ラウラ・ア・イスファル〜その過去と未来【1】
「よんでる」
 少女は空を見上げて言った。
 今にも泣き出しそうな曇天を。
「よんでるよ、おとうさん」
 どこから聞こえてくるのか、少女にわかっていたはずはない。むろん、空から聞こえていたわけでもない。
「そうか……ラジェには聞こえるんだね、あれが」
「うん。おとうさんにもきこえる?」
「聞こえるよ……深い深い交信だね。世界のすべてに囁くような……どうしたんだろうね……」
「いかないの? おとうさん」
「……行きたいかい? ラジェは」
 少女は遠い重い空を見上げる。
「だって、かわいそう……」

「フラウニー! フラウニー!!」
 けたたましい羽ばたきが、薄暮を揺らす。
 放課後の学課棟。その廊下のことだった。
 薄暗いのは、空が曇っているからだ。今にも降り出しそうな空。まだ雪には早い。降るならば雨だ。
 ぼんやりとフランは歩いていた。
「フラウニー!」
 何も聞こえてはいないかのように。足取りは、どこかよろよろとしていた。
「フラウニー!!」
 イルズマリの声にも焦りの色が濃くなってくる。
 だが、イルズマリはフランを呼びとめはしたが、何故とは問わなかった。この理由は知っていたのかもしれない。
 フランの顔は、どこか苦痛に歪みはじめていた。行きたくないのに、どこかに向かおうとしている……背反した葛藤があるかのように。
 そのままフランが外に出ようとした時のことだ。すらりとした人影が、その前に立った。
 音もなくしなやかに。
 そして。
 ぱんっ!
 小気味の良い音がした。
「……エリスさん?」
 フランには一瞬、どうしてエリスが前に立っているのかも、どうして自分の頬が痛いのかすらもわからなかったようだが……
「私……」
「……殴ったのは、悪かったわ」
 ただそれだけ言って、エリスは踵を返す。
 フランは、まだしばらく呆然とそこに立っていた。
 その後、フランとエリスが喧嘩したという噂も流れたが……どちらもそれについてあまり語りたがることはなかった。


 その日、その声ならぬ声が聞こえたという者はアルメイスの学生の一割にのぼったという。それは年齢にも性別にも、また成績や血筋にも偏るものではなかったらしい。何か法則はあるのかもしれなかったが、誰もそれは知らなかった。
 それは、直接聞こえたという者も、交信だったという者もいた。
 呼び声だったと言う者も、呪詛の言葉だったと言う者も、意味を成さぬ言葉だったと言う者もいた。
 女の声だったと言う者も、男の声だったと言う者もいた。
 それらの証言からは、何一つ特定することはできなかった。
 呼ばれたと言う者も、どこへ呼ばれたのかわからない。
 ただ……いつしか噂が流れていた。
「あれはラウラ・ア・イスファルからの呼び声だ」と。
「人が人でなくなる魂の根源からの呼びかけだ」と。
 あれに応えられる者は、フューリアとしての更なる力を得るのだと。
 あの声が呼んでいた場所へ、たどり着けた者は……


「ねぇ、カレン。あれ……聞こえた?」
 修練場での訓練の合間に、そう聞いて回っていたのはクレアだ。今はカレンに聞いているが、誰にも同じようなことを聞いていた。
「全然」
 カレンはあっさり首を横に振る。
「そっかー」
「どうしたの?」
「んー……」
 少し離れたところにいるルーをちらりと見て、クレアはそっと言った。
「呼ばれた場所に……ラウラ・ア・イスファルに行ければ、力が手に入るって噂じゃない?」
「それって……噂でしょ?」
「そーなんだけどさー」
 にゃははーとクレアは誤魔化すように笑った。


 ラウラ・ア・イスファルがどこであるかについては、様々な噂が流れていた。
 それはたとえば、図書館にある秘密の扉から繋がった異世界であると。
 あるいは、研究所群の中に誰も知らない建物があると。
 修練場の結界の隙間が、その入口であると。
 微風通りの秘密の小路が、そこであると。
 だがまだ誰も真実は知らない。


「ラウラ・ア・イスファル探索だ!」
 ……言い出すと思った、と従者は内心で頭を抱えた。もちろん表にはおくびにも出していない。
 今、叫んだのはランカークである。
 彼女は自分の主がとことん強欲であることを知っていたので、今回も何かするのではないかとは思っていた……が。実にストレートに、噂に踊らされているような気がした。
「ラウラ・ア・イスファルを探し、その力を手に入れるのだ!」
 どうやって、とか、そういうことはランカークは何も考えていないだろう。
「更なる力……私にこそ相応しいと思わんか!?」
「――仰せの通りで」
 コメントは差し控えたい気分ではあったが、ここで受け流せずにはランカークの従者は務まらない。ただ、これからあてもない捜索が始まるのかと思えば、気が重かったが……
「なんか、忙しそうだね」
 そのとき、この屋敷の居候であるサウルが扉のところから声をかけてきた。
「ああ、いえ、それほどのことでは……何かご用で?」
 へこへこと、ランカーク自身がそう答える。
「うん、長いことお世話になったけど、そろそろ家を借りて引っ越そうと思うんだよ」
「そんな、ご遠慮なさらずとも」
 ランカークは慌てるようにそう言ったが……サウルは、もう引越しは決めているようだ。
「ううん、ずっと考えてはいたしね。物件は見つけたんだが……長いことお邪魔してたから、荷物も増えちゃったしね。引越しの手を借りたいんだけど、彼女をちょっと貸してもらえるかい?」
「それぐらいでしたら、いくらでも。……さあ行って、お手伝いしてくるんだ」
 ランカークは従者を、サウルのほうへ追い立てた。
「ありがとう、邪魔してごめんよ。実際に荷物を運ぶときには、もう少し人手が要るかなぁ」
 そこで従者はサウルの後について、部屋を出た。とりあえず、当面は『ラウラ・ア・イスファル探索』から解放されたらしい……執行猶予がついただけだが。
 ランカークはそう簡単には諦めないだろうから、彼女が他の仕事をしている間も、他に人を集めて探すだろう。
「そういえば」
 そんな彼女の考えを見透かしたかのように、彼女の前を歩くサウルは言った。
「ラウラ・ア・イスファルって場所を意味する言葉じゃないと思うんだけど、どうしてあんな噂になってるんだろうね?」
 少しの絶望と、少しの切なさと、少しの希望に、彼女はぎゅっと眉間に皺を刻んだ。

 その声はどこから聞こえたのか。
 その声は誰に向けて発せられたのか。
 いつしか『声』と結び付けられた『ラウラ・ア・イスファル』という言葉。
 風の噂は、『ラウラ・ア・イスファル』、その秘密の場所を囁く。
 だがそれは本来、『人の革新』という意味を持つ言葉だった。
 幾らかの生徒は知っていた。
 それが『フィルローの進化論』という本に載っている言葉だということを。
 幾らかの生徒は知っていた。
 かつて斃れた敵国の兵士が、いまわの際に漏らした言葉だということを。
 幾らかの生徒しか、まだ知りえなかった。
 ラウラ・ア・イスファル……その言葉の示す地が何処であるのかを。


■真実はここにある■
「……ラウラ・ア・イスファルを探すの?」
「うん! エリス、一緒に探そうょ」
 放課後、アリーナに向かう道。無邪気にそう言う“ぐうたら”ナギリエッタを、エリスは少し困惑の表情で見下ろした。
「でも、ラウラ・ア・イスファルは」
「知ってるょ、噂とは意味が違うんだょね。『人の革新』って意味なんだっけ? 噂を流した誰かが話を曲げちゃったのかなぁ」
「……それでも……探すの?」
 エリスが微妙な表情を崩さないので、ナギリエッタも少し不安が浮かんでくる。エリスはラウラ・ア・イスファルに興味がないのかもしれないと。
「うん。……この噂を流した人は、本当は場所はどこでもいいんじゃないかと思うんだょ。そこに至るまでに、ボクたちが競い合うことに意味があるんじゃないのかな」
 儀式とか、そういう意味なのではないか……と、ナギリエッタは言った。
「…………」
 エリスは何か言いたそうにいったんは口を開き、それを飲み込んだかのようにまた閉じる。
「何を口籠もっていらっしゃるのかしら」
 立ち止まって話し込む二人の間に、そこで口を挟んできたのは意外と言えば意外な、意外ではないと言えば意外ではない人物だった。
 それは、“桜花剣士”ファローゼ。
「何かご存知なのでしたら、今のうちに教えておいてくださらないかしら? これからラウラ・ア・イスファルの探索が進むにつれて、大きな事件が起こらないとも限りませんわ」
 ファローゼの澱みない挑発に、エリスはきゅっと眉根を寄せた。
「待ってください、ファローゼさん」
 そうファローゼを制止したのは“旋律の”プラチナム。その後ろから“黒き疾風の”ウォルガも来る。
 プラチナムはファローゼを止めているが、ファローゼと一緒に来たわけではない。プラチナムもエリスに話を聞きに来たのだが……いきなり聞こえてきたファローゼの言葉に困惑したのだ。プラチナムは比較的純粋に、ラウラ・ア・イスファルの噂にまつわる『更なる力』について聞きに来ただけだったからだ。
「エリスさんが何かご存知なら、わたしも教えて欲しいですが、これは大事件の予兆なのですか?」
「そうではないと思いまして?」
 プラチナムの問いに、ファローゼは冷静沈着に切り返す。それは当然と言わんばかりに。
 プラチナムは困って、エリスに聞く。
「リエラを得たフューリアの更なる力ならば、四大リエラを使役すること……くらいではないかと思うのですが」
「それは違うわ。四大リエラは複数のパートナーを持たないはずだから」
 だから、おそらく今の主が死なない限りは次の主を持つことはない。そして、四大リエラのパートナーだけは望んで得られるものではない。そう言われている。その言葉のままなら、『更なる力』を得ても、四大リエラの守護は得られないということだ。
 四大リエラは、けして複数のパートナーを持たない、望んでもその寵は得られない、その二つの言葉が意味する真実を正確に理解している者は少なかったが。
「そうでしょう、これはそういう単純なお話ではありませんわね。これから事件が起きて……そのときに、あなたの大切な人が巻き込まれても……それでもかまいませんの?」
 だから、今言えとファローゼは迫る。
 ナギリエッタははらはらと、その間で二人の顔を交互に見つめていたが……ふと、エリスと目が合った。いつのまにか、エリスはナギリエッタを見下ろしていたので。
「ナギリエッタ、ラウラ・ア・イスファルを探したいんだったわね」
「う、うん」
「……教えてあげるわ」
 何を、とナギリエッタは聞こうとして、その言葉を飲み込んだ。ナギリエッタの探しているものをエリスは理解しているのだから、何をと問うのは愚問だ。
「ラウラ・ア・イスファルは、ここよ」
「え……」
 それでもナギリエッタは、すぐにはその意味が理解できなかった。
 それはプラチナムもファローゼさえも、同じであったけれど。
 ウォルガだけが、ノートを片手に聞き返した。
「そう、あのとき、聞こえたのか?」
 エリスは首を振る。
「聞こえたわけじゃないわ」
 でも……
「ラウラ・ア・イスファルが場所を示すのならば、それはここ。アルメイスのことよ」
 エリスは淡々と言った。
 どこか遠くを見つめながら。


■噂の糸■
「噂の出どころ、でありますか」
 噂といえばネイ、と、ネイの元を訪れた者も幾らかいた。“暇人”カルロはただ聞くだけ、“炎華の奏者”グリンダは話を聞くと同時に釘を刺すために。そして“鍛冶職人”サワノバはグリンダと正反対に、その力を借りるために。
 しかし求めていたものは誰しもただ一つ、例の噂の出どころだ。
「蒼雪祭の準備にかまけてて、これといった情報はないですねぇ。お恥ずかしながら」
「そっか、じゃあやっぱり自力で調べるしかないか」
 カルロは、あっさりとそう言った。聞いてわからないなら、自分で調べるしかないと。
「いやしかしじゃな……噂の出どころ主は聞こえた声に、強く影響を受けてこのような噂を流しておるのかもしれぬ。見つけて保護してやらねばならぬと思うのじゃよ。そのために、ネイ嬢ちゃんの力を貸してはくれぬかの」
「あら、それはどうなのかしら」
 サワノバが今わからぬとも、これからそのために力を貸して欲しいと言うと……グリンダがそれに真っ向から異を唱えた。
「それはただのあなたの憶測だよね? 危険があるかもしれないんだから、その気もない人を巻き込むのはどうかしら」
「うむ……それはそうなのじゃが」
 サワノバの考えに、何か裏づけがあるわけではない。グリンダにそう言われれば、反論はできなかった。
「ネイ、私は勧めないわ。噂が危険に繋がっていないとは限らないんだもの。何か知っているなら教えて欲しかったけど……まったく関わってないのなら、これから深入りするのは止めておいたほうがいいと思うんだけど」
 ネイは対極にある二人の意見を聞いて、ふーん、と考え込んだ。
「じゃ、今回はグリンダの忠告に従うことにしますです。蒼雪祭がありますから」
「ううむ……ネイ嬢ちゃんがそう言うのでは仕方あるまいの。後は双樹会じゃのう」
 サワノバはそこから、双樹会……マイヤのところに向かうことにする。
 カルロはグリンダと共に、自力で噂の出どころを探すために出かけていくことにした。

 グリンダとカルロがそこから始めたように、噂の出どころを辿ろうという者は他にもいた。“賢者”ラザルスや“不完全な心”クレイ、“冒険家志望”テムがそうだ。そのやり方は……クレイ以外は大差ない形になっている。噂を追う方法は限られるということだ。噂の糸に絡め取られることなく、それを辿ろうというのだから……
 そして、それは総じて気の長い方法にならざるをえない。これは一人異なる方針を持っていたクレイも例外ではなかった。
 その結果が出るのは、もう少し先のことになる。


 サワノバがマイヤのところを訪ねたとき、マイヤは“深藍の冬凪”柊 細雪と話をしているところだった。
 細雪が警戒したほどにはマイヤのところに押しかけてくる者もおらず、それならばと細雪はサウルの引越しの話を持ち出したのだ。
 アルメイスにおいては仮に皇族であろうとも、一学生として扱われる。なので、サウルがどんな身分であろうとも、マイヤが何か便宜を図るようなことはないが……しかし、サウルがアルメイスの運営にも影響力を持った『高官』であったこともおそらくは事実。
 細雪は、マイヤにとってサウルがどのような位置にあるのかということから入らなくてはならなかったが、邪魔が入らなかったおかげでゆっくりとそれを聞き出すことができた。
「もちろん、敬意は払っていますが……学生の身分に上下の差はありませんので」
「そうでござるか。では、ご挨拶にも参られぬでござるか? なにやら、この転居、ここに来て急のことでござるが」
 細雪は、この転居に何か意味があるのではないかを言外に匂わす。
「ずっとランカーク君の屋敷に居候というわけにもいかなかったのでしょう。僕が顔を出しては、やはり特別扱いだと思われるでしょうから」
 そこで、マイヤは少し考え込んだ。
「……そうですね、細雪君がご挨拶に行くのなら、後でお話は聞かせてもらいたいですが」
 自分は立場上動けないが、動向は気になる、そういうところだろうか。
「ならば後ほど手土産でも用意し、ご挨拶に伺うでござる。戻り次第、ご報告に参上いたしますゆえ」
「ありがとう、引越し先がどんなだったか聞かせてくださいね。サウル君のことだから、きっと品のいいお屋敷でしょうが」
「そうでござろうな……おや、どなたかいらしたでござる」
 そこでノックの音がした。サワノバが訪ねてきたのだ。
 その用件はネイに持ちかけたものと同じ。
「一つ問題がありますね。サワノバ君、双樹会はアルメイスの学生の組織です」
「ふむ……そうじゃな」
「君が恐れているのは、学生たちが聞こえた声や噂に惑わされることですよね? 双樹会がそれに関わるものを追うとなれば、それに従事する者は、やはり学生。そして自らそれに志願した有志です。つまり、君が心配するあの声に惹かれた者たち、そんな彼らに大義名分を与えることになりますよ」
 それは双樹会があの不可思議な現象を追うことを許す、そういう意味になるのだと。一度許しを与えれば、止めることはできないかもしれない。
「今はまだ、あれをけして調べてはならないと言うほどにも、騒ぎも混乱も起こってはいません。逆にそんなことを言えば、今まで興味のなかった者までが何があるのかと興味を抱くでしょう……それも君の危惧が正しければ、学生たちを危険に招くことかもしれません」
 だから双樹会は、どちらにも寄らないとマイヤは言った。その答は、聞かれたならば答えるつもりで用意されていたもののようにも思えた。
「双樹会が動く、それさえも噂に踊らされた結果と言えるでしょう。緊急にどちらかを選ぶべき、それを定めるための意見があるならば、いつでもお聞きしますが」
 双樹会の立場は、静観。この後、マイヤが腰を上げることがあるかどうかは、まだわからなかった。
 サワノバが退出した後、細雪も会長室を後にした。
 サウルの元を訪ねるために。


■遠き呼び声■
 クレアが例の『声』について聞きまわっていることは、じきにクレアと少しでも親しい者なら誰でも知っているというくらいには知れ渡っていった。そしてそれと同時に、ルーがそれに賛同していないらしいことも知れるようになった。
 なぜなら……
「あのさ、カズヤはあの声聞こえた?」
 “福音の姫巫女”神音と“白衣の悪魔”カズヤの二人も、声の噂であるラウラ・ア・イスファルについて調べていた。そこへ偶然出会ったクレアは、やっぱり声を潜めて囁いたのだ。
「あれ? クレアクンもラウラ・ア・イスファルについて調べてる?」
 図書館の談話室で、調べ物をしていたカズヤにこっそりと聞いたクレアだったが、後ろから神音に屈託ない明るい声でそう言われて飛び上がった。
「そしたら、一緒に調べようよ。ボクも色々情報集め……え? なに?」
 しーっ! シーッ! とクレアは神音の声が大きいことをジェスチャーで示す。
「ルー」
 そのときカズヤが、少し離れた場所で本を抱いて立って……こちらを見ているルーの姿を見つけた。そんなルーに声をかける。
「ちょうど良かった。ルーに、聞きたいことがあるんだ」
 それはラウラ・ア・イスファルについて。
 だが、カズヤがそう言った瞬間に、ルーはうつむくように、ふいと顔を背けた。
「……興味……ないから……クレア、行くね……」
 クレアを待つことなく、ルーは書架の後ろに姿を消した。
「……ごめんね!」
 クレアは手を合わせ、神音とカズヤに軽く頭を下げてルーの後を追っていく。
「どうしちゃったんだろ、クレアクン」
「……ルーは、噂がお気に召さないんだろ」
 クレアは性格的に隠れて調べるということができないから、当然クレアがラウラ・ア・イスファルに興味を抱いて話を聞きまわっていることはルーも知っているだろう。ずっと一緒にいるのは変わりないのだから。だがルーは、クレアの行動に反対しているのかもしれないとカズヤは思った。
 二人の間にどういうやりとりがあったかは、わからない。喧嘩をしているようには見えないが……クレアはルーの目を盗んで、話を聞いているつもりだったのかもしれない。


 “天津風”リーヴァと“緑の涼風”シーナは、ここのところ一緒にいることが多くなった。
 ただそう言うと、リーヴァとシーナが良い仲のように聞こえるが、そうではない。実際には二人の間に、クレアとルーを挟んでいる。さらにここに“怠惰な隠士”ジェダイトを加えて、最近は5人で見かけることも多くなっていた。
 もっとも、5人でいて楽しそうなのはクレアやシーナたちで、ルーはリーヴァやジェダイトに慣れたというわけではない。この二人の男子生徒のことを、ルーはやはりいつも警戒し、少し距離を置こうとしているようだった。
 その放課後にも、シーナはお気に入りの猫耳のアクセサリーを可愛らしく揺らして、リーヴァとジェダイトと連れ立ってクレアとルーのところに行っていた。クレアがラウラ・ア・イスファルの噂に興味を持っている話は、彼らも直に聞かれるなり、その様子を見かけるなりして知っていたし、シーナやジェダイトは自身もあの声を聞いていたから、当然のように三人も協力して調べようという話になったのだ。
 さて、これは図書館でカズヤたちがクレアとルーの二人と会うよりも前の話だ。
 普通に三人は、クレアに一緒に調べようと持ちかけ……
「え、ええっとぉっ」
 クレアは慌てたようだ。すぐ後ろにルーがいたせいだろう。
「ルー君は、この調査に反対なのかい?」
 その様子から、リーヴァたちもそのことには気がついた。だが、それを問うべきはリーヴァ一人だ。
「……それは……」
 ルーはやっぱり、うつむいてしまう。
 リーヴァは、口ごもったルーを覗き込もうとして……
「…………ッ!」
 突然その前を、横に飛びのいた。
 リーヴァをじっと見ていたら、リーヴァが一瞬姿勢を低くしたのがわかっただろう。
 ルーはびっくりしたように顔を上げたが、そこからは動かなかった……ルーが顔を上げると、今リーヴァがいた位置には、入れ替わったかのように“笑う道化”ラックがいる。
 ラックはささっと、手を後ろに隠したように見えた。後ろに回れば、何も持ってはいないのだが……しかし。
「なんやぁ、リ〜ヴァ君〜。突然、サイドステップなんぞしたりして」
 そう笑ってラックは言うが、いつのまにかそこに現れたラックのほうが一般的には怪しいだろう。
「いや……こう、何か、虫が知らせたと言うのかな」
 危険が迫っている気がしたんだと、リーヴァはかすかに頬を歪ませた。
 何故……はともかく、何のために、ラックが自分の後ろに立っていたかは、リーヴァには理解できた。ラックの特技を薄々でも知らなければ、蒼雪祭のカラクリ人形だって作ろうとは思わないだろう。
 ふふ……
 フフフ……
 と、本人たちにとっては牽制し合いなのだが、ハタから見たら激しく怪しい笑みとアイコンタクトが交わされた後、ラックがまずその均衡を破った。
「また、リーヴァ君がルーのこと困らせてたんとちゃう?」
 にこやかにラックは、そうルーに問いかける。
「え……」
 それにルーがやはり口ごもっている間に、リーヴァが反論を展開する。
 リーヴァにも多少困らせている自覚がないわけではないが、それをラックに言われるのはどうかと思う。
「私が何をしたって言うんだ」
「黙りや、変態。水着のサイズを知っとったんは十分ヤバイで」
 ストーカーちっくや、と、これまたにこやかにラックはリーヴァの反論を斬って捨てた。
 そこでルーも、夏の水泳大会のことを思い出したのか、ぱっと頬に朱を走らせる。
「すまへんなあ、うちのグループのが迷惑かけて」
 ルーはすっかりうつむいて、じりじり下がりかけていた。
「いまさら思い出させて、恥ずかしがらせるキミも、十分変態臭いぞ!?」
「なんや、ボクは謝っとるだけやん!」
 リーヴァとラック、どちらが変態かと、すっかり当初の論点からずれまくった論争に成り果てた隙に……

「……で、ルーさんは反対してるの?」
 シーナやジェダイトが、クレアにこっそり話を聞く余裕はたっぷりとあった。ルーはリーヴァとラックに挟まれて、クレアを気にできる状況ではなかったので。
 シーナがクレアにこそっと囁くと、クレアもごく小さな声でそれに答えた。
「うん……ルーはね、意味ないって言うんだ」
「意味ない?」
 シーナは首を傾げる。
「ラウラ・ア・イスファルなんて場所はないって。それは『フィルローの進化論』って本に出てくる言葉で、『人の革新』っていう意味なんだって」
 へぇー、と、ジェダイトとシーナは二人して感嘆の声をハモらせた。二人はそういうことは知らなかったので、純粋に感心する。
「詳しいな」
「うん……前に読んでたんだよ。それはね、ちょっと聞いたことあったんだ」
 少し沈んだ様子で、クレアは続ける。
「やっぱりムダだと思う? 探しても」
 普段はやはり明るいクレアに思いがけず真剣に聞かれて、ジェダイトは少し慌てる。
「いや……」
「わたしは、ムダだとは思わないわ」
 すかさず答えたのはシーナだった。クレアの不安を、その涼風で吹き飛ばすように。
「だって、声が聞こえたのは事実だもの。聞こえなかった人もいるし、同じことが聞こえたわけじゃないけど」
「そうだな、その聞こえた声の源に、ラウラ・ア・イスファルという名前がついただけかもしれない」
 ジェダイトも気を取り直して、シーナの言葉を後押しする。
「俺にも聞こえたが」
「ジェダイト、聞こえたの!?」
 クレアは飛びつくように、声が聞こえたと言ったジェダイトを問いただした。
「あ、ああ」
「なんて聞こえたの?」
「意味はわからなかった」
 ただ……何か悲壮な感じがしたと、その印象だけがジェダイトには残ったようだ。
「そうなんだ……」
 クレアはそれを聞いて、考え込んでいる。
「わたしも声は聞こえたわ、クレアさん」
「シーナも? シーナにはなんて聞こえたの?」
 シーナはクレアに真摯な瞳を向けられて、少し逡巡した。
「ええっと……わたしのは、女性の声で『温水プールに秘密が隠されているわ』っていう変なのだったの」
「温水プール!?」
 変よね……と、シーナ自身も、それがおかしな話だとは思ったようだ。
 それでもクレアは、それも真面目に受け止めたようだった。
「噂には、研究所敷地にあるって言うのもあったんだよね」
「じゃあクレアさん、後で行ってみる?」
「うん!」
 ハズレだとは思うけど、とシーナはつとめて明るく茶化すようにクレアを誘う。だが、クレアはそれを飲み込む真剣さで、勢い込んでうなずいた。
「まあ、そっちもいいけどな。まずは図書館に行ってみないか? 調べれば何かわかるかもしれないだろう?」
 ラウラ・ア・イスファルについてだって違うことがわかるかもしれないし、話をするにも談話室でゆっくりすればいい。
「わたしは、噂をもっと集めてみたいわ。聞こえた人がたくさんいるのなら、噂の中に真実が紛れてる可能性だってあるもの」
「そうだな、図書館には、聞こえたやつらが調べに行ってるかもしれないぜ」
 噂を集めるにも、人が多いところがいいはずだ。ひとまずと、ここはジェダイトが押し切った。これはリーヴァと打ち合わせ済みで、まずはということだった。
 そこで、まだルーを挟んでもめているリーヴァとラックのところにジェダイトが場所の移動を告げにいく。
 残ったのはシーナとクレアで……こうなるとシーナが気になるのは、クレア自身があの声を聞いたかどうかだった。
「クレアさんは……あれ、聞こえたの?」
 あまりに真剣だから、聞きづらいような気もした。それでも、シーナはそれが気になったのだ。
「うん」
 多分、と曖昧にクレアは答えた。
「なんて?」
「たくさん聞こえたような気がするから、よくわかんないんだよね」
「たくさん?」
「たくさん……」
 自分を呪う声がしたような気がすると、クレアは呟いた。


「クレアさん」
 一行が図書館に向かう途中のことだった。
 “抗う者”アルスキールと行き会ったのは。
「少し聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
 アルスキールはクレアの姿を探していたようで、出会ったのも偶然ではなかっただろう。
「なに? ええと……あれかな、あの声の」
 やはりルーを気にしながら、クレアはアルスキールに答えた。
「はい。クレアさんもあの声を聞いたんですか?」
 シーナはその問いに、クレア自身よりもドキドキした。
 実際クレアには、シーナにその話をするときにも、それほど沈んだ様子はなかった。どこか困ったような、照れたような、そんな笑みを浮かべていたような気がする。
 今もそうだ。アルスキールの問いを受けて……
 話の内容からすれば、そんな態度はおかしいような気もした。ラウラ・ア・イスファルについては、他人の聞いた声については、あんなにも真剣に問いかけてくるのだから、自分の聞いた声のことだけに態度がおかしい……いや、おかしくはないのかもしれないが。
 クレアが探しているのは……ただの、そこに行けば力が手に入ると噂される場所じゃない。自分を呪う、無数の声の源だ。
「うん、多分」
 クレアは、アルスキールにも同じように答えようとしていた。
「聞こえたよ、色々ね」
「そうですか」
 アルスキールは何を聞いたかまでは問わない様子だったので、シーナは少しほっとした。
 だが、それも束の間だった。
「では、どうしてそんなに声や力にこだわるんですか?」
 シーナはまた鼓動が速くなったが……これには、クレアはシーナが思ったこととは別の答えをあっさりと告げた。
「やっぱり力が欲しいからかな」
「でもクレアさん、実技の成績は良いでしょう? 平均以上の実力はあるのだと思いますが、それでなぜ……力のない人が力を求めるならわかるのですが……」
 にゃはは、とクレアは笑った。それはいつもの笑いかただ。
「実技の成績は今は悪くないけど、きっと手を抜いたら落ちるよ。体を動かすのはもともと好きだけど、今はそれだけじゃないんだよね。頑張ってるって自分で言うのは、やな感じかもしれないけど……」
 頑張ってるよ! そう明るく言う。
 ラウラ・ア・イスファルや声の話題のときには渋い顔をしているルーも、そのときには、かすかに微笑んでいたように思えた。
「今回もですか? だから?」
「うん。もっと強くなりたいよ。自分の弱いところを克服したい。だから頑張る」
 やはりそこでは、ルーは顔を顰めたが。
 強くなること自体が目的で、強くなったらそれを使って何かをしたいというわけではないように、クレアは語った。はしゃいでいるかのような明るい声だったが、言葉の意味するところは真面目だ。
 純粋に力を求める……ラーナ教徒にはそれも珍しいことではない。アルスキールには、まだそこにクレアの明確な信念は見出せなかったが、揺るぎない意志だけは感じ取れた。その胸の奥には、力を求める理由も密やかに抱き隠しているような気もした。
「……じゃあ、僕は君を手伝いたいと思います」
 少し迷って、アルスキールは、そう決めた。
 そして一行は、一人増えることとなったのである。


■フィルローの進化論の向こうに■
 ラウラ・ア・イスファル探索。はっきりと最初にそれを名言していたのは、ランカークだ。だが彼の人望のなさゆえに、そこに集った者の数は片手の指で悠々足りるほどだった。
 ちなみに集まってきた少数の者たちの中には、リーヴァの名も含まれている。ジェダイトたちと合流する前に、ランカークの屋敷に顔だけ出して、名前を連ねてきたというだけであるが。
 それを受け付けたのは相変わらず“貧乏学生”エンゲルスだったので、ランカーク自身はリーヴァの参加は知らないかもしれない。
 ランカークの屋敷に早々に駆けつけて、そしてランカークを手伝って捜査しようとしていたのは、エンゲルスの他には、ランカークを利用しようとやってきた“銀晶”ランドだ。
 いや、ランドも、悪意でランカークを利用しようというわけでもない。ミステリー研究会に所属する自分と仲間の知的好奇心がラウラ・ア・イスファル探索に駆り立て、その調査にランカークを利用しようというだけのことだ。別にランカークと目的が違うわけではないのだから、利用するというのは少し言いすぎかもしれない。
 二人がランカークに対して勧めたことは、ほぼ同じだった。
「なんでも図書館に一冊しかない本に、ラウラ・ア・イスファルについて書かれているそうです。まずは取り急ぎ、この本を手に入れて調べるのが良いかと」
 そう言ったのはランドだった。
「そうですね、後、フランさんに協力を仰いでみては如何でしょう」
 図書館に行くのならばと、エンゲルスが追って提案する。
「ふむ。それは良いかもしれん」
 集まった人数が少ないのでランカークは不貞腐れるかと思いきや、やる気はマンマンのようだった。フランと協力して調査するということに、ランカークは非常に気をよくしたようだ。早速、図書館に向かおうと言う。
『声が聞こえたのは自存型のパートナーだけではないか』
 というエンゲルスの立てた仮説は、この後すぐに間違いであることが判明したが、エンゲルスにとっては幸いなことに、そんなことはランカークにとっては些細なことであったようだ。
「善は急げだな」
「俺も、お供いたします。ランカークさんにもしものことがあっては大変ですからね」
 そのエンゲルスの発言に、おべっかが上手いとランドが目をやると……いそいそとエンゲルスは支度を始めていた。
 ……本気かな、と、何かコワイ考えがランドの脳裏をよぎる。
 いや、と軽く頭を振って、ランドはそんな考えを追い払った。
 まさかランカークを本気で守るために、ついていこうだなんてそんなことは……と。
 ……なお、本当のところを言うと。
 エンゲルスはとっても本気だった。


 『フィルローの進化論』は非常に難解な書物であり、読み解くにあたっては極めて深い知識と古語の書籍を翻訳する技術が必要となる。それなくしては、その本にある『ラウラ・ア・イスファル』の言葉にさえたどり着くことはできなかった。
 最初に本自体を膨大な蔵書の中から見つけ出して手にしたのは、“影使い”ティルだった。だが、普通には理解しがたい古語と現代のものとは異なる文法の群れの前に、読破は挫折した。それはもとより、予想の範囲ではあったのだが。
 さて本自体は二番手に譲られ、ティルはそこから博学で知られるフランのリエラ、イルズマリの元へと赴くことにした。こちらはこちらで、すでに大勢の先客に囲まれていた。
 まあ最初から堅実に一兎に絞っておけば良かったと思うことも、良くあることだ。
 本のほうへと視線を戻すと、それを手にした二人目はカズヤであった。だが、これも内容についてはまったくお手上げで、本は三人目の“探求者”ミリーの手に渡る。
 ここで初めて、『フィルローの進化論』は一所に長くとどまることとなった。ミリーは読書家であり、研究家の側面もあり、難解な書物を翻訳し、かつ解読し、理解できる教養を備えていたからだ。
 また、ミリーは『フィルローの進化論』に至る前に、他の書物からも『ラウラ・ア・イスファル』の言葉を探し出していた。
 『ラウラ・ア・イスファル』が『フィルローの進化論』に初めて出てくる造語でないのならば、他の書物にもそれはいくらか現れる。そこでは、『フィルローの進化論』とは異なる意味を持たされているかもしれないし、言葉のままの意味かもしれない。
 単に言葉にしても、時代の中で変化した言葉は、異なる意味で残されていく。仮に古語『イスファル』だけならば、帝国全土を含む北方地方を示す名称『イシュファリア』に変化し、その名残を残している。
 革新の地イシュファリア。ラーナ教に殉ずるこの北の土地は、伝統という妄執に縛られることなく、須らく新しきに革めることを善しとする地だ。より良きものへ。より強きものへ。物も。人も……
 その途中には、試行錯誤も、進歩への犠牲も、ありもしたが。
 さて話を戻すと。ミリーは他の者のように、『フィルローの進化論にラウラ・ア・イスファルの手がかりがある』という噂に素直に導かれてこの本に出会ったのではなく、ラウラ・ア・イスファルという言葉の記載された書物を調べていく途中経過にあったのである。
 ただ、その頃にはこの本を読むための順番待ちができていて、ミリーもただ自分で読み解くだけでは解放されないような雰囲気になりかけていた。
 自分ではフィルローの進化論を読みこなせない者も、ミリーの訳に期待して周囲を囲んでいる。
 ラシーネも、その一人だった。何かわかるかとミリーの手元を覗き込んだが、それで何かが読み取れるほどには甘い本ではないようだったので。
 そして、ランドもそこにいた。訳を写させてもらえるなら、本を借りるよりずっと手間が省ける。残りの二人は、もうフランのところだ。
 カズヤたちがルーとクレアに出会っていたように、そのころにはクレアたちの一行も図書館に到着していた。だがルーには相変わらずラウラ・ア・イスファル捜索の同意が得られたわけではなくて、リーヴァやジェダイトが資料を探している中、ルーは一人違う本を探していたのだった。
 それでもクレアがラウラ・ア・イスファルを探すということ自体は、クレアを囲む者たちの数の力で押し切られたようだ。ルーがクレアを表立って止める姿は見られなかった。
 クレアの方が、微妙に機嫌の悪いルーに気を遣っている様子は、やはりあったけれど。
 リーヴァとジェダイトはミリーの手元にある本が気になって様子を見に行ったりもしていたが、ひとまずジェダイトはクレアを連れ、リーヴァはルーにくっついて、資料を探していた。シーナは談話室で声についての噂を聞き集め、アルスキールとラックは遊撃隊のように個人で資料の棚と、ルーたち、クレアたちの間を行ったり来たりだった。
 資料を探すリーヴァが、捜索に非協力的なルーにくっついてちゃんと資料を探せていたかは、お察しくださいというところだ。ただ、リーヴァとしてはルーと話をすることも目的だったので……
「ところでルー君、クレア君は、元からあんなに力を求める人だったかな?」
 リーヴァは軽く屈んでルーの耳元に顔を近づけ、ひそひそと囁く。
 他の話ならば無視されてただ逃げられたかもしれなかったが、クレアの話だったからかルーは顔は上げずに急いで離れはしたが……答えもした。
「前から……そういうところはありました」
 か細い声で、ルーは、それが最近強くなってきたみたいだと続ける。
 その理由をリーヴァが訊ねても、ルーは答えなかった。ただ、少しリーヴァを盗み見た。その視線は知ってるのではないのか、気がついているのではないのかと、窺うようにも見えた。
 しかし、それも一瞬のことだ。わずかでも顔を上げれば、身長差のせいで間近に下を向くリーヴァの唇がある。髪や吐息の気配が耳元にかかるので、それは顔を上げなくてもわかるのだ。
「ルー君は、ラウラ・ア・イスファルをどう思っているんだい?」
 ルーの体はリーヴァが密着してくるのを避けて、じりじりと横に逃げていく。そろそろ書架の奥まで追い詰められようかというところだ。
「……くだらないです」
 行けば力が手に入る場所なんて、と。言ったところで、ルーの肩は奥の壁にぶつかった。もうその先には行けない。
 追い詰められたことに気がついて、ルーはさらに身を縮めた。それでもリーヴァの囁きは追いかけてくる……
 と思ったところで。
 ひゅっと風切る音がした。
 ルーがそちらを見ると、ルーに落ちていた人影は横へと逃げていた。また、その向こうにラックの姿がある。ラックに背後を取られて……あるいは取られる前に気付いて、リーヴァが避けたのだろう。さっきと同じだ。
「また何ルーを虐めてんのや、この変態ッ」
「何もしていないだろう!」
 リーヴァの主張に、ルーは思わずふるふると首を横に振った。
「ほれ、ルーかて虐められてたてゆうとるがな」
「違う。まだ何も……」
「まだ?」
「…………」
「……あれやな、ルー、もし困ったことがあったら遠慮なく呼んでな?」
 グループ員から犯罪者を出すのは避けたいと、ラックは珍しく眉間に皺を刻んで言った。

 ラウラ・ア・イスファルについての他の資料を探していたジェダイトたちのほうはと言えば、それはミリーの足跡を追うような形になっていた。ただ資料の本を読むのがジェダイトだけではミリーのスピードには追いつけないようで、次第にジェダイトの居場所は閲覧室の机に固定され、アルスキールとクレアが探してくる資料の本の山を確認する作業に追われるようになった。しかもミリーほど的確に資料を探せないので、すべての本が正解なはずもなく……いや、ラウラ・ア・イスファルの言葉が見つけ出せないことのほうが圧倒的に多く。
 ある程度、未読の本が溜まったところで、アルスキールはシーナの様子を見に行った。この図書館でできることはもう一つあって、それをしに……つまり、イルズマリの話を聞きに行くという目的もあった。
「進んでますか?」
「気が遠くなりそうだ」
 アルスキールと共にシーナがそこに戻ってきたときには、ジェダイトは悪夢のように読みにくい文字に酔って憔悴していた。
 シーナたちが戻ってくるときには、同行者がもう二人増えていた。一緒に来たのはコルネリアと“弦月の剣使い”ミスティだ。
 コルネリアとミスティはシーナと同じで声を聞いた者を探し、その情報を集めていたのである。同じことをしている者同士、協力することはやぶさかではなかった。最初に出会っていたのは、ミスティとコルネリアのほうである。そのあと、二人がシーナと出会った。
 初めから声を聞いた者を探し、その声と印象を集めていたコルネリアとミスティのほうが、すでに集めた情報は多かった。もちろん、それが何かに使えるかは、まだわからないが。
 ミスティは声を聞いていなかったが、コルネリアに聞こえた声は呼び声。
 声は呼び声に聞こえた者が一番多く、寂しいとか切ないとか、そういう印象を持った者が多いようだった。コルネリアとミスティが話を聞いた“相克螺旋”サイレントなどは、声を聞いて泣いたと言う。『声の主』と友達になろうと思うと言った者は聞いて回った中でも、さすがに彼だけだった。
 純粋な気持ちで声の主を探していることはわかったので、コルネリアはサイレントにも協力を申し出たが……彼はランカークが探索を始めたことを聞いて、そちらに行くつもりだと言った。
 いや、わざわざサイレントが図書室までやってきたのは、ランカークがこちらに向かったと聞いたからだ。ランカークが暴走して、何かやらかすのが心配らしい。
 彼はそのまま、ランカークの姿を見つけてそちらへ行った。案の定と言えば案の定、ランカークの回りで騒ぎになっていたので……それは正確には、フランの回りで騒ぎになっていたが正しいが。
 ミスティとコルネリアも、さすがになにごとかと様子を見に行った。このころシーナとアルスキールはフランのところにいたので、彼らが合流したのは、ここであった。
「シーナのほうは?」
 クレアが聞くと、シーナはうなずいて、コルネリアとミスティと合流したいきさつを話し始めた。
 談話室には、いつもよりも人が多かったと。その中心はやはり……


「お茶がはいりましたわ、フラウニー様」
 談話室には備え付けのティーセットがある。これを使って、ときどき女生徒たちが上流階級のお茶会の真似事をしていたり、本当の貴族の子女たちがサロン代わりにお茶会を開いていたりする。
 利用自体は自由だったので、フランを囲んでお茶会をと考えた“風曲の紡ぎ手”セラは茶菓子と茶葉だけを持ってくればよかった。フランを訪ねてみれば、ちょうどセラとは別の茶葉だけを持って“蒼盾”エドウィンが来ていたので、茶会は少し本格的になった。
 最近になって談話室のストーブには火が入るようになったので、ポットを置いておけば、おかわりはいちいち給湯室まで行かなくても済みそうだ。だが最初の一杯は給湯室でいれて、盆に載せ、セラはそれを談話室まで運んできた。
「……ルカ様、何かありましたの?」
 しかし戻ってきた扉のところで、談話室で待っていた者たちに騒ぎが起こっていることに気がつく。怒っている“七彩の奏咒”ルカを“双面姫”サラが、ランカークをエンゲルスが宥めているようだった。
 セラが給湯室に行く前からフランのところにいた者は、エドウィンの他にはルカと、“黒衣”エグザス、“自称天才”ルビィだった。エドウィン、エグザス、ルビィの男性三人はラウラ・ア・イスファルと声、それに関わる話をしていたが、エグザスは見た目の通り、エドウィンは見かけに寄らず紳士であり……ルビィは少し微妙ではあったが、それでもフランとイルズマリの扱いを間違えるようなことはなかったので、セラは安心して席を立ったのであるが……
 そうでない者がセラの離席中に現れたようだ。増えていたのは、サラの他には“黒い学生”ガッツ、それからティルとランカークとエンゲルス。それに加えてシーナとアルスキール。一気に人があふれていた。逆に、フランとイルズマリ、そしてエグザスとルビィの姿がない。
 セラはカップが7つも足らないと思いつつ、誰が騒ぎの原因かと思って見回す。
 初めはルカとランカークが喧嘩をしたのかと思ったが、二人は同じ人物に対して怒ったらしい。
 二人を怒らせたのは、ガッツだったようだ。
「……何がありましたの?」
 重ねて説明を求めるセラに、エドウィンが応えた。
「こいつ、イルズマリが例のラウラ・ア・イスファルの噂を流したんじゃないかって言ったんだよ」
「まあ」
 それでセラも顔を顰める。
「それで、ルカさんとランカークさんが『失礼な!』って怒ってしまいましたの〜」
 そう、サラが続ける。本当なら、サラはフランのところに長話をしに来たわけではなかった。野次馬も含めて人だかりと言えるほどに人が集まってきていたが、中にはサラのように騒ぎのために用を済ませられない者も混ざっている。
 セラが話を聞いている間にランカークのところには更にサイレントもやってきて、あちらはエンゲルスとサイレントの協力で、どうやら室外へ一時退場となったようだ。頭に血が昇っている人間が多くいると話がこじれるので、それはありがたいことだった。
「どうしてそんなことすると思うんですか!? イルズマリさんはフランさんとずっと一緒にいるんですよ」
 残るはルカだ。ルカが怒っているのは……フランとイルズマリが常に一緒にいることは、みんなが知っていること。ならばイルズマリにそんな疑惑をかけることは、フランに疑惑をかけることに等しいというわけである。少なくともフランが知らない間に、そんなことはできないのだから。
 ルカは、まさに噂を警戒してフランの横にいた。フランに失礼なことを言いに来る者はいないかと……以前の反省を活かして。
 悲しいかな、的中である。
「だから、違うなら謝るって言ってるだろ」
 ガッツはそう言うが……しかし、ルカにとっては謝ってすむ問題じゃない。やっと修復を終えたフランの硝子の心を、これが再び壊すかもしれないのだから。
「だからぁ……噂を流した犯人はラウラ・ア・イスファルが何なのか知ってないと、あんな言葉出てこないだろう?」
「だから!? そんなの理由になんないもん!」
 ラウラ・ア・イスファルという言葉をどこかで見かけたり、小耳に挟んだりしたという者は他にもいる。そうでなければ、ここのところの図書館がこんなにわらわら混んでなんているものかと。
 ここにいるサラも、その一人だ。通り一遍な単語の意味くらいならばわかると主張する者は、他にもいるだろうか。それでもイルズマリを訪ねてきたのは、さらに詳しいことを知らないかと思ったからだ。
 だから言葉を知っていることは理由にならないと、ルカは半泣きで主張する。
「だから悪かったって……」
「ルカさん、落ち着いてくださいませ〜」
 興奮冷めやらぬルカをサラが宥めている間に、セラはガッツの前に出た。
「それで、もう御用はおすみですの?」
 聞きたいことは聞いたか、とセラはガッツに問う。
「もう一つあるな。過去にラウラ・ア・イスファルについて書いてある本を読んだ人物について……」
「まあ、そんなこと……イルズマリ様やフラン様がご存知なことではありませんわよ」
 不本意な状況になって無愛想に答えたガッツに、セラはにこやかに告げた。
「仮に幾人かお知りになっていらしても、イルズマリ様が噂を流したなんておっしゃるような粗忽な方には、お教えにならないと思いますわ。その方に、ご迷惑がかかっては大変ですもの」
 にこやかだが手厳しい言葉だ。
「さ……もう行かれてはいかがでしょう。本を読んだ方を調べたいのでしたら、他の方法がよろしいですわ」
 お帰りくださいませ……セラは穏やかではあったが有無を言わせぬ調子で、そう言った。


 ガッツが去って、談話室は落ち着きを取り戻した。それぞれ、その場に残った者たちは椅子を整えてテーブルを囲む。
 さきほどの騒ぎの際にエグザスとルビィに庇われるように連れられて外に出たフランはまだ戻ってこず、この段階で話を聞くのは半ば諦めた者もいた。出て行く前にイルズマリはかなり怒っていたし、フランは相当顔色が悪かった。
 それでも待つ者は、雑談をして待っていたわけだが……
「それでもまだ、フランさんは戻ってきませんでしたので」
「それでね、こっちに戻ってきたのよ」
 そうシーナとアルスキールは、見てきたことを話し終えた。またこの雑談の間に、コルネリアたちとシーナたちは出会ったわけである。
「そうか、向こうも大変だな」
 まだお茶を飲みながら、フランの帰りを待っている者たちもたくさんいるだろう。
 だがジェダイトに、他人に同情している時間はなさそうだった。積みあがった本は、減る気配もない。
「私、お手伝いしますね」
 その様子にミスティは苦笑を浮かべ、ジェダイトの前の椅子を引いた。ミスティは本も調べようと思って図書館にやってきていたので、ちょうどよいとも言えた。
「助かるよ、まいった」
「ジェダイトさんも、聞こえたんですか?」
「ああ……」
「なんて?」
 コルネリアが身を乗り出す。
「意味はわからなかったよ」
 そう……とジェダイトの答にコルネリアは考え込んだ。まだ、情報が足りないような気がする。
 悲壮な呼び声。だが、何を嘆いているのかわからない。それは助けを求めているのとも違う。ただ、呼んでいるという者が最も多い。
 呼んでいるのだから、声の主は自分のところに来て欲しいのだろう。それは誰にか。特定の誰かか、不特定多数の誰にも、なのか。
 コルネリアも声に応えてやりたかったが、どんなに証言を集めても、それだけでは声の正体は知れなかった。証言の中には妄想のようなものまであって、かえって混乱していく。
 そしてそこに被さる噂は、なんだかどこか噛みあわなかった。噂は……意図的に、声の意味を捻じ曲げているようだ。
「まだ時間はかかりそうね?」
「ああ」
 シーナとコルネリアはまた話を集めに行くと言って、閲覧室を出て行った。


 時は少し戻り、ガッツが不用意な発言でイルズマリを怒らせたとき。エグザスとルビィは、フランの異変にすぐ気がついた。
 ランカークが椅子を蹴ってガッツに掴みかかり、ルカが甲高い声でガッツを非難したとき。フランは一瞬何を言われているのかわからない表情を見せ……それからすっと青褪めた。その瞬間に、その意味に思い至ったのだろう。その顔をのろのろとうつむかせ、唇を噛んでいた。
 エグザスが立ち上がるのに、迷いはなかった。かつてフランが憔悴したときのような状況になるのならば、今度は絶対に阻止するつもりだったからだ。
「レディフラン……少し外に出ましょう、ここは喧しすぎる」
「あ……」
 フランの手を取り、エグザスは立ち上がらせた。ここでルビィも慌てて、フランの横につく。
「オイオイ、抜け駆けはなしだぜ! あー……フラン、馬鹿の相手はランカークに任せよう。ちょっと外で綺麗な空気を吸おうぜ?」
 二人に引かれるまま、フランは談話室の外に出た。
「イルズマリ殿も、こちらへ」
 エグザスがイルズマリも呼んだ。イルズマリはフランが出て行くので、慌てて後を追ってきたというわけだ。
 外に出たからといって、それだけでフランの気持ちが切り替わるわけではなかったが……
「すみませんでした……少し動転してしまったようですわ……」
 フランは、外に連れ出した二人の配慮は理解したようだ。あそこにいれば、泥沼の言い合いは更に深く傷をえぐるかもしれなかった。
 そして、図書館を振り返った。
「ルカさんと、ランカークさんは大丈夫でしょうか。私のために……」
「大丈夫だ。あそこにいた者はみんな、彼らに味方するだろうから」
 心配は要らないと、エグザスは請合う。
「そう……ですか……?」
「大丈夫……みんな貴女の味方だ、レディフラン」
「自信を持てよ! ほら」
 枯色に染まった木の葉が落ちる中、そこで少しフランも落ち着いたように見えた。
「すみません。私が弱いから……」
「そうだなあ、喧嘩はやられっ放しじゃダメだ」
 うんうん、とルビィがうなずいて言う。
 エグザスはいったい何を言い出すんだという顔でルビィを見たが、ルビィはかまわず続けた。
 しかも、微妙に意味がずれていく。
「反撃しないと一方的な相手ペースになる。理想は一撃必殺だが、一時的に行動不能にするだけでも十分だ。狙うべきは顎。こう、内側に潜り込んで下から衝撃を与える。脳みそは縦揺れに弱いからな。そうそう、鍛えてない拳で殴ると自分も大怪我するから、ちゃんと掌を使うんだぜ?」
 最後はエグザスを相手に使って、型を見せる。エグザスは嫌そうに顔を顰めたが、ルビィの振り払うところまではしなかった。フランの前だったので、あまり見苦しいところは見せたくないのもあった。
「まあ」
 フランは真剣に見つめている。話が逸れたことは、フランにとっては良いことだったようだ。
「あら、フランちゃん」
 そこで、どうしたの、と声をかけてきたのは“泡沫の夢”マーティだった。
「マーティさん」
「ちょうど良かった、フランちゃんに聞きたいことがあったのよ」
「え……私に?」
 マーティはフランに駆け寄って、その手を取る。エグザスはマーティが何を言い出すか警戒したが、その口から出たことは……
「フランちゃんなら、図書館の秘密の扉の場所、知ってるかしら?」
「えっ……それは」
 懐かしい、そして少し苦い思い出に触れられて、フランは驚いたように二三度瞬きした。
 これも噂の一節だ。いわく、そこは図書館にある秘密の扉から繋がった異世界であると。
「知っていますけれど」
「教えて! そこへ行きたいの」
「でも……人が入り込まないように、今は封じられているはずですし」
「なんですって!」
 マーティはショックを受けたのか、わなわなと震える。
「そ……それじゃ駄目なんだ!」
 そして更なる驚きにフランは瞳を見開いた。マーティが男言葉を使うところに初めて遭遇したのもあるが。
「……我々は大変な思い違いをしていたのかもしれない……このままではアルメイスは滅亡するっ!」
 トランスに入って、どこから湧き出たのかよくわからない考えを叫ぶマーティを初めて見たというのも大きいだろう。
「ラウラ・ア・イスファルとは力を得られるという甘言を流し、集団催眠によってフューリアを操ろうとしている大いなる存在のことなんだ!!」
 ちなみに彼の仲間の証言を得られるなら、これは割と日常茶飯事のことなのだが。初体験だと、結構びっくりする。
「だからね、とりあえず場所だけでも教えてくれない?」
「は、はい……」
 その一瞬前の激しさはどこへ行ったのか、あっさり元に戻ってマーティは再度フランの手を取った。
 毒気をすっかり抜かれたように、こちらです、とフランはマーティを案内する。エグザスとルビィもついて行かざるを得なかった。
「でもよう、その考えはどこから出たんだ?」
 マーティにそう訊いたのはルビィだ。
「ラウラ・ア・イスファルとは甘言を流し……っての。俺、聞いたぜ、一応あの声」
 声に惹かれてふらふら歩いているところを、目を覚まさせようとしたサワノバに力いっぱい後頭部を殴られたせいでか、何を聞いたかまでは覚えていないが……そうブツブツと、ルビィが言う。
 それを聞いて、フランは「そうなんですの?」と少し明るい声でルビィに問い返した。
「ああ、でも、聞こえたんだぜ? 俺は力は手に入ると思うね!」
「あたしだって、聞こえたことは否定してないわよ? 力が手に入ることだって、嘘じゃあないかもしれないわ。でも操られてる気はしない?」
 マーティはすべて嘘ではなかったとしても、それが罠でないという保証はないと言う。
「どこまで行くんです? レディフラン」
 段々人気の少ない廊下に入り込んでいき、奥にあった資料室の扉を開ける。
「この奥です。でも、今は扉の上に本棚が打ち付けられていて、見ることもできません」
 その場所には、大きな本棚が鎮座していた。しっかりと固定されていて、退かすことはできない。
「ここが異世界への……夢の王の支配する空間への扉があった場所です」
「異世界」
 マーティよりも、エグザスのほうがその言葉に反応したようだった。
「聞こえかたが様々だったことから、あの声は精神に直接響いたのかもしれないと思う。ならば呼びかけた場所は、別世界からではとは思っていた」
「記録を探したのよ。夢の王はある意味、力を得たんでしょ? 無理矢理で、失敗もしたわけだけど」
 ここで過去見をしようとマーティは考えていた。だが、フランは不安げにそれを止める。
「アルメイスができたときから、この図書館はあるんです。多分、その扉も。そこまで遡るなんて……」
 無理ならまだしも、高すぎる代償を支払う羽目になるやもしれぬ。そのとき、マーティはどうなるか……
 真剣に心配されて、マーティも困った。この場で押し切ることはできなくて、頭を掻く。
「封印の書はどこにあるのかしら」
「それは……私も存じません。もう二度と封印が解けないように、厳重に保管されているはず……」
 もう、封印が解けるようなことがあってはならないだろう。かつての責任を思い出したのか、フランは神妙に頭を振った。
「無理は言うな。レディフランも困っているから」
 ここは退くようにとエグザスもマーティを諭し、それから談話室に戻ることにした。



 ――風もないのに、かたりと本は揺れた。
 ここは窓のない部屋。
 扉は最後の者が出て行った後、どこも開いた気配はなかったが……
 先ほどまでなかった人影が部屋にあった。
 そして、しっかりとした形を取ることなく、再び音もなく本棚の向こうに消えた。
 不連続な、軟らかな、泡沫の世界へ。



 ようやくお茶会の主賓が戻ってきて、残っていた者たちもほっとした。
 サラの持ってきたショートケーキはすでにエドウィンに食い尽くされかけていたが、それでもどうにか一切れサラが守りきっていた。
 それをフランの前に出して、サラは訊ねる。
「ラウラ・ア・イスファルについて、ご存知のことがあったら、教えてくださらないかしら〜? イルズマリさん」
 無論イルズマリへの土産も怠りない。つてを使って手に入れた、稀覯本だ。
「む……しかし、吾輩も通り一遍以上のことを知っているわけではないのである」
「そうなんですか?」
 ティルも、それを聞きに来ていたので顔を顰める。
「他人を頼る前にご自分で調べてはいかがでしょう? サラ様、ティル様」
 そこでセラは、人に聞く前に調べるように言う。まあ、それも道理だ。
「『フィルローの進化論』でしたら、知っていますけれどぉ。でもそれが自分でちゃんと読めたら、聞きにはまいりません〜」
 ぷいとすねたように、サラは顔を背けた。
「……ですね」
 ティルは肩をすくめる。
「ふむ。ラウラ・ア・イスファルとは……人は須らく進化し、より新たな世界を歩む“存在”であると考えた哲学者アルロス・フィルローが、書の中でラウラ・ア・イスファルという語句を用いて、互いに競い合うことによる人の意識の高まりを呼びかけたことに起源を持つと思われる」
「あら、一応あれが起源なんですのねぇ」
「それ以上古い文献から見つからないため、それを起源と見る向きが多い。であるが、当時の言語体系からの特殊性があるわけではないので、当時に一般的な言葉であった可能性も否定しきれるところではない。なお、それよりも幾らか後の時代の文書には、ラウラ・ア・イスファルという表現が現れている」
「言葉の意味はわかっていますの〜。ですから、噂自体は事実無根だと思いますわぁ」
 だが、無関係とも思えない。だから他に何かないかと聞きに来たのだと。
「ふむ、レディは賢明であられるようである。やはり、吾輩より教えられることは何もないかと思われるが」
「そうなんですのぉ?」
 サラはアルファントゥのところにも行ってみたが……あちらはそもそも答はなかった。元々余程でなければアルファントゥは喋らないから、無理もないことだが。
「交信なのかね、あれは」
 ケーキと茶菓子を貪り食って胃袋を満たしたエドウィンが、おもむろに言った。
「本当に交信だとすれば、それだけの力を持つ存在がいるってことだよな」
 そういうものは知らないか、とイルズマリに訊ねる。かたわらに座っている自分の自存型のパートナー、カルコキアムにも聞く。
「カルはよくわかんにゃい……」
「うむ、大昔のフューリアならば可能だったと思われる」
「今は?」
「どうであるかな、単身可能な者は、今はいないのではなかろうか」
 実際に、近年には同じような記録は残されていない。
「単身じゃなかったらってことは……複数ならできる?」
「複数というよりは、極めて広範囲に影響を及ぼせる能力を持った、極めて強いリエラの助力があればと思われる」
 そう言われて、やはり脳裏に浮かぶのは四大リエラの主の名前。
「……そういやあ、レアンが好きそうな話だよなあ。新たな力がどうのとか、新しい階梯に云々とか」
 どこか微妙な表情を浮かべ、エドウィンは呟く。
「ううむ……レディフラウニー、危険があるかもしれませぬが、私とご一緒にラウラ・ア・イスファルを求めませんか」
 そう言ったのは、ランカークだ。エンゲルスにタイミングを計るよう止められながら話に入る機会を窺って、じりじりしていたのだが、我慢しきれなくなったようだった。
「私がでしょうか……でも、何もお役に立てないかもしれませんが」
「いいえ! レディにはいていただくだけでよいのです。象徴が必要なのですよ!」
 自分の言葉に酔ったように、ランカークは金髪をかきあげる。
「英雄の傍らには、美しき女神が必要なのです」
 その様子にランカーク以外は揃って眉間に皺を寄せていたが、本人はまったく気付いていない。
「……私でよろしければ……」
 だが、フランは断らなかった。不安そうではあったし、迷いはしたようだったが、さきほどの一件も影響していたようだ。ランカークが自分のために怒ったことを、すぐに忘れることはできないだろう。
「ご無理はさせませんから! ええ」
 エンゲルスのフォローも追いかける。
 イルズマリはどこか心配そうだったが、それを止めることもなかった。
 フランはこの後、ラウラ・ア・イスファル探索に関わることとなる。


 人は須らく進化し、より新たな世界を歩む“存在”である。互いに競い合うことによる人の意識の高まりこそが、進化への道標。ここより、エリアはフューリアに還る。
 エリアとは、眠れるフューリアである。
「ただで写すつもりかの?」
 ミリーはランドに向かって手を出した。金が欲しいわけではないが、ただ書き写されるのは癪に障る。
「後でランカークにつけ届けさせる」
 ランドはそうさらりと言って、必要そうなところだけを抜き出して書き写していった。
「本当に哲学書なのね、実践する方法が書いてあるわけじゃないんだわ」
「そのようですね……」
 ラシーネとプラチナムも訳に目を通して、そう呟く。二人とも一緒に調べる気はあったのだが、ほとんどの資料に歯が立たなかった。なので、ミリーの訳したものを検討するしかなく。
「まったくじゃ。実利のない書じゃな……場所に関わる記述は一切なかったのう」
 もっとも、この本が書かれた時代と比べれば、フューリアの分布そのものが異なっている。なので、その当時現在のアルメイスのあたりには、フューリアの集落があったかどうかはかなり微妙だ。イシュファリアの地は侵略を受け、フューリアは迫害を受け、もっと西北・東北のあたりに隠れ住んでいたものと思われるからだ。
 帝国成立前の長い暗黒期。この哲学書はそんな時代に書かれている。
 フューリアが最も他国のエリアに迫害されていた時期に、エリアはフューリアに還ると。
「あてが外れたようじゃ……さてどうするべきか」
 ミリーは考え込んだ。噂の場所はここ図書館にも一つあったが……それがどこなのかは、ミリーは知らなかった。


■ラウラ・ア・イスファル〜その過去と未来■
 “蒼空の黔鎧”ソウマの手に花束と菓子。廊下を行く彼を振り返る者は多かった。
 ソウマの見た目にそれは似合わないわけではないのだが、しかし彼を少しでも知る者ならば、なんと似合わないことだろうかと思うに違いない。
 目的地は初等部のラジェッタの教室だった。ソウマ17歳。きっと地獄耳の彼の耳になら、この後日ほどなく噂が届いただろう……不本意な噂が。
「失礼するぜっ」
 がらりと横引きの戸を開けたソウマを、“のんびりや”キーウィは警戒色もあらわに振り返った。
 最近は何かというとエイムが引っ張り出されることが多く、ラジェッタはいやおうなくそれに巻き込まれる。とくに今回は怪しい噂が目白押しで、こんな噂が出回るとレアンが関係しているかもしれないと思う者もいるだろう。それで、ラジェッタのところに来る者も多いのではと、キーウィは警戒していた。
 ソウマにとって、先客はたくさんいた。キーウィと“轟轟たる爆轟”ルオーの他に、“猫忍”スルーティア、“闘う執事”セバスチャンと“熱血策士”コタンクル……他にもいる。初等部の教室の一角は、にわかに中等部以上の上級生で埋め尽くされていた。これが初等部の子たちの寮に帰った放課後でなかったら、迷惑な話である。
 今も誰か教室に用があって戻ってきても、怖くて中に入れないんじゃないかと、ルオーなどは内心心配だ。関係ない子どもたちを怖がらせるのはどうかと思う。この人数を一度に2〜3人に絞ってとも考えたが、ただ他の者の話を聞きたいという“銀の飛跡”シルフィスやラシーネなども来ていて、小分けにするという案は協力してもらえなかった。
 ルオーとキーウィが心配したように、エイムとラジェッタを訪ねてくる者は入れ替わり立ち替わりいた。もう用を済ませて去っていった者もいて、今の人数だ。大体用があるのはラジェッタにではなくエイムのほうにで、過去に同じようなことがなかったかとか、レアンの昔馴染みの店を知らないかとか……微妙な質問も中にはあったが。手早く済ませられる者にはそれで去ってもらわなくては、きりがない。
 ルオーとキーウィは自分が何か話を聞きたいというわけではなく、ラジェッタを心配してここにいるわけだが……さて今は、どこに河岸を変えるべきかと小声で話し合っている。
 キーウィたちの交通整理にも限界がある。概ね多くに困っていたのはエイムだったので……どうしてもと急ぎはしなかったが。これでラジェッタが困る事態になったら、そのときにはラジェッタを連れて逃走することも考えていた。それでも、エイムは勝手についてくるだろうし。
 ただ、今、ラジェッタと向かい合って話をしているのはウォルガとスルーティアの二人で。スルーティアは奇矯なことで知られる隠密同好会のメンバーと一緒にいるときよりも、今はずっと常識人の振る舞いだったので……そこまでせずにはすみそうであった。
 エイムを囲んで話をしている者は多く、中心はセバスチャンとコタンクル、そして神音だ。ラシーネとシルフィスはその話に耳を傾けている。
 教室に踏み込んだところでソウマは教室の一画で少女を囲む者たちを認め、まずはラジェッタの前に立つべく机の間を抜けた。
「これは食ってくれ」
 そして花束とお菓子を突き出すように、ラジェッタに渡す。
 これにはルオーが、一瞬あからさまに嫌な顔をした。が、それを無理矢理に笑顔に変えて、ルオーはラジェッタに声をかける。
「ええなあ、お菓子もろたで。後で食べような」
 うん、とラジェッタは笑顔を浮かべ、ソウマに向かってもにっこりと笑った。
「ありがとう、おにいちゃん」
「おう! 俺はあんたのお父さんと話がしたい! ちょっと貸してくれ」
 うん、とラジェッタは素直にうなずいた。所有者の許可を得て、ソウマは次にエイムのところへ向かう。
 ソウマの乱入で話が中断したスルーティアは、その背中を見送ってから自分の話を再開した。
「ラジェちゃん、それでっ?」
 聞いていたのは、ラジェッタに何が聞こえたのか。ウォルガはそれをノートに細かく書きとめている。
「あのね……おそらのむこうからきこえたの……まえにもあったのよ」
「ま、前にも?」
「うん」
 おそらく誰に聞いたとしても、同じことは聞けなかっただろう。誰に聞いたとしても、二度、あの声を聞いたという者はいない。
「いつ?」
「……ままと……」
 そこでラジェッタは、迷ったように言葉を切った。キーウィは思わず、その小さな手を握り締める。辛いことなら、言わなくてもいいと。
「ママといた頃の話なんやね。アルメイスに来る前や」
 ルオーが続きを察して、代わりに続ける。
 かつてにも聞こえた声。しかもそれは、この地の話ですらないらしい。
「……うん」
「お……同じ声だったの? それが?」
 スルーティアも勢い込んで、身を乗り出す。
「ううん」
 だが、ラジェッタの次の答えには、カクリと前のめりにコケた。
「ち、違う声だったんだね……そのときはなんて聞こえたの?」
「よんでたの」
「呼んでた……それは同じだったんだ」
「うん」
 ラジェッタが今回聞いたという声も、やっぱり呼び声。かつてもまた、呼び声……
 そんなとき。
「話はすべて聞かせてもらったでござる!」
 天井から逆さまにぶら下がる黒い影。
 ……どうもシリアスな空気は続かないようだ。
 改めてすちゃっと半回転しつつ飛び降りて、“爆裂忍者”忍火丸はポーズを決めた。それからごそごそと命綱にしていたロープを外す。
「拙者も一緒に探すでござるよ!」
 どうしてそうなるのかはさておいて、目的語やらなんやら色々不足している割には、ラジェッタとは意思の疎通が成り立ったらしい。
「いっしょにいくの?」
「もちろんでござる! 真のフューリアとやらに会えるかもしれないでござるからな。きっと、素手で機関車止めて見せてくれるでござるよ」
「あ、わ、わたしも一緒にいくよっ!」
 スルーティアも手をあげる。それは、本当にラジェッタのことを心配しているからだ。
 力が手に入るという噂が、スルーティアには怖かった。追いかけていった先には、力に目の眩んだ者だっているかもしれない。それが全員ではなく、たった一人に与えられるものだったら……他の者の妨害をしてもという者だっているかもしれないのだ。
 そのとき、ラジェッタにそんな汚いものは見せたくなかった。スルーティアは小さな後輩を、本当に大切に想っている。
「ラジェちゃん、この際だから隠密同好会に入ろうよっ」
 そんな誘いも、照れ隠しだ。
「えっ、いやいやいや。あんさんとこの人みたいに、天井とか変なとこに行くよーになると困るで、ほんま!」
 しかしルオーが慌てて、それをさえぎる。実際に、ルオーにしてみれば自分を置いてどこかに行かれることが一番怖いのだから、追えないようなルートには増えて欲しくない。
「そ、そうや……さっき思ったんやけどな」
 慌てて話を変えるように、ルオーは思いつきを口にした。
「ラジェッタちゃん。前に呼んでた声って……おとうさんやった?」
 ラジェッタはえっという、虚を突かれたような顔を見せ……他の学生たちに囲まれて話をしているリエラである父親の姿を見た。
 そして、何かに衝撃に撃たれたようにしばらくそのままでいてから……
「ら、ラジェちゃん?」
 どうしたの、と回りに引き戻されて、やっと視線を戻してきた。
 そのときには、笑顔だった。
「うん! ルオーおにいちゃん、おとうさんだったの」
 そう、今初めてそれに気付いたのだとラジェッタは満面の笑顔で言った。

 ソウマの本命は、保護者のエイムであった。
 こちらはソウマが来たとき、何の話をしていたかといえば。
「レアンの恋人ですか……?」
 コタンクルの質問に、エイムが答えているところだった。いたかもしれないが、と首を振る。一昔も前の浮いた噂を集めるのは困難なことだった。
「本当に知らないのか?」
「正確には、一人いたのは知っています。でも、その方はもう亡くなっていますから」
 他には知らないし、その関係者に迷惑をかけるつもりはないから誰なのかは教えないとエイムはきっぱり言う。一人でも知っていたと言ったのはエイムだけで、他からはそれすらも出てこなかったから、ここから彼の者を追うことは難しいようだった。
 その前には、神音が声についてを訊ね、セバスチャンがエイムにリエラとなった過程を訊ねて、やはりきっぱり返答を断られている。
 セバスチャンの問いは、どんな交渉上手だろうと、これを自存型リエラに喋らせることに成功した者はただの一人もいないのだ。その問いに、自存型リエラたちは沈黙で答える。答えぬと言っただけでも、エイムは答えたほうだった。
 神音の問いは……神音には答えてくれない理由がよくわからなかったが……
 そんな様子を、ラシーネとシルフィスは黙って眺めていた。こちらの二人は、セバスチャンと神音の問いにエイムが答えない理由を薄々ながらわかっていた。
 それはそこへ自ら行き着けない者には、重すぎるのだ。重すぎて、その存在を崩してしまう。おそらくは命という高価な代償だけを支払って、得るもののない、そんなことのないように……人への慈愛があればこそ、けっして語らない。
 しかし、あの呼び声は、『そこ』へと招いているのだ。
 二人はそう思っていた。
「アンタに聞きたいことがある!」
 そこへソウマはやってきた。
「ラウラ・ア・イスファルに正義はあるか!?」
 いきなりの問いに、周囲にいた者も驚いたが……誰より、エイムが驚愕の表情を見せた。その驚きかたに、シルフィスも胸騒ぎを感じる。
「なあ! そこで得る力っていうのは、何か大きな代償が必要なんじゃないのか!?」
 続く問い自体は、的外れには思えなかった。また、それを薄々感じている者はシルフィス以外にもいるだろう。代償が必要だろうということは、セバスチャンだって言ったことだ。
「たとえば正義の心を失うとか! 人が人でなくなるとか!」
 これは繰り返しの問いだ。切り出しかたがショッキングだっただけで。
 そう思っていた。
 だが……
「君は……ラウラ・ア・イスファルがなんなのかを知っている……?」
 エイムは問い返した。
 何故なのかは、そのときはまだ誰にもわからなかったが。
「いいや! わからない! だから聞いてる!」
「そうですか……君は、この一件には関わらないほうがいいと思います」
 そして、答えないのではなく、答えるのでもなく。
 制止という、能動的な行動をエイムは選んだ。
「どうしてだ!?」
「君と同じことを言った人のことを思い出したんです……だから」
 前の二人と、どこが違っていたのだろうと傍観者たちも考え込む。
「君は、なんだか彼と同じ道を歩みそうな気がするから」
 そして、かつてソウマと同じことを言った者とは誰なのか、と……
 誰もが、ただ一人を思い浮かべながら。


■手繰りそこねた噂の糸■
 噂の出どころを追おうとした者は、多かった。
 それをどこで聞いたのか。
 それを誰から聞いたのか。
 前者はともかく、後者は行き詰るのは早かった。
 テムが同じことをしていることは、グリンダとカルロもだいぶ早いうちに気がついた。テムのほうも同様だ。
 前述の三人がラザルスも同じようなことをしているということに気がついたのは、もう少し後だ。それは、ラザルスだけが人ではなく、場所を追っていたからだった。
「知らない人だった……かあ」
 テムが呟く。人を追いかけた三人が行き着いた答がそれだ。
 テムとグリンダとカルロ……それぞれに聞き込みをするお互いを横目で見ながら、噂を楽しんでいた生徒の何人かまではたどり着いた。
 だが、そこで糸は途切れた。
「どんなに正直に喋ってくれても、知らない人じゃあねえ」
 グリンダもため息をつく。知らないものは語りようがない。嘘をついているなら、真実を語らせる方法はあるが。
「わかったのは、男子学生だったってことぐらいか」
 年恰好は、二十歳過ぎくらいの男子学生だったとまでがわかった。制服を着ていたので、学生に違いないとは言う。だが、誰もそれが誰なのかは知らなかったのだ。
「そんなことって、あるのかな」
 カルロは首を傾げる。
 誰も知らない学生。いや、噂話をしていた者たちが知らなかっただけかもしれないが。
 その者は『声』の聞こえた翌日には、そんな話を噂に乗せていたらしい。
 食堂で、図書館の談話室で、あるいは微風通りのカフェで。
 それらの場所を特定したのは、ラザルスだった。
「ふむ……じゃが、もうおらぬのか? どこへ行ったやら……」
 だがやはり、その向こう側へ行けない。
 それが誰なのか、やはりわからなかったからだ。
 そして、彼らは、その謎の学生に偶然出会うこともできなかった。

 一人、噂の出どころを、毛色の違った探し方をしていた者がいる。それはクレイだ。
 彼は流れる噂を遡るのではなく、流れる噂の中に紛れて、噂を流す者を探そうとした。噂が流れる場所は人の多い場所。それは集会室や食堂だと山をはり、そこで噂話の中に紛れていた。
 探しているのは、噂話のテーブルに繰り返し同じ者がいないかどうか。
 実は、と新しい話を持ち出す者がいないかどうか。
 クレイが最も優秀だった点は、噂の出どころを追っていることを相手に悟られたら、きっと姿をくらまされてしまうと……それに気付いていたことだった。
 クレイは、先の四人が噂の出どころを探していることに、割と早いうちに気がついた。噂話の中にたゆたっているのだから、噂を追う者には聞かれる側として遭遇する。普通に応じたなら、ラザルスたちはきっと、クレイのしていることには気がつかない……
 それは、やっぱり噂を流している者がいたとしたら、自分と同じで相手のことがわかるのだろうと再確認することになった。
 だから、彼らに気付いたとき、どんなに止めるように注意しようかと思ったが……
 結局人目を気にして、クレイは黙っていた。迂闊なことを言ったなら、自分も見つかってしまう。その不安がぬぐえなかった。
 しかし……
 やはり、クレイの心配は的中したのかもしれなかった。
 クレイが4人のことに気付いた……その翌日あたりから、まったく見かけなくなった男子学生がいるような気がしたからだ。
 その前までは、昼時の混み合った食堂の雑談の輪や、放課後の集会室で見かけた者がいない。
 二十歳過ぎくらいの、きっちりと制服を着た……若干印象の薄い男子だったような気がする。
 まさかと思ったが、もう確かめるすべはない。
 もう一度出会ったら、わかるだろうか。クレイは自問したが……
 そのときが来てみなければ、それはわからなかった。


■白壁の家■
「転居のお祝いを申し上げまする」
 そう言って細雪がサウルの新居を訪ねたとき、転居後の後片付けはまだ終わっていなかった。サウルが荷物が多いと言ったのは、嘘でも伊達でもなかったので。
「そこ! へっぴり腰ねえ」
 玄関から見えるところで、“六翼の”セラスにはたきで追われるように、“闇司祭”アベルと“翔ける者”アトリーズが家具の配置を変えている。まだそんな段階だった。
 引越しの段取りを仕切っていたのはサウルではなく、セラスである。女子は掃除と荷造り、男子は荷物運びだ。
 今はセラスと、“夢への誘人”アリシア、カレンが一階の掃除と小物の整理をし、“春の魔女”織原 優真と“真白の闇姫”連理が二階の掃除を行っている。アベルとアトリーズ、そして“闇の輝星”ジークが家具の位置を調整して、サウルと“憂鬱な策士”フィリップが荷物の梱包を破っていた。
 これが引越しの手伝いに来た者を含む、全員である。使用人は、募集しているところだとサウルは言った。
「すまない、まだ、こんな有様でね」
 白いシャツに濃灰色の毛織物の上下を着たサウルが、細雪の相手をするべく玄関に立つ。
「申し訳ありませぬ、少々気が急きすぎたでござるか」
「ああ、でも、少しみんなで休憩しようか。せっかく来てくれたんだから……居間はもう大丈夫だったっけ?」
「はーい、大丈夫よぉ!」
 セラスの声が別の部屋から聞こえる。さきほど家具を運んで行った部屋だ。アベルとアトリーズもそこだろう。
 じゃあお茶でも飲んで行ってくれと、サウルは気さくに細雪を招きいれた。
「かたじけのうござる」
 そこで、居間から駆け出してきたアリシアが、サウルのほうにきた。
「ァリシァ、お茶いれてくるねっ」
「みんなにも休むように言ってくれるかい」
「はーぃ。でも、ちゃんとなってるお部屋、なぃょ」
「……そうか、食堂も駄目かな」
 どぅかなぁとアリシアは首を傾げる。
「拙者はご一緒にでも良いでござるよ」
「じゃあ、お言葉に甘えていいかな」
 じゃあみんなも居間でと言って、アリシアは奥に向かってパタパタ走っていく。
 細雪が中に入ると、後ろから続いて客が来た。
「サウル様」
 ランドである。
「カレンはどこでしょう。伝言に来たのですが」
「ああ……彼女なら、そこの部屋だ」
 入っていいよ、とサウルはランドにも屋敷にあがるように言う。
 ランドは黙って会釈して、まだ片付いていない屋敷に入った。そして、小さめの応接室の一隅で調度品を拭いていたカレンのところに近づいて囁いた。
 それは、大した内容のことではなかったのだが。
 そして、ランドは茶の一杯でもというサウルの労いを辞退して、早々にランカークの屋敷へと戻っていった。
 ただ、これが引き起こしたことは……
「カレン」
 ランドと入れ替わりに、ジークが部屋に入ってくる。続けてフィリップもだ。
 ジークの声に、カレンは下げかけた顔を上げた。
 フィリップとジークは、聞く気はなかったが聞こえてしまったと言った。
「カレン、君がランカークの従者だったのか」
 カレンは黙って……フィリップの言葉にも表情を変えることなく、調度品の拭き掃除に戻る。
 ランカークと関わりあることは、否定も肯定もしなかった。

「これは引っ越し祝いでござる。よろしければお納めいただきたく」
「ありがとう、飾らせてもらうよ」
 細雪が名画『アルムの剣』をサウルに渡したところで、ガチャガチャとアリシアがティーセットを盆の上に乗せてきた。
 二階にいた優真と連理も降りてきて、全員が揃うと、小さなパーティーもできるくらいの広いサロンも少し狭くなったように感じられた。
 お茶を飲みながら雑談をすると、自然と話は今旬の話題のものとなった。それが聞きたい者は手伝いに来た者にも多くいたのだが、今まではろくにサウルと話ができていない。理由は、無駄口を叩いているとセラスがちゃんと働くように尻を叩きに来るからだ。
「そういえばサウルさんて、いくつなの?」
 だがそう今回の雑談の口火を切ったのはセラス本人だったので、少し安心して口が緩んだのもあるだろうか。
「僕? 数えで二十歳だね。年が明けたら二十一だ」
 少し若く見えるか、歳相応かというところだろうか。
「今の話題といえば、声が聞こえたというあれだろう」
 続けてアベルがそう切りだす。
「ああ、あの噂ね」
 セラスはうなずく。
「あなたには聞こえたのか」
 フィリップの問いに、アベルもうなずいた。
「ほう、アベル、どんな声じゃったか聞かせてはくれぬかの。リエラを連れておらぬゆえ、そなたのリエラは非自存型じゃな」
 連理もその話に興味を抱いていたように、アベルに訊ねる。ただアベルのほうは自分が質問責めに遭うことは想定していなかったので、表情には出さないが、すでに少し辟易していた。
「あれは人智を超えた者の囁きに感じた。我を誘っているようにも思えた。だが、聞こえた者の法則性が今ひとつ釈然としない」
「妾は自存型か非自存型かが、関係しておるのかと思ったのじゃが」
 アベルの疑問に連理は自説を述べる。
「でも、わたしにも聞こえましたから。連理さん」
 優真がおずおずと言った。
「あの声は悲しそうでした」
 何かを嘆いている、そう聞こえたと。
「シャル君にも聞こえたんですよ。そうですよね?」
 隣にいた自分のパートナーである自存型リエラに、優真は確認する。
「ああ……聞こえたよ」
 少しぶっきらぼうにシャルティールは答えた。
 フィリップも、自分も軽く聞いてみたがと続ける。
「どうやら、自存か非自存かは関係がないようだよ。どちらでも聞こえた人はいるようだ」
 それ以外の細かい部分においても、リエラの差異は聞こえた者を分ける助けにはならないようだとフィリップは言った。
「……サウル殿にも聞こえましたかな」
 ようやく話が途絶え、それが聞きたかったことと、アベルはサウルを見やる。
「僕? 聞こえたよ」
 サウルは微笑んで答えた。
「なら、声に応えるのかい?」
「いいや」
 アトリーズの問いに、サウルは迷いなく答える。
「キミは力を得たいとは思わないのかい?」
 他の者に割り込む隙も与えないまま、アトリーズは畳み掛けるように次の質問を繰り出した。
「そうだなあ」
 その答えには、少し間があった。
「力が欲しくないと言ったら嘘になる。だが、力にも色々あるだろう? なんでもかんでも欲しいわけじゃないよ」
 手に入る力が欲しいものなら努力するが、きっとそうではないだろうと……それは、何が手に入るのか知っている者の言葉にも聞こえた。
「私も同意しますね。力は欲しいですが、自身に御し得なければ自滅するだけ。気色の悪い噂には、早く消えて欲しい……」
 フィリップは悩ましげに頭を振った。
「サウル卿、あなたはラウラ・ア・イスファルの意味をご存知なのではあるまいか?」
 ジークがふとそう訊ねる。それはどこか何かを知っている気配が、サウルから感じ取れたからでもあった。
 そのとき、サウルは一瞬微妙な表情を見せたような気がした。
「うんまあ……知っていると言えば知ってるよ。『ラウラ・ア・イスファル』とは、今の言葉に直訳すると『人の革新』って言う意味だね。イスファルが進化とか革新とか進歩とか……そういう意味に使われた言葉だ」
 そこで、サウルは少し冷めかけたお茶をぐっと一気に喉に流し込んだ。
「いささか恥ずかしながら、ここに来るまで僕は君たちのように学校で学問を学んだことがないんだよね。だからまあ、出典の本も聞いたことはあるけど、読んだことはない。そういう珍しい本は読む機会がなかった」
 それは勉強したことがないということとは、違うだろう。優真と連理が片付けていた書斎には、たくさんの本が運び込まれた。この機会に帝都から運んできたという物も多いようだった。
「じゃあ、関連する本とかはお持ちじゃないですか?」
 関わる本があれば借りたいと思っていた優真は、駄目かもしれないと思いつつも訊ねる。
 そして答えはやはり、芳しくないものだった。
「ないね。元々哲学書はあまり好きじゃないから、数もないし」
 優真が整理をしていた本には、確かに医学書や薬学書が目立っていた。それも料理の本や郷土史など、持ち主の傾向がよくわからない多彩な本の中で、多少目立っていたというレベルではあったが。
「哲学書が好きでなく、読んでもいないのに、よくご存知だ」
 ジークにはいやみのつもりはなかったが、サウルはまた少し、微妙な顔を見せる。
「古語の勉強はしたんだ。というか、させられた。僕の家では、必須でね」
 だから、『ラウラ・ア・イスファル』と言われれば、その言葉の意味はわかるというわけだ。それは、本を読んでいるかいないかで違ってくるものではない。
「お茶のおかわり……ぁーっ!」
「……っ!」
 そこで、アリシアがお茶を注ぎ足そうとして、どばっとジークの膝の上にぶちまけた。ジークも察して椅子を蹴るように慌てて避けたが、少しかかる。
「すぐ冷やしたほうがいいわ。厨房のほうへ来て」
 やはりすぐに立ち上がったカレンが、ジークの手を引いた。そのまま二人は出て行く。
 こぼしたお茶は、アリシアがせっせと拭いている。
「ごめんなさぃ〜。これじゃァリシァ、サウルのお嫁さんになれなぃ?」
 それにはサウルは笑って答えた。
「別にお茶がいれられなくても、僕のお嫁さんにはなれるかな」
 でも、古語ができないと駄目かもね、と。
「それじゃぁ、ァリシァは駄目だぁ」
 拭き掃除が終わっても、カレンとジークは戻ってこなかった。しかし呼びにいくこともなく、話は続く。
「まあ、少し話は戻るけど」
 アトリーズはサウルの様子を観察していたが、さてやはり曲者の感はぬぐえない。
「ラウラ・ア・イスファル、つまり『人の革新』たる場所について、君は何か思うことはないか?」
「ラウラ・ア・イスファルは、そのままでは場所を示す言葉ではないよ。そして僕は、ラウラ・ア・イスファルという地名は知らない」
 躊躇いもなく、すらすらとサウルは答える。強いて言うのならば、と注釈をして、サウルは続けた。
「帝国のあるこの大陸の北方地方を示す地名、イシュファリアが、言葉としては最も近いだろうね。でも、北方全域なんて言っても意味はないんじゃないのかい」
 やはり曲者だ、とアトリーズは思う。嘘の気配はないが、それは嘘ではないというだけかもしれない。
「そうでしょうな」
 アトリーズが黙っている間に、アベルが応じた。
「この場合は、人の革新という言葉の意味のほうに注目すべきかと」
 アベルとしては、ギャラリーが多すぎる気もしたが。
「人の革新。この場合はフューリアに限定させていただきますが、現状では帝国は、その推進を抑えているように思われますな。帝国は政治的、また生活維持のためにもレイドベックとの交戦は避けられない。その尖兵となるはずの生徒がぬるくなってきているのは帝国の意志ですかな……? 過去の失敗、レアンのような反逆者をまた出さないための」
 最後まで言い終わる前に、サウルは少し笑った。へえ、と興味深げにアベルを見る。
「昔と比較するならば、ぬるくなっているかもしれないね。昔のほうが、アルメイスは厳しかったらしいとは聞いてる。それは、今の責任者に変わってから徐々に緩んだようだね。教育方針ってやつだ」
 それが良いか悪いかは検討中のようだ……と、サウルは口元だけで微笑んだ。
「悪しきとされれば、今の責任者は更迭され、改められるだろう。良しとなれば続く。だから、反逆者云々は関係ないかな」
 いつの時代にも、枠に納まることのできない者はいる。何かを正とする場合、普通にはどうしても反する者を『0』にはできないと。
「一つ面白いことを教えてあげよう……実はそういう者が四大リエラに選ばれやすい、また逆に選ばれた者は枠から外れやすいという説がある。マイナーな研究書なんだけどね。地水火風のそれぞれでも、傾向が違うらしいが……だから、アークシェイルの反逆は、当時もけして意外性の高いことではなかったのだと思うよ」
 さて、とそこでサウルは立ち上がった。
「変な話ばかりですまなかったね」
「いや、面白いお話でござった。つい、長居をしてしまったでござるよ。お暇いたそう」
 促されるように、細雪も立った。客が帰れば、休憩はお開きだ。
「あの……サウルさん、ラウラ・ア・イスファルについて書かれた本がどこにあるか、ご存知ではないですか?」
 人が散っていく中で、最後に優真はサウルに訊ねる。
「ああ……図書館になら、あるはずだよ。だいぶ片付けも手伝ってもらったし……後でで良かったら案内しよう。どんな本かは知ってるから」
「いいんですか? ……ありがとうございます」
 笑顔の優真の後ろで、連理とシャルティールが微妙な顔を見せていたが……優真の邪魔をすることもできずに我慢することにしたようだった。

 サロンを途中で抜けた、カレンとジークはと言えば……
「……カレンも、フューリアとしてより大きな力を得たいと思ったりするのか?」
 手当てをするのに、ジークは服を脱がなくてはならなかった。カレンの持ってきたガウンを着て、着ていた物は脱ぐ……カレンが脱がそうとしたので、慌てて自分で脱がなくてはならなかった。
 それで椅子に座って、ジークは火傷の部分を出す。
 手当てはカレンに任せきりになったので、会話がないと居心地が悪くて、そう切り出した。
「……欲しかったことはないと思うわ」
「そうか。……少し安心した。本当に人の革新があるのなら、それはリエラの力に頼るものではないと俺は信じるな。フューリアとしては、間違っているのかもしれないが……俺は力が欲しいとは思わない」
「そうなの?」
 聞き返すカレンは、少し意外そうに見えた。
「意外か? 第一、今回の噂は明らかに誰かが意図して広めたものだろう? 誰とは言わないが……」
「そうね」
 そう言ったとき、ふと、カレンはサロンのほうを振り返った。
「意味も、理由も、わからないけど」
 噂は意図して広められたもの、しかし事実無根ではないかもしれない。どこかに、たどり着くべき真実が隠されている。それへの道標として、噂は撒かれた……のかもしれない。
 カレンは手を止めることなく、独り言のようにそんなことを言った。
「引越しの手伝いに来て良かったわ。考える間もないと、失敗してたかもしれない」
「何に?」
「……こっちのこと。聞かないのね? ランカークとどういう関係なのかって」
「聞いて変わるものでもなさそうだが」
「それもそうね……興味がないのなら、ラウラ・ア・イスファルには関わらないの?」
「力に興味はないが、事実には興味がある。いずれ探してみる価値はあるかもな」
 そう、とカレンは淡白に答えた。いつも淡白だから、感情の揺らぎは見えにくい。
「手ごわいと思うわ」
「それは……?」
「勘よ」


■軟らかな不連続面の戦い■
 シーナたちが温水プールに来たのは、図書館で話をしていた日から5日ほど後のことだった。
「何事もない……かなあ」
 別になくてもいいか、と、そうシーナは思いながら、クレアと一緒に更衣室で着替えてプールに向かう。
 ルーはやっぱり見学だ。
 クレアとラウラ・ア・イスファルを求める一行は、なんだかんだと膨れ上がっていた。クレアたちがプールに来るというときには、ついてくる者もこない者もいたが。
「そう言えば、聞きましたか? 最近、研究所の敷地には幽霊が出るらしいですよ……プールの近くでも見かけたとか」
 アルスキールが聞き込みのついでに聞いたと言う話を語る。
「幽霊?」
「私も聞きました……他のところにも出るらしいですよ。微風通りとか」
 ミスティが自分も聞いたとうなずいた。
 へえ、とクレアは少し興味を持った顔を見せる。
「同じ幽霊なの?」
「さあ……でも、微風通りでは最近しょっちゅう見かけられてるみたいですね。研究所のほうに出るのとは、別なんでしょうか」
「誰かのリエラではないんですかね〜?」
 コルネリアは、首をかしげた。


 ふらふらと、微風通りを歩く一団。
 それはラジェッタとその一行というわけだったが、探しものにあてがあるわけではなかった。
「探す方法? 何も考えてねーでござるよ!」
 忍火丸がこうで、ラジェッタにも特別にここという場所はなかったので。声の呼んだ場所を、ただ風の吹くままに……それは探すとは言えないだろうが。
 ついてきているのはスルーティアとキーウィ、ラシーネ、そして、
「お兄ちゃんに黙って、どっかいくのだけは勘弁な」
 そう言って、ラジェッタから離れようとしないルオーだ。
 一行は、あてもないままに歩いていた。
 だが、気をつけていたら気がついたかもしれない。
 ラジェッタは空を見上げては歩き、見上げては歩き、その歩みはのろかったが。
 けっして、広い範囲をうろうろしていたわけではないことを。
 微風通り周辺のいくらかの通りを、一行は繰り返しぐるぐると歩いていた。


 レアン・クルセアードの姿を求めていた者もいた。それが行き着いたところは……
 アルメイスの各地に現れるようになった、幽霊の話。
 月のなくなりかけた夜に、鳥かごを提げて歩いていたルカは、微風通りの路地裏で幽霊を見た。
「……ラウラ・ア・イスファルは、天国なのでしょうか」
 死んだ者の魂の行き着く場所。ラーナ教にはあまり大きくは取り上げられないものだったが、異国の宗教には珍しくない考えだ。かつてレイドベックの新兵が今際のきわに言った言葉もそうだったと言うから、そういうものなのかもしれないとルカは考えた。
「教えてください、レアンさん……もう、答えられないのでしょうか」
 目の前にいる幽霊は、全体が霧のようにかすんで見えたが……その形はレアン・クルセアードによく似ていた。
「そこに行かずにすむ方法を。ルカは、大切な友達を止めたいんです」
 フランが、そこに行ってしまわないように。ルカはそれだけが願いだった。
 霧は、黙ってルカに手を伸ばした。
 だがそれが届く前に……ルカは四つの白い手に一歩下がらせられた。
「無残な変わりようじゃな、レアン……聞きたいことは山のようにあったのじゃが、その様子では無理そうじゃ」
 ルカを後ろに押しやるようにして、“幼き魔女”アナスタシアが前に出る。
 ルカを押さえているもう一組の手の主は、シルフィスだった。
「ああ、一つ謝らなくてはならぬな。我は勘違いしておった。噂を流したのはおぬしだと思っておったのじゃが、その姿では噂は流せぬのう……おぬしはラウラ・ア・イスファルにたどり着いたのかの。現実に存在する場所ではないと思うてはおったが……」
 聞こえているのかいないのか、それすらももうわからない。
「何も、もう聞くことはできないのかしらね……」
 シルフィスが呟く。
 ただ幽霊は立ち尽くし、三人の女生徒と見つめあった。
 ただそれだけならば、沈黙の対面で済んだのだが。
「そこに誰かいるのか……!?」
 そこに二人の男子生徒がやってきたことが、ささやかな不幸だった。
 “光炎の使い手”ノイマンと“飄然たる”ロイドはレアンを敵視し、そこに突っ込んでいったからだ。
「まずい……っ! 下がるのじゃ!」
 アナスタシアの直感と機転で、女生徒たちは無傷ですんだ。
 かつてレアンと一戦を交えた者の証言を得られたなら、鏡のように攻撃を跳ね返す能力をレアンが行使していたことを聞けたかもしれない。
 だが、それを知らなかったのもあってか……
 男子生徒二人は、相手を攻撃したと思った自分のリエラの攻撃をなぜかその身に受けて、怪我をすることとなった。
 それでも、それは、本来の力よりはるかに軟らかな力であったようだが……


■わずかなる目覚め■
「これだよ」
 一時に比べて落ち着いている図書館で、サウルは『フィルローの進化論』を手に取った。
 それを優真は開いて……
「……まったくわかりません」
 ため息と共に、すぐに閉じた。
「まあ、普通はそうだと思うよ」
 苦笑いして、サウルが本を元の位置に返そうとしたとき、連理がそれを止める。
「妾に貸してはくれぬかの。予知をしてみたい」
「いいけど……この本でかい?」
「関わりあるならば、何か見えるかもしれぬじゃろう」
 サウルはそうかい、と、次は連理に本を渡した。
 連理は交信を上げ、黒豹の姿をしたリエラを呼び出す。
「闇主よ……この本に書かれておる、ラウラ・ア・イスファルという言葉に関わる未来を視せてくれぬかの」
 黒豹はうなずいた。そして……
「……これは……」
「……何が視えたんですか?」
「……これは……わからぬ」
「わからない?」
 優真は首をかしげた。予知をして、どんなわからないものが視えたのかと。
「一瞬で見えすぎたのじゃ、何が起こっていたかわからぬ……! あれはなんじゃ……? 戦い……か?」
 連理が抱きしめていた本を、サウルはそっと取った。
「何が視えたんだい……?」
 そして、連理の耳元でそっと囁く。
「アルメイスが滅びるところ……? それとも」
「……わからぬ……」
「帝国が転覆するところ……かな」


「フラウニー様、こんなところでうたた寝していては風邪をひきますわ」
 セラは談話室の片隅で、フランを揺り起こした。傍らで、イルズマリも眠っている。
 フランもラウラ・ア・イスファル探索に参加することになったと言っても、フランの最初の仕事は文献探しの続きだった。だが、めぼしいものは漁られた後のようで、図書館から新たな資料は出てきそうもない。
「まだ起きないのか? もう、図書館が閉館するが」
「俺様が抱いていってやろうか?」
 最後まで残っていたのは、他にはエグザスとルビィ。エグザスはルビィを睨みつけたが、ルビィはどこ吹く風だ。
「フラウニー様……」
 ようやく、フランの体が動く。
「……気色の悪いものを見せられたのう」
 眠そうな顔を上げ、そうフランは呟いた。
「……フラウニー様?」
 いつものフランとは異なる口調で。
 エグザスは、そこで、はっと気がつく。
「フラン?」
 怪訝そうな声を出すルビィを軽く押しのけ、エグザスは前に出た。
「レディ。お目覚めですか?」
「……いや、まだ眠い。先日より、水の気配が強すぎるのじゃ。あれを止めよ……やかましい。わしはまだしばらく眠る……」
 再び、ことんとフランは机に突っ伏す。
「待ってください、ラウラ・ア・イスファルについて、ご存知でしたなら……」
「……人の立てた計画など知らぬわ……」
 それきり、再びフランは寝息をたてはじめた。
「フラウニー様……?」

参加者

“福音の姫巫女”神音 “飄然たる”ロイド
“天津風”リーヴァ “蒼盾”エドウィン
“怠惰な隠士”ジェダイト “白衣の悪魔”カズヤ
“探求者”ミリー “光炎の使い手”ノイマン
“弦月の剣使い”ミスティ “翔ける者”アトリーズ
“笑う道化”ラック “風曲の紡ぎ手”セラ
“双面姫”サラ “ぐうたら”ナギリエッタ
“闇司祭”アベル “紫紺の騎士”エグザス
“銀の飛跡”シルフィス “桜花剣士”ファローゼ
“黒き疾風の”ウォルガ “自称天才”ルビィ
“待宵姫”シェラザード “鍛冶職人”サワノバ
“幼き魔女”アナスタシア “六翼の”セラス
“闇の輝星”ジーク “銀晶”ランド
“深緑の泉”円 “餽餓者”クロウ
“闘う執事”セバスチャン “熱血策士”コタンクル
“抗う者”アルスキール “陽気な隠者”ラザルス
“蒼空の黔鎧”ソウマ “炎華の奏者”グリンダ
“拙き風使い”風見来生 “緑の涼風”シーナ
“爆裂忍者”忍火丸 “貧乏学生”エンゲルス
“猫忍”スルーティア “慈愛の”METHIE
“七彩の奏咒”ルカ “のんびりや”キーウィ
“深藍の冬凪”柊 細雪 ラシーネ
“旋律の”プラチナム “轟轟たる爆轟”ルオー
“影使い”ティル “憂鬱な策士”フィリップ
“泡沫の夢”マーティ “黒い学生”ガッツ
“不完全な心”クレイ “夢の中の姫”アリシア
“春の魔女”織原 優真 “冒険BOY”テム
“小さき暗黒”アミュ “暇人”カルロ
コルネリア “相克螺旋”サイレント
“真白の闇姫”連理