真夏の夜の水泳大会
 それは学園がごく短い夏季休暇に入ろうかという夏の日のことだった。
 アルメイスの夏は短い。よって夏休みと言われる期間も短い。あまりに短いからか、里帰りする者もいるにはいるが、学園に残る者も多かった。補習でやむなく残らされる者もいるが……自発的に残る者も多いということだ。人それぞれの夏休みだということだろう。
 その直前の朝のことだった。
 掲示板にポスターが貼られていた。
『蒸気杯争奪! 水泳大会』
 下のほうに優勝者には蒸気式トロフィーを進呈とか、応募及び詳細は蒸気開発研究室カマー教授までなどと、書かれている。会場は研究室隣、温水プールとなっている。
 割と高い位置に貼られたそのポスターを、マイヤは見上げていた。
 ポスターは無許可だ。昨夕まではなかったものなので、夜から朝にかけて貼られたものであるのは間違いなかった。
 無認可ポスターと言えばランカークの十八番だが、今回の出所は蒸気研らしい。蒸気研が独自にイベントをするのはかまわないのだが、会場となるのは温水プールだ。温水プールは双樹会の施設でもある。なら、双樹会会長のマイヤに一言もないのはいかがなものか。それに、規模の大きなイベントならば、学長決裁が要る話にもなる。
 マイヤは無認可ポスターをはがすかどうか迷って、先にカマー教授に話を聞きに行くことにした。独断専行だが、中止させるような内容でもない……と、体の向きを変え、歩き出そうとしたときだった。
 気がつくと、すぐ隣に、女の子を肩車した男性がいた。……一時かなりの有名人になったので、見間違うことはない。ラジェッタと父にして自存型リエラのエイムだ。研究する立場から研究される立場へ移行した、稀有な人物だった。
 肩車されているのはラジェッタ。そして……
「届くかい、ラジェッタ」
「だいじょうぶー」
 ポスターを貼っていた。

「すみませんでした……」
「ごめんなさいなのー……」
 エイムとラジェッタが、ぺこりと二人並んで頭を下げている。さすがに真横で無認可ポスターを貼られては、マイヤも注意をせざるをえなかった。
「カマー教授に頼まれたんですか?」
「はあ……先日お騒がせしたお詫びにということで、教授が企画したんだそうで」
 先日の騒ぎと言うのは、温水プールにジャングルが現れた一件のことだ。あのカマー教授にも反省があったのか……と思いきや。
「今度はオープンに、ジャングルを楽しんでもらいたいとか」
 マイヤは内心で嘆息した。考えてみれば、反省があったのなら無認可でこのポスターが貼られることもないだろう。せめてマイヤに一言あっていいはずだ。
「それは、教授のお力で?」
 前の時には、カマー教授のリエラの力を使っていたのだ。教授という立場上リエラを出す機会はほとんどないので、リエラの姿も力もあまり知られていなかったが……その力だけは、先日少々話題にのぼったので知る者も増えただろうか。
 その力とは、幻影である。幻影でジャングルを出していた。本人は投影機も使っていたと言っているのだが、その大きな割合は幻影であったことは間違いない。
「いいえ、今度こそと言って、投影機を作っているそうです」
 しかし出来のほどはと言えば、エイムは言葉を濁す。
 その足元で、ラジェッタは暇になったのかきょろきょろしていた。なので、彼らの横に来て、ポスターを眺めていた女生徒にいち早く気づいたのはラジェッタだった。エイムは俯き加減だったし、マイヤは背を向けてたので。
「ジャングルを投影するのは、一画だけのようですが」
「ねえ、これ、どういうものなの?」
 エイムが何故か言い訳をしているところに……多分、彼に言い訳する理由はないはずだったが……そう、隣に来ていた女生徒から声がかけられた。
「えっ……水泳大会だそうですが」
「そうじゃなくて、この蒸気式トロフィーっていうの」
 エイムが顔を上げると、その女生徒……カレンもエイムとマイヤのほうを見る。
「何が蒸気式なの?」
「あのね、うごくの」
 それに答えたのは、ラジェッタだった。気持ち、目を輝かせているようにも見える。
「動く?」
「しゃりんがついててね。うごくのよ」
 だが、ラジェッタの説明では当然ながら要領を得ない。保護者に追加の説明を求めるように、カレンは視線を投げかけた。
「ええと……教授のところに行けば見せてもらえると思います」
 だが、保護者は説明を投げた。説明はしづらいものだと言って。
「まあ、見に行ったほうが間違いはないかしらね」
 カレンは少し考え込んだが、結局『蒸気式トロフィー』を確認に行くことにしたようだった。

「これが蒸気式トロフィーよ!」
 カマー教授が胸を張って見せてくれたのは、台座に車輪のついたトロフィーだった。ピーッと汽笛も鳴る。これで単体なら超小型蒸気機関というところだが……トロフィーには金属のホースが出ていて、それは割と大きな金属筐体に繋がっている。こちらの筐体……箱が蒸気機関本体なのだ。それは確かに十分小型の蒸気機関で、開発であり、進歩であるわけだが、トロフィーにくっついているとありがたみが半減以下である。
「火傷するから、素手で触っちゃだめよ?」
 しかも触れない。果たしてトロフィーの意味はあるのか。
 これを見に来たカレンは酷く複雑な表情をしていたが、マイヤは気にせず続けて、自分の用事である水泳大会の無認可を問いただした。
「えぇー。いいじゃない、一日くらい。ううん、夕方からなんだから、数時間よ」
 昼間のプールの運営はほとんど普通に出来るのだから、許可を取るまでもないだろうというのがカマー教授の主張である。
「夜なんですか?」
「夜光虫を放すのよ。ロマンティックでしょ?」
 何を思ったか、カマー教授は行商人から夜光虫を買ったらしい。それを夜のプールに放すのだそうだ。
「そんなに暗い時間で、競技になるんですか?」
「競技は夕方からやるわよ。どうせ夏で陽が落ちるの遅いんだし、灯りもあるし、大丈夫よ……もちろん真夜中になる前には、みんな寮に帰すわ。夏休みの間なんだから、けち臭いこと言わないのよ」
 先日には夜は駄目だと言っていただろうにと、先だっての事件に関わっていた者なら言うところだろうか。
「反対するわけじゃありませんが、施設を使うのでしたら許可を取ってしてください。本当なら、学長決裁の必要な話だと思いますよ」
「カタいわねえ。しょうがないわね、じゃあ、やっておいてくれる?」
「……教授」
 なぜ自分が、と言いかけて、マイヤは思いなおした。言っても無駄だ。多分、勝手に書類を作ったほうが、速い。
 そんなわけで、マイヤがひそかに敗北を認めた時。
「すみません、あの……」
 研究室に次の来客があった。
「あら、フランちゃん。体の具合はもういいの?」
「ええ、もう」
 フランだ。フランも関わったゴタゴタがあって……その中心はエイムであったわけだが、そのあと、フランは一時体調を崩していた。最近は回復したようではあるが。
 それをさておいても、フランが蒸気研に姿を見せるのは珍しいと言えるだろう。
「それで、どうしたの?」
「ポスターを拝見したんです」
 それで、自分も協力したいと思ったのだとフランは言った。肩の上のイルズマリは黙っているが、少し心配げだ。
「参加したいの? それなら」
「え、あ、いいえ……私、泳げませんので」
 少し恥ずかしそうに、フランは頬を染めた。だが、年中泳げる場所など帝国全土を探してもアルメイスくらいにしかないので、帝国人が泳げないのは割と普通のことだ。このアルメイスでも水泳は必須授業じゃないので、よほど好きな者でなければ、ちゃんとは泳げないだろう。
「私もみなさんにご迷惑をおかけして、お世話になりましたので、お手伝いと……なにか、賞品でもご提供できたらと思いまして」
「あら、悪いわね」
 カマー教授は遠慮なく、あっさりとその申し出を受ける。
「まだ、何が良いのか、決めておりませんけれど……何か、お役に立つものを選びたいと思っております」
「そう、じゃあ、副賞はフランちゃんからのお楽しみグッズってポスターにも書いておくわ」
 机の引き出しの中から、そう言いながらカマー教授は鉛筆を取り出す。何本かまとめて取り出して、1本はエイムに渡した。もちろん、貼ったポスターに書いてくるようにという意思表示だ。残りの鉛筆は研究室の学生の手に渡るのだろう。
「双樹会協賛とも書いておくわね、マイヤちゃん」
 有無を言わせぬ笑みで、カマー教授は言った。

「蒸気式トロフィー……素晴らしい」
 そういえば、自分の主人はこういうのが好きだったなあ……と改めて従者は思った。
「フラウニー嬢の副賞も素晴らしい!」
 ランカークは自分ではがしてきたらしいポスターを眺めている。
「絶対に優勝だ! いいか!?」
 ランカークも出るのか、というと、彼はこういうものに努力するタイプではない。従者に頑張らせて、自分は左団扇が普段のランカークだ。それでこっそり手に入れて、ほくそえむのである。
 なのだが。
 しかし。
「出るのかい? 水泳大会」
 今は、それには邪魔な客人が屋敷に滞在していた。
「え……いや、その」
「頑張ってね、僕、審査員に呼ばれてるんだよ」
「審査員!?」
 やはり内陸で寒冷地の育ちであるサウルは自分で泳ぐのはちょっとなんだが、見るのは楽しみだと明るく言う。
「そ、そうですか! 任せておいてください!」
 はっはっは……と、空元気な笑い声が屋敷に響く。
「ええと……種目はなんだ?」
「スプリント、100アース競争、4人リレー、飛び込みですね」
 スプリントは15アース、100アース競争はそのまま100アース、4人リレーは50アースずつ4人が交代で泳いで計200アースを泳ぐ。飛び込みは、1アースの高さの飛び込み台から美しく飛び込むことを競う。審査員が要るのは飛び込み競技だろう。
「全部に出る必要はありませんが、各競技によって得た点の合計で順位が決まるようです」
「そ、そうか……リレーのチームは?」
「任意ですね。4人で組んでエントリーしても、その場で参加者4人集めても良いようですが」
 ランカークは考えこんでいる。どうしたら優勝できるだろうかと。
 そして従者も考え込んでいる。ランカークを優勝させるために裏工作をするべきか、自分が優勝を狙って参加して結果的にランカークに賞品を渡すのがいいか……
 どちらも、参加者が少ないといいんだが、と思っていた。


 そして数日後。
 アルメイスにおいて、最も泳ぎの速いと噂される男が忽然と姿を消した。
 それはアルメイスで最も大きな男にして、水の中で最もファンタジーな男だった。
 その失踪は事件か事故か、はたまた家出か……その理由は判然とせぬままに、その行方はようとして知れなかった。

■気持ちを見せて■
「フラン」
 “悠久の風”リョオマは自存型リエラのティアラを連れて、フランの姿を求めて図書館までやってきた。そこでちょうど“七彩の奏咒”ルカと連れ立って、図書館の玄関を出て行こうとしていたフランと行き会う。
「リョオマさん? ご用でしょうか?」
「ああ……ポスターを見たんだ。あんたからの『お楽しみグッズ』とあったから」
 リョオマがそこまで言うと、まあ、とフランは小さく声を上げ、口元を両手で覆った。
「ごめんなさい、まだ何か決まっていないんです」
「いや、そうだろうとは思ってたんだが」
 申し訳なさそうに答えるフランに、リョオマは気にするなというように手を振る。
「だから、これからルカと一緒に微風通りまでお買い物に行くんですー」
 隣にいたルカは、すかさずそこで笑顔でフォローを入れた。そこには、ささやかに自慢も入っている。フランと一緒に買い物に行くのだと。
「そうなのか。なんだったら一緒にと思ったが、出遅れたか」
「そんなことありませんわ。これからお買い物に行くのですもの、よろしければご一緒しませんか?」
 ルカの自慢にリョオマが苦笑いを浮かべると、一時とは別人のような人懐こさでフランから同行を誘う。
「いいのか?」
 そう言うリョオマよりも、ルカのほうが驚きの瞳でフランを見上げた。
「フランさん、逆ナンですか?」
「ぎゃくなん?」
 ルカの問いの意味がわからずに、フランは首を傾げる。もちろん、そこでルカは懇切丁寧に説明を始めた。
「逆ナンパです。女の人のほうから、好みのゆきずりの男の人を誘って、お茶とか」
「――ルカちゃんっ!」
 ぱあっとフランは赤くなった。違う、違うの、ルカちゃん、そういうのではないんです、リョオマさん、と慌てふためいてフランは弁解する。リョオマが自分の用事で買い物に行くとフランは考えたので、同じ方向なら一緒にと、その程度のつもりだったから、それは大変な慌てようだった。イルズマリに至っては羽毛を逆立てて、聞き取れないほど混乱したことをわめいている。
 落ち着いてください、と慌てさせた当のルカに諭されて、ようやくフランは息をついた。
 ルカにしてみれば、強く人を遠ざけていた少し前までのフランを知っているだけに、これが何の心境の変化かは気になるところだ。心を開いてくれたのはいいことだし、そうなるように努力もしていたつもりだったが、この変化は少し急激に思えた。
 かつて人を拒むようになったときにも、それは急激であったけれど……そのときにはある程度明確な理由があったわけで。
「わかりましたです。逆ナンじゃあないんですね。じゃあ、時間なくなっちゃいますし、一緒に行くなら行きましょうか?」
 しかしそんな話は道々にでもと、ルカはフランたちを促して歩き始めた。


「後は何買うんや?」
「うーんとねー」
 “轟轟たる爆轟”ルオーは、ラジェッタの手の中にある買い物メモを覗き込んだ。
 水泳大会のポスターにスタッフ募集の文字は一言もなかったのだが、ほどなくそれなりの数の希望者が集まってきた。それは当日の審判や審査員、設営準備希望を含めると、十分に足りる数になるだろう。
 教授のわがままに無理矢理付き合わされる運命にあった研究所の面々には、幸いなことだ。集まってきた者のいくらかは、そんな彼らや巻き込まれたラジェッタやエイムに同情した者。残りの半数は、異なる下心を持っているか、夏の夜のお祭り騒ぎに参加したいが泳ぎはちょっと……という者のようだった。
 今は、その中の買い物部隊がぞろぞろと微風通りを歩いている。一番ちびっこいラジェッタ以外は、手に手に袋や包みを抱えていた。
 正しくは、この買い物はラジェッタが頼まれたものだった。更に正確には、カマー教授が頼んだのは、ラジェッタの保護者兼リエラであるエイムにだ。リエラが頼まれ引き受けたなら、当然責任は主たるフューリアにかかるわけだが……この二人は保護関係が複雑なのだ。父子であり、フューリアとリエラ。
 そんな二人を手助けしようと、名乗りをあげたのがルオーだった。手伝いに呼んでくれない二人の水臭さに、ひとしきり抗議した後、「俺とエイムはんの仲やないですか」と無理矢理にでも手伝う宣言をして、それから二人について回っている。エイムは「仲ってどんな!?」と真剣に問い返していたが、ルオーはそれは笑ってごまかしていた。
 他にこの親子と一緒に歩いているのは“路地裏の狼”マリュウと、ラシーネだ。どちらも手伝うついでに、親子らしくなってきた二人の様子を眺めていた。
 二人は道すがら「学園にはもう慣れた?」などと、他愛もないことをラジェッタやエイムと話している。教授にこき使われてはいるけれど……これはこれで、穏やかな光景だと言えた。
「そういえば、二人は泳げるの?」
「ええとね、ラジェ、ちょっとだけおよげるの」
 ラシーネの問いに、ラジェッタは顔をあげた。昔住んでいた家のあった森には川と泉があったのだと、少し不器用な言葉で一所懸命に説明する。
「じゃあ、水泳大会には参加するの?」
「…………」
 しかしラシーネにそう聞かれると、ラジェッタは急にもじもじした。
「ちょっとだけなの」
「そうなんだ。それでも私より泳げるかもなあ」
 あはは、とそれにマリュウが笑った。マリュウも多くの学友の例に漏れず、アルメイスに来て初めて水泳を習った。熱心に自主練習に通っていたわけでもないから、息継ぎがまだ上手くできなくて、長く泳ぐとスピードが遅くなってしまうのだ。息継ぎをしないで泳げば、当然長くは泳げない。
 ラジェッタはそれでも長く泳げない仲間がいることに安心したのか、マリュウにニコニコと笑い返した。
「ちょっとだけでも泳げるのはすごいで?」
 ルオーにかかれば、ラジェッタはなんでもすごくなってしまうのだろうが。ルオーに頭を撫でてもらって、ラジェッタはさらに笑顔を見せる。
 そんな娘の様子に微笑んで、エイムも答えた。
「私も水練の訓練はしましたが、得意と言えるほどではありませんでしたね。私が学生の時分には、あのプールはありませんでしたし。今はもう、泳げない気がします」
「そうなの、残念ね」
 ラシーネはそう、無難に相槌を打った。
「まあ、ジャングルの投影とか、他にも色々あるんでしょう? なんでジャングルなのかはよくわからないけれど……せめて、そういうので楽しめるといいわね」
「うん! たのしみなの」
 ありきたりの社交辞令だが、ありふれた優しさは人と人との繋がりに必要なものだ。
 ラジェッタは本当にジャングルを楽しみにしているようだった。教授が投影しようというジャングルは、ラジェッタの故郷の森にも、それほど遠く離れたイメージではないらしい。
「夜光虫も放すって話やからなあ……って、夜光虫ってどんなんやろ。夜光る虫?」
「ラジェのおうちのちかくにも、よるひかるむしさんいたのよ」
 へえ、とルオーは感心した。それと同時に、少し不安に駆られる。あまりにそれが故郷に近ければ、逆に里心がつきはしまいかと。
 それはホームシックというものだ。母と暮らした故郷。それは今はいない母を思い出させて、ラジェッタは悲しまないだろうか。そしてどんなに想おうと、もうその故郷には戻れない……はずだ。
 だが、そう聞くわけにもいかずに、ただルオーは黙る。
 それをラシーネは見ていて。
「ねえ、ラジェッタは、エイムさんのことをどう思ってるの?」
 そう、不意に聞いた。
 それは親を知らぬラシーネが個人的に聞きたかったこと。ルオーの顔を見て、その考えていることを想像し、ふと思い出した。
「おとうさん、だいすきよ」
 そして躊躇なくその答はあった。エイムの顔を見やれば、そう言われるのは当たり前のことのような落ち着いた表情をしている。それは少し、ラシーネには意外な気がした。
「じゃあ、エイムさんは?」
 続けてエイムに、ラシーネは同じ質問を投げかける。
「だいすきよ。ね?」
 やっぱり、答えはラジェッタからあった。そしてこれにも迷いはない。最後についている「ね」という語尾の響きは確信的な確認だ。
 そんなにも迷いなく愛情を信じあえるものだろうかと考えこむラシーネに、エイムが微笑みかける。
「私たちは交信でも意思を交わしますから……根底となる気持ちは偽ろうとも偽れません。私はラジェッタを愛していますし、何より可愛い……お恥ずかしいですが、深く交信すればこういったことは本人にも筒抜けですね」
 エイムはラジェッタの頭に優しく手を置く。
「そういうものなの? 私はよくわからないわ。知識の鏡と、そこまで通じ合えていないのかしら?」
「パートナーが非自存型のリエラだと、意思や感情の在り方がフューリアとかけ離れていますから、強く感じないのですよ。思考形態の異なる非自存型のリエラと同調するということは……」
 そこでふと、エイムは言葉を切った。
 語ってはいけないことを語ってしまったかのように。
 通じ合っていることは、自存型も非自存型も同じ。ただ、思考を近い言葉で組み立てられる自存型のほうが、フューリアにとってはストレートに理解しやすい思考形態であるということ……それだけのことではあるのだろうが。
「そのうちわかるようになるかもしれませんね、あなたなら」
 それでエイムは、この話を終わらせたようだった。
 まただ、とラシーネは思う。まだ早い、いつか……と、言うが。では、それはいつなのだろうか。
 とにかく長く離れていたにしては、この二人はめでたく両想いらしい。幸せそうであることに違いはない。
 そんな様子にマリュウも少し、切なげな視線をおくっていた。マリュウにも、やはり家族はいなかったので。
「家族って無条件で愛し合える、そういうものなのかしら……エイムさんはラジェッタのお母さんと、どういう経緯で知り合ったの?」
 会話が途絶えることを避けるように、代わる話を探して、ラシーネは次の質問を紡いだ。それはマリュウが理屈ではなく感じていることを、ラシーネは理屈で理解しようとするかのようにでもあった。
「それは」
 エイムはラジェッタを見た。ルオーもその視線を追うようにラジェッタの顔を見れば、その目には期待が輝いている。ラジェッタが、父母の話を聞きたいのは道理だろう。
 だが……
「ラジェがもう少し大きくなったら、お話してあげましょう」
 敵国の地で敵国の女性と結ばれ、子まで生しながら別れた経緯は、十に満たぬ娘に聞かせたいものではなかったのだろう。ならば無理にはと、ラシーネも、それ以上には求めなかったが。
「おかあさん、きらい……?」
 期待の輝きを不安に変えて、その代わりにラジェッタが訊く。エイムは困ったようだったが……答えはした。
「大好きで、大切でした。守りたかったんですが……結局大切な友達も、彼女も傷つけてしまった。帰れなくて、すみません」
 恨んでいたでしょうね、という言葉にラジェッタは首を懸命に横に振った。ラジェッタはそれで、納得はできたようだった。

「あら、みなさん」
 そんな道端で話し込んで前方不注意気味の一行に、正面からやってきたもう一組の買い物部隊から声がかけられた。
 お買い物ですか? と聞いたのはフランだ。フランはエイムと、彼がアルメイスにおいて注目を浴びる前からの知り合いであるので、ばったり街で出会えば挨拶くらいするのは自然なこと。
「ええ、そちらも?」
 話が打ち切られたことに、ラジェッタ以外の者はどこかほっとし、そしてエイム以外の者は少し残念にも思う。
「賞品を出させていただくことにしましたのに、お恥ずかしいながら、まだ何も決まっていなくて……カフェで少し休みましょうかって言っていたところです」
「大切なのは気持ちだからな、高価なものでなくていいし……優勝賞品が『蒸気式トロフィー』なんておかしなものなんだから、気楽に選べば良いって言うのに」
 リョオマが、ふうと息をつきながら続ける。
「迷いすぎなんだよ」
 すみません、とフランは恐縮した。
「リョオマさんは簡単に考えすぎだと思いますー。だって、優勝者は男性か女性もわからないんですよ。それに蒸気式トロフィーだって欲しい人はいるらしいです」
 リョオマに反論を返すのは、ルカだ。
 リョオマのように興味のない者には、案の定ガラクタ以下の扱いを受けている蒸気式トロフィーだが、ルカの言うように一部のマニアにはかなりの評価を受けているらしい。欲しいという者は、熱狂的に欲しがっている。
 そこにも一人、トロフィーの話に目を輝かせているお子様がいるように。
「なあんだあ、普通に賞品なんだ。私、お楽しみ〜って書いてあるから、フランのキスかと思ってたー」
 そう悪気なく言ったのはマリュウだったが、フランはまた慌てふためいた。
「……そうですね、そういう手もありますね。じゃ、どうしても決まらなかったらそれで」
 冷静に応じているルカに、フランは困惑顔を向ける。イルズマリは難しい顔で、それはエルメェス家の子女としてどうなのかと……やはり慌てている。
「女の子にもしてくれるかな? 一応私も出るつもりなんだけど」
 マリュウがフランとイルの慌てぶりに悪いと思いつつも笑いながら、そう言うと、フランの代わりにルカがうなずいた。
「男女の別はないですよ。水泳大会にはルカも出ます。ルカ、泳ぐの速いですから、フランさんも応援してくださいね」
 ルカが勝てば、キスでも問題ないですよ? と、こちらは真顔で言いながら。
「……それ以前にちゃんと賞品が選べれば、問題ないから」
 女の子たちにからかわれるフランを、ため息まじりながらリョオマが励ます。
「はい……」
 それらは、とても平和な光景だと言えた。未来を知りえる者ならば、このアルメイスでフランを囲む風景の中ではとても平和な光景だったと思っただろう。
 そう、フランが明るさを取り戻した本当の理由は、まだ誰も知らなかったので……


■苦労人たちの序曲■
「双樹会協賛で、大惨事はまずいでしょう」
 学生会長室を訪ねてきたボーイッシュな女子学生の言うには、ここまで巻き込まれたのならば毒喰らわば皿まで、マイヤに覚悟を決めて水泳大会を仕切って欲しいということだった。
 “前向き逃走”フェスティは水泳大会の運営スタッフで、その準備の雑用の合間を抜けて、マイヤを訪ねてきたのだ。
「人手が足りませんか?」
 そのマイヤの答える声に、どこかブルーな響きを隣に控えていた“深藍の冬凪”柊 細雪は感じ取った。
 双樹会がこの水泳大会に関わった経緯を細雪は知らなかったので、フェスティが訪ねてくる直前には「水泳大会とは粋な計らいでございまするな」などと、賛辞を送ったりしてしまったのだが。そのときマイヤが審査員に誘われているが、まだ返答していないと言っていたのはやはり、この行事に気が乗らないせいだろうか……と、細雪も微妙な表情を浮かべる。
 そんなマイヤと細雪を前にしても、フェスティは引くことなくマイヤの問いに答える。
「いえいえ、人手は足りてるみたいですよ。ただ手足が足りていても、その頭になる部分がカマー教授ですからね」
 もちろん、マイヤを本格的に担ぎ出すための言いくるめの体勢も崩さない。
 そしてマイヤも、折れるしかないことを知ってはいたようだ。薔薇の蕾にため息をかけて、目を伏せる。
「君の心配はわかりました。問題にならないように配慮しましょう」
 フェスティは、その言葉にニコリと笑った。では仕事に戻ると会長室を出て行く。
「待たれよ。では拙者も、ご同道するでござる」
 楼国訛り混じりの声に呼びとめられて、フェスティは扉のところで足を止めた。そこに、細雪が追いつく。
「それでは拙者、マイヤ殿の露払いを勤めさせていただきたく……先に参るお許しを」
 出て行く前に、細雪もマイヤを振り返った。
「そうですか。では教授には、監査が入ると伝えてください。やっぱり、当日の審査員もお受けすると」
「御意に」
 そして二人が出て行った後。
「水泳大会、監視に行くん?」
 二人と入れ替わるように、扉の影から“笑う道化”ラックがひょっこり顔を覗かせた。
 こんちはー、と明るく、しかし小声でラックは挨拶する。
「こんにちは。どうしました?」
 マイヤは、普段と変わらぬ笑顔を浮かべてラックを迎える。
「僕も、水泳大会の監視を誘いに来たんやけどね」
「今、行くことにしたところですが……聞いていましたか?」
「外にいたから、聞こえてもうたんや〜。まあ今度の水泳大会、時間も場所もアレやしね。女の子にコナかける男子もおるやろし」
 ルーなんかはしんどいやろなあ、とラックはにこやかに言う。そこでピクリとかすかに、マイヤは眉を動かした。一瞬微妙な空気が流れるが、ラックは動じずに話を続ける。
「やっぱ風紀の問題ってあるやろ? 女の子が困るようなんはあかんよ。まあ、二人で気をつけとけば問題ないと思うんや……いざとなったら、男子はさっくり気絶させたらええし」
 ボソッと小声で、しかし表情を変えずに、ラックはそれに続けた。てーかボクだけ気絶させられるんは不公平やし……と。
「わかりました。風紀の乱れは問題ですね。いくらカマー教授の企画とは言え、それほど心配することはないと思いますが……配慮するにこしたことはないでしょう。では、一緒に監視と」
 マイヤはラックの最後の言葉が聞こえなかったかのようににこやかに、そう応じる。
「そーや、一緒に。問題ないやろ?」
「問題ありませんね。では当日に」
 当日に。そう念を押すようにマイヤは繰り返した。


 突然ふと、ぶるッと震えたように見えた“天津風”リーヴァを、“緑の涼風”シーナは軽く振り返った。横を歩いていたリーヴァの顔を覗き込む。
「風邪? 大丈夫?」
「いや……熱はないな。ただ今、急に寒気がして」
「いやね、本当に大丈夫?」
 平気だとシーナに答え、リーヴァはそれを主張するかのように足を速めた。
「そう、ならいいけど。それにしても、ジェダイトさん、どこに行っちゃったのかしら? もしかして、クレアさんのところに行ったのかしら?」
 学園は休みに入っていて、学園内には生徒の姿は少なかった。授業のある日と違って、誰かを探すには不向きだ。補習と自習はあるけれど、それは人が限られる。どうしても、探しにくい。同性ならば、最悪、寮内で捕まえることができるが。
 最初にシーナと“怠惰な隠士”ジェダイトを探していたリーヴァにしても、朝のうちに寮でジェダイトを捕まえ損ねた後、先にシーナと出会えるとは思わなかった。それは運だったとして。
「もうクレア君のところに行ったか。考えられるかな」
「じゃあ、劇場の方に行ってみる? この時間ならバイトよね。休みなら訓練かしら」
 そうだな……と、言いながら、リーヴァは方向転換する。シーナもそれを追って、向きを変えた。

「クレア」
 二人の思った通り、ジェダイトはクレアのところに来ていた。夏休みでも、バイトのおかげでクレアの居場所はわかりやすい。
「ジェダイト? どしたのー?」
 今日もチケットもぎをしていたクレアに、ジェダイトは片手を挙げた。バイトの手伝いはやめたのか、後ろのほうの路地口にルーがひっそりいる。バイトが終わるのを待っているのだろう。
「なあ、クレアは水泳大会はどうするんだ?」
 3種目は個人だが、リレーは4人一組だ。他はともかく、クレアと同じチームになりたい……それは、ジェダイトにしてみればごく自然な希望だが。
「うん、出るつもりだけど、細かいことはなーんにも決めてない」
 相変わらずに、にゃはーっと笑ってクレアは答える。
「じゃあ、リレーは一緒に出ないか?」
 だが、ジェダイトの誘いには、うーん……と、クレアは首をかしげた。
 即答がないのは、クレアが泳ぎが苦手なせいかとジェダイトは考える。めちゃくちゃ泳ぎが得意だという話を聞いたことはないので、普通か、苦手か……どちらかだと思っていたのだ。
 まあ、それがかなり前向きな考えだというところはあるが。
「俺、泳ぎは得意じゃないんだよ。クレアはどうなんだ?」
「にははぁ、特別得意ってわけじゃないよぉ。子供の頃は縁なかったし」
「そうなのか。得意なら、ついでに教えてもらおうと思ったんだが」
「嫌いじゃないから、苦手でもないけどね」
 何を悩んでいるのか、うーんと考え込むクレアの後ろに、いつの間にかルーが来ていた。
「クレア」
「ん、水泳大会の話。ルーはどうする?」
 ルーが口を開こうとした……そのときに。
「クレアさーん」
 シーナとリーヴァが走ってくる。
「バイト中にごめんね! やっぱりジェダイトさん、こっちにいたー。探したのよ?」
「え? 何、俺?」
 意外な顔で、ジェダイトがシーナを見る。シーナがクレアに用があるのはわかるが、自分を探していたというのは、予想できなかったので。そもそもリーヴァとシーナが連れ立ってきたところから、意外な組み合わせではあるが。
「そうだ。三人でクレア君を水泳大会のリレーのチームに誘おうと思ったのに、キミがいないから」
 エッ、とさらにジェダイトは慌てる。
「そうなの。クレアさん、一緒にリレーに出ない?」
「うん、今、ジェダイトにも誘われたんだけどね! どうしようかなって思ってたとこ」
 シーナの誘いには、にぱっとクレアはいつもの笑みを見せた。
「シーナと一緒なら、出ようかなぁ。4人チームなんだよね」
 そう言って、ルーから始めて、ぐるりとクレアはその場の顔ぶれを見回した。自分を含めて、計5人だ。いつもそうだが、どうも数がぴったり割り切れない。
「そうなんだが。ルー君も出たいのなら、それで考えよう。どちらにしても、ルー君も一緒に練習しないか?」
 ルーが入るなら、他に一人抜ければよく、それでちょうどだ。と、なんでもないことのようにリーヴァは言う。
 慌てたのはジェダイトだ。クレアはシーナと一緒ならと言い、そこにルーが入るなら、後の枠は一人。リーヴァが退くとは思えなかったので、弾き出されるのは……
「おいおい、俺も誘うんじゃなかったのか?」
 ジェダイトはリーヴァの腕を引っ張って、リーヴァをルーとクレアの前から引き離す。ぼそっと小声でそう聞くと。
「そりゃあ、ルー君の水着姿はできれば同じチームで見たいからねぇ」
 何か思うように、リーヴァは目を細める。
「俺は、どうなるんだ」
「すまん、諦めてくれるか?」
 敵か。この男は、やはり敵なのか。
 そんな思いがジェダイトの胸に去来したところで。
「冗談だ。ルー君が入るなら、私が抜けるよ」
 爽やかにリーヴァは前言をひっくり返した。
「……本当に?」
「まあ、一緒に練習できれば、それでいい。人見知りするルー君に、あまり贅沢を言ってもな」
 そこでルーとクレアのところに残っていたシーナが、リーヴァたちを呼んだ。
「リーヴァさーん。ルーさん、やっぱり出ないって!」
 でもクレアが出るなら練習は見に来ると、そう言っていると。それはまあ、予想通りの返答ではある。
「やっぱりか。まあ、これでお互い同じチームだな」
 よろしくとリーヴァに言われても、どうも素直によろしくと返しにくいジェダイトだった。


 一方その頃、水泳大会を控えて、カマー教授の元を訪れていた者は多い。そしてスタッフ希望者は、フェスティを始めとして比較的まともだった。
「報酬として、蒸気式トロフィーにそっくりな張りぼてをいただければ」
 比較的、ではあるが。
 謝礼に偽トロフィーが欲しいと言ったのは“貧乏学生”エンゲルスだ。ただこの張りぼても、意味もなく作って欲しいというのではない。かつて球技大会で優勝賞品強奪が企てられた件を引き合いに出し、本物のトロフィーが奪われることのないよう囮を作ろうという提案だ。で、無事に済んだら最後にその偽物が欲しいというわけである。
「囮ねぇ……」
 カマー教授は、しばらく考え込んでいた。
 そんな間にも、教授の元には水泳大会にエントリーする者たちが訪れる。
「教授! 俺、絶対トロフィーを取るぜ!!」
 申込書を握らせるついでにがしッと教授の手を握り、そんなことを言っていったのは“黒き疾風の”ウォルガ。
「あの動くギミック……! 素敵過ぎる!」
 熱く燃える男、ウォルガ。メカフェチの素質もあったらしい。
 その熱い気持ちをカマー教授に伝えると、まずは勝つためのリレーの仲間を探すと、ウォルガは研究室を飛び出していった。
「……まあ、この人気だと、心配なこともあるわよねぇ」
 ウォルガが出て行ったあと、どこか嬉しそうに、カマー教授はエンゲルスの提案にGOサインを出した。
 偽物はエンゲルスが勝手に作るということで、手間もないことだし、と。
 もちろんエンゲルスだって、何も目的なくそんなことを言っているわけではない。同じように“不完全な心”クレイはマリーにいいところを見せたいがために、非力なくせに設営準備を手伝っていた。そんなささやかな下心があるくらいは、許されるものだ。
 準備の進行を監督していたのはフェスティだった。その上に立つのは、カマー教授。……フェスティがわざわざマイヤを迎えに行ったのも、納得できるというものだ。
 当日は研究室から人手も駆り出されて来るし、警備や審判の役目の者たちも増えるが、準備の間はそうそうずっとともいかない。設営に関わる準備はフェスティを始めとし、エンゲルス、クレイ、マイヤのところから一緒に来た細雪、それから買い物部隊の5人を足して、切り盛りしていた。
「順調ですか? 教授はどちらで?」
 そんな準備の進む夕方のこと。プールのほうにマイヤが様子を見に来て、教授の姿がないことを訊ねた。
「教授は研究室です。参加者の受付があるからって言って、ずっと映写機いじってますよ」
「そうですか」
 マイヤが軽く浮かべた笑みは苦笑いだ。
「いやでも、ここに教授がいるより、ずっと準備はスムーズに進みますから」
 クレイが思わず、フォローにならないフォローを口にする。まわりは半分笑いながら、シーッと、クレイの発言を諌めた。クレイも慌てて自分の口を塞いで……きょろきょろと教授の姿が近くにないかを見回した。
「そうだ。これは差し入れです、痛まないうちに食べてくださいね。寮に帰って食事をするのは、遅くなるでしょう?」
「かたじけのうござる」
 マイヤが抱えてきた大きめの紙袋を、細雪が受け取る。
「べ、弁当……っ! フェスティさん、休憩にしませんかっ」
 どうも仕出弁当とか差し入れとかいう言葉に極端に弱いらしいエンゲルスが、握り拳も白くなるほど力んで主張する。
「あー……その前に、飛び込み台の設置終わらせちゃいましょう。これは残しておくと邪魔だし」
 今大会、最大の大物設備が高さ1アースの飛び込み台だ。フューリアが乗って飛んだり跳ねたりしても壊れない頑丈さが必要なわけだが、この高飛び込み台は実はプールに元々固有の設備として存在しているわけじゃない。
 設計:カマー教授。製作・耐久実験:蒸気研研究員の皆さん。飛び込み台は研究員の皆さんの三日分ほどの睡眠時間を費やして作られた、力作なのである。
 ちなみにプールではないところで耐久実験は行われたため、1アースの高さから飛び降りたり落ちたり落下したり撃墜されたりと、結構な数の研究員が病院送りになったというまことしやかな噂が流れたりもしたが……真相は定かではない。ということにしておこう。
「これが飛び込み台ですか?」
 設置の様子を眺めていた、“拙き風使い”風見来生が、1アースの高さを見上げながらそう聞いた。1アースは来生の身長の2倍に5アーほど足りない、その程度だ。
 ああ、と設置作業途中の者たちが、口々に答える。
「……高さ、この2〜3倍くらいあったほうがって思うのは、素人考えでしょうか」
 それは作る者でなく、飛び降りる者でもなく、純粋に観る者としての感想だったのだろう。
「いや……」
 エンゲルスは口ごもった。
「それは……」
 クレイは遠くを見つめた。
「どう……でしょうね」
 フェスティは目を逸らした。
「あー……無理だったんじゃないかなぁ」
 マリュウは笑ってごまかした。
「無理なので?」
「そうでござるな」
 首を傾げる来生に、細雪が一人納得するようにうなずいて続けて。
「まあ、無理やったろね」
 これ以上高いときっと作ってる途中で死人が出たやろし、と、ルオーは聞こえないようにぼそっと言った。
「え?」
 聞き返す来生に、ラシーネが不毛な話を終わらせるべく説明する。
「飛び込むのも素人で、この一番深いところでも極端に深いわけじゃないから、あんまり高いと本番で怪我人が出るわ。それに第一、これ以上高かったら上で飛んだとき、天井にぶつかる人が出るわよ」
 あっ、そうか、と来生はそこで手を叩いて納得した。
 とりあえず、特設飛び込み台を温水プールの中まで運ぶ役目はエイムとラジェッタで……便利に使われているが、多分元々そのために教授に捕まったのだろう……それは済んでいた。その後、位置を合わせ、動いたり倒れたりしないように十分基部に重石を入れて固定する。
 それらの作業を終えてから、休憩だ。
「ううっ。さ、差し入れ〜」
 けっこうな重労働の後、差し入れの袋から飲み物とサンドイッチが出され、配られた。
「ク、クレイさん〜。食べないなら、もらっちゃいますよ……?」
 自分の分は確保した後、エンゲルスは残っている分が誰の物なのかを見回した。残ったサンドイッチはクレイの分で、クレイは気がつくと飛び込み台に登っている。
「あ、ごめんなさい、とっておいてください。僕、ちょっと飛び込んでみて、位置を確認しようと思うんで」
 そう言って、クレイは飛び込み台の上で上着を脱いで水着姿になる。
 そうですか……と沈むエンゲルスは置いておいて、下から手を伸ばして上着を受け取ったマイヤは、クレイの腕や上半身に巻かれた包帯を指摘する。
「それで飛び込む気ですか? 怪我してるなら、無理はしないほうが」
 言われて、クレイは「しまった」と慌てて包帯も解く。
「マリーさん、来てないですよね」
「……いないみたいですが」
 包帯の下からは、筋肉痛用の湿布薬が出てきた。独特の匂いが空気にさらされてプーンと漂う。
「非力なもので……肉体労働はこたえるんですよ」
 ふう、と年寄りじみたため息をつきながら、クレイが包帯を外しきったところで……
「あ、なーに、プールサイドで飲食なんかして〜。掃除大変なんだから、こぼさないでよ?」
 ちょうど、マリーがやってきた。教授の伝言か何かだろうが。
「あ、マリーさん」
 マリーが来たからには、無様な飛び込みは見せられない。クレイがグッと力んでマリーの来た方向へ身を乗り出した、その瞬間。
 身を乗り出した一歩先には、もう踏み切り板はなかった。
 そのまま、見事に腹から落下。
 1アースをゆうに超える水柱が消えた後も、飛び込み第1号の姿はしばらく水面に浮かんでこなかった……
「やーねー、耐久実験中もおなかから落ちた人はいないわよ? そんなサバイバル能力皆無じゃ、蒸気研じゃ生き残れないわ」
 文字通り「浮かんだ」後、水から引き上げられて、どうにか意識を取り戻したクレイは真っ先に聞こえてきた言葉に、密かに涙した……
 サバイバル能力の必要な研究室の存在自体が間違っているというのは、さておいて。


■勝負はもう始まっている■
 大会前、スタッフ参加者たちは事前準備に精を出し、選手として参加する者たちの半数は真剣に優勝を目指して、プールに日参して練習に励んでいた。
 そして、勝利を目指す参加選手たちには、それより前にもう一つの難関があった。
 ウォルガもリーヴァもまずはここからと始めた、リレーのメンバーだ。4人リレーは一人50アースを泳ぐわけで、コンスタントに速く泳げる者が他に3人必要になる。可能ならば元々信頼のおける、親しい間柄の相手から探すのが楽だ。優勝を目指す同士でも……いや優勝を目指す同士だからこそ、リレーでは一致団結で戦わなくてはならない。
 “銀の飛跡”シルフィスと“黒衣”エグザスも、“賢者”ラザルスに煽られて順位争いをしているのだが、リレーのチームは一緒だ。二人に加えて、“鍛冶職人”サワノバと“自称天才”ルビィの四人でチームを組む。
 優勝を狙うためのチームとしては、他に“闇の輝星”ジークが集めたチームがあっただろう。ジークの運動能力は冬季球技大会優勝で実証されているが、今回もそのときのパートナーだったカレンに声をかけた。
 カレンは酷く忙しそうではあったが……水泳大会には出ると、ジークの誘いを二つ返事で了承した。如何に口説くかも考えていたジークは、そのあっけなさに少し拍子抜けしたが。
「他のメンバーには心当たりがあるから、任せてもらえるか?」
「任せるわ。こっちは、そこまで余裕ないかもしれないし」
「忙しそうだな……大会当日まで特訓したいんだが、参加できるか?」
「ん……ずっとってわけにはいかないけど、どうにか都合つけるわ」
 じゃあ、と、カレンはばたばたと行ってしまう。その後、ジークは泳ぎが得意な知り合いを順に当たり、ルカと“待宵姫”シェラザードを誘って、チーム四名をそろえた。
 優勝を狙う者たちは、このように誰もが、やはりチームのメンバーは重要だと認識していた。その優勝を狙う理由はそれぞれであるが。
 “ぐうたら”ナギリエッタも、その一人だ。まずエリスに声をかけるのは、ナギリエッタとしては当然の流れだった。それから“蒼空の黔鎧”ソウマと“蒼盾”エドウィンを捕まえて、チーム四人を揃える。
 ただし……優勝も、目指すだけなら誰でもできる。このチーム参加者のうち、ナギリエッタが泳げないことを知っていたのはエリスだけだったのかもしれない。エドウィンもソウマも、理由は違うが優勝を目指していることには変わりなかったので、ナギリエッタが泳げないことを知っていたら、おそらく二人は異なるチームを選んだだろう。
 そういう失敗をしないように気をつけて、リレーメンバーを探していたのは“旋律の”プラチナムだ。まずは、同じくメンバーを探していたウォルガと出会って、お互いに良いメンバーを得られたと認めあった。そして次に二人がメンバーとしてGETしたのは、“抗う者”アルスキールだ。
 アルスキールはレダをリレーに誘っていたのだが……レダは、トロフィーは欲しいらしいが、こういった競争にはどうも興味がないらしい。結局応援に来るとだけ約束して、残念ながらリレーの出場と一緒に練習はフラれてしまった。一緒に楽しく水泳とはいかなかったわけだが、せめてレダにトロフィーをというところで、二人と出会ったわけである。
 ウォルガとプラチナムが見つけたリレーメンバー最後の一人は、“双面姫”サラだった。サラがリレーの参加には熱心でなかったので、それはぎりぎりにまでずれ込んだが、サラは、諦めて妥協せずに良かったと二人が思えるくらいの泳手だった。
 また優勝を狙っていなくても、チームを組むのには苦労があるものだ。“福音の姫巫女”神音がまず声をかけたのも、やっぱり同じグループのマリュウだ。それから同じく縁があって仲良くなった“白衣の悪魔”カズヤ。ただもう一人探すつもりだったが、見つからなかった。それで困ったが……カズヤがすでにマリーを誘っていたので、その四人で出ることになった。……カズヤがマリーを連れてきたことは、神音はイマイチ気に入らなかったが……背に腹はかえられない。
 そうやって旧来の知人から仲間を探す者も、広く参加者の中から新しい仲間を探す者も、どうにかチームを組んでいく。
 そんな中で、実は最も混戦していたのはラジェッタとチームを組もうと思っていた者たちだった。

「じゃあね、お父さんが教授に頼まれた仕事をしている間、プールで泳いでいてくださいね。外へ出たらだめだよ?」
「はーい」
 ラジェッタとエイムは相変わらず準備の手伝いをしているが、非力なラジェッタには向かない準備もあるわけで。準備スタッフで力仕事に行くときには、目を離さない範囲でラジェッタを離しておくこともあった。現場がプールだからできることだ。
「一緒に練習しとるさかい、面倒はまかせといてや」
「いってらっしゃーい」
 そんなときには、“風曲の紡ぎ手”セラや“六翼の”セラスと、“のんびりや”キーウィがラジェッタの面倒を見ていた。セラスは水泳教師役、キーウィはラジェッタと一緒に生徒だ。ちなみにキーウィの予想通り、南方育ちのラジェッタはキーウィよりは泳ぎが達者だったので、キーウィにとってはラジェッタも先生だ。
 いつも勉強ではキーウィが先生だったから、この逆転は二人にとっては楽しい構図だったらしい。キーウィに教えるラジェッタは、とても楽しそうだった。
 セラスとキーウィの二人はラジェッタと一緒に練習をして、一緒にリレーに出て、できればトロフィーをラジェッタにあげたいと考えていたが……
 そう思っていたのは二人だけではなかったということが、ここの混乱の原因だったろうか。
「ラジェッタ殿、拙者も大会全種目に出るでござるよ!」
 やってきたのは隠密同好会の三人……“猫忍”スルーティア、“風天の”サックマン、“爆裂忍者”忍火丸の三人だった。
「トロフィーが欲しいと聞いたでござる。ラジェッタ殿に協力するでござる。まかせるでござるよ!」
「え……でも」
 ラジェッタは戸惑い顔を見せる。
 さすがに、自分では優勝できないのはわかっているからだ。他の競技はある程度レースが性別と年齢別になっているのだが、リレーだけは一切混成なので。
 しかし、勝てないから、とは断りにくい。実際にはラジェッタに優勝のトロフィーを、というこれは、隠密同好会の中でも忍火丸一人の暴走だったのだが……いきなりには、それさえわからなかった。
 ラジェッタよりも誘いに来た忍火丸のほうが、無邪気に見えるところもあるせいだろうか。
「無茶言って、ラジェッタちゃんを困らせちゃダメよ。リレーは総合優勝狙って、速い人たちで組んでるところも多いんだもの」
 セラスが、明らかに困惑しているラジェッタに助け舟を出す。
「ラジェッタちゃん、ごめんね。気を悪くしないでね?」
 優勝は無理と言ったことを怒らないでねとセラスに言われ、それにはぶんぶんとラジェッタは大きく首を横に振ってから、自分でおかしいと思ったのかこくこくと続けてうなずいた。
「うちはラジェッタちゃんに他に組みたい人がおんねんなら、遠慮してもええんやけど」
 キーウィはそう言うが、ここでただキーウィが一人抜けても、この場の収拾にはならなさそうだった。
 元々ラジェッタとキーウィが、ちゃんと50アース泳げるようになったらリレーに一緒に出よう、という話だったからだ。
 50アース泳ぐというのは、ラジェッタくらいの年齢の子には、かなり長い。
「ラジェッタァ」
 そこへ更にやってきたのが、“夢への誘人”アリシアだった。アリシアは他にレダとリムを誘うつもりであったが……最初のラジェッタから難関である。
 今まさに、火花散る女の戦いの真っ最中。
「何してるの? ラジェッタ、リレー一緒に出ょ?」
 そこで、火に油。
 更なる敵の出現に、セラスの眉間の皺が深まった。
 ちなみに、実は当事者の一人である忍火丸には、まだなぜこの場が揉めているのかわかっていなかった。なぜなら協力するとは言ったが、ラジェッタとリレーを組む気は忍火丸にはなかったからだ。
 組んだら勝てないので、当然ではある。ラジェッタを優勝させてトロフィーをあげよう、ではなく、自分が優勝してもらったトロフィーをラジェッタにあげようというわけだった。セラスやキーウィと考えたことは似ていても、選択肢が違っていた、そういうことなのだが……言い方も紛らわしかったので、なまじ考えが似ているだけに伝わりにくい。
「ふーむ。ここは、ラジェッタ殿に選んでもらうがイイでござろう」
 ラジェッタが誰とチームを組むのか。忍火丸がこう言ったのは、まさに他人事。
「うん、そぅだね。ラジェッタは誰と組みたぃ?」
「……ラジェッタちゃんが選ぶのなら……」
 さて、勢いで、なぜかラジェッタにとっては三択となったが……キーウィとラジェッタは二人並んで困った顔で、他を見回した。
 いや、キーウィが困る必要はないのだが。ラジェッタの気持ちとシンクロしていたのかもしれない。
「皆さん……何をしてるんですか?」
「皆様、ラジェッタちゃんが困っていますわ」
 さて、そこでやっと保護者がプールサイドに立った。セラが見かねて、エイムを呼びに行ったのだ。
 改めて事情の説明を受けて、エイムはため息一つ、考えこんだ。そしてここで一人一人に詳しく意向を確認していって、初めて忍火丸はラジェッタと一緒にリレーに出るつもりではないということに行き着いたのである。
「ええと……」
 誤解が解けて整理してみれば、それほど問題は大きくないだろうか。
 検証した結果、アリシアが他にチームメイトを誘わないならセラスとキーウィの二人と一緒に出てもらって、そこへラジェッタをというのが保護者の意向となった。ラジェッタもそれで異存はないようだ。最初の約束を守るのが、一番安心できるようで。
 アリシアはそこでは迷ったが……結局アルスキールと同じようにまずレダから断られ、リムからも無駄な努力はしないのだと断られ、流れ流れて最終的にはエイムの提案した鞘に納まることとなった。

 さて、ここで忘れてならないのは、ランカークである。ランカークも、退くに退けなくなった以上、リレーに出るのだ。
 ただ、一緒に組もうと言ってくれる者はいなかったので……取り巻きと出るつもりらしいが詳細は誰も知らなかった。
 残りは“燦々Gaogao”柚・Citronと、コルネリア、“光炎の使い手”ノイマンが組んだところに忍火丸が入って。
 これでリレー参加予定チームは、7チーム+1未定となっていた。
 当日は4コースで2レース行われる予定である。


 さて事前にチームが組めた者たちの多くは、日中は練習に励んでいた。授業もないから、時間の許す者は目一杯だ。だからいつも以上に、プールも混雑していた。
「貸切ではないとは言え……これは貸切と変わらないな」
 “憂鬱な策士”フィリップは、水泳大会の選手ではない。審査員になりたいと申し出て、それは受理されているので、当日は審査員だ。
 それより前には、単にプールに泳ぎに来ていたのだが……フィリップが思っていた以上に参加者たちは真剣であるようだった。
「まあ悪いことではないね、セシル」
 自らの力を磨いて勝利を得ようというのだから、それは評価されるべきだろう。
 フィリップはプールで泳ぐのは諦めることにした。選手たちに敬意を表して、場所を譲ろうと。
 ただ、フィリップが諦めたところでイモ洗い状態が変わるわけでもない。
 誰しも背中合わせ、同じ場所で練習するしかないので、特訓もライバルに筒抜けだ。おかげで小細工はなし、純粋に実力勝負になりそうではあった。
 真夜中にこっそり忍び込んで秘密練習しようとしたアウスレーゼのような者もいたが、それはカマー教授に捕まって、こっぴどく叱られる結果となっている。……プールサイドに不自然に大きな紙箱があったら、怪しむのが当然。その中に隠れていたのではバレて当然である。
 再犯したら出場取り消しを言い渡され、アウスレーゼは真夜中の特訓は諦めざるを得なかった。
 また、中には練習する参加者の邪魔をする、“熱血策士”コタンクルのような者もいたが……
 プールサイドで、その背後に忍び寄った警備担当“幼き魔女”アナスタシアのフライパンアタックを後頭部直撃で受け、水に浮かぶこととなった。
「「「退場じゃーッ!」」」
 審判を引き受けたラザルス、“探求者”ミリーを合わせ、三人の『じゃ』がプールサイドにこだまする。
 不正・妨害は許さない、正義を求める声がわしらを呼ぶと。
「コタンクルさんー!」
 一緒にいてコタンクルのささやかな悪巧みに巻き込まれた“深緑の泉”円は可哀想なことだったが、大会前早いうちに、二人はプールに当日大会終了まで出入り禁止を喰らうこととなった。


■消えたファンタジア■
 夏休みが始まって、直後に消えた、一人の男子生徒。
 水泳大会に向けて少しずつ参加者たちが盛り上がる一方で、その行方を気にする者もいた。
 なにしろ、学園一と噂された泳ぎ手が水泳大会を前にしていなくなったのである。大会に何か関係があると思うのが普通だろう。
 参加者の中にも、他にも狙われるかもしれないと警戒している者もいる。食べるものに気をつけている者は多かったし、ウォルガなどは練習帰りの夜道なども人通りの多い道を選ぶようにして、十分注意を払っていた。
 またその逆に、見えない敵の目的は優勝者に送られる蒸気式トロフィーだとあたりをつけ、自ら優勝して敵をおびき出そうというソウマのような者もいたが。
 だが、とりあえず彼以外にはまだ、誰かが行方知れずになったという話はなかった。
 水泳大会が近づくと、こういうお祭りにはつきもののトトカルチョが影でこそこそ展開しているようで、下馬評もはっきりしてきて優勝候補と目される者の名前も挙がってきた。当日ギリギリまで受付は続けられるため、番狂わせは十分にありえそうだったが。
 まず条件は、4種目すべてにエントリーしていること。そして4種目でコンスタントに点を稼げるだろうということだ。
 スプリントは泳ぎの速さが、そして100アース競争は持久力を要求される。四人リレーには速度と持続力のバランスに加え、協調性と判断力が必要だ。飛び込みは度胸とバランス感覚、そして肉体美・芸術性・センスなどが評価されるだろう。それらのすべてにおいて一定の評価を得ることが、優勝への道というわけである。各種目で一位を取らずとも、コンスタントな順位を押さえられれば、十分に見込みはある。
 プールの縦長は5アースある。泳ぎに馴染みのない帝国人に泳ぎを教えることが目的だから、プール自体は大きくない。片端の2アースほどが潜水訓練用に深くなっており、飛び込みはここを使って行われる。スプリントは1往復半、リレーは一人5往復、100アース競争は10往復だ。
 リレーのチームメイトなども考慮して、開始前に総合力で優勝候補筆頭として挙げられたのは、まずはルビィだった。いつもどこか芝居かかったルビィへの評価は、意外だと言う者もそうでない者もいたが。そこに、エグザス、シルフィス、ジーク、カレン、プラチナムが横並びに続く。更に穴・大穴と参加者の下馬評はアレやコレや続くが、きりがないので割愛する。
 ともあれ……もしも行方不明事件が続くのであれば、狙われるのはこの優勝候補たちの誰かである可能性が高いわけであった。
「この事件を放っておくことは、やはりできませんよ」
 次の犠牲者が出るのを防ぎ、この真相を究明すると公言しているのは“闘う執事”セバスチャンだ。公言することにはメリットもデメリットもあるが、最大のメリットは自然と情報や協力者が集まってきたことだろう。
 行方不明となった男子生徒を探している“春の魔女”織原 優真も、セバスチャンとは接触して話を聞いた。
「私は、この優勝候補の方々をお守りし、犯人の接触を待とうと思っております。犯人としては、水泳大会の賞品に執着している方が怪しいでしょう……物欲の強いランカーク卿の差し金ということも考えられます」
 まあ! と両頬を手で押さえ、優真は声を上げた。
「わたしも、ランカークさんが怪しいのではないかと思っていました……どうなのでしょう。やっぱり彼が……?」
「わかりません。手掛りはありませんので」
 二人が話していた、そのとき、もう一人セバスチャンのことを訪ねてきた。
「ああ、あなたか? 行方不明者を探しているというのは」
 それは、水泳大会参加者のノイマンだった。下馬評ではまだ優勝を狙える位置には絡んでないが、赤丸急上昇の有望株ではあるらしい。
「さようでございます。探しているというか、犯人を捕まえるべく考えておりますので……こちらの優真様も探していらっしゃいますよ」
 結果的には、セバスチャンも行方不明の生徒を発見もするつもりである。そうでなければ解決にはならない。
「そうか、よろしく頼む。是非見つけてやってほしい……強力なライバルではあるが、王者不在の勝負なんてつまらないからな」
 正々堂々と戦ってこそ、結果に価値があるのだとノイマンは考えている。スポーツマンとして、素晴らしい爽やかさだ。
 この基準で物事を測っているので、行方不明というのも最初は山篭りなどして秘密特訓をしているのではないかと考えていたという。だが、行方不明という評判が真実であったら……と考えもして。
 それで、とノイマンは水泳の練習の合間に聞き込みして集めたという被害者の目撃情報をセバスチャンに伝えた。
「彼は目立つ容姿だからな、駅で聞き込めば必ず誰か覚えているだろうと思ったんだが……誰も彼が列車に乗るところを見た者はいなかった」
 それはおかしい、とノイマンは言う。
「つまり、まだアルメイスの中にいるのではないかと思う」
「なるほど……」
「わたし、これからランカークさんのお屋敷に行ってみようかと思います」
 そこで、優真がそう切り出した。
「お一人ででございますか? 危険では……」
「ええ、でも。ランカークさんにお話してくるのではなくて、サウルさんにお話を聞いてみようかと思うんです」
「サウル様にですか。それならば、大丈夫でございましょう」
 考え込みつつも、セバスチャンは優真を見送った。

 優真がランカーク邸についたとき、すでにランカークは客の相手をしていた。
 先客は“闇司祭”アベル。応接間で話をしているようだったが、優真にその内容まではわからなかった。ただ訪ねていった優真に、ランカーク邸の使用人が「主人が来客中でお相手できない」と答えたから知ったことだった。
「いえ、わたしはサウルさんにお会いしたくて来たんですけれど」
「サウル様でございますか……少々お待ちください」
 しばらく待たされた後、応接間は使っているからサウルの使っている客室で良ければ会うと戻ってきた使用人が優真に告げた。
「すまないね、レディを部屋までお呼びだてしてしまって」
「いいえ。わたしがお聞きしたいことがあってお訪ねしたんですから」
「それで? 僕にどういうご用かな」
「あの……ランカークさんて、水泳大会の賞品が欲しいんでしょうか?」
 優真がそう聞くと、サウルは一瞬変な顔をして、それからぷっとふきだした。
「ううん、欲しいんじゃないかなあ。ああいうの好きらしいし、副賞はレディフランからの提供だそうだしね」
「そうですか……優勝できると思いますか?」
「ええと……ランカーク卿がかい?」
「ランカークさんだけでなくて、ランカークさんのお付の方とかでも……ランカークさんのために優勝を目指しそうな方で」
「ああ、それはね、優勝できそうな子もいるかな」
「ランカークさんではない方ですよね……その方、どなたでしょうか? 教えていただけませんか?」
「それは……」
 サウルはずっとクスクス笑いながら答えていたが、ここで表情を改めた。
「秘密だ。知っているけれど、僕からは教えない」
「えっ」
「本気で調べる気なら、多分わかることではあるけどね。でも僕の口からは言わない。僕は彼らの同類だからね……あっちはそうは思わないんだろうけど。でも、同じ運命にある者を裏切るような真似はしたくない」
 サウルが何を言い出したのか、優真にはわからなかった。サウルはこの家では丁重にもてなされている客のはずだが、ランカークの従者と同類とはどういうことだろうかと。
「彼らはね、仕えることが運命なんだ。自分では選べないんだ。生まれも力も……主も、何一つ自分で選択はできないのさ」
 すべては誰かに、あるいは見えない力に、定められた通りに。
「そんな彼らに許されたわずかな自由を、僕が奪っていいとは思ってないんだ」
 だから秘密だと、優しくサウルは言った。
 煙に巻かれたような感覚で、優真はランカーク邸を後にした。


 一方、優真がサウルと会っていたとき、アベルは何をランカークと話していたかと言うと……
「私の知り合いたちも今回の水泳大会に参加するのですが、なかなかに優れたスイマーたちです。彼らのうち、誰かが優勝したあかつきには、トロフィーはランカーク殿に差し上げてもかまいません。代わりに貴公のお力添えによって、練習施設を優遇してはいただけないでしょうか?」
 こんな話をランカークにもちかけていた。
 今温水プールがイモ洗い状態なのは事実だが、アベルが仲間と言ったルビィやエグザスたちが本気で他に練習場所を求めていたわけではない。これは、ランカークが行方不明事件とかかわりあると見ての方便だった。
 彼らが優勝したあかつきにはトロフィーを譲ってもいいというのには、嘘はない。それはリレーチームの4人に、確認してきたことである。このチームは、ルビィ・エグザス・シルフィス・サワノバの4人のチームだ。すでに優勝候補3人を含むリレーチームというだけで破格だが、今はまだ下馬評に名が挙がってこないサワノバも、泳ぎが不得意なわけではなかった。
 この4人のチームがいわば本命で、対抗馬がジークが集めたカレン、ルカ、シェラザードのチームと言われていた。こちらも優勝候補に名を連ねる者を2人含んでいる。
 それを知っていれば、この取引は堅実なものに思えただろう。
「ううむ……」
 そもそもアベルとしては、この行方不明事件が水泳大会とどう繋がっているのか、それに興味を持っただけ……と言えば、だけであった。謎を解明して、真実を知りたいという、それだけの好奇心だ。犯罪を白日の下に、という正義の情熱があるわけではない。そういった情熱とは、アベルは元々あまり親しい仲ではないのである。
 そんなアベルの調べたところによると、行方の知れなくなった生徒は、ランカークとはけして不仲ではなかった。いや、仲は良いほうだったと言ってもよさそうだ。取り巻きとしてランカークに媚びへつらうほどではなかったようだが、頼まれればリレーのチームくらいは組みそうな程ではあったらしい。
 これは調べればすぐにわかったことだったが、行方が知れなくなる直前にも彼はランカークと話をしていたようだ。それを知ったなら、やはりこの行方不明事件はランカークと無縁ではないと誰しも考えるだろう。
 だがアベルの謎を嗅ぎ分ける嗅覚は、そこで更にその向こう側を察知した。これはただの拉致監禁事件と見るべきではないかもしれないと。他の参加者からのオファーで彼に他のチームからリレーに参加されては厄介だと考えたランカークに囲い込まれているか、あるいは水泳大会に出るランカークにこもりきりで水泳指導をしているか。あるいはその両方か。
 いずれにせよ、犯罪性はそれほど高いものではないかもしれないとアベルは読んだ。
 そして、ランカークに例の話を持ちかけてみたのである。
 ランカークは考え込んでいた。
「トロフィーだけか?」
 そして、そう聞いてきた。
 これは来ると予想できた問いだった。フランの用意する副賞にも、ランカークはこだわるだろうとは。
 だが、アベルはここで妥協するカードは持っていなかった。ルビィもエグザスも蒸気式トロフィーには興味を持っていないが、フランからの副賞を手放すとは思えなかったからだ。シルフィスならば辛うじて交渉の余地があるかもしれないが、辛うじてというところだ。
「トロフィーだけではご不満ですか」
「フラウニー嬢の副賞までは、つけられないのか」
「今、ここではお約束はできませんが……場合によっては交渉はいたしましょう」
 交渉だけはしてみようという分には、やはり嘘はない。見込みがないと知っているのを言わないだけだ。
「ふむ……それならばまあ……トロフィーは確約すると言うのだな」
「今最もトロフィーに近い男は、トロフィーには興味がないのですよ。それはお約束できますな。ルビィとそのチームの誰かが優勝したならば、トロフィーは貴公のものとなりましょう」
 もう一度、ランカークは考え込んだ。
「わかった」
 そして、正しく打算が働いたようだ。
 ランカークにできることは、金にモノを言わせること。だが、時計で測られる記録は金で買えない。せいぜいできて飛び込みの審査員の買収だが、その審査員にはサウルが名前を連ねている。これはランカークには泣きどころだ。学生会長マイヤも審査員だというから、この方面は絶望的だと言っていい。
 自分が優勝できる見込みがないことを、ランカークも薄々自覚はしているのだろう……いや、薄々というのも極甘な予測ではあるのだが。
 ならば、レア物である蒸気式トロフィーを手に入れられる可能性が上がるのなら、それは十分に検討するべきことだった。
 何も手に入らないよりは、ずっといいと。
「では、その者たちをここに連れてきたなら、私の秘密の練習場に案内しよう」
「秘密の練習場ですか」
 やはり、とアベルは心の中で笑った。そういう場所にこもっているのではないかと思ったのだ……なにしろ、温水プールで練習するランカークを見た者はいないのだから。
「では、明日にでも」
 アベルはそうランカークと約束を交わして、その日はランカーク邸を出た。

 翌日。
「こちらだ」
 練習に行く途中のエグザスたち四人を捕まえて、アベルは約束通りランカーク邸を訪ねた。
「ただし、ここで見たことは他言無用。約束していただけるかな」
 5人が連れて行かれた場所はランカーク邸の一隅だった。地下へ向かう階段を降りて、その途中でランカークはジロリと5人を見て言った。
「心に命じておきましょう」
 シルフィスが顔を顰める前にアベルがそう答え、そのまま階段を降りて行く。
 階段の先には扉がついていて、小部屋があり、その向こうにもう一つ扉がある。
「着替えはここで。女性がいるので、順番に部屋の前で待つのが良いだろう。先に着替えるかね?」
 シルフィスは少し考えてから、後にすると言って階段に戻る。
 ランカークも含めて、順に水着に着替え……
 そして最後の扉を開けると、白い湯気を感じた。
「遅いじゃないか、アドル君」
「す、すまない、客が来ていたので」
 へこへことどこか弱腰で、ランカークは湯煙の中から聞こえた声に応える。
「今から始めるから、少し待っていてくれたまえ」
 そうして、ランカークは5人に向き直って胸を張った。
「ここが私の秘密練習場だ!」
 言われた五人は、酷く微妙な顔で『それ』を眺めた。
「なによ」
 最初に口にする勇気があったのは、シルフィスだ。
「これ、お風呂じゃないの!」

 とりあえず、そこは大浴場だった。
 元々ランカークが屋敷に作っていた大きな浴場を、今回急遽拡張したものらしい。湯煙が晴れれば、どこかつぎはぎの印象のある場所だった。確かに、多少泳げないこともない広さにはなっている。
 地下にあったのは元々で、熱を逃がさないために地下に埋め込むようにしたものらしい。
 そしてそこに、水中のファンタジスタは待っていた。
 ……アベルが予想した通り、ランカークにコーチとして雇われたのだという。
「まあ、僕が水泳大会に出ても、優勝はできないからねえ。ぶふふぅ」
 なら、学食の特別食券を3ヶ月分提示したランカークに、付き合ってやってもいいかと思ったのだそうだ。
「なぜ優勝はできないと……?」
「だって、飛び込みで僕に点が取れると思えないからねえ」
 確かに彼は芸術的評価からは、かけ離れた肉体をしている。
「別にこんなところに閉じ込めなくても、他の人とリレーに出たりはしないんだけどねえ。まあ、彼、本当に一所懸命練習してるんだよ。だからね、付き合ってあげても良いと思って」
 ここでランカークは、バタ足から始めているらしい。
 ぶふふぅと笑って、ファンタジスタは好きにさせてあげようよと言った。少々人騒がせなことになっているのは、気にしていないらしい。……もっとも彼を心配したり探したりしている人は少なかったので、大した騒ぎではないと言えば、それもそうだが。
 アベルも真実がわかって、かつ本人がそう言うのなら、それ以上暴き立てる気もなかった。とりあえず、使わせてくれるという秘密の練習場はあまり役に立ちそうもなかったが……
 アベルがしたことには、本人も知らぬ間に異なる意味があった。何よりも大きかったのは、おそらく、これでルビィの身の安全を確保したことだっただろう……


「カレン、用事はもういいのか? 練習に出てきて」
 やたら忙しそうだったカレンが、大会を数日前にしてプールで練習するジークたちのところにやってきた。
「ええ……もう要らなくなったみたいだから。せっかく準備したんだけど……これから大会までは、練習に付き合えるわ」
 わかった、とジークは答え、何をしていたかは聞かなかった。
「これで四人で特訓できるわねー。でも、何気にハーレムよね、男の本懐ね」
 シェラザードがにやにやとジークを囃し立てる。
「いや……これはたまたまだ、他意はないから」
 いやーねー! たまたまなんてっ! このエッチっ! と、シェラザードはかすかに頬を赤らめて弁解するジークの背を叩いた後。
「ジーククンってば、誰の水着姿にグッと来てると思う〜?」
 カレンの肩に手を置いて、そう囁こうとした……が。
 すかっとその手はからぶった。あら? と見ると、もうカレンはプールサイドで、水に入る準備をしている。
「遅くなったから、その分頑張るわ。できれば優勝したいの」
 こうなるとわかっていれば、時間を食われたのは痛かったわね……と、どこかさめた感じでカレンは呟いていた。


■真夏の夜の水泳大会……その直前■
 大会前日の夜中に忍び込んだ“黒い学生”ガッツがカマー教授に発見され、破斬剣を振り回すという事件もあったが……大会は無事に行われる模様だ。
 ガッツは水泳大会見物のための良い席を取るために夜中に忍び込んだのだが、カマー教授もまわりに目をつけられているせいか、夜中の侵入には気を遣っていたようだ。それと、今回は水泳大会自体に仕掛けや設備も多いので、悪戯されては困るというのもある。フェスティが不審者対策に見張ろうとしたのだが、さすがに女子生徒にはさせられないと……こういうところはカマー教授はかなり常識的である……自分が責任持ってやるからと止めたのもあったらしい。
 ともあれ、ガッツとカマー教授の真夜中の対決は、年の功でカマー教授に軍配が上がったようだ。カマー教授の腕に抱かれて無理矢理搬出されたガッツは、しかし朝一でプールの見学特等席に駆け戻って、一応同じ席を確保することに成功した。
 当日になっても行方不明事件はまだ、その顛末を知らない者たちのいくらかにあれやこれや囁かれていたが、実際にそれに続く被害は出ていなかった。
 スタッフの手際が良かったからか前日までに大会運営に関わる設営のほとんどは終わっていて、当日ぎりぎりに会場搬入された多くの品物は、“飄然たる”ロイドと“影使い”ティルの用意した食材だった。これは直前の搬入になるのはやむをえない。いくら北国のアルメイスと言っても、夏場の湿気も馬鹿高い場所に食材を放置すれば、たいへんなことになるだろう。
 全員に行き渡る量をと調達してきたティルたちは、その搬入だけでも一苦労だ。
 ティルはついでに……というのとはまたちょっと違うが、またサウルの身元を調べて食材調達の交渉に利用しようとしたが、これは上手くいかなかった。
 ランカーク邸に居候しているサウルが、皇族のサウル皇子、そして憲兵隊の元隊長と同一人物であるらしいのは公然の秘密のように見えるのに、記録の上からはどうしても出てこない。そもそもアルメイスの学生のアルメイスに来る前の経歴の記録は、わざと曖昧になっているのではないかと思うくらい曖昧だ。これはサウルに限った話でなくて、そしてサウルの記録も他と同じくらいに曖昧だった。出身が帝都だと記録されてるだけ、それすら記録のない生徒よりは詳しい記録だと言えた。
 サウルの名前をダシにして実家から援助をせしめる計画はうまくいかなかったが、それでもロイドの協力で、必要な分の食材は調達できた。
 カマー教授とマイヤに許可は取り付けて、簡単な屋台のような場所を設ける準備もできている。まだジャングルは現れていないが、この屋台の周辺も時間になれば、ジャングルに覆われる予定だ。そうなれば、テーブルの向こう側に置いた資材の箱も隠れてしまうので、見た目はだいぶ良くなるはずだった。
 プールに設備や資材が持ち込まれきった大会直前の昼間が、一番雑然としているように見えただろうか。
 そんな中でも、最後の追い込みは続いていた。それは練習とは限らなかったが。


「ルー君……水を怖がらないで」
 クレアを囲むチームでは、シーナとジェダイトはクレアと共に練習をしていた。
 リーヴァとルーは、別に二人で練習している。このあたりは、シーナ、ジェダイト、クレアの三人が、リーヴァにルーと二人っきりになれるチャンスをあげようと画策した結果だ。
 ルーは水泳大会には参加しないと言っていたのだが、なし崩しに一緒に練習することになった事態に、本人は首を傾げていた……もちろん、リーヴァは味方してくれた3人に感謝している。
 二人きりと言ってもイモ洗いプールの片隅で、人目はずっとある。ずっと人目があることは、リーヴァにとっては密かに助かっていた面もあったが、ルーには厳しかったようだ。
 ともあれ、ルーはまず水着の上に着た上着代わりのボタンシャツを脱がせるところから難関だった。女の子にはありがちだが、体を見せるのが嫌だったらしく、プールサイドまで上にきっちりとそれを着てきたのである。
「それを着たままじゃ泳げないよ、ルー君」
「で、でも……あの」
「なんだい?」
「……どうしてサイズがわかったんですか……」
 水着を持ってないと言ったルーに、リーヴァは水着をプレゼントした。今シャツの下に着ている水着は、その水着だ。ルーの発言からすれば、小さ過ぎも大き過ぎもしなかったらしい。
「それは秘密。とにかく……それを脱いで」
 そう言われても、ルーはシャツの裾をぎゅっと握って、うつむいている。
「ルー君……」
「…………」
 動かない状況に、ふう、とため息をついて、リーヴァはルーの襟元に手を伸ばした。
 伸びてきた指にびくりとして、ボタンを一つ外す間もなくルーは真っ赤な顔であとずさる。
「じ……自分で脱ぎます……」
 恥ずかしさで緊張が頂点に達しているのか、ルーは震える手で不器用そうにボタンを外していく。
 ずいぶんと時間がかかったが、どうにかボタンを外しきって、ルーはようやく袖を抜いたシャツを抱きしめるように抱えた。
 ここからリーヴァがそれをルーに手放させて、一緒に水に入るところまでですでに、気が遠くなるほどはるかな道程だった……
 一方ジェダイトはイモ洗いプールでの練習でも、めきめきと上達し、大会直前にはクレアよりも速くなった。クレアの指導が良いからだとジェダイトは言ったが、さすがにクレアもそれを本気にした様子はなく、笑っていた。お世辞に不機嫌になることもなく、リレーでは入賞の見込みが出てきたことをシーナと一緒に単純に喜んだようだった。
 まあ、さすがにジェダイトのモーションにも気付いてはいる様子ではあるが、さて……先行きはまだわからない。
 そんな練習風景が続いたが、ルーはさすがにそのままでは競技に出られるレベルにはならなかった。リーヴァはルーを出すことを間際まで諦めなかったが、結局予定通りリーヴァがリレーには出ることになりそうだった。

「だからね……息継ぎしないと」
「でもっ」
 間際まで続けられた練習風景の一つに、エリスとナギリエッタたちがいた。
 ナギリエッタが使い物になるかどうか、それが優勝しなくてはならないと考えているソウマにとっては重要な問題だった。エリスが教えているからか、練習には熱心なので、後はどこまで上達するかだ。しかし、元がほぼ0からの開始なので、限界はある。
「息止めて泳ぎ切れれば……!」
 ナギリエッタは本気だ。しかし。
「そうだ! 正義の力があれば息継ぎなしで50アースくらい……!」
 めきッとエリスの裏拳が容赦もためもなくソウマの顔面に飛んで、そのままソウマはざぼんと声なく水に沈んだ。
「息継ぎはしなきゃだめよ。速く泳ごうとしなくていいから」
 そのまま何事もなかったかのような涼しい顔で、エリスはナギリエッタに言い含める。
 こりゃリレーはダメそうだ……とエドウィンは水から上がった。他で水泳大会を満喫したほうが、間違いなさそうだ。そう思って、きょろきょろあたりを見回すと、すでにしつらえてあった審査員席に審査員たちが来ている。
 そこに、フランの姿もあった。
 フランの副賞に興味があって、エドウィンは優勝を目指していたので……
 優勝できる見込みが薄いなら、直接聞くのが間違いない。
「フラン」
 タオルを肩にかけると、エドウィンは審査員席のほうに近づいていった。

「よう、サウルー」
 やけに明るく、カズヤは審査員席に駆け寄った。まだ大会は始まっていないが、時刻はそろそろ夕刻に近づいている。審査員席には審査員たちとゲストがすでに待機していて、開始を待っていた。そこへ、参加者も何人か集まってきている。
 そのテーブルの上には、優勝賞品の蒸気式トロフィーが置かれていた。
 だが、このトロフィーはエンゲルスの作った偽物だ。外型は試作時の残りを貼り合わせ、中身は破損部品を適当に組み立てて詰め込んだもの。それで、動かないが重さの変わらない偽物の完成だ。ずいぶん前に教授と一部のスタッフしか事情が知らされないまま、トロフィーは囮とすりかえられていた。
 優勝者に正式に授与されるときには、本物が出されてくる手はずだ。
 来生が暖かいお茶とお茶請けにショートブレッドを配りながら、審査員であるフィリップや“炎華の奏者”グリンダに飛び込みの見所を聞いている、その横でカズヤは上気した顔でサウルを覗き込んだ。
「どうしたんだい、熱でもあるんじゃないか?」
「ああ、ちょっと風邪気味なんだよ」
 ごほっごほっとわざとらしく、カズヤは咳き込んでみせた。
「それで大会に出るのかい?」
「いたわってくれよな……」
 とカズヤはサウルに流し目を送る。だが、サウルは笑って、参加を見合わせたほうがいいんじゃないかといなした。
「薬物によるドーピングはいかんぞえ!」
 そして、ミリーがカズヤの後ろに突然すっと立った。
「リエラによる補助も禁止じゃ。行った者は即座に失格じゃ」
 そのさらに後ろにラザルスがぬっと立つ。
「やってないって!」
 こりゃたまらんと、カズヤはその場を逃げ出した。確かに、カズヤは風邪などひいていないのだ。興奮剤の代わりに強い風邪薬を飲んで、ハイになっているのである。まさにドーピングなので、審判たちの目は怖い。
 一方、フランと話していたエドウィンのところに、水から上がってきたエリスとナギリエッタがやってきた。そろそろ練習を切り上げると言いに。
「あら、エリスさん」
 そこでエリスは来生に呼び止められた。
「もう練習は良いんですか? 良かったらお茶飲んで、体を温めてくださいな」
「……ありがとう。もらうわ」
 人を寄せ付けないオーラを発していた半年前に比べれば、ずいぶんと穏やかな表情でエリスは来生の差し出したカップを受け取った。見境なくとはいかないまでも、エリスの人当たりはかなり良くなっている。
「大会中も私はこの辺にいますから、暖かいものが欲しくなったら声かけてくださいね」
 黙ってエリスはうなずいた。その瞳も、来生には少し優しくなったような気がした。

 大会開始、直前時刻。北国の夏の陽は長いので、まだ外は明るかった。
 そんな中、“飢餓者”クロウはエンゲルスの姿を探していた。スタッフをしていると聞いたので、もうこの時間ならば会場にいるはずである。
 そして、カマー教授と共にジャングルの投影準備をしているところを捕まえた。エンゲルスはジャングルに効果音をつける要員として、そこにいるのであったが、この期に及んでカマー教授は投影機相手に悪戦苦闘しているらしい。食べ物を振舞う屋台の隣なので、技術に興味のあるロイドも、その様子を覗きこんでいた。
 映像が出る予定の回りには白い布が張りめぐらされ、投影機はそれを半分囲むように4台設置されている。いくつもの映像を重ねて、奥行きや立体感を出すというものらしい。
 テスト中で、ジャングルの映像は出たり消えたりしていたが、臨場感はあまりなかった。狭い部屋で暗くしての実験は上手くいったとカマー教授は言っているが、さて真実は文字通り闇の中だ。
 投影がダメならカマー教授のリエラの力で幻が出されるはずなので、完全な企画倒れはないはずだったが、カマー教授としては投影機にこだわりがあるようだった。
 しかしそんなことは、クロウには関係ない。探していたのはエンゲルスなのだ。
「エリスのは扱ってない?」
「はい?」
 いきなりこそっと声を潜めて言われて、なんのことかわからずにエンゲルスは素っ頓狂な声をあげる。
「しっ、声が大きい。写真だよ、写真。水着写真」
 そう更に声を潜めて、クロウは屋台のテーブルの影の暗がりにエンゲルスを引き込む。
「そ、そんなもの扱ってませんよう」
 なにぃ! とクロウは声を潜めたまま唸る。この稼ぎ時ならきっとと思ったのに、読みを外したか……とブツブツ呟いているクロウの肩を、ポンと叩く手があった。
「……いいのありますよ、お客さーん」
 貧乏sの片割れ、エドウィンだ。
 そう、クロウは人を見誤ったのだ。エンゲルスではなく、エドウィンが写真を売っていたのである。
「キーッ! ダメだわこれじゃー!」
 カマー教授の悲鳴が上がって……それが水泳大会の開始時刻を示していた。


■真夏の夜の水泳大会……本番中■
 とうとう、水泳大会の開始だ。カマー教授からきわめて簡単な挨拶があった後、競技はスプリントレースから始まった。
 1レース4人ずつで、10レース行われる。並んでスタート、そしてゴールまで15アース。これだと1レースに、そんなに時間はかからない。
 低年齢の女子から始まったので、一番最初のレースでに泳いだ柚・Citronは、水から上がるなりに食事を振舞う屋台に元気良く駆け込んだ。
 神音、アリシア、ラジェッタと泳いだ結果は、一番だ。一位に10点、2位には5点。飛び込み以外はどのレースも点は同じだから、一緒に誰と泳ぐかは重要だろうか。
「泳いだらおなか減ったでーす! なんかくださいなっ」
「はい、サンドイッチでいいですか」
 ウエイターの服を着たロイドが差し出したサンドイッチの包みを受け取り、わーいとかぶりつく。
「食べ物には気をつけないと……!」
 2位でプールから上がってきた神音がそう注意するが、柚は「えー、はんえ(何で)?」と口一杯に頬張りながら首をかしげている。知らない者は知らない……というか、知ってたって気にしない者は気にしないのだ。
「うちの食べ物は平気ですよ」
 とティルがとりなしたが、神音はまだ疑惑顔だ。
 その間に、次のレースがスタートしていた。
 次のレースは……ある意味荒れていた。ナギリエッタと忍火丸が最初浮かんでこなかったからだ。トップはシーナがダントツの速さで泳いで行き、飛び込んで潜水のまま進んでいたナギリエッタと忍火丸がそれを追っていた。だが、エリスの注意を思い出したのか、浮かんできたナギリエッタがまずスピードを落とし、続けて忍火丸が……溺れた。
 結果は堅実に泳いだシーナ1位、アウスレーゼ2位。
「けふッ……浮きなしでの泳ぎはまだまだ危険でござったか……! ラジェッタ殿との約束が……!」
 沈む夕日に照らされて、敗北を味わう忍火丸。その肩に置かれた小さな手が、忍火丸を慰める。
「ラジェッタ殿……っ」
 小さな天使は忍火丸に微笑んでいたが……
「まさか、泳げないとは思いませんでしたわね」
「いや、私もてっきり……溺れるとは思わなかったわねー」
 その後ろには、セラとセラスが悪魔の尻尾をちらつかせていた。
 続いてのレースはルカがダントツで1位、セラスがだいぶ遅れて2位だった。実際にはルカとセラスの間にスルーティアがゴールしていたが、道具の使用で失格だ。
「何故ー!」
「「当たり前じゃ、筒を使って息をしてどうする! 正々堂々と泳がんか!」」
 というわけである。ラザルスとミリーでスルーティアに男女混声ハーモニーなお説教をしている傍ら、もう次々レースは進んで行った。
 コルネリアは運が悪かったと言えるだろう。一緒にスタートに並んだのはカレン、シルフィス、サラ。3人とも、泳ぎや運動にはそれなりの者たちばかりだった。
 結果は僅差で1位カレン、2位サラ。シルフィスは、ここでは点が取れなかった。
 男子は直前に行方不明だった男子生徒が現れ、スプリントレースにもエントリーしていったため、少々混乱があった。また優勝候補たちが比較的年齢近く、レースが白熱したところもあった。
 ただし、番狂わせはそう多くなく、ウォルガ、ソウマ、ルビィ、ジーク、エグザスが安定して点を稼いだ。注目はジークとエグザスが並んだレースと、プラチナムと……サックマンの参加したレースだったろう。
 ジークとエグザスの競争では、惜しみなく力を出したジークが勝利を納めた。
 プラチナムとサックマンの参加したレースは例の行方不明の生徒が一緒だったのだが、見所はそこではなかった。そのレースの見所は、サックマンが水上を疾走……しようとして、沈んだことだろう。ちなみに一歩も歩けてないので、何が起こったのか観客にはよくわからなかった。
 ちなみにプラチナムはやはり息継ぎをしないで泳ぎきろうとして、失敗。後半息継ぎを慌ててして遅くなり、無得点という手痛い敗北を喫した。
 ランカークも泳いだが……あえて結果は言及しないでおこう。
 続けて、100アース競争。
 こちらはスプリントとはまた違い、持久力を要求される。泳ぎの技術よりも、どちらかと言えば体力勝負だ。そして、こちらからは総合でタイムを競う。男女とも5位までに点が入るということだった。一位が最高で20点。
 女子は100アースの距離を泳ぐのは見合わせた者も多く、やはりカレンとシルフィスがトップを争い、カレンがレースを制した。シルフィスが2位で、この時点でカレン30点、シルフィスが16点と水をあけられている。だいぶ離れてサラとルカとシーナが3位以下を争い、シーナが3位、ルカが4位だった。
 男子は大混戦となった。一位争いはルビィとソウマである。この戦いは体力差でソウマが制した。エグザスは前半体力を温存し、後半に勝負を仕掛けようとしたが、残念ながら最初から飛ばしっぱなしの先行二人のタイムには追いつけなかったのである。長距離は苦手と言って、水中のファンタジスタはエントリーしてこなかったため、4位以下は更に接戦だった。これを制したのは、ジークとサワノバだ。
 この時点で総合1位は同列でカレンとソウマ。そこに本命のルビィが続いている。ソウマは最初の下馬評では優勝候補にいなかったので、ある意味番狂わせだった。
 そして100アース競争が終わると……メインイベントの一つ、四人200アースリレーである。
 その頃には、とっぷりと陽も暮れていた。
 だが、白熱するレースの観戦に会場内は熱い。
 リレーもタイムを競うこととなっていて、3位までのチームの参加者に点が入る。ここでの注目は優勝候補を多く含む2チームだった。1位は15点、2位は10点、3位は5点である。
 結果は……と言えば、やはりかなりの接戦を、ルビィ・エグザス・シルフィス・サワノバの四人のチームが制した。ジークたちのチームは2位につけ、ここで総合順位も変動した。3位はリーヴァやシーナたちのチームが取った。
上からルビィ41点、カレン40点、エグザス32点、シルフィス31点、ソウマ30点。僅差でサワノバ、ジーク、ルカ、シーナと続く。
 リレーで勝ちを狙ったチームに、優勝は絞られてきたようだ。
 飛び込みの得点によっては、順位の入れ替わりも十分起こる……体力勝負のレースと違って、女性に若干有利かと囁かれる飛び込みで、一番緊張していたのはエグザスだったかもしれない。エグザスとシルフィスは5位以内に入る賭けをしていたので……有利な飛び込みを残すシルフィスは5位以内は堅そうだが、エグザスには2〜3点でひっくり返る位置に同じような傾向のライバルたちがいる。5位以下に転落する可能性も十分にあった。
 だが、ひとまずは休憩……
 飛び込み競技を前にして、完全に照明を落とした休憩時間が取られることとなった。


 エグザスは、この休憩時間にフランのところに行った。
 貴賓席と審査員席は隣合わせで、審判控え席もその隣にある。微妙な順位なので、賭けをしている仲間の一人で審判をしているラザルスがそこにいるかもと少し思ったが、微妙な順位が気になるのはお互い様だと思い切った。今はまだ、賭けに勝てる順位にはついているのだから。
 しかし、審判と警備は休憩中にも不正がないか見て回っていて、ラザルスはいなかった。
「エグザスさん、頑張っていらっしゃいますね」
 近くまで行くと、フランからそう声をかけてきた。その前にはルカがいて、ぺこりと頭を下げる。
「レディ……」
「見てくれたか!? 俺の泳ぎ!」
 しかしエグザスが紳士的に微笑もうとしたところで、嵐のように後ろからルビィが走って来た。
「ええ、ルビィさん。素晴らしかったです」
「残すは飛び込みだけだが、このままトップは誰にも譲らないぜ!」
 飛び込み、という言葉にエグザスは眉根を寄せた。
「ルカだって負けません! まだ逆転できます」
「……飛び込みは女性のほうが有利なのよ」
 そう囁くように言ったのは、カレンだった。通りすがっただけだったが、ルビィの声が気になったようだ。1点差でトップを取ったルビィを、きっと睨むように見て言う。
 審査員はサウル、マイヤ、フィリップの男性3人、女性がグリンダ1人。美しさを評価するなら、女性のほうが有利なはず、と。
「ですってよ?」
 ポン、とそこでエグザスの肩を叩いたのはシルフィスだった。エグザスは更に難しい顔を見せる。
 上位5名が顔を合わせて火花を散らせる休憩時間。そこもまた心休まることのない、戦いの場だった。

「また着こんでるんだな。プールなんだから、気にしなくてもいいのに」
 休憩時間は、夜の水泳大会を彩る仕掛けの数々を堪能する時間でもあった。
 クレアはシーナとジェダイトと、休憩時間だというのに水に入って遊んでいる。その間、リーヴァはルーとジャングルの幻の淵にいた。
 夜の闇に紛れて、幻とはいえ奥深さを感じさせるジャングルには、エンゲルスの効果音もついて不思議なムードをかもしていた。ヒラヒラとかすかに発光する蝶が瞬き、すぐ近くの水面の奥にも、輝く光が瞬いている。
 良いムード……かどうかは趣味にもよるが、神秘的な雰囲気であることには違いなかった。
 これでルーが笑ってくれたら最高なのに、と思いながら。
「おやおや……デートですか?」
 そこに、やはり同じように幻のジャングルの淵を歩いてきた二人連れと行き合った。マイヤと細雪だ。マイヤは夏制服だが、細雪は水着姿に上着を羽織っている。
「え……いいや、そういうわけじゃ」
 リーヴァが少し照れながら、そう言ったとき。不意に後頭部に衝撃が走った。
「えっ……」
「どうしたでござる?」
 突然前のめりに崩れるように倒れたリーヴァを、細雪が支えた。
「……貧血か何かでしょうか。医務室まで運んであげましょう」
 マイヤは落ち着いてそう言って、細雪と二人でリーヴァを抱えた。
 ルーはそこに一人残され……誰もいないはずの空間を一度振り返った後、クレアのいるプールサイドまで走っていった。

「綺麗やなあ、見てみぃ、あの光」
 ルオーは水面を覗き込むラジェッタに、その奥の光を指し示した。暗い水の奥の輝きはロマンティックで、ムードは満点だ。
「わあ、すごーい!」
「すごいですわねー」
「教授、どこから買い付けていらっしゃったんでしょう」
「南のほうの生物だろうね」
 ……二人っきりなら。
 セラス、セラ、サラ、と舌を噛みそうに名前の似た3人組とそのリエラと、その上セラが寮長まで連れてきたのでワイワイがやがやと賑やかしくてムードもへったくれもない。
「ラジェッタちゃん、でももう寮に帰るお時間ですわ。良い子は寝なくては」
 そこでセラが休憩時間が終わったら帰りましょうと言い出したが、セラスとサラは抗議の声を上げる。
 わたし、本番はこれからなんですのよ!
 私、本番はこれからなのよ!
 と。
 二人にとって、ラジェッタに一番いいところを見せられるかもしれないのは、飛び込み競技なのだ。
 ラジェッタもいやいやと首を振るので、セラも押し切れずに諦める。
 そのまま水際で、あれこれとおしゃべりをして……
 そんな様子を、エイムは一歩引いて眺めていた。
「エイムさん」
 後ろはジャングルの幻。そこから、声がかかって、エイムは振り返る。
「エイムさん、少しいいかしら。聞きたいことがあるの」
 シルフィスはそう言った。
「何故……命を狙われた帝国を、守ろうとするのかしら?」
 その真意は、他の誰かが聞いていてもわからなかっただろう。あるいは誤解したに違いない。
「……人の心は複雑です。裏切られて強い憎しみを抱くなら、それは相手を深く愛していたことの裏返しのこともあるでしょう。そして、守りたい相手も、ただ守られることをよしとはしないかもしれません。自分の望むように守ることは、変化を押し止めて望む姿を押し付けることかもしれませんね」
 愛しているから、同じだけ愛されていなかったことに傷付く。愛しているから、その変貌を許せない。愛していた者が愛していたままに、自分を愛してくれることを人は願う。
「男は彼女が間違っているから、その変化をただすのだと言うかもしれません。しかし、間違っているとわかっていても……選ばなくてはならないこともある」
 そのとき、エイムは自分の手を見ていた。
 それは、相手に理想の乙女の姿を投影する男の身勝手かもしれない。乙女には意中の異性が他にいて、それゆえに変わろうとしているのかもしれないのだから。
「もっとも……二人の男が異なる理想を一人の女性に押し付けていて、女性の真意はどちらとも違っていたということもあるかもしれませんが」
 黙ってシルフィスは、エイムの独り言のような言葉を聞いていた。すると不意に、シルフィスのすぐ後ろから声がした。
「深窓の令嬢が悪い男に誑かされそうになっていたら、ちょっと乱暴なことをしても目を覚まさせてやりたいと、男なら思うかもしれないけどね」
 そっと振り返れば、いつのまにかサウルがいる。
「……休憩時間が終わるよ。もう準備をしに行ったほうがいい」
 サウルは笑って、そう言った。


 休憩時間が終わると、最後の種目の飛び込みが始まる。これが今回のメインイベントだと言っても、過言ではないだろう。飛び込みにしかエントリーしなかった者も複数いるくらいだ。
 そのいくらかは、審査員であるサウルに印象つけるための演出を考えていた。
 サウルの生まれがどうあれ、アルメイスを訪れる前に高官の一人であったことは疑いないし、それが軍部のいずこかということも、調べなくとも勘の良い者にはわかるだろう。そして、アルメイスを卒業した者の最大多数の行き先は軍部だ。その道を辿る者には、いつかどこかでサウルは上官として前に立つだろう。今、売り込んでおいて損はない……
 最終的に飛び込み競技で失格者が多数出たのも、そのためである。物言いと審判協議の最も多かった競技となった。
 薄暗い照明の中、一番手は“翔ける者”アトリーズだった。だが、自存型リエラを連れて台に上がろうとしたのは、直前にラザルスとミリーに発見されて止められた。
「「リエラの使用は禁止じゃ」」
 さもなくば失格。これは絶対だと、審判の二人は譲らない。リエラは台下で待っているように命じる。離れているのもほんの2エストほどの話で、距離は2〜3アースだ。誰も咎めないからと。
「……失格でもいいから、飛ばさせてくれないかな」
 失格になることより、飛べないことのほうがアトリーズには重大な問題だった。
 協議の結果、審査外のエキジビジョンとして飛び込み演技を認めるとなったが、危険物として持っていた閃光弾は没収された。
 台に上がる前、アトリーズはサウルにわかるように軽く会釈した。
 アトリーズは急遽予定を変え、閃光弾はなしで、リエラのディスケンスに頼んで飛び込み台よりも高く飛んで、見事な宙返りとひねりを入れた演技を披露する。着水も見事だった。
 審査の対象にはならなくとも、アトリーズの演技はため息と拍手で評価された。
 続いてはサラ。こちらも、リエラと一緒に台に上がろうとして、あっさりラザルスたちに取り押さえられた。結局、アトリーズと同じ扱いで、評価は0だ。
 飛べないよりはマシと、サラも許しを得てからリエラのキラと共に台に上がった。紅白のおそろいの水着で、シンクロした動きで軽やかに高く飛んで踊るように飛び込む。
 観客からは、やはり拍手が。
 だがしかし、最初二人が点をつけるべき演技ではないことで、会場内にはざわめきが生まれつつあった。
 次は“銀晶”ランドだった。手足を拘束して飛びたいという申し出には、審査員のフィリップから反対意見が飛んだ。
「危険なので反対だ。それに、道具を禁止するなら一律禁止だろう。あれはよくてこれは悪いというのは難しいし……飛び込みは自身の肉体で、美しさを表現するものじゃないか?」
「その通りじゃな。競技として、不公平になるものはいかん」
 三人目のランドも、ロープの持込は禁止と判断された。それを使わずになら、評価対象となるわけだが……ランドにとっては、これがないと、ショーの意味がない。
 ならば前二人と同じく評価対象外で飛び込んだほうがマシということになる。サウルに印象付けるために行うことで、評価や点は元々本人には関係ないのだから。
「それで、またエキジビジョン? いつになったら私たち、出番になるのかなあ」
 審査員のグリンダが、3人目にも評価がいらないことに嘆息する。審査員は今のところお飾りだ。
「これ、半分は僕のせいなのかなあ……だとしたら、申し訳ないね。これ以上続くようなら、僕は退席することにしようか」
 サウルが珍しく気まずそうに、そうグリンダに答えた。グリンダはそうなの? と問う。
「考えすぎだといいけどね」
 そこでランドの演技が始まって、会話は途切れた。グリンダも、サウルが言っていることがわからなくもないとは思う。自分もこれを機に、サウルと仲良くなっておいて損はないと思っていた。同じことを選手としてやろうとする者がいても、不思議じゃない。
 グリンダも以前の事件を話に振ってはぐらかされてから、隣に座っているけれど大してサウルとは話せなかった。みんな、サウルへのアピールの路線をちょっと間違えたのかもしれないと思えば……自分だけじゃないと思えば、少し気が楽になった。
 ランドは両手を拘束したままプールに飛び込み……浮いてこなかった。観客が騒ぎ出したところで、審査員席の影から現れる。
 事前に審判たちが調べているが、プールに仕掛けはなかったので、暗がりになっているところからあがったのだろうということになった。見物人のガッツなどは、単純に見世物として喜んでいる。
 次はシェラザードで……ここからやっと、普通の競技らしくなってきた。わざわざこのためにセクシー水着を変えてきたシェラザードが、男性の視線を惹きつけつつ飛び……
 競技は進んでいった。
 途中でサックマンが道具持込で失格になる一幕があったが、後はおおむね、順当に演技を披露していく。
 結果から言うと、飛び込み競技で一位を取ったのは、ルビィだった。薄暗さと夜光虫の効果を狙って、芸術性の高い演技を見せたところが評価された。そしてこれにより、ルビィの総合優勝が確定した。
 女子が有利という下馬評を裏切る形で、1位に続いて2位に食い込んだのも男子だった。
 2位には楼国ふんどしで男らしい肉体美をアピールし、前方回転というダイナミックな演技で評価を得たサワノバが。3位にようやく、女子のシルフィスが。4位にソウマ、5位にカレンと続いた。
 これによって、総合順位は……

■真夏の夜の表彰式■
「一位! ルビィ君」
 カマー教授が名前を呼び、ルビィは片手を挙げて表彰台に登った。本物の『蒸気式トロフィー』が渡され、そして満面の笑みを浮かべるルビィの前に、ちょっと緊張の面持ちでフランが近づく。
「おめでとうございます。これを……大したものではないのですが」
 だがそう言って渡されたのは、封筒一通だ。
「これは? あけていいのか?」
「え、ええ……」
 顔を赤らめたフランは、うなずく。
 中に入っていたものは目録だった。タオル、とある。
「本物は後で、お届けいたします……急いで、お名前を刺繍しますので」
 副賞は、フランの手刺繍のネーム入りスポーツ用タオルに落ち着いたらしい。
「そりゃいい、楽しみにしてるぜ!」
 総合順位は1位ダントツでルビィ、61点。2位にサワノバが食い込み、45点。3位カレン、44点。4位シルフィス、43点。5位ソウマ、38点と続いている。
 入賞は5位までで……
 2〜5位には、フランの手刺繍でネーム入りのハンカチが賞品に出るようだった。

「いいでしょう、これ」
 シルフィスはエグザスに見せびらかすように、目録をひらひらさせる。
「……惜しかったのう……6位じゃったそうじゃな」
 サワノバが慰めてくれたが、2位の目録を手にしてでは……エグザスにとっては塩を塗りこまれるようなものだ。
 その肩を、後ろからポンと叩く者がいた。
「アレじゃな」
 ラザルスである。
 3人でした賭けは、シルフィスとエグザスが5位以内に入れるかどうか。5位以内に入れなかったら、入れなかった者の負け。場合によっては、2人とも負けるかもしれなかったが。そして2人とも5位以内に入ったら、ラザルスの負けになる、という賭けだった。
「アレね」
 シルフィスがうなずく。
 そして、負けた者は『アレ』をやる。
 エグザスの顔色は悪かった。また負けた……実は、前にも負けて、洒落にならない目に遭っている。
「……やればいいんだろう」
 後一歩及ばず……という事実が、より心に染みる真夏の夜だった。

「さあ、帰りましょう……もう寝ないと、明日起きられませんわ」
 セラがプールを離れがたい学生たちを追い立てた。ぞろぞろと、学生たちは寮へ向かう帰路につく。
 仲間とわいわいと。あるいは誰かと手を繋いで。
 盛り上がる人にも、沈む人にも、真夏の夜の風は一律に優しかった。


「これが蒸気式トロフィーか……!」
 約束通り、アベルは後日ランカークの元にトロフィーを届けにきた。
「何か希望があれば、聞いてやる。欲しいものはあるか?」
 練習場が役に立たなかったことは自覚があるようで、ランカークは代償に何が欲しいかを改めてアベルに聞いてきた。だが、アベルは返答を保留する。
「今は……考えさせていただきたい」
「よかろう、思いついたら言いにくるといい。やれるものならやろう」
 トロフィーを撫でながら、ランカークは上機嫌にそう答え……
「これでレディフランの賞品も手に入ればな……役立たずめ」
 きっと、アベルの後ろを睨みつけた。
「申し訳ありません。ですが……」
 アベルがちらりと振り返っても、そこに人影はない。ただ、どこかで聞いた覚えはある女の声がした。
「あれには、私の名前が入っておりますので……」
 そう、声だけがした。

参加者

“福音の姫巫女”神音 “飄然たる”ロイド
“天津風”リーヴァ “蒼盾”エドウィン
“怠惰な隠士”ジェダイト “白衣の悪魔”カズヤ
“探求者”ミリー “光炎の使い手”ノイマン
“翔ける者”アトリーズ “笑う道化”ラック
“風曲の紡ぎ手”セラ “双面姫”サラ
“ぐうたら”ナギリエッタ “闇司祭”アベル
“紫紺の騎士”エグザス “風天の”サックマン
“銀の飛跡”シルフィス “黒き疾風の”ウォルガ
“自称天才”ルビィ “待宵姫”シェラザード
“鍛冶職人”サワノバ “幼き魔女”アナスタシア
“六翼の”セラス “闇の輝星”ジーク
“銀晶”ランド “深緑の泉”円
“餽餓者”クロウ “闘う執事”セバスチャン
“熱血策士”コタンクル “抗う者”アルスキール
“陽気な隠者”ラザルス “路地裏の狼”マリュウ
“蒼空の黔鎧”ソウマ “炎華の奏者”グリンダ
“拙き風使い”風見来生 “緑の涼風”シーナ
“爆裂忍者”忍火丸 “貧乏学生”エンゲルス
“猫忍”スルーティア “慈愛の”METHIE
“七彩の奏咒”ルカ “のんびりや”キーウィ
“深藍の冬凪”柊 細雪 ラシーネ
“旋律の”プラチナム “燦々Gaogao”柚・Citron
“轟轟たる爆轟”ルオー “影使い”ティル
“憂鬱な策士”フィリップ “黒い学生”ガッツ
“不完全な心”クレイ “夢の中の姫”アリシア
“春の魔女”織原 優真 “ミスター”フェスティ
“首輪使い”アウスレーゼ “悠久の風”リョオマ
コルネリア