それは学園がごく短い夏季休暇に入ろうかという夏の日のことだった。 アルメイスの夏は短い。よって夏休みと言われる期間も短い。あまりに短いからか、里帰りする者もいるにはいるが、学園に残る者も多かった。補習でやむなく残らされる者もいるが……自発的に残る者も多いということだ。人それぞれの夏休みだということだろう。 その直前の朝のことだった。 掲示板にポスターが貼られていた。 『蒸気杯争奪! 水泳大会』 下のほうに優勝者には蒸気式トロフィーを進呈とか、応募及び詳細は蒸気開発研究室カマー教授までなどと、書かれている。会場は研究室隣、温水プールとなっている。 割と高い位置に貼られたそのポスターを、マイヤは見上げていた。 ポスターは無許可だ。昨夕まではなかったものなので、夜から朝にかけて貼られたものであるのは間違いなかった。 無認可ポスターと言えばランカークの十八番だが、今回の出所は蒸気研らしい。蒸気研が独自にイベントをするのはかまわないのだが、会場となるのは温水プールだ。温水プールは双樹会の施設でもある。なら、双樹会会長のマイヤに一言もないのはいかがなものか。それに、規模の大きなイベントならば、学長決裁が要る話にもなる。 マイヤは無認可ポスターをはがすかどうか迷って、先にカマー教授に話を聞きに行くことにした。独断専行だが、中止させるような内容でもない……と、体の向きを変え、歩き出そうとしたときだった。 気がつくと、すぐ隣に、女の子を肩車した男性がいた。……一時かなりの有名人になったので、見間違うことはない。ラジェッタと父にして自存型リエラのエイムだ。研究する立場から研究される立場へ移行した、稀有な人物だった。 肩車されているのはラジェッタ。そして…… 「届くかい、ラジェッタ」 「だいじょうぶー」 ポスターを貼っていた。
「すみませんでした……」 「ごめんなさいなのー……」 エイムとラジェッタが、ぺこりと二人並んで頭を下げている。さすがに真横で無認可ポスターを貼られては、マイヤも注意をせざるをえなかった。 「カマー教授に頼まれたんですか?」 「はあ……先日お騒がせしたお詫びにということで、教授が企画したんだそうで」 先日の騒ぎと言うのは、温水プールにジャングルが現れた一件のことだ。あのカマー教授にも反省があったのか……と思いきや。 「今度はオープンに、ジャングルを楽しんでもらいたいとか」 マイヤは内心で嘆息した。考えてみれば、反省があったのなら無認可でこのポスターが貼られることもないだろう。せめてマイヤに一言あっていいはずだ。 「それは、教授のお力で?」 前の時には、カマー教授のリエラの力を使っていたのだ。教授という立場上リエラを出す機会はほとんどないので、リエラの姿も力もあまり知られていなかったが……その力だけは、先日少々話題にのぼったので知る者も増えただろうか。 その力とは、幻影である。幻影でジャングルを出していた。本人は投影機も使っていたと言っているのだが、その大きな割合は幻影であったことは間違いない。 「いいえ、今度こそと言って、投影機を作っているそうです」 しかし出来のほどはと言えば、エイムは言葉を濁す。 その足元で、ラジェッタは暇になったのかきょろきょろしていた。なので、彼らの横に来て、ポスターを眺めていた女生徒にいち早く気づいたのはラジェッタだった。エイムは俯き加減だったし、マイヤは背を向けてたので。 「ジャングルを投影するのは、一画だけのようですが」 「ねえ、これ、どういうものなの?」 エイムが何故か言い訳をしているところに……多分、彼に言い訳する理由はないはずだったが……そう、隣に来ていた女生徒から声がかけられた。 「えっ……水泳大会だそうですが」 「そうじゃなくて、この蒸気式トロフィーっていうの」 エイムが顔を上げると、その女生徒……カレンもエイムとマイヤのほうを見る。 「何が蒸気式なの?」 「あのね、うごくの」 それに答えたのは、ラジェッタだった。気持ち、目を輝かせているようにも見える。 「動く?」 「しゃりんがついててね。うごくのよ」 だが、ラジェッタの説明では当然ながら要領を得ない。保護者に追加の説明を求めるように、カレンは視線を投げかけた。 「ええと……教授のところに行けば見せてもらえると思います」 だが、保護者は説明を投げた。説明はしづらいものだと言って。 「まあ、見に行ったほうが間違いはないかしらね」 カレンは少し考え込んだが、結局『蒸気式トロフィー』を確認に行くことにしたようだった。
「これが蒸気式トロフィーよ!」 カマー教授が胸を張って見せてくれたのは、台座に車輪のついたトロフィーだった。ピーッと汽笛も鳴る。これで単体なら超小型蒸気機関というところだが……トロフィーには金属のホースが出ていて、それは割と大きな金属筐体に繋がっている。こちらの筐体……箱が蒸気機関本体なのだ。それは確かに十分小型の蒸気機関で、開発であり、進歩であるわけだが、トロフィーにくっついているとありがたみが半減以下である。 「火傷するから、素手で触っちゃだめよ?」 しかも触れない。果たしてトロフィーの意味はあるのか。 これを見に来たカレンは酷く複雑な表情をしていたが、マイヤは気にせず続けて、自分の用事である水泳大会の無認可を問いただした。 「えぇー。いいじゃない、一日くらい。ううん、夕方からなんだから、数時間よ」 昼間のプールの運営はほとんど普通に出来るのだから、許可を取るまでもないだろうというのがカマー教授の主張である。 「夜なんですか?」 「夜光虫を放すのよ。ロマンティックでしょ?」 何を思ったか、カマー教授は行商人から夜光虫を買ったらしい。それを夜のプールに放すのだそうだ。 「そんなに暗い時間で、競技になるんですか?」 「競技は夕方からやるわよ。どうせ夏で陽が落ちるの遅いんだし、灯りもあるし、大丈夫よ……もちろん真夜中になる前には、みんな寮に帰すわ。夏休みの間なんだから、けち臭いこと言わないのよ」 先日には夜は駄目だと言っていただろうにと、先だっての事件に関わっていた者なら言うところだろうか。 「反対するわけじゃありませんが、施設を使うのでしたら許可を取ってしてください。本当なら、学長決裁の必要な話だと思いますよ」 「カタいわねえ。しょうがないわね、じゃあ、やっておいてくれる?」 「……教授」 なぜ自分が、と言いかけて、マイヤは思いなおした。言っても無駄だ。多分、勝手に書類を作ったほうが、速い。 そんなわけで、マイヤがひそかに敗北を認めた時。 「すみません、あの……」 研究室に次の来客があった。 「あら、フランちゃん。体の具合はもういいの?」 「ええ、もう」 フランだ。フランも関わったゴタゴタがあって……その中心はエイムであったわけだが、そのあと、フランは一時体調を崩していた。最近は回復したようではあるが。 それをさておいても、フランが蒸気研に姿を見せるのは珍しいと言えるだろう。 「それで、どうしたの?」 「ポスターを拝見したんです」 それで、自分も協力したいと思ったのだとフランは言った。肩の上のイルズマリは黙っているが、少し心配げだ。 「参加したいの? それなら」 「え、あ、いいえ……私、泳げませんので」 少し恥ずかしそうに、フランは頬を染めた。だが、年中泳げる場所など帝国全土を探してもアルメイスくらいにしかないので、帝国人が泳げないのは割と普通のことだ。このアルメイスでも水泳は必須授業じゃないので、よほど好きな者でなければ、ちゃんとは泳げないだろう。 「私もみなさんにご迷惑をおかけして、お世話になりましたので、お手伝いと……なにか、賞品でもご提供できたらと思いまして」 「あら、悪いわね」 カマー教授は遠慮なく、あっさりとその申し出を受ける。 「まだ、何が良いのか、決めておりませんけれど……何か、お役に立つものを選びたいと思っております」 「そう、じゃあ、副賞はフランちゃんからのお楽しみグッズってポスターにも書いておくわ」 机の引き出しの中から、そう言いながらカマー教授は鉛筆を取り出す。何本かまとめて取り出して、1本はエイムに渡した。もちろん、貼ったポスターに書いてくるようにという意思表示だ。残りの鉛筆は研究室の学生の手に渡るのだろう。 「双樹会協賛とも書いておくわね、マイヤちゃん」 有無を言わせぬ笑みで、カマー教授は言った。
「蒸気式トロフィー……素晴らしい」 そういえば、自分の主人はこういうのが好きだったなあ……と改めて従者は思った。 「フラウニー嬢の副賞も素晴らしい!」 ランカークは自分ではがしてきたらしいポスターを眺めている。 「絶対に優勝だ! いいか!?」 ランカークも出るのか、というと、彼はこういうものに努力するタイプではない。従者に頑張らせて、自分は左団扇が普段のランカークだ。それでこっそり手に入れて、ほくそえむのである。 なのだが。 しかし。 「出るのかい? 水泳大会」 今は、それには邪魔な客人が屋敷に滞在していた。 「え……いや、その」 「頑張ってね、僕、審査員に呼ばれてるんだよ」 「審査員!?」 やはり内陸で寒冷地の育ちであるサウルは自分で泳ぐのはちょっとなんだが、見るのは楽しみだと明るく言う。 「そ、そうですか! 任せておいてください!」 はっはっは……と、空元気な笑い声が屋敷に響く。 「ええと……種目はなんだ?」 「スプリント、100アース競争、4人リレー、飛び込みですね」 スプリントは15アース、100アース競争はそのまま100アース、4人リレーは50アースずつ4人が交代で泳いで計200アースを泳ぐ。飛び込みは、1アースの高さの飛び込み台から美しく飛び込むことを競う。審査員が要るのは飛び込み競技だろう。 「全部に出る必要はありませんが、各競技によって得た点の合計で順位が決まるようです」 「そ、そうか……リレーのチームは?」 「任意ですね。4人で組んでエントリーしても、その場で参加者4人集めても良いようですが」 ランカークは考えこんでいる。どうしたら優勝できるだろうかと。 そして従者も考え込んでいる。ランカークを優勝させるために裏工作をするべきか、自分が優勝を狙って参加して結果的にランカークに賞品を渡すのがいいか…… どちらも、参加者が少ないといいんだが、と思っていた。
そして数日後。 アルメイスにおいて、最も泳ぎの速いと噂される男が忽然と姿を消した。 それはアルメイスで最も大きな男にして、水の中で最もファンタジーな男だった。 その失踪は事件か事故か、はたまた家出か……その理由は判然とせぬままに、その行方はようとして知れなかった。 |
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