魔”カズヤ
“探求者”ミリー “光炎の使い手”ノイマン
“翔ける者”アトリーズ 神楽
“静なる護り手”リュート “笑う道化”ラック
“風曲の紡ぎ手”セラ “双面姫”サラ
“ぐうたら”ナギリエッタ “闇司祭”アベル
“紫紺の騎士”エグザス “風天の”サックマン
“銀の飛跡”シルフィス “桜花剣士”ファローゼ
“黒き疾風の”ウォルガ “水の月を詠う者”セシア
“自称天才”ルビィ “待宵姫”シェラザード
“鍛冶職人”サワノバ “幼き魔女”アナスタシア
“六翼の”セラス “闇の輝星”ジーク
“銀晶”ランド “深緑の泉”円
“餽餓者”クロウ “闘う執事”セバスチャン
ユリシア=コールハート “熱血策士”コタンクル
“抗う者”アルスキール “陽気な隠者”ラザルス
“蒼空の黔鎧”ソウマ “炎華の奏者”グリンダ
“拙き風使い”風見来生 “緑の涼風”シーナ
“爆裂忍者”忍火丸 “貧乏学生”エンゲルス
“猫忍”スルーティア “七彩の奏咒”ルカ
“のんびりや”キーウィ “深藍の冬凪”柊 細雪
ラシーネ “旋律の”プラチナム
“轟轟たる爆轟”ルオー “影使い”ティル
“憂鬱な策士”フィリップ “泡沫の夢”マーティ
“黒い学生”ガッツ “不完全な心”クレイ
“三色”アデル “夢の中の姫”アリシア
“春の魔女”織原 優真 “冒険BOY”テム
“暇人”カルロ コルネリア
“相克螺旋”サイレント “真白の闇姫”連理
“演奏家”エリオ “修羅の魔王”ボイド